こちら!蟻の王国です!

秋葉夕雲

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第三章

193 呪いと祝福 

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「おや、もしや私どもを殺すつもりですか」
 物騒な言葉を使う割に動揺した様子はない。殺されない自信があるのかそれとも殺されてもいいと思っているのか。あいにくとそんな優しいことをするつもりはない。こいつにはこいつにとってもっとも悲惨な死に方をしてもらう。
「いいや。オレはお前を殺さない。ところで一つ聞きたいんだけどな。オレがお前らに贈ったヨーグルトを食べたか?」
「? 食べましたが、それが何か」
「食 べ た な? お前はヨーグルトを食べた。そのことをよく覚えてからこれを見ろ」
 持ってきたのは複数のレンズが組み合わさった物体だ。当然ながら僧侶からは疑問の声が上がる。
「何ですかこれは」
「顕微鏡だ。とても小さい物を見るための道具だよ」
 すでに豚羊でも顕微鏡を使えるかどうかは茜で確認済み。ヨーグルトがセットされ、ピントが合わせられている。
「まずはそれを見てみろ。きっとたのしいぞ?」
 いぶかしみながらも顕微鏡をのぞき込む。すぐに困惑の度合いは深まった。
「これは……一体?」
「微生物だ。桿菌や球菌なんかが観察されるはずだな」
「微……生物? まさかこれらは、命、なのですか?」
 動揺を通り越して恐怖で顔が歪む。普段のすまし顔からは想像できない狼狽だ。
「そうだよ。この世界には、どこの世界にも目に見えない微生物が大量に存在する。それらは水中、空気中、土壌中どこにでも存在し、当然ながらヨーグルトにも存在する」
 僧侶は何も答えない。砂漠で走り回ったようにしたたる汗と、北極で寒さをこらえているように震える手足がその気持ちを雄弁に物語っている。
「オレがヨーグルトを渡すときにこれはお前たちの乳から作られた食べ物だと言ったからな。安心して食べたんだろう? そうだよな? お前たちにとって自分の乳は生命として低い、だから自分たちが食べても大丈夫だ。そう思ったんだよな?」
 僧侶はもはや取り繕う様子もない。このまま一気に畳みかける。
「けどなあ? 命ってのはどんなとこにも存在するんだよ! 一見命は宿っていなくても、そこにあるんだよ! お前たちが今までバクバク食べてきたものの中に必ず存在するんだ! ああそうだ。オレに教えてくれよ! どうやったら高みとやらに登れるんだ?」
「命を……奪わず、壊さず、穏やかに、否定せず……」
 ほんの少しだけ残ったチューブ型の歯磨き粉を絞り出すような声が出るがそれこそが自信の無さの表れだ。
「命を奪わない!? 無理無理絶対無理だよそんなこと! この世は命であふれてる! どこもかしこも命でいっぱいだ! どうあがこうがオレたちは命を奪わずにはいられない! 高みに登り詰める!? そんなもんできるわけねえだろ! この大量殺戮者!」

 おおおおおお! わけのわからない言葉とともに僧侶は地面に頭をぶつけ始めた。それに続く豚羊もいる。このままだと死にかねないな。こいつらはもはやただの肉塊だ
「あんまりわめくな。肉の味が落ちるだろうが」 
 指示したわけでもないのにちゃんと働き蟻たちは止めに入る。
 以前微生物について講義した時に、茜に対してあえて教えていないことが多かったのはこういうこと。日本人にはなじみがない感覚かもしれないけど、一部の宗教にとって食べてはいけない物を食べるのは本当にタブーなのだ。嫌いなものを食べるようにこっそり料理に混ぜ込むのとはわけが違う。
 茜にもこのことを説明すると自害しかけたからこの作戦が有効であるとはすでに確認済みだ。この様子なら大部分の豚羊はこれで殺せるはずだ。何ということだろう。何の労力もなく豚羊を殺してしまえる。何よりもオレたちは奴らに。あいつらが勝手に自傷しているだけで、今だに奴らとの約束は破っていない。
 残った豚羊も大半は力なくうなだれるだけだ。しかしやはりどこにでも例外はいる。

「蟻の王、すこしよろしいか」
 何頭かの豚羊が話しかけてきた。
「ん、なんだ?」
「我らをあなたの国に加えてもらえないだろうか」
「おや? 僧侶を裏切るのか?」
「いえ、あなたの方が正しいと感じただけです」
 ふーん。若干きょどってるから全くの事実でもないかもしれないけど真っ赤な嘘でもなさそうだ。裏切り者は上手く使えば役に立つ。
 そういう意味ではまだ豚羊たちはヒトモドキの領域にはたどり着いていないな。奴らは命を失ったとしても裏切ることはないだろう。
「ま、いいよ。ただしオレたちのルールには従ってもらうぞ。具体的には赤毛の連中を虐げるのはなしだ」
「……はい」
 はははは。不満そうだなあ。とはいえ加わるならちゃんとルールを守ってもらわなきゃ困る。
「あ、そうだ。お前らオレたちの国のルールは知ってるな?」
「もちろんです」
「ならお前たちはちゃんとオレたちのルールには従えるな?」
「当然です」
 いちいち教える手間が省けていいね。
「じゃあお前らは以前にオレたちのルールを破ったことはないな?」
 属地主義とかいうんだっけ。その土地の法律で罪を裁く考え方だ。こいつらの中のルールとこの国のルールが食い違っていることもあるかもしれないからちゃんと聞いておこう。
 そう聞くと豚羊たちは顔を見合わせ始めた。……思いっきり心当たりがある反応だな。

「では告解します」
「ん、どうぞ」
 わざわざ告白してくれるのか。ありがたいね。
「私は本日草を食みましたが根を残しておきました」
 はあ。
「私は昨日花に止まっている虫をつぶさずに避けて歩きました」
 あ、そうなんだ。
「私は今日休む時に草の上ではなく固い地面の上で寝ました」
 ……。
 なにこれ?
 その後もよくわからない自分語りは続いていく。
「なあ、お前ら。一体何をしているんだ?」
「何とは……告解ですが」
「告解とは罪の告白と許しを与える行為……であってるか?」
「その通りです」
「じゃあ何で何をしたとかどこにいたとか話すんだ?」
 罪を告白するならまずどんな悪いことをしたのかきちんと話すべきじゃないだろうか。
「私たちがどれほど高いかは私たちの行動を語らなければならないでしょう?」
 あー、なるほどわかったぞ。こいつらはまだ価値観が豚羊の不殺教のままなんだ。聞いておいてよかったよ。このままだと誤解したままだっただろうからな。
「一応聞いておくぞ。お前たちの告解の手順はまずお前たちがどれだけ高いかを証明するためにお前たちの善性を語る。そのあと僧侶みたいなより高い位に当たる人物にお前たちに罪があるかどうか判断してもらう。それであっているか?」
「その通りです」
 裁判とは法律と過去の判例に沿って粛々と進めるべきだ。個人の主観や価値観を取り入れるのは最後の最後にするべきだ。
 ましてや、被告人の善性を証言で測るなんかあってはならない。こいつらの裁判は完全に徳治主義によって進行している。あの徳治主義だ。性善説とぬるすぎる道徳に染まりきった幼稚な思想。
 魔物は嘘をつくのが難しいからある程度はそれで何とかなるかもしれない。しかし、善人が悪事を行うことがあれば、悪人がちょっとした善行を行うこともある。個人の善悪で罪の所在を判断するのはとても危険で不確かだ。
「残念ながらオレたちのルールでは被告人が善人であるかどうかは関係ないし、高いかどうかなんてそもそも気にしない。大事なのはお前らがルールを守れるかと、お前たちが悪事を行ったのかどうか。その悪事がどんなものなのか。まずそれを話せ」
 しかし豚羊どもは困惑したまま固まっている。どう見ても嫌がっている。
 僧侶め。いくら何でも甘やかしすぎだ。自分にとって都合が悪いことは話さなくていいなんて虫が良すぎるぞ。
「もういい。お前たちに話を聞くよりも被害者の話を聞いた方がよさそうだ」
 この場合の被害者は恐らくすでにオレの部下に加わっている。
「寧々。茜をはじめとした赤毛の豚羊を連れてこい」

 そして茜を筆頭に赤毛の豚羊は翼や千尋たちに連れられて亡命希望者の前に現れた。念のために護衛付きだ。
「さてそれじゃ茜も、他の赤毛の豚羊も教えてくれ。こいつらはオレたちのルールに反する行為を行ったか?」
 問いかけても気まずそうに沈黙するだけだ。かつての仲間を売るようで気が咎めるんだろうか。
「遠慮しなくていいぞ? むしろこれはこいつらがオレたちの国に入るのに必要な行為だ」
「あの……私には心当たりが……」
 茜が挙手……毛を使っているから、挙毛? まあ自分の毛を持ち上げた。
「何があったんだ?」
 促してもまだ言い淀んでいる。そんなに言いにくいかなあ。
 少し待ってそれでもまだ話そうとしないから声をかけようとして、ようやく口を開いた。
「私はその、無理矢理、交尾されました」
 ……オレは馬鹿か? 豚羊にとって赤毛は虐げる対象だった。強者が弱者にどういう態度をとるかなんて考えるまでもない。そんなものは歴史が散々証明している。
 さらに言えば不殺教は交尾を積極的に行ってはならない宗教だ。どこかで欲望のはけ口が必要だったのかもしれない。なかなかお盛んじゃないか。
 警察が性暴力被害にあった女性に対して犯人を捕まえるために無遠慮な証言を強要することがあると聞いたことがあるけど、それと大差ない。デリカシーがないにも程がある。
「辛いことを言わせて悪かったな。お前は休んでいいぞ」
 なるべく優しく声をかけたつもりだ。
「いえ、ここで聞いています」
「わかった。辛くなったらすぐに休んでいいからな。さて、今言ったことは事実か?」
 前半と後半で大きく声のトーンを変えながら話しかける。
「それは……」
「黙ってたらわかんないな。オレが勝手に判断してもいいのか?」
「確かに私は交尾致しました。しかしそれはあくまでも赤毛との行為であって決して高みに上ることへの妨げになりません」
 ふむふむ。なるほどなるほど。こいつらはあくまで不殺教の妄りに事に及んではならないという教えに反する行為を行ったことにバツの悪さを感じているのか。
 ちらりと茜を見ると怯えたように、あるいは怒りのあまり、震えていた。
「お前らは茜を傷つけたことに対して何も思わないのか?」
 豚羊たちはきょとんと質問の意図を測りかねる表情のまま問い返す。
「私たちがいつ赤毛を傷つけたというのですか?」
 本当に加害者というのは自覚がないもんだね。エルフとこいつらは何ひとつとして変わらない。社会として弱者を搾取することに慣れ切った連中にとって搾取とは呼吸同然で、誰かを傷つける行為ではないらしい。
 それについて口を出す権利はない。よその群れのルールにまで口を出すべきだと思わないし、群れの一員をどう扱っていようがどうでもいい。しかしオレたちの国に加わるなら話は別。価値観をそのままにしてもらっちゃ困る。
「お前たちに必要なものがわかった。反省だな。オレたちの国に加わるならまず反省するべきだ」
「何を反省しろというのです?」
「オレの国民を傷つけたことをだ。ひとまず強制労働かなんかで反省してもらうかな?」
「な、何故我々が……」
「理由は今言った。何度も説明させるな。お前たちには郷に入っては郷に従えっていう言葉を教えようか。で、どうする? まだオレたちに従うか? それとも逃げ出すか?」
 ようやく事態を飲み込めてきたのか、慌てた様子を見せ始める。
「あ、赤毛。この方に我らの正しさを証明してくれ」
 この期に及んで茜に頼るとは見苦しいにも程があるな。
「私は……」
「茜。どうだ? お前が嫌ならこいつらは追い出すぞ?」
 豚羊の視線が一気に茜に集中する。
「この方々は好きではありません。しかし、このまま見捨てるのは忍びないです」
 茜が受けた屈辱を鑑みればかなり温情のある言葉だろう。しかしそれでは我慢できなかったらしい。
「赤毛えええ!」
 豚羊の一匹が茜にとびかかりとい取っ組み合いになった。素早く千尋と翼は反応する。しかし。
「翼、千尋。待て」
 千尋と翼はぴたりと動きを止めた。これはいい機会だ。
「茜。そいつはどうやらオレたちの国に加わるつもりがないらしい。それどころか暴力を振るっている。そいつはもう排除した方がいい。茜。オレの言いたいことがわかるか?」
 ぶるりと身を震わせる。意味はちゃんと分かってくれているようだ。
「ですが、それは高みに登れぬ行為で……」
「なあ茜。今更高みだとか気にしていいのか? お前は微生物について全て理解した時、取り乱しはしても最終的に自害はしなかったじゃないか。お前はもう理解してるんじゃないのか? 高みなんてどこにもないし誰にもたどり着けないことを」
「わ、私は」
 かつて彼女自身が言われた言葉を思い出す。
『赤毛であるあなたは何をされても不満を持ってはいけません。嘆いてはいけません』
 揺れている。過去と現在の狭間で、誰かと誰かの言葉の間で。
「茜。お前は強くなりたいんじゃないのか? 傲慢な連中の言葉に惑わされていいのか? それがお前の強さか?」
『これは祝福です。高みに登れぬあなた方は他者に奉仕することによってはじめて価値を得ます』
「赤毛! 貴様は我々の言う通りにしていればいい!」
 言葉がぶつかる。彼女には誰が何をしゃべっているのかもうわからない。混濁した意識の中で彼女の奥に一番届いた声は――――
「いいんだよ。逆らっていいんだよ。お前は何にも悪くない。悪いのはそいつだ。だから戦っていいんだ。だってそいつはルールを守らない。だからルールに守ってもらう権利がない。暴力から身を守るために戦うこと。それはまさに正当防衛。お前は正しい」
 それは悪魔のささやきだったのか、天使の福音だったのか。

 目を血走らせた豚羊に組み付かれた茜の体が一段膨張したように膨らむと思う存分投げ飛ばした。
 ごろごろとボールのように巨体が転がる。この場にいた全員が度肝を抜かれるほどの馬鹿力。
「私は、私の名前は茜だ! 赤毛なんて呼ばれたくない! この国の一員だ! お前たちの言うことを聞く理由はない!」
 やっぱりやればできる奴だったな。素晴らしい。
「よくやった茜。それでこそこの国の一員。オレの部下だ」
「はい! ありがとうございます!」
「よし。おいお前らも何をぼうっとしてるんだ?」
 今まで静観していた赤毛の豚羊、亡命希望の豚羊、すべてに声をかける。まさか話しかけられると思っていなかったのか、びくっと後ずさった。
「こいつはルールを守らなかった。あまつさえこの国の一人を傷つけた。生かしておく理由はないはずだろ? 大丈夫だ。心配するな。さっき茜がしたことをこいつにやればいいだけなんだから」
 豚羊たちはふらふらと吹き飛ばされた豚羊に向かっていく。からくり人形みたいだ。
「やめ、やめろ。なぜ、こんなことを、ひっ、ぎゃああああ!!!」
 何かを踏みつぶす音。何かが砕ける音。それらが混じり合い、やがて静かになった。
 やっぱり口で言うよりも誰か一人先導するやつがいてくれるとスムーズだな。これでこいつらはもう逃げられない。不殺教の教義では絶対にやっていけないことをしてしまったのだから。
 ことが終わると赤毛たちの顔は紅潮し、反対に亡命希望者は青くなっていた。

「さて。とりあえず聞いておこうか。まだこの国に来る気はあるか? もちろん何らかのペナルティは科す」
 亡命希望者たちは五体投地のような体制で体を震わせながら返答する。
「は、はい。いかなる罰もお受けします」
「了解だ。そうだな、とりあえず強制労働の監督を誰かにしてもらわなきゃいけないんだけど……茜、やってくれるか」
 こいつらのプライドをはぎ取るには茜か、最悪でも赤毛の豚羊出ないといけない。トラウマが十分に払しょくされたならできるはずだ。
「私が? でも何をすればいいんでしょうか?」
「まずさぼらせないこと。そしてちゃんとオレたちの国のルールが守れるようにルールを教えてやれ。守れない奴にはさらに罰則を強化しろ。無理ならいいぞ?」
 茜は震えている。しかしその震えはさっきまでとは違う。喜びか、それとも武者震いか。
「ぜひやらせてください! それこそ私の天職です!」
 おおう。ドン引きするほどのまぶしい笑顔。やっぱり豚羊って腹黒いというか根っこの部分でいい性格をしてる。
「まるで太陽のような笑顔ですね」
「寧々、まあ確かにそうかもしれないけど……その太陽どす黒くありませんかねえ!? ん……? 寧々、今なんて言った?」
「太陽のようだと。それがどうかしましたか?」
「いや……」
 これは間違いなく比喩表現だ。蟻はあまり間接的な表現を好まない。これも知性を発達させたことの証だろうか。

「あの、王様、あなたはまだお怒りですか?」
 豚羊たちに話しかけられる。まだガクブルして顔が青いままだ。ちょっと脅しすぎたか?
「別に? もう怒ってないぞ? 反省はできているみたいだし」
「ほ、本当に怒ってないのですか?」
「うん、何か不満でもあるのか?」
「め、滅相もございません」

 亡命希望者たちの心を占めていたものはただ一つ。
 恐怖。
 王が怖い。蟻の王が恐ろしい。平然と仲間を殺せと命じる心が恐ろしい。かつて見下していたはずの赤毛どもに同胞を殺せと命じる精神が恐ろしい。あの赤毛に我らの行く末を任せる心根が恐ろしい。そして何よりも、もう怒っていないという事実が恐ろしい。
 もしもこれらの指示を冷静なまま行ったのだとすれば、本当に怒れば一体どうなってしまうのか。その怒りを自分たちに向けられることが死ぬよりも恐ろしい。

「我々は決してあなたには逆らいません」
「いいよ。まずは務めを全うしてくれ」

 ああ本当に、すぐに死んでおくべきだった。だが今死ぬことは蟻の王の言葉に逆らうことになる。それだけはできない。そう心の奥底からかつて僧侶を慕っていたはずの残骸は心の中でつぶやいていた。
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