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第四章
276 箱の中の混沌
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砂煙が晴れた戦場を見渡したチャーロが目にしたのは煉獄のような風景だった。
ある者は矢がハリネズミのように突き刺さり、ある者は胸に大きな穴が穿たれていた。倒れている敵もいたが、それは味方よりもはるかに少ない数だった。
「何たること……」
敵は北へ向かい、どこからか現れた男たちと戦っている。男に助けられたことを感謝したが、わずかに屈辱を感じた。助けに行くべきだとは思わない。あれは囮にしかならない規模の味方であると断じると、肺から声を絞り出して叫ぶ。
「今のうちに野営地へ!」
もはや唱和の声さえ返ってこない。それほどまでに皆疲れ切っていた。
「王。敵増援を排除しました」
「ご苦労様」
「それと虫戦車を逃走している部隊の追撃にあたらせています」
「あー、確かにあいつらはそういう使い方の方がいいのかもな」
虫戦車は戦場を縦横無尽に走れるほどの機動力はない。が、高い速度を維持する持久力と防御力には優れているので、敵の逃げる方向が予想できる追撃戦には向いている。
やっぱり実際に使ってみないとわからんもんだなあ。
「ではこれより我々も追撃を再開します。王はあちらのヤギを確保した方がよろしいかと」
「ああ、さっきの奴らが放牧していたヤギか。探知はできているけど……テレパシーが通じてないみたいだからなあ。こっちの言うことを聞いてくれるかはわからんけど……ひとまず数人貰っていくぞ」
「どうぞ」
度重なる戦闘のせいで疲労は見え隠れしているけれど、相手よりはましだろう。
やはり敵の嫌がることは進んでしないとな。
「なんだよこれ……」
ウェングの今日何度目かになる驚愕。一体何が起こっているのか。野営地は引き払う準備どころか混乱の渦中にあった。
「一体何が……うわ!」
横合いから飛び出したのはヤギだった。
「や、ヤギが暴れまわっている!?」
どこもかしこもヤギが飛び跳ね、散らかし、角を突き合わせていた。
「どうなってる!? 悪魔の仕業か!?」
「ヤギは聖別を受けた魔物だ! 悪魔などにとり憑かれるはずがない」
「今はそんなことどうでもいいだろ! 何とかして混乱を治めてここから逃げないと……っ!」
ウェングの横をヤギが通り抜ける。この状況で攻め込まれたらどうなる? そもそも何でこんなことに……?
「まさかこれも敵の仕業なのか……?」
おとなしいヤギがこんなに暴れまわった記憶はない。ならこの状況をただの偶然だと判断するのは不可能だ。
ただ強いだけならまだわかる。魔物が強大な力を持っていることは知っている。
しかし、こんな悪辣な罠を魔物が仕掛けられるのだろうか。ふと、ある可能性が脳裏をよぎる。しかしその可能性を意識して除外した。信じたくはなかったし、何よりそんなことを気にしている暇はない。
「何とかして魔物が迫っていることをみんなに伝えよう! 最悪馬と軽い荷物だけを持って逃げな……わっ!」
またヤギと危うく衝突しそうになる。こんな状況でまともに会話可能なのか? そう疑問に思った時、こちらに馬にまたがっている女性が現れた。
「チャーロさ……だ、大丈夫ですか!?」
彼女は体のあちこちを負傷しており、傍目には軽傷だとは思えなかった。
「仔細ありません。それよりもどうなっているのですか?」
傷を負ってなおきりっとした姿勢と、くっきりとした声にわずかながら冷静さを取り戻す。
「俺たちはみんなの様子を見に行ったんです。でも戦闘中だから一度野営地に戻って、そうしたらヤギが暴れまわってそれどころじゃなかったんです」
なるべくわかりやすく伝えたつもりだ。改めて言葉にしてみると非常事態であることがよくわかる。
「そちらの状況はわかりました。こちらは魔物と戦い、敗北しました。……族長は死亡しました。私は一足先に状況を把握するために野営地に戻ってきました。直に全軍が戻って来るでしょう」
周囲の男たちも思わずどよめく。最悪の予想をしていたが、それよりも状況は悪かった。
だがやはり、ウェングとしてはどうしても後半の言葉が気になった。
(母さんが死んだ……?)
チャーロが嘘をつくとは思えない。しかしそれを信じることもできない。
はっきり言って母親にいい思いはない。血もつながっていないし、愛情を感じたこともない。
それでも自分の心の内側に虫が這いまわるような気持ち悪さがあった。自分にとって母親とは何だったのだろうか。
「ウェング……申し訳ありません。私が――――」」
「チャーロさん。今はそんなことを言ってる場合じゃない。これからどうするかを考えよう」
「……その通りですね。皆さま、まずは戦えない男子供を教会に避難させましょう。一か所に固めなければ避難はできないでしょう。もう家やヤギは捨てるしかありません」
正式な認可を受けた教会ではないのだが、移動しながら暮らすトゥッチェの民は常に野営地に仮の教会となる天幕を敷設していた。
誰もがその場所を知っており、なおかつ最も大きな天幕なので避難場所としては最適だった。
「男子供を避難させ終えたら一気にこの野営地を出ましょう。それまでは時間を稼ぐ必要があります。皆さまは百人ずつ戦える人員を確保してもらいます。全員がそれを終えたら出撃します。敵の数は一見少なく見えるかもしれませんが、あれは全軍ではありません。何としても逃げ延びなければなりません」
この野営地にはおおよそ五千人ほどいるが、砦を取り囲んでいる部隊以外本格的には戦えない。混乱した状況ではその取り囲んでいる部隊と連絡を取るのは難しい。この野営地を守るのは放牧から帰ってきたり、ヤギの番をしていた男しかいない。
ウェングにとっても初陣だがとても心浮き立つ気分ではない。
それでもここで負ければ……どうなるかは予知できていた。最悪の未来。一面の赤と鉄錆の臭い。
それを実現させないために命を懸けなければならないことを、心よりも先に震える体が実感していた。
ある者は矢がハリネズミのように突き刺さり、ある者は胸に大きな穴が穿たれていた。倒れている敵もいたが、それは味方よりもはるかに少ない数だった。
「何たること……」
敵は北へ向かい、どこからか現れた男たちと戦っている。男に助けられたことを感謝したが、わずかに屈辱を感じた。助けに行くべきだとは思わない。あれは囮にしかならない規模の味方であると断じると、肺から声を絞り出して叫ぶ。
「今のうちに野営地へ!」
もはや唱和の声さえ返ってこない。それほどまでに皆疲れ切っていた。
「王。敵増援を排除しました」
「ご苦労様」
「それと虫戦車を逃走している部隊の追撃にあたらせています」
「あー、確かにあいつらはそういう使い方の方がいいのかもな」
虫戦車は戦場を縦横無尽に走れるほどの機動力はない。が、高い速度を維持する持久力と防御力には優れているので、敵の逃げる方向が予想できる追撃戦には向いている。
やっぱり実際に使ってみないとわからんもんだなあ。
「ではこれより我々も追撃を再開します。王はあちらのヤギを確保した方がよろしいかと」
「ああ、さっきの奴らが放牧していたヤギか。探知はできているけど……テレパシーが通じてないみたいだからなあ。こっちの言うことを聞いてくれるかはわからんけど……ひとまず数人貰っていくぞ」
「どうぞ」
度重なる戦闘のせいで疲労は見え隠れしているけれど、相手よりはましだろう。
やはり敵の嫌がることは進んでしないとな。
「なんだよこれ……」
ウェングの今日何度目かになる驚愕。一体何が起こっているのか。野営地は引き払う準備どころか混乱の渦中にあった。
「一体何が……うわ!」
横合いから飛び出したのはヤギだった。
「や、ヤギが暴れまわっている!?」
どこもかしこもヤギが飛び跳ね、散らかし、角を突き合わせていた。
「どうなってる!? 悪魔の仕業か!?」
「ヤギは聖別を受けた魔物だ! 悪魔などにとり憑かれるはずがない」
「今はそんなことどうでもいいだろ! 何とかして混乱を治めてここから逃げないと……っ!」
ウェングの横をヤギが通り抜ける。この状況で攻め込まれたらどうなる? そもそも何でこんなことに……?
「まさかこれも敵の仕業なのか……?」
おとなしいヤギがこんなに暴れまわった記憶はない。ならこの状況をただの偶然だと判断するのは不可能だ。
ただ強いだけならまだわかる。魔物が強大な力を持っていることは知っている。
しかし、こんな悪辣な罠を魔物が仕掛けられるのだろうか。ふと、ある可能性が脳裏をよぎる。しかしその可能性を意識して除外した。信じたくはなかったし、何よりそんなことを気にしている暇はない。
「何とかして魔物が迫っていることをみんなに伝えよう! 最悪馬と軽い荷物だけを持って逃げな……わっ!」
またヤギと危うく衝突しそうになる。こんな状況でまともに会話可能なのか? そう疑問に思った時、こちらに馬にまたがっている女性が現れた。
「チャーロさ……だ、大丈夫ですか!?」
彼女は体のあちこちを負傷しており、傍目には軽傷だとは思えなかった。
「仔細ありません。それよりもどうなっているのですか?」
傷を負ってなおきりっとした姿勢と、くっきりとした声にわずかながら冷静さを取り戻す。
「俺たちはみんなの様子を見に行ったんです。でも戦闘中だから一度野営地に戻って、そうしたらヤギが暴れまわってそれどころじゃなかったんです」
なるべくわかりやすく伝えたつもりだ。改めて言葉にしてみると非常事態であることがよくわかる。
「そちらの状況はわかりました。こちらは魔物と戦い、敗北しました。……族長は死亡しました。私は一足先に状況を把握するために野営地に戻ってきました。直に全軍が戻って来るでしょう」
周囲の男たちも思わずどよめく。最悪の予想をしていたが、それよりも状況は悪かった。
だがやはり、ウェングとしてはどうしても後半の言葉が気になった。
(母さんが死んだ……?)
チャーロが嘘をつくとは思えない。しかしそれを信じることもできない。
はっきり言って母親にいい思いはない。血もつながっていないし、愛情を感じたこともない。
それでも自分の心の内側に虫が這いまわるような気持ち悪さがあった。自分にとって母親とは何だったのだろうか。
「ウェング……申し訳ありません。私が――――」」
「チャーロさん。今はそんなことを言ってる場合じゃない。これからどうするかを考えよう」
「……その通りですね。皆さま、まずは戦えない男子供を教会に避難させましょう。一か所に固めなければ避難はできないでしょう。もう家やヤギは捨てるしかありません」
正式な認可を受けた教会ではないのだが、移動しながら暮らすトゥッチェの民は常に野営地に仮の教会となる天幕を敷設していた。
誰もがその場所を知っており、なおかつ最も大きな天幕なので避難場所としては最適だった。
「男子供を避難させ終えたら一気にこの野営地を出ましょう。それまでは時間を稼ぐ必要があります。皆さまは百人ずつ戦える人員を確保してもらいます。全員がそれを終えたら出撃します。敵の数は一見少なく見えるかもしれませんが、あれは全軍ではありません。何としても逃げ延びなければなりません」
この野営地にはおおよそ五千人ほどいるが、砦を取り囲んでいる部隊以外本格的には戦えない。混乱した状況ではその取り囲んでいる部隊と連絡を取るのは難しい。この野営地を守るのは放牧から帰ってきたり、ヤギの番をしていた男しかいない。
ウェングにとっても初陣だがとても心浮き立つ気分ではない。
それでもここで負ければ……どうなるかは予知できていた。最悪の未来。一面の赤と鉄錆の臭い。
それを実現させないために命を懸けなければならないことを、心よりも先に震える体が実感していた。
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