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 前期定期試験は無事に終わった。大学に入ってからの初めての試験だったので緊張したが、思ったよりはできがよかった。過去問の力は大きいだろう。
 浅野はいまだに心配していたようだが、試験結果もよく特待生枠からは外れずに済むらしい。野上とは会わずに済んでいる、と真尋に伝えてきた。最近は真尋たち以外とも話すようになっており、少しずつ野上がいない空間でも人間関係が落ち着いてきていた。真尋も学生自治会の手伝いをしているせいもあるだろうが、高校の頃よりも交流が広くなっている。アルファと思わしき面々や普段会話をしないグループとも知り合いが増えた。気のせいかもしれないが、妙に好意的な雰囲気が感じられ、真尋はいまだに首を捻っている。
 理仁がまた何かしたのかと思ったが、特に何もしていないと否定された。

「野上がいないからじゃない? 僕や浅野もだけどオメガで野上を怖がってた人多いから」

 そう言ったのは寿だった。野上がすべての原因というわけではないが、野上がいなくなったことで息がしやすそうなオメガの友人たちは何人か思い浮かぶ。なるほど、と頷く真尋に、武藤が何かもの言いたげな顔をしていた。

 試験が終われば、あとは夏休みを待つばかりだ。真尋は周りにつられ、気持ちが浮かれて落ち着かない。
 だから理仁に夏休みの話を振ったのも、当然の流れだった。
 午後の講義がない日、真尋は理仁を誘っていつものファミレスに入った。昼食を取りながら、試験の結果について話し合う。いくつか理仁にケアレスミスを指摘され、真尋はひとりでくやしがった。

「追試にならなくて安心した」

 綺麗に箸を動かす理仁に、真尋は何言ってんだか、と呆れる。理仁は試験前に何人かの学生の面倒も見ていたくらいだ。

「おまえが追試になるはずがないだろ」
「そうかな」
「そうだよ」

 まったく。真尋は嘆息しながらグラスを回した。からからと氷が涼しげに音を立てる。強い日差しが差し込むのに、エアコンが効いて店内は涼しい。夏休みだな、と知らず声が漏れた。

「北浦は、休みは実家帰んの?」
「いや、夏はバイトする予定だ」
「バイト? ずっと?」
「ずっと。親戚には会うかもしれないが」

 真尋は目を瞬かせた。理仁はもともと家庭教師のアルバイトをしていたが、今はさらに学習塾を経由してその相手を二人に増やしたらしいと聞いていた。

「結構バイトするんだな」
「……こういうのも、いまだけだろ?」

 真尋は曖昧に頷く。なんとなくそれ以上言及する気にはならなかったが、家に帰りたくないのだろうかとは思った。
 真尋は一瞬それなら、と口に出しかけてやめる。目の前のハンバーグに乗った目玉焼きの黄身をフォークでつつき、海か、と笑った。

「海の家ってどういうことすんの?」

 理仁は味噌汁を啜ると、少し首を傾げて、いろいろ、と考えながら答える。いろいろ、と真尋が繰り返すと頷いた。

「土産物売ったり、食事処の手伝いしたり、宿泊施設の手伝いしたり、いろいろ」
「焼きそば焼いたりすんの?」
「する。ひたすらキャベツ刻んだり」
「過酷だ……」

 野菜を刻むのが苦手な真尋は聞くだけで眉尻を下げた。指がぶるぶるする。あんまり情けない顔をしたからだろうか、理仁は珍しく声に出して笑った。

「慣れればうまくなるぞ」
「それまでが過酷だろ……。北浦今回が初めてじゃないのか?」
「高校の頃もやってたから、今回で四回目だな。三回目からはもう直接電話が来るんだ」
「え、ずっと? 毎年?」
「ずっと。ただで、っていうとおかしいけど、泊まり込みだから部屋の心配しなくていいし、休みの日は泳げるからいいバイトだぞ」
「へえ。そういうのいいな。夏の学生って感じ」

 真尋はすぐ横の窓ガラスから外を見上げた。青々しくて、海でもプールでも、こんな日に入れたら最高に気持ちがいいだろう。真尋の言葉に、つられたように理仁も外を眺めた。

「南野も来るか?」
「えっバイトに?」
「ああ。一人くらいなら誘ってもいいと言われてる」

 真尋は正面に顔を戻した。理仁は少しだけ首を傾げていて、どちらでもいい、というように真尋の言葉を待っている。真尋もつい理仁と同じように首を傾けた。

「気になるし興味ある。けど」
「うん」
「まだバイトのことは親と話し合い中だから」

 決めてしまった、と言えば両親も仕方ないと思うかもしれない。だがまだトラブルがあってから数カ月も経っていないと思うと、振り払ってまで決めてしまう気にはならなかった。ただでさえ、入学前にも沙苗のことで心配をかけている。
 理仁は真尋の返事に、いいと思う、と微笑む。

「そうか。来年以降もやってるだろうから、そのとき興味があったら声かけてくれ」
「そうする」
「キャベツ刻むけどな」

 理仁の言葉に真尋は思い切り顔をしかめた。今度コツを教えてくれ。渋い顔のまま真尋が頼むと、理仁は堪らずというように噴き出し笑った。





 夏休みに入り、早々に家に帰った。電話はしていたが、顔を合わせるのは野上のことがあって以来だ。出迎えてくれた母親はいつもよりにこにことしていて、ずいぶんと優しい。真尋は小学生の頃の扱いになったような錯覚さえあった。
 二階にある自分の部屋は掃除機がかけられており、布団もふかふかになって畳まれている。窓を開けると少しだけ風が通ってきもちいい。真尋はほっとしながら学習机に座った。まだ半年も経っていない。だがどうも懐かしくて苦笑した。
 スマートフォンを立ち上げると、理仁からメッセージが届いていた。海の写真だ。海水浴場らしく、人が多い。それでも空が広々としていて、見ているだけで気持ちよかった。
『夏って感じだな』
 俺は実家に帰ったところ、と付け加えて返信するとすぐに既読がつく。ついでに実家の庭になっていたきゅうりの写真を送っておいた。

 夕飯には父親も帰宅し、久々に三人でテーブルを囲んだ。
 大学生活のことを聞かれ、真尋は講義のことやサークルのことなどを掻い摘んで答えていく。野上のことには触れなかったが、両親がまだそのことを気にしていることは真尋にも分かった。そのことには触れず、最近はよく一緒に勉強する相手がいる、と伝えた。

「アルファだけどいいやつだし。楽しくやってる」

 揚げたての天ぷらを摘み、真尋が済ました顔をすると、両親は目を丸くした。

「アルファなの?」
「わざわざバース性教えてくれたのか? ずいぶん仲良くなったんだなあ」

 真尋は天ぷらで口の中を火傷しそうになった。伝え方を間違えたかもしれないと思ったが、今更訂正の言葉も浮かばない。
 こっちはオメガだし。真尋が誤魔化すでもなく言うと、ふたりは顔を見合わせて相槌を打った。

「オメガだとプロテクターで分かるか」
「だから自分もって教えてくれた感じなのね」
「律儀なもんだなあ」

 それも誤解ではあるが、真尋としてもにおいでお互いわかった、とも言えない。まあそんな感じ、と話を切り上げる。

「せっかくだから夏祭りにでも誘ったら? うちに泊まってもらって良いし、花火の観覧席のチケット譲ってもいいわよ」
「えっ北浦を?」
「北浦くんっていうの? そういえばあのとき一緒にいた子よね?」

 真尋はぽろっと箸をテーブルに落とした。つい胸の内を当てられたような気がして、心臓がばくばくと音を立てる。そんなわけはないのだが。
 近所で行われる夏祭りは、なかなか大規模なものだ。二日かけて行われ、二日目の最後に花火が上がる。その様子は、ときどきテレビにも取り上げられていた。

「ちゃんとお礼もできていないし」
「送り迎えは父さんが車出すしな」
「もちろん向こうさんの迷惑でなければだけどね」
「誘うだけ誘ってみたらどうだ?」

 次々に畳み掛けられ、真尋は最終的にとりあえず誘ってみる、と頷いた。話を逸らそうとしているうちにずいぶん食べすぎてしまい、腹がはちきれそうになっていた。






 夜、風呂上りにスマートフォンを見るといくつかメッセージが届いていた。高校の友人たちから遊ぶ日程を決めるグループが作成されているので参加する。他には武藤や寿から回し読みしていた漫画に新刊が出たの話、浅野からは試験後に相談した参考書の話。それぞれに返信をし、真尋はベッドに座って髪をタオルで拭う。エアコンのおかげで部屋は涼しい。蛙の鳴き声が外から聞こえてきて、そういえば一人暮らしの部屋ではあの声はしないな、と思い出していた。あのあたりは、田んぼも川もないからだろう。

 いつだったか。沙苗が、ローファーの上に雨蛙が乗ったと悲鳴を上げていたっけ。

 真尋はぼんやりと窓を覆うカーテンの裾を眺めた。いままで思い出さなかったわけではないが、恐れていたほどは沙苗の気配を家に感じずに済んでいた。引っ越し前にずいぶん物を処分したおかげかもしれない。いま思い出しても、さほど胸が痛くなったりはしなかった。ただ少し寂しいと感じた。あの関係はぷつりと切れて、もう繋がることはない。あれだけ一緒にいたのに、これから先もずっと一緒にいると疑いもしなかったのに、それは真尋がそう信じていただけだった。
 どうして、とはいまでも思う。だが怒りも恨みも薄く、真尋からは遠いところにあった。
 ブルッ、とスマートフォンが震えて真尋ははっとタオルを落とした。いつの間にかうとうとしていたらしい。タオルを拾い上げると、スマートフォンを掲げるようにしてベッドに後ろ向きに倒れこんだ。

『日焼けした』

 手首から肘にかけての写真だ。すっかり赤くなっている。やけどじゃん、真尋はついスマートフォンに向かって笑った。画面を指で撫でて、痛そう、と返事を送る。痛くて軟膏塗った、と返ってきた。真尋はそれから、指を少し彷徨わせ画面をつつく。海の家のバイトはいつまでだっけ。親戚のツテのバイトはいつからだったっけ。何度か打ち込んでは消した。
 海の家に一緒に来るか。そう誘われて断ったことを真尋は後悔していた。本当はあのとき、実家に帰らないと言った理仁の顔を見てうちにくるか、と誘ってしまおうかと思った。だがそれは普通のことだろうか、と一瞬考えたら声に出せなかった。泊まりになんて、高校の友人さえ誘ったことはない。

 でも、親に挨拶したいなんて言ってたよな。

 あれは深く考えてのことではなかっただろう。いまだにどういう意味だか真尋もよくわからない。だが忘れられずにいるのも事実だ。
 よかったら、と入力してはまた消す。先程のメッセージのやりとりからもう二十分は経っていて、いっそ明日にしようかとまた指が迷う。

「あーもう!」

 どうせ誘うんだから迷うだけ無駄だ。真尋は『この日に夏祭りがあるんだけど来ないか』と一息に入力し、ぽん、と送った。ただ一行の文にどれだけ時間をかけているのか。スマートフォンを胸の上に乗せて自分で自分に笑ってしまう。するとブルッと振動があり、わ、と声を上げてしまった。

『行くよ』

 簡潔な返信を眺めたまま、真尋はベッドに深く沈み混んだ。
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