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第一章 迷宮へと挑む
第一話 栄光と暗転
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日干し煉瓦の建物に囲まれた中庭で、花壇に植えられた色の薄いバラをスケッチしている黒髪の少年が立っていた。
彼の目の前にはまだ乾いていない粘土板が画架に据え置かれていた。
山羊の毛を刈り取って作られた腰布、カウナケスをはき、上着として質素なチュニックを着ている。普通のウルク市民と一目でわかる服装だったが、ウルク唯一の学校エドゥッパ(粘土板の家という意味)の生徒の証であるラピスラズリの垂れ飾りだけが彼の立場を強調していた。
その少年は太陽の神シャマシュ神が夏の暑さに備えろと警告するかのように強い日差しを浴び、わずかににじんだ汗を拭った。そしてすぐにスケッチを再開し、右手に持った葦のペンを正確に振るう。
そして少年がペンを振るうたび、柔らかかった粘土はさっと乾き、美しいバラが描かれていった。
粘土板の大部分に花が収まると、背後から声がかけられた。
「こんなところにいたのか。エタリッツ君」
エタリッツと呼ばれた少年が振り返ると、豊かなひげを蓄えた老人と同期の生徒である少女が穏やかな笑みを浮かべていた。
「はい。バラのスケッチをしていました。先生。何か御用でしょうか」
「ああ。君の書記官への推薦が決定した」
「ほ、本当ですか!?」
「先生は嘘なんて言わないわよ。おめでとう。うまくいけば最年少で書記官に任命されるかもしれないわ」
「エタリッツ君。君の努力の結果だ。誇りなさい」
「はい! ありがとうございます!」
エタリッツが敬礼すると、老人は緩やかに去っていった。
それを見送ったエタリッツは喜びを爆発させた。
「やった……やったー!!!!」
「うん。本当におめでとう、エタ」
「ありがとう。シャルラ」
エタ、ことエタリッツはシャルラという少女の手を取りぶんぶんと振り回す。シャルラが首から下げたエレシュキガルの神印と左肩だけを覆う外套の袖回りについたフリンジがゆらゆら揺れていた。
このエドゥッパでの主な進路は二つだった。そのうちの一つが王宮と神殿を兼ねるジッグラトに務める役人であり、書記官はもっとも権威と格式のある役職だった。
だからこそ、それを妬む者もいる。
通りがかった学生が明らかにわざと聞こえるように叫んだ。
「ろくに戦えないくせに書記官かよ! あーあ。頭でっかちの奴はお得だなあ! 俺たちは毎日汗水垂らして訓練してるのにこんなところでお絵描きかよ! 優秀なお姉ちゃんのおかげでまだエドゥッパにいることができてうらやましいぜ!」
エタはまたか、と言わんばかりに目を伏せただけだったが、シャルラは違った。
「今の言葉、どういう意味!?」
シャルラの緩くウェーブした明るい髪が怒りに呼応したようにぶわりと膨らんだ。エタが止める間もなく学生たちに近づいていく。
「エタが書記官に推薦されたのは努力の結果よ! 詰られる謂れはないわ!」
「よく言うぜ。この前の戦闘実技には参加しさえしなかったんだろ? 本来なら退学になってもおかしくないはずだ。何せここは本来冒険者を育てるための学校なんだからな!」
彼の言っていることは正しい。
神が人に課した使命は迷宮の攻略。それをなすためにはるか昔に作られたのがこのエドゥッパであり、都市生活の充実に伴い役職が細分化され、冒険者以外の人材も育成するようになったのだ。
「学力考査の結果が良ければ戦闘訓練を受講する必要がないのは知っているでしょう!」
一歩も引く気がないシャルラに対しても学生たちは鼻白む。
「ふん。社畜の娘のくせによくしゃべるな!」
ここ十数年の話だが、企業という組織がにわかに活気づいてきた。一方でその勃興を面白く思わない保守的な人間も多い。特に冒険心や憧れを重視する冒険者が所属する冒険者ギルドと、金儲けと効率を重視する企業は犬猿の仲であり、冒険者側は企業に所属する社員を自由のない社畜と呼び、蔑んでいた。
また、ウルクでも大きな企業の一つである傭兵派遣企業ニスキツルの社長の娘であるシャルラは有名だが、目の敵にされることも多かった。
そしてシャルラは押し黙る。学生たちはシャルラをやり込めたと勘違いしているが、あれは砂嵐の前の静けさだ。このままだと喧嘩にまで発展するかもしれない。
エタはしょうがないなと思いながら粘土板を画架から外し、地面にわざと落とした。
パリンと乾いた音と共に粘土板が砕け散る。にらみ合っていた学生とシャルラは一斉にこちらを見た。
「う、うわああ! せっかく描いてたのに!」
わざとらしく頭を抱え、全員の注意を引く。
「は……どんくさいやつ」
学生の一人がそう吐き捨てると興味がなくなったように歩き去った。
それを見届けたシャルラは気まずそうに粘土板を拾い集めているエタを手伝い始めた。
「ごめん。かばってくれたのね」
喧嘩を止めるのはうまくいったが、その結果シャルラを悲しませるのは本意ではない。
「気にしなくていいよ。絵画用の粘土はすぐに直せるから。絵はもう一度描けばいいよ」
粉々になった粘土板の欠片を拾い集めると、砕け散った粘土は時間を巻き戻したように自然と板状になった。
「大丈夫だよ。粘土があれば、僕らは何度でもやり直せる。家だって、神殿だって、絵だって、粘土でなんでもできるんだ」
そう言い切るとようやくシャルラにも笑顔が戻った。
「そうね。遠くの人にだって会話ができるもの。ご両親とお姉さんに書記官に推薦されたことを連絡したらどう?」
「あ、そうだね」
エタが左腕にはめた粘土の腕輪に触れると腕輪はしゅるりとほどけ、手に収まるくらいの板になった。
これこそ偉大なる賢王アトラハシスが神より授かった携帯粘土板。ある時には身分証明書に。またある時は通話手段に。あるいは持ち歩ける武器として。ウルクのみならず近隣の都市国家群の暮らしには欠かせない生活必需品である。
エタは携帯粘土板を操作して父親と通話を始めると、すぐに応答し、携帯粘土板は父の顔に変わった。
「あ、父さん? 実は今日……」
『エ、エタ。いいか、よく聞け』
「え、父さん? どうしたの?」
携帯粘土板越しでもわかる普段の父とは違う焦った声音と表情にエタは思わず戸惑う。
『お前は、ここに帰ってくるな。それと私たちのことは……』
言葉は途中で途切れ、代わりに別の誰かの声が聞こえてきた。
『はいはいもしもーし。ええと、君がエタリッツ君かな?』
「そうだ! 誰だよお前!」
『誰かと言われるとねえ。まあ、奴隷商人ってやつかな?』
「は……?」
あまりにも父と接点のない単語に目が点になる。しかし奴隷商人を名乗った男はこちらの都合などお構いなしにこう告げた。
『今からあ。君の両親を奴隷にしちゃおうかな? 嫌なら早く帰ってきたほうがいいよ?』
シャルラの制止する声を振り切って、エタはわき目も振らずに自宅へと駆け出した。
彼の目の前にはまだ乾いていない粘土板が画架に据え置かれていた。
山羊の毛を刈り取って作られた腰布、カウナケスをはき、上着として質素なチュニックを着ている。普通のウルク市民と一目でわかる服装だったが、ウルク唯一の学校エドゥッパ(粘土板の家という意味)の生徒の証であるラピスラズリの垂れ飾りだけが彼の立場を強調していた。
その少年は太陽の神シャマシュ神が夏の暑さに備えろと警告するかのように強い日差しを浴び、わずかににじんだ汗を拭った。そしてすぐにスケッチを再開し、右手に持った葦のペンを正確に振るう。
そして少年がペンを振るうたび、柔らかかった粘土はさっと乾き、美しいバラが描かれていった。
粘土板の大部分に花が収まると、背後から声がかけられた。
「こんなところにいたのか。エタリッツ君」
エタリッツと呼ばれた少年が振り返ると、豊かなひげを蓄えた老人と同期の生徒である少女が穏やかな笑みを浮かべていた。
「はい。バラのスケッチをしていました。先生。何か御用でしょうか」
「ああ。君の書記官への推薦が決定した」
「ほ、本当ですか!?」
「先生は嘘なんて言わないわよ。おめでとう。うまくいけば最年少で書記官に任命されるかもしれないわ」
「エタリッツ君。君の努力の結果だ。誇りなさい」
「はい! ありがとうございます!」
エタリッツが敬礼すると、老人は緩やかに去っていった。
それを見送ったエタリッツは喜びを爆発させた。
「やった……やったー!!!!」
「うん。本当におめでとう、エタ」
「ありがとう。シャルラ」
エタ、ことエタリッツはシャルラという少女の手を取りぶんぶんと振り回す。シャルラが首から下げたエレシュキガルの神印と左肩だけを覆う外套の袖回りについたフリンジがゆらゆら揺れていた。
このエドゥッパでの主な進路は二つだった。そのうちの一つが王宮と神殿を兼ねるジッグラトに務める役人であり、書記官はもっとも権威と格式のある役職だった。
だからこそ、それを妬む者もいる。
通りがかった学生が明らかにわざと聞こえるように叫んだ。
「ろくに戦えないくせに書記官かよ! あーあ。頭でっかちの奴はお得だなあ! 俺たちは毎日汗水垂らして訓練してるのにこんなところでお絵描きかよ! 優秀なお姉ちゃんのおかげでまだエドゥッパにいることができてうらやましいぜ!」
エタはまたか、と言わんばかりに目を伏せただけだったが、シャルラは違った。
「今の言葉、どういう意味!?」
シャルラの緩くウェーブした明るい髪が怒りに呼応したようにぶわりと膨らんだ。エタが止める間もなく学生たちに近づいていく。
「エタが書記官に推薦されたのは努力の結果よ! 詰られる謂れはないわ!」
「よく言うぜ。この前の戦闘実技には参加しさえしなかったんだろ? 本来なら退学になってもおかしくないはずだ。何せここは本来冒険者を育てるための学校なんだからな!」
彼の言っていることは正しい。
神が人に課した使命は迷宮の攻略。それをなすためにはるか昔に作られたのがこのエドゥッパであり、都市生活の充実に伴い役職が細分化され、冒険者以外の人材も育成するようになったのだ。
「学力考査の結果が良ければ戦闘訓練を受講する必要がないのは知っているでしょう!」
一歩も引く気がないシャルラに対しても学生たちは鼻白む。
「ふん。社畜の娘のくせによくしゃべるな!」
ここ十数年の話だが、企業という組織がにわかに活気づいてきた。一方でその勃興を面白く思わない保守的な人間も多い。特に冒険心や憧れを重視する冒険者が所属する冒険者ギルドと、金儲けと効率を重視する企業は犬猿の仲であり、冒険者側は企業に所属する社員を自由のない社畜と呼び、蔑んでいた。
また、ウルクでも大きな企業の一つである傭兵派遣企業ニスキツルの社長の娘であるシャルラは有名だが、目の敵にされることも多かった。
そしてシャルラは押し黙る。学生たちはシャルラをやり込めたと勘違いしているが、あれは砂嵐の前の静けさだ。このままだと喧嘩にまで発展するかもしれない。
エタはしょうがないなと思いながら粘土板を画架から外し、地面にわざと落とした。
パリンと乾いた音と共に粘土板が砕け散る。にらみ合っていた学生とシャルラは一斉にこちらを見た。
「う、うわああ! せっかく描いてたのに!」
わざとらしく頭を抱え、全員の注意を引く。
「は……どんくさいやつ」
学生の一人がそう吐き捨てると興味がなくなったように歩き去った。
それを見届けたシャルラは気まずそうに粘土板を拾い集めているエタを手伝い始めた。
「ごめん。かばってくれたのね」
喧嘩を止めるのはうまくいったが、その結果シャルラを悲しませるのは本意ではない。
「気にしなくていいよ。絵画用の粘土はすぐに直せるから。絵はもう一度描けばいいよ」
粉々になった粘土板の欠片を拾い集めると、砕け散った粘土は時間を巻き戻したように自然と板状になった。
「大丈夫だよ。粘土があれば、僕らは何度でもやり直せる。家だって、神殿だって、絵だって、粘土でなんでもできるんだ」
そう言い切るとようやくシャルラにも笑顔が戻った。
「そうね。遠くの人にだって会話ができるもの。ご両親とお姉さんに書記官に推薦されたことを連絡したらどう?」
「あ、そうだね」
エタが左腕にはめた粘土の腕輪に触れると腕輪はしゅるりとほどけ、手に収まるくらいの板になった。
これこそ偉大なる賢王アトラハシスが神より授かった携帯粘土板。ある時には身分証明書に。またある時は通話手段に。あるいは持ち歩ける武器として。ウルクのみならず近隣の都市国家群の暮らしには欠かせない生活必需品である。
エタは携帯粘土板を操作して父親と通話を始めると、すぐに応答し、携帯粘土板は父の顔に変わった。
「あ、父さん? 実は今日……」
『エ、エタ。いいか、よく聞け』
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携帯粘土板越しでもわかる普段の父とは違う焦った声音と表情にエタは思わず戸惑う。
『お前は、ここに帰ってくるな。それと私たちのことは……』
言葉は途中で途切れ、代わりに別の誰かの声が聞こえてきた。
『はいはいもしもーし。ええと、君がエタリッツ君かな?』
「そうだ! 誰だよお前!」
『誰かと言われるとねえ。まあ、奴隷商人ってやつかな?』
「は……?」
あまりにも父と接点のない単語に目が点になる。しかし奴隷商人を名乗った男はこちらの都合などお構いなしにこう告げた。
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