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秋葉夕雲

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第一章

56 最強の敵

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 銀。かつて世界を平定した偉大な王が生まれついて持つ髪の色であり、あらゆる邪悪を退け、この世で最も貴い色とされた。
 ただしそれはあくまでも伝説である、そのはずだった。
 誰もがその眩さに目を奪われた。世界を照らすほどの光。それは確かに熊の一撃を防いでいた。
 その衝撃から立ち直ったのはやはり熊だった。一撃を防がれたのならば、二撃、三撃と続けざまに爪を振るう。しかしそれさえも銀色の盾は防ぎ切った。
 熊の魔法は人の盾には何ら役に立たない。しかし地力が違いすぎる。本来なら百人集まっても熊の攻撃は防げない。
 それをただ一人で銀色の少女は防いでいる。たった一人で嵐に立ち向かった聖人ジャニークのように。
「本物だ。銀王の再来だ。私たちは伝説、いや神話を目撃している。私たちも征くぞ! 聖女様を死なせるわけにはいかない!」
 祈りと雄たけびを上げながら村人たちが走る。
 熊は背後から迫る村人を無視して銀髪の少女ただ一人に猛攻を加えるがそれで盾を突破することはできない。しかし攻撃に曝されるファティもまた反撃に転ずることはできない。
 だがここで異変が起きた。
 熊は怒ると、痛覚と疲労を無視して動き回ることができる。つまり限界を超えることができる。だが限界とは超えてはならないものであって、超えるべき壁ではない。火傷を負っていたからか、あるいは辛生姜の魔法によって一部分の硬化が解けていたからか、それらすべてを押し通して無理に力を入れすぎたせいか、度重なる全力戦闘により、熊の右腕は限界を超えてしまった。
 みしり、と何かが折れる音が聞こえ、熊の右腕はだらりと力なく垂れ下がった。
「見ろ! 聖女様が熊に傷を与えたぞ!」
 村人たちからはそうとしか思えなかっただろう。真実を見抜くことはいつでも難しい。
 砂塵を巻き上げながら熊は大きく飛びのいた。村人たちはファティと合流し、<光弾>を放つ。だが何の意味もない。熊を傷つけることができるのは、この場にただ一人しかいない。だが、
「なんで!? なんで光弾が作れないの!?」
 彼女は何故か自力で光弾を作ることができなかった。飛び道具がないことは戦いにおいて致命的な欠陥になる。特に相手が飛び道具を保有している場合には。
 熊が再度吠える。砂と岩がまたも村人たちを襲う。銀色の盾がそれを阻むが徐々に光が弱まっている。無理もない。彼女はこれが生涯初めての実戦だ。心身ともに疲労の極致にある。
「ファティ様! 我らが貴女様の盾となりましょう! 貴女のためならこの命惜しくはありません!」
 村人の内誰かが叫ぶが、彼女は否定した。
「駄目です! みんながちゃんと生きないと、誰かが死ぬなんて絶対にダメです!」
 慈愛に満ちたる言葉はまさしく聖女の如し。否、聖女そのものであった。もしも熊が彼女の言葉を解さば、即座に首を垂れ、その清廉なる心に胸を打たれたであろう。
 だが悲しいかな。熊は人語も人の心も介さぬ悪鬼羅刹である。戦う以外に道はない。
 幾重にも降り注ぐ雨は彼女の力を徐々にそぎ落とし遂には膝をついた。
「ファティ様!」
 慌てて村人たちが駆け寄るがもはや息も絶え絶えといった様子だ。
 好機と見たのだろう。熊は暴風のように突進してきた。それが最大の失敗だった。もし常の如く冷静で臆病な熊ならば無闇に近づかず、そのまま投石を続けるか、さもなくば踵を返してそのまま逃げ去っただろう。
 怒りは判断を鈍らせる。だからこそ熊は滅多に吠えない。
「サリやアグルさんにも教えてもらったもの! 光弾は出せないけど、剣なら!」
 すでに力の入らなくなった体に鞭を打ち、すべての力を振り絞る。現れたのは天に届かんばかりの巨大な剣。まさしく神の御意思が形になったかのような輝き。その輝きのまま地面へと叩きつけるように振り下ろした。
 まさしく神話の如き光は熊の半身を斬り裂き大地にさえ傷跡を残した。

 しばしの静寂の後、熊がもう動かないことを悟った村人は歓喜の声を上げ、その一瞬後でファティは崩れ落ちた。意識を失ったらしい。
「これは一体? まさか……熊を倒したのか!?」
 本来避難するはずだった村人もここにようやく到着し、驚愕の声を上げた。
「ああその通りだ。ファティが、聖女様がこの村を救ってくださったんだ。誰か、早く手当てを――――」

 サリは言葉を切る。視線の先にはアレがいた。その目を滾らせていた。

 それは間違いなく死体だった。顔の半分は抉れ、左胸は大きく切り裂かれて血が滝のように流れ落ちる。もしかすると心臓にすら届いているかもしれない。なぜ生きているのかがわからない、もしかすると死んだままその体を動かしている、そう思ってしまう程異常だった。
 それでも、あれはこの場で最強の命だった。
 死体が迫る。もう動かなくなった腕の代わりに後ろ足だけを動かし這うように、地の雨を降らせる悪魔スイガーのように死を引き連れてくる。
「聖女様を守れ!」
 誰かが叫んだ。誰もが思った。
 かろうじて熊の突進を止める。
 しかし数十人の盾さえも突破しうる力を未だに熊は持っていた。いずれ破られる、誰もがそう思った。

 だがそこに一つの影が滑り込み熊の喉を断った。
 恐るべき魔物は遂に倒れた。
「アグルさん!」
 その影こそアグルだ! 神よ、銀王よ!これぞまさに恐れを知らぬ勇者の姿なり。
「遅くなってすまなかった。しかし何があったんだ?ファティは無事か?」
「ええ無事です。息はしておられます」
「聖女様が熊を討伐なさったのです」
「おお、まさにこの子こそ銀王の再来だ! 神よ、救世主よ! この子を我らが村に授けてくださったことを感謝します」
 口々に聖女へと感謝と祈りを述べる村人たち。もはや彼女が真の聖女であることを疑うものはいなかった。
「みんな! まだ何も終わってはいないぞ! 神に祈りをささげた後、熊からを抜き取り、その死体を燃やさなければならない。熊の死体からは悪魔が現れ別の熊を呼び寄せると言われている。急ぐぞ!」
 急いで薪の用意や解体の準備に取り掛かる村人。だがその足取りは数刻前とは比べ物にならないほど軽い。そこにもう一つの宣誓が付け加えられた。
「なお、熊の討伐によって得られる私の報酬は全て村の共同財産とする!」
 どよめきが広がる。熊の討伐に参加した者には全て報酬が支払われるが、最も報酬が多いのは直接熊を討伐したものである。それは間違いなく一生遊んで暮らせる金額になるが、それを私欲の為に使うことはないと宣言した。あまりに公平無私な心に感動しなかった村人はいなかった。

 誰もがせわしなく動き回る中で、サリは茫然自失として、涙を流していた。
「どうかしたのか、サリ?」
「アグルさん……私はこいつとの戦いで何もできなかった。いくら聖女様とはいえこんな小さな子が必死で戦ってたのに……」
「サリ。恐らくだがこいつは俺たちが戦う前から負傷していた。俺たち以外の誰かが熊に傷を負わせていたはずだ」
「本……当……ですか?」
「そうだとも。確かに俺たち一人一人の力は聖女様に及ぶべくもない。だが我らとて協力し合えば大きな力になる。例え力及ばなかったとしても未来の誰かの力になる。死した者たちもそう思って俺達の為に戦ったはずだ」
 サリは答えない。今自分に何ができるかを必至に考えている。
「まずは目の前にいる命を守るといい」
「はい。私は聖女様を守ります。トラムさんやこの戦いで亡くなった人のためにも」
 涙を浮かべながら神に、救世主に誓いを立てた。

 どうだろうな。
 アグルは先ほどのサリとの会話を反芻していた。熊は確かに負傷しており、聞いていた話に比べると様子がおかしかった。では誰が傷をつけたのか?
 まさか討伐隊の面々ではあるまい。奴らにそんな力はない。ならまさか、蟻が――――?
「いやそんなことはどうでもいいか」
 彼が間に合ったのは偶然ではない。村に戻ったのは避難していた連中よりも早かったがじっと息をひそめ、機を窺っていた。そして熊がまだ息をしていることに気付いたのは彼だけだった。そのおかげで最高の瞬間に飛び出すことができた。
(まさか″熊狩″になれるとは)
 熊を直接討伐した人間に贈られる称号であり、男がのし上がるにはもっとも有効な道のりだ。報酬などその称号の名誉に比べれば些細なもであり、むしろ報酬を捨て去ったほうが徳の高い清廉な信徒としての名声が高まる。
 なによりファティのあの剣。あれは間違いなく使える。あれさえあれば教皇の座も夢ではない。兄の理想が実現する輝かしい未来を思い浮かべ、下卑た笑みを浮かべたアグルに気付いた者はいなかった。
 ふと、アグルは東の空を見る。
「見ろ。美しい日の出だ」
 アグルがそう呟くと,村人も一斉に空を見上げ、感嘆の息をもらした。一時だけ祈りを捧げた村人もいる。雲一つなく晴れ渡る空の何と清々しいことか! まるで太陽が村人たちの心を映すが如く輝いている。
 新たなる門出に相応しい一日の始まり方だ。誰もがそう思った。





「もう朝か」
 疲労困憊の様相でようやく二番目の巣についた紫水を出迎えたのは澄み切った空を貫くような朝日だった。ここまで到着が遅れたのはもちろん彼自身が原因だ。女王蟻の歩みはそれほど早くなかったことに加え、事あるごとに休息をとらなければならなかった。精神的な摩耗が大きすぎたためだ。結局一晩中森を歩き続けることになってしまった。
 それにしても清々しい朝焼けだ。オレの心情と正反対なのは実に皮肉が効いている。冷や汗なのか運動をしたための汗なのか、どうやら女王蟻も汗をかくみたいだ。今までは地下にいたから気付かなかった。朝の風が少し寒く感じ……てし……まう???
 ?
 ??
 ???

 寒い? 今オレは寒いと感じたのか? 背筋が凍る。
 オレは転生してすぐ今の季節は夏だと聞いた。あれからずいぶん経った。地球と同じように季節が変わるなら、夏がきて、秋がきて、……冬が……くる。
 当たり前の事実にようやく気付いてしまった。古代において冬の寒さに凍え死ぬ、あるいは食料の乏しさゆえに餓死することは決して珍しいことじゃない。暖かい食事と優秀な暖房器具が当然のように備わっている現代日本とは違う。

 倒すことも逃げることもできない冬がくる。備えは、乏しい。



 この日、後に人類の敵と呼ばれる蟻が初めて"全滅"した。彼は人のみならずありとあらゆる生き物から恨まれ恐れられたという。
 数多の戦いをくぐりぬけ、銀の聖女とさえ謳われた人間と最も激しく戦った蟻である。

 この日、後に銀の聖女と呼ばれる少女が初めて勝った。彼女は人々の希望の星となり、多くの命を救った。
 数多の戦いをくぐりぬけ、最後には人類の敵とさえ言われた蟻を救った人物である。
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