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 真尋はもちろん、あのサークルには入らなかったが、絡まれることが増えた。特にあの酒を飲んでいた先輩と、その取り巻きたちだ。三年では有名人らしい。金持ちであるとか、女やオメガの取り巻きが多いとか。そして関わり合いにならないほうがいいという話も同時に流れてくる。積極的に関わるつもりはもちろんないが、廊下で見知らぬ学生に、このチビがそうか、と顔を掴まれたりする。からかわれる程度で済んでいるが、面倒臭いことになったと真尋は頭が痛かった。
 先輩から目をつけられた、というだけでも厄介だが、さらに真尋は同学年にも問題を抱えることになった。

「南野」

 話しかけられる前から、理仁が近くにいることはわかっていた。においがするからだ。講義後、ちょうど廊下でひとりになるタイミングを計っていたわけではないだろうが、落ち着かない。真尋は素直に振り返るのが癪で、わざとのろのろと顔を上げた。

「なに」

 こんなにあからさまに避けているのに、嫌がって見せているのに、理仁は何故か話しかけてくる。いつでも真尋が嫌味を言えば、顔をしかめる。好意的な感じはない。同じ学年の知り合い、それだけの顔。お互い様だ。お互い様なのに、どうしてか妙に感情が沈む。

「なんだよ」
「これ」

 差し出されたものを真尋は受け取り、ぱらぱらと中身をめくる。英語の問題用紙だ。一枚目に去年の年度と小テスト、と記載がある。過去問だ。
 そういえば何回か小テストをすると教授が言っていたと真尋は思い出す。

「知り合いの先輩経由で回ってきた。結構単位に影響するらしいんだけど、そっちのグループには回ってなかっただろ」
「なんで。必要ない」
「……本当に? そっちのグループはちゃんと回ってるのか?」

 理仁が怪訝げに問うのに、真尋は一瞬躊躇い、素直に首を振った。
 真尋はこのところ、少し遠巻きにされることが多くなった。飲み会の件もあるが、別件だ。先日友人にしつこく絡んでいる男に文句を言ったことが、きっかけになったようだった。
 野上というその男は、アルファだと公言していて、真尋の周りのオメガたちからはいい印象のない相手だ。だが容姿はよく、取り巻きは多い。

 もともと野上とは、真尋は相性が悪かった。真尋は野上を関わりたくない相手と思っていたし、野上は野上で真尋を煙たがっていた。野上はオメガに限らず小柄な相手に後ろから抱きつくように絡む。それを何度か真尋が注意すると、いつでもめんどくさそうに舌打ちを返した。
 相手が野上の取り巻きや、野上を好意的に思っている人間だったら真尋だって文句はなかった。だが、野上が特に好んで構いたがるのは、真尋の友人の寿だ。寿は真尋から見ても小柄で、真尋や武藤と同じような首輪をしており、オメガだとわかりやすかった。野上に絡まれる寿を、よく真尋は背中に庇った。その度に、野上からは忌々しげに睨まれた。

 先日の講義後、寿が無理やり野上に連れて行かれそうになったところを、しつこいと言い負かしたのが南野だった。三人きりでも碌なことにはならなかっただろうが、公衆の面前というのはさらに悪かった。野上は怒りに顔を赤くして南野を睨みつけていた。
 それから少しずつだが、野上や野上の周りの面々から軽い嫌がらせを受けるようになった。
 たいしたことではない。わざとぶつかられたり、落とした荷物を踏まれたり。耳元でオメガのくせにと言われて尻を握られたこともある。やめろ、と言ってもにやにやと手を振られるばかりだ。気遣ってくれる面々もいるが、相手がどうにも力が強いので手をこまねいているようだった。
 今回の過去問が回ってこなかったのも、それが関係しているかもしれない。

 真尋は正直、少し失望していた。偏差値の高い大学で、ここに入るまでに真尋だって努力をした。こんな程度の低いいやがらせをするようなやつがいるなんて考えもしなかった。
 頭の良さと人格になんの関係もないと分かっていて、それでも気落ちするのをやめられなかった。

「俺たちや、他のところでは結構回ったから、そっちにも見せておきたいと思っただけだ」
「……わかった。回しとく」
「これはコピーしたものだから返さなくていい。それと」

 プリントを真尋がしっかり掴むのを待って、理仁は真面目な顔をした。真尋はついつられるように背筋を伸ばす。なに、と声に出さず訊ねた。

「おまえを矢面に立たせて悪かった」
「……なんのことだ?」
「野上だ。あいつが、寿にずいぶんしつこくしていたのを止めただろう。そのせいでこういうのも回りにくいんじゃないか?」

 真尋は別に、と吐き捨てた。

 放っておいてほしい。真尋は思う。
 自分が弱いから、理仁のようなアルファが気を使っている。気にしすぎだ、被害妄想だ、そう思っても、どこかでその認識が抜けない。
 これくらいのことをひとりで解決できないと思われたくなかった。

「おまえに謝ってもらうことじゃない。北浦には関係ない」
「関係ないことはない」

 強く言い切られて、真尋は眉根を寄せた。真尋は寿とは友人だ。絡まれていれば助けるのは当然だった。だからこれは真尋の問題だ。そこに理仁は関係ないと本気で思っている。

「同じ学年で、嫌がらせをしているやつがいれば目につく。何人か、仲間内でこういう嫌がらせがあったらこちら側で止めに入ろうと話し合いをした」

 そうかよ。真尋は奥歯を噛んだ。結局真尋では解決できないと、理仁は考えているのだろう。それがたまらなく悔しかった。
 頼られたのは自分なのに、自分の力が及ばないとどうしてこいつから指摘されなければならないのか。

「どうせアルファには敵わないから余計なことはするなって?」

 礼を言えばいい。自分だけならともかく、寿が絡んだ話だ。うまく解決できる方がいいに決まっている。それでも真尋の口は止まらなかった。

「そんなことは言ってないだろ」

 理仁は眉尻を下げた。怒るかと思ったのに、怒らない。困っているのが声だけでも分かる。
 そうだ。最初から、理仁は真尋を責めるようなことは言っていない。嫌がらせもしていない。お前のためじゃないと言いながら、助けてもらったのはこれが初めてではない。
 理仁はおそらく、優しい人間なのだろう。周りに目を配って、誰かが困っていたら、手を差し伸べる。そういうことが自然とできる。
 素直に受け入れられない自分がおかしいだけだ。

「もちろん誰でも対応ができれば、それに越したことはない。だが野上はアルファで力が強いのは確かだろう。変に暴れたら、ひとりふたりで抑えきれるかも分からない」

 真尋は項垂れながら頷いた。わかっている。わかっているつもりだった。オメガだからアルファだからという話ではない。それだけですまない場合がある。

「大学側にもこういうトラブルがあったことは言ってある」
「大学にも?」
「ああ。何かあってからだと遅いだろう」

 もっともだ。真尋は自分で対処できていると思いながら、もっと気を配れるところがあったことに一人で落ち込んだ。それを目の前の相手は簡単にやってしまう。それが当然のような顔をして、恩を着せるわけでもない。

「あ……」
「なんだ?」
「いや、わかった」

 真尋はぎゅっと口を閉じた。ありがとう、と言うところだった。それが当然で、いつもだったらそうしていた。けれど声が出ない。真尋は視線を逸らす。もう話は終わったはずだ。
 だがいつまでも理仁が立ち去る気配はない。真尋がそろそろと顔を向けると、理仁はスマートフォンを片手で振った。

「連絡先を訊いてもいいか?」
「……なんで」
「何かあったときにすぐに連絡がつくようにしておきたい。トラブルがあったら俺たちが間に入る。そっちのグループの人たちにもそう伝えてほしい」
「……わかった」

 真尋が悩んだのは一瞬だった。自分一人だったらともかく、友人のことが絡む以上意地を張っている場合ではないだろう。野上が嫌がらせをしているのは真尋だが、執着しているのは寿だ。
 スマートフォンを取り出し、通話アプリを立ち上げる。連絡先の交換は一瞬で済んだ。北浦理仁、とフルネームで表示された名前を真尋は指でスッと辿る。

「完了したな。ありがとう」
「別に」

 礼を言われることではないはずだ。真尋は自分でもわからないほど困惑した。カサ、と手元で音がする。

「あの」

 真尋は深呼吸をするように顔を上げた。少しだけ理仁との距離が近く。理仁は一瞬首を傾げるような仕草をした。真尋はもう一度、あの、と掠れる声を押し出した。ありがとう。一言だ。それだけを言いたいだけだが、声が出ない。
「また他のも回ってきたら連絡する」
 理仁は特に真尋の様子には何も触れず、じゃあな、と頷いて行ってしまった。真尋はその背中を見送るつもりもなく眺め、はあ、と深々と息を吐いた。人気のない壁にもたれ、ずるずるとその場にしゃがみ込む。

 理仁は、真尋にとってはできれば会いたくない相手だった。アルファだ。真尋は、いままで特にアルファに対して嫌悪感を抱いたことはなかった。沙苗のことがあり、わだかまりがあるが、いまだってそれは変わらない。ただ、それが理仁には適応されなかった。こちらを見て急に発情していたり、運命のつがいだと言い出したりするからかもしれない。見られたくないところを見られたというのもあるだろう。
 それでも自分が理不尽に理仁に当たっているというのを真尋もわかっていた。初対面の印象が抜けないだけだ。理仁は嫌な人間でない。理仁を好ましく思っている人間は多いらしいことも知っている。だから居心地が悪い。
 腹が立つことに、真尋は理仁のにおいがすきだった。理仁が言っていた、運命のつがいだからだとは思いたくはなかったが、それ以外の理由も探せなかった。
 このにおいというのがやっかいなもので、本人を好ましいと思っていなくても、においはいつまでも嗅いでいたいと思ってしまう。無意識に安心していい相手のいる場所と認識して身体から力が抜けそうになる。そのせいかどうしても、理仁を目の前にしたとき、いつでも片手はこぶしを握っていたし、奥歯を噛みしめ背筋を伸ばした。そうでもしないと、弱みをさらすような錯覚があった。
 真尋がそれくらい緊張しているのに、理仁のほうはまったくといっていいほど気にしているそぶりがないのも腹立たしい理由のひとつではある。真尋にも、真尋と一緒にいる友人にもさらりと話しかける。

 理不尽だ。真尋は思う。

 運命のつがいだかなんだか知らないが、自分ばかりがにおいに、理仁に振り回されている。
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