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第五章
387 その先
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さてアンモニアとは、理科の実験でもよく用いられる刺激臭を持つ物質である。窒素と水素の化合物であり、化学品の原料や、生物にとっては代謝物となるのでありとあらゆる意味合いにおいて極めて重要な物質であるが、それと同時にごくありふれた物質でもある。
何しろほとんどの生物は死体になればアンモニアを放出して腐るのだから。腐敗という現象は最終的にアンモニアに行きつくことが多い。
なので、死体にアンモニアが大発生するのは全く不思議ではない。もちろん、量にもよるけど。
「うわ、すげー臭い」
女王蟻の言葉を気にしたオレはひとまず混血の魔物たちの死体を見に行き、そこの働き蟻と感覚を共有してみた。
秒で後悔したよ! 臭い! 食べたことないけどくさやとかこんな感じなのか!?
ともかく辺り一面にはがれきや土、アンモニア、それに埋もれるように死体が散乱していた。さっきも言ったけど死体にアンモニアが発生するのは不思議でもない。ただし、一日も経たずにこの量はおかしい。
「成長加速か……?」
魔物の体液には生物の成長を加速させる働きがある。腐敗は微生物によって引き起こされるから魔物の死体が急速に腐敗することはままある。
……しかし、何かが違う気がする。
なら、魔法だろうか。例えば新種の魔物がアンモニアにかかわる魔法を実は持っていて、その結果アンモニアが大量発生した……違うな。アンモニアはすでに触れているはず。ありふれた物質だからそれを操れるならすぐに気づくはず。
「死の淵に新たな力に目覚めた……いや、そんなことはありえない。たかが命を懸けたくらいで強くなれるわけがない」
そんな簡単に新能力が都合よく手に入ったりしないのだ。そんな考えは今まで死んでいった部下に対する侮辱だろう。
つまり。
「何かのロジックが必ず存在する。絶対に」
物事には必ず原因と結果、理由と結論が存在する。それこそが科学的、論理的思考の基礎。……もちろん人の身、いや蟻の身としては限界がある。すべての論理を解き明かせるとしたらそれこそ神さまだけだろう。
それでも、わからなくても、明らかでなくても。利用することはできるはず。オレはいつでもそうしてきた。
だから、これもそうに違いないと信じる。
「紫水。どうかしたかのう?」
何かあったのかいぶかしんだ千尋が尋ねてきた。アンモニアは気になるけど状況的にひっ迫しているのは北部の方だ。一旦思考を打ち切った方がいいか。
「いや、ちょっと気になることがあっただけだ。オレも指揮するから……」
「のう」
「え、何?」
「お主はどちらをやるべきだと思っておる?」
「え、そりゃあ緊急性が高いのはお前たちのほうだと……」
千尋との会話に空が割り込んできた。
「ですが真に王の力を必要としているのはそちらではないでしょうか」
「う、う、確かに」
ぶっちゃけるとオレの指揮能力はそこまで高くない。単に経験値があるだけで軍隊の指揮に必要な冷静さや判断の速さに欠けている。これは先天的な才能の欠如なのでどうにもならない。
ただしこのアンモニアの謎はオレ向きの問題だ。全く未知の問題だから、多分オレ以外解けないはずだ。いやむしろ。オレはこの問題を解かなければならない気がする。
端的に言えば部下を信じなければならない場面だ。
「……わかった。じゃあ北部はお前らに任せていいか」
「うむ」
「御意」
千尋は尊大に、しかし信頼を込めて。空は謹厳に、忠誠を満たして。
よし。ならオレはオレのやるべきことに集中しよう。
まずアンモニア以外に何があるのか。ここにもしもここにあるべきでない何かがあればそれは容疑者になる。
もっともあって欲しく、同時に可能性が高いのが白金だ。ここには狸の山から硝酸を採取するために採れた土があった。
もしも狸の山にわずかとはいえ白金が含まれていたのだとしたら色々な事情に説明がつく。
そして調査の結果は……。
「モ、モリブデン!?」
種々の調査の結果そうとしか考えられなかった。
モリブデンは金属の一種で、融点などが高く、タングステンなどよりも安価なので工業的な重要性はそれなりに高い物質だ。
狸の山にはモリブデンが混じっていた。もしかしたらどこかに鉱脈のようなものがあるのかもしれない。
ただし、アンモニアがあった理由はわからない。
「白金じゃない……ならハーバーボッシュ法が偶然起こったとは考えられないか」
ハーバーボッシュ法は窒素と水素からアンモニアを作り出す方法で、空気からパンを作る方法とさえ呼ばれる化学史に新たな歴史を刻んだ手法の一つ。
それを使うためには窒素と水素に高温や高圧を加えると同時に化学反応を進める触媒が必須だ。そしてもっとも有効な触媒こそ、白金。
例えば混血の魔物が白金を操る魔物で、その魔法によって高温高圧という条件下でなくても触媒としての性質が強化されて化学反応が進んだということなら説明できると思ったんだが……。
「他には何か?」
「海藻や土です」
多分硝酸や海藻などを持ち運ぼうとしていたんだろう。
水素を生産する海藻を陸地でも栽培できるかどうかの実験だったはずだ。これは結構うまくいっていて、もうちょっとコストを下げられないか試行錯誤してもらっていたんだったか。
ううん……やっぱりわからん。
無理なのか? ダメなのか? いや、まだだ。
これは一種のダイイングメッセージだ。恐らくは死亡する寸前に何かをした結果。部下が命を張ったのにそうあっさりとあきらめるわけにはいかない。
もう一度整理しよう。
見つかったのはアンモニア。死体。海藻。水素。窒素。そしてモリブデン。
……何かがひっかかる。何が?
過去に戻れ。どこかでこの現象と同じようなことを聞いたことはないか?
硝酸。狸の山。フェロモン。高原。
ちがう。もっと前。
マグネシウム。草原。海。船。
まだか?
リンゴ。酒。糞。ミミズの糞。
……あれ?
糞。何か引っかかる。
糞。魔物の食べ物。
魔物。成長。成長加速。酵素。
幼虫の食べ物。
「……あ」
嵐の夜を貫く稲光のように、星空に煌めく流星のように、曇天に差す一筋の日の光のように。唐突にそれは閃いた。
そうだ。酵素は触媒だ。高分子化合物の触媒だ。
そうだ。そうだ!
ハーバーボッシュ法! 触媒! モリブデン! そしてニトロゲナーゼ!
「あっははっはは! そうかそうかそういうことか! 初めから答えはあったのか!オレたちの体の中に!」
馬鹿じゃねえの!? こんなことに気付くのに五年もかかってるとかさあ!
「いいぞ。これなら追い付ける地球に追いつく……いや、追い越せる! ハーバーボッシュ法を超えられる!」
謎は解けた。さあそれでは北部の様子はどうなってる?
何しろほとんどの生物は死体になればアンモニアを放出して腐るのだから。腐敗という現象は最終的にアンモニアに行きつくことが多い。
なので、死体にアンモニアが大発生するのは全く不思議ではない。もちろん、量にもよるけど。
「うわ、すげー臭い」
女王蟻の言葉を気にしたオレはひとまず混血の魔物たちの死体を見に行き、そこの働き蟻と感覚を共有してみた。
秒で後悔したよ! 臭い! 食べたことないけどくさやとかこんな感じなのか!?
ともかく辺り一面にはがれきや土、アンモニア、それに埋もれるように死体が散乱していた。さっきも言ったけど死体にアンモニアが発生するのは不思議でもない。ただし、一日も経たずにこの量はおかしい。
「成長加速か……?」
魔物の体液には生物の成長を加速させる働きがある。腐敗は微生物によって引き起こされるから魔物の死体が急速に腐敗することはままある。
……しかし、何かが違う気がする。
なら、魔法だろうか。例えば新種の魔物がアンモニアにかかわる魔法を実は持っていて、その結果アンモニアが大量発生した……違うな。アンモニアはすでに触れているはず。ありふれた物質だからそれを操れるならすぐに気づくはず。
「死の淵に新たな力に目覚めた……いや、そんなことはありえない。たかが命を懸けたくらいで強くなれるわけがない」
そんな簡単に新能力が都合よく手に入ったりしないのだ。そんな考えは今まで死んでいった部下に対する侮辱だろう。
つまり。
「何かのロジックが必ず存在する。絶対に」
物事には必ず原因と結果、理由と結論が存在する。それこそが科学的、論理的思考の基礎。……もちろん人の身、いや蟻の身としては限界がある。すべての論理を解き明かせるとしたらそれこそ神さまだけだろう。
それでも、わからなくても、明らかでなくても。利用することはできるはず。オレはいつでもそうしてきた。
だから、これもそうに違いないと信じる。
「紫水。どうかしたかのう?」
何かあったのかいぶかしんだ千尋が尋ねてきた。アンモニアは気になるけど状況的にひっ迫しているのは北部の方だ。一旦思考を打ち切った方がいいか。
「いや、ちょっと気になることがあっただけだ。オレも指揮するから……」
「のう」
「え、何?」
「お主はどちらをやるべきだと思っておる?」
「え、そりゃあ緊急性が高いのはお前たちのほうだと……」
千尋との会話に空が割り込んできた。
「ですが真に王の力を必要としているのはそちらではないでしょうか」
「う、う、確かに」
ぶっちゃけるとオレの指揮能力はそこまで高くない。単に経験値があるだけで軍隊の指揮に必要な冷静さや判断の速さに欠けている。これは先天的な才能の欠如なのでどうにもならない。
ただしこのアンモニアの謎はオレ向きの問題だ。全く未知の問題だから、多分オレ以外解けないはずだ。いやむしろ。オレはこの問題を解かなければならない気がする。
端的に言えば部下を信じなければならない場面だ。
「……わかった。じゃあ北部はお前らに任せていいか」
「うむ」
「御意」
千尋は尊大に、しかし信頼を込めて。空は謹厳に、忠誠を満たして。
よし。ならオレはオレのやるべきことに集中しよう。
まずアンモニア以外に何があるのか。ここにもしもここにあるべきでない何かがあればそれは容疑者になる。
もっともあって欲しく、同時に可能性が高いのが白金だ。ここには狸の山から硝酸を採取するために採れた土があった。
もしも狸の山にわずかとはいえ白金が含まれていたのだとしたら色々な事情に説明がつく。
そして調査の結果は……。
「モ、モリブデン!?」
種々の調査の結果そうとしか考えられなかった。
モリブデンは金属の一種で、融点などが高く、タングステンなどよりも安価なので工業的な重要性はそれなりに高い物質だ。
狸の山にはモリブデンが混じっていた。もしかしたらどこかに鉱脈のようなものがあるのかもしれない。
ただし、アンモニアがあった理由はわからない。
「白金じゃない……ならハーバーボッシュ法が偶然起こったとは考えられないか」
ハーバーボッシュ法は窒素と水素からアンモニアを作り出す方法で、空気からパンを作る方法とさえ呼ばれる化学史に新たな歴史を刻んだ手法の一つ。
それを使うためには窒素と水素に高温や高圧を加えると同時に化学反応を進める触媒が必須だ。そしてもっとも有効な触媒こそ、白金。
例えば混血の魔物が白金を操る魔物で、その魔法によって高温高圧という条件下でなくても触媒としての性質が強化されて化学反応が進んだということなら説明できると思ったんだが……。
「他には何か?」
「海藻や土です」
多分硝酸や海藻などを持ち運ぼうとしていたんだろう。
水素を生産する海藻を陸地でも栽培できるかどうかの実験だったはずだ。これは結構うまくいっていて、もうちょっとコストを下げられないか試行錯誤してもらっていたんだったか。
ううん……やっぱりわからん。
無理なのか? ダメなのか? いや、まだだ。
これは一種のダイイングメッセージだ。恐らくは死亡する寸前に何かをした結果。部下が命を張ったのにそうあっさりとあきらめるわけにはいかない。
もう一度整理しよう。
見つかったのはアンモニア。死体。海藻。水素。窒素。そしてモリブデン。
……何かがひっかかる。何が?
過去に戻れ。どこかでこの現象と同じようなことを聞いたことはないか?
硝酸。狸の山。フェロモン。高原。
ちがう。もっと前。
マグネシウム。草原。海。船。
まだか?
リンゴ。酒。糞。ミミズの糞。
……あれ?
糞。何か引っかかる。
糞。魔物の食べ物。
魔物。成長。成長加速。酵素。
幼虫の食べ物。
「……あ」
嵐の夜を貫く稲光のように、星空に煌めく流星のように、曇天に差す一筋の日の光のように。唐突にそれは閃いた。
そうだ。酵素は触媒だ。高分子化合物の触媒だ。
そうだ。そうだ!
ハーバーボッシュ法! 触媒! モリブデン! そしてニトロゲナーゼ!
「あっははっはは! そうかそうかそういうことか! 初めから答えはあったのか!オレたちの体の中に!」
馬鹿じゃねえの!? こんなことに気付くのに五年もかかってるとかさあ!
「いいぞ。これなら追い付ける地球に追いつく……いや、追い越せる! ハーバーボッシュ法を超えられる!」
謎は解けた。さあそれでは北部の様子はどうなってる?
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