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恋人

怖さ

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 秋川とは昼を食べ終えた時点で別れた。秋川は今日は取っている講義がないらしい。薄羽もあとは小鳥と一緒の午後の一コマだけだ。早めに帰れそうでほっとしている。
 それでもいつもよりも視線が気になる。あのとき周囲にいた人たちが、この講義にいるのかどうかはわからない。それでも、噂は回っているのだろう。
 講義が終わると、今日はとりあえずすぐに帰ろうとなった。薄羽はほっとする。自意識過剰かもしれないが、人の目が気になるあまり、講義もあまり頭に入ってこなかった。帰って、一度小鳥と復習したいところだ。
 本当なら大学近くのコーヒーショップで、新作のドリンクを試そうと入っていたので、残念な気持ちもある。だがコーヒーショップでも、同じように視線を集めることになるのは、考えなくてもわかる。
 いまだって、廊下を歩いているだけで視線が痛いくらいだ。講義中の比ではない。あれがあの、というひそひそした声は、こちらに聞かせようとしているのか。それとも隠しているつもりなのか。好奇心のようなものから、揶揄するものまで様々な感情が含まれているようだった。

「薄羽?」

 小鳥が振り返ったことで、薄羽ははっと我に返った。うっかりリュックの紐を握って立ち竦みそうになっていた。
 いつの間にかすっかり俯いていた。視線を上げた先にある小鳥の顔は、怖いくらいにいつも通りだ。小鳥は気にならないのだろうか。こんなにざわついているのに。
 いや、小鳥にとっては、これが日常なのだろうか。そうだとしたら、自分は小鳥のことを全く分かっていなかったのかもしれない。薄羽は余計に混乱してしまう。

「気分が悪い?」

 小鳥は心配そうに薄羽を覗き込みながら、硬く握られた薄羽の手を取る。大丈夫、と薄羽が応えても手は握られたままだ。

「えっ? 小鳥?」
「帰ろう」

 きゃあきゃあ上がる声は大きく、耳が痛いくらいだ。それでも小鳥は平然としている。

「早く帰ろう。ふたりになりたい」
「そうだね……」

 薄羽も意識して呼吸をしながら、足を踏み出す。心臓がばくばくして、足元がおぼつかない。小鳥がほぼ腰を抱くようになってしまう。これはよくないのでは、余計に騒ぎになるのではと思いつつ、支えてもらわなければまともに歩けそうにない。
 ようやく歩いている薄羽に、ぶつかりそうになる相手がいた。自分がしっかり前を見ていないからだと薄羽は思ったが、それにしては相手が妙に近い。小鳥が庇って抱き寄せてくれなかったとしたら、本当にぶつかっていただろう。

「コーくんじゃん」

 小鳥の知り合いか。薄羽はのろのろと顔を上げる。小鳥に呼びかけたはずの男は、へらへらと笑いながら薄羽を見ていた。
 呼びかけ方に既視感はあったが、薄羽の知っている相手ではない。だが同級生だろう。見覚えはあった。薄羽と講義を受け始める前、小鳥の周囲にいたうちの一人ではないだろうか。カナミほどではないが、薄羽をよく睨んできたので覚えている。
 小鳥に対してどう思っているのかはわからないが、少なくとも、自分に対しては好意的な相手ではないと薄羽は分かった。自分を見下ろす目が、どう甚振ろうかと歪んでいる。
 小鳥は全く反応しない。歩き去ろうとしているが、男がその前をだらりとした姿勢で塞いでいる。

「なあ」

 男の手が、薄羽に向かって伸びてくる。薄羽は咄嗟のことで、目を見開くしかできなかった。だが薄羽に届く前に、小鳥の手により手首を捕まれ、振り払われている。

「痛っ! なんだよコーくん。そいつに付き纏われてんじゃねえの」

 先程までのヘラリとした表情が一変し、眉尻が急に上がっている。ヘラヘラしている状態でも、今の急速に怒りを湛えた状態でも、薄羽としては話もしたくない。
 だが同時に、これか、と理解することがあった。
 榛名が言っていた、攻撃をしてくる集団。薄羽は、それをもっと曖昧な存在と思っていた。こんなふうにカナミように絡んでくる相手はそうそういないだろうとたかをくくっていた。
 薄羽としてみれば、知らない相手なのでそこまでショックを受けるわけではない。わざわざ傷つけようと近づいてきているのがわかるからだ。集団でざわつかれるよりも、悪意が目に見えてわかりやすい。
 それでも、これが嫌になる気持ちもわかる。
 畑中という男のことは知らないが、高校という世界の中でこれがずっと続いたのならば、いまの薄羽の状況よりも余程息苦しかっただろう。
 小鳥の身体から、わかりやすく怒りが漏れている。男の襟首を片手で掴むと、ぐい、と引き上げた。男の足が浮き、爪先がアスファルトを蹴る。

「俺が付きまとってるんだよ。黙って消えろ」

 小鳥は吐き捨てると同時に、男も道端に捨てるように手を離した。男は咳き込みながら、小鳥を見上げて震えている。
 小鳥は普段、あまり喋らない。柔らかい雰囲気はないけれど、静か。でも消えろっていう冷たさが震えるくらい怖い。身体的な暴力というわけではなくて、あんな美しい存在に嫌われるということが心臓が凍り付きそうなショックを受ける。自分はやられたことはないが、薄羽も想像はつく。怖い相手だと思う。
 けれどその怖さが、自分を守るために見せたことを薄羽はしっかり理解していた。
 きっと小鳥だけのことだったのなら、男を一瞥もせずに立ち去っていただろうから。





 部屋に着き、薄羽はまずほっとした。いつもはすぐになんだかんだでくっつき合って布団に雪崩れ込んでしまうことが多いけれど、今日はお互いにそんな雰囲気にはならない。目を合わせて微苦笑し合い、テーブルへと座る。
 まだまだ残暑の季節だが、冷たいものより温かいものの方が良いだろう。薄羽はお湯を沸かす。いつもは珈琲もインスタントで済ませるが、奮発してドリップパックを開けた。
 小鳥が長くいるようになったので、薄羽の部屋には小鳥の食器類が増えた。この小鳥のマグカップにドリップするのは初めてかもしれない。薄羽はお湯が落ちるのを眺めながら考える。
 すぐにでも話したい気持ちもあるけれど、何を話したらいいのか。もう少し考えたいとも思う。小鳥もそうなのか、それとも薄羽の態度を尊重しているのか、小鳥はキッチンには入ってこなかった。
 お互い、付き合っていることに対する考えの擦り合わせをしていなかったな。薄羽は反省する。小鳥は口にしても問題ないと考えていて、薄羽はそれをよしとしていなかった。だがわかるだろう、と薄羽はしっかり伝えたことはなかった。大事なことだと分かりつつも、それを話し合うのが気恥ずかしく、気まずかった。
 世間の同性愛者の悩みなどを、薄羽はいままであまり考えたことはない。小鳥と付き合うことにしたのも、そうしたらきっと楽しいだろうという理由くらいだ。そういった浅さを、小鳥の前に差し出してみせるのが恥ずかしかった。
 けれど自分たちの話だけ、まずはすればよかっただけだ。薄羽は反省する。
 テーブルに珈琲を運び、薄羽も腰を下ろす。今日は小鳥の目は様々な色に揺れていたように見えたが、いまは凪いで静かだ。小鳥は薄羽に礼を言いながら、マグカップに手を伸ばした。
 ふたりでマグカップを傾け、ふう、とひと息吐いた。やはり温かいものにして正解だった。きもちがゆるゆるとほどけていく。
 薄羽はようやく身体の力が抜けた。マグカップをテーブルの上に置き、大きく息を吐いて、どたっと床に転がる。今日は講義自体は少なかったはずなのに、多かった日よりもずっと身体がだるい。
 小鳥が身体を傾け、薄羽を覗き込んでいる。薄羽はそれを、薄めで見上げた。大きな手で頭を撫でられるのはきもちがいい。このまま目を閉じたら、気持ちよく眠れるだろう。

「薄羽、ごめん」

 小鳥が悔いを滲ませるように口にしたので、薄羽はぱっと目を開いた。バネのように跳ね起きる。

「それってどういう意味?」
「薄羽を盾にしてしまった」

 小鳥は自分の顔を手の中に埋めた。後悔している。ひしひしと伝わってくる。薄羽は、最近少し小鳥のことを捉え違えていたのではないか、と思うときがある。
 薄羽が考える以上に、小鳥は本当に周囲がどうでもいいのだろう。自分がこう言ったことで起こる影響に無頓着だ。
 薄羽は自分がされたように、小鳥の頭を撫でた。小鳥はゆっくりと手のひらから顔を上げ、薄羽を見つめる。

「俺は独占欲が強いんだと思う」

 そうだろうか。薄羽は思いながらも否定はせず、言葉の続きを待つ。柔らかな髪を手の中で弄んだ。
「薄羽を自分のものだと言いたかったんだ。子どもみたいな発言なのに、子どもじゃないから笑えない。薄羽のことを、何にも考えてない発言だった」
 一緒にいるだけで嬉しいのに。小鳥は言う。薄羽は頷く。薄羽もそうだからだ。薄羽も、小鳥と一緒にいると、嬉しくて楽しい。

「でも薄羽が誰かに笑いかけてると、嫉妬してしまう。これは普通のことなのか?」

 薄羽は、ああ、と思い出した。葉山がよく話しかけてくるのを、小鳥は自分に対してではなく、薄羽に興味があるからと認識していたのだった。
 自分だったらどうだろうか。薄羽は思う。
 いまは、どうとも思わなかった。小鳥がまったく葉山に興味を持たなかったからだ。もし小鳥が葉山の言葉に少しでも振り向いていたのなら、また違ったかもしれない。
 だが小鳥と同じことは、薄羽にはできない。

「普通だと思う」

 そうかな。噛みしめるように小鳥は視線を落とす。マグカップを両手に掴み、またひとつ息を吐いた。それから顔を上げ、まっすぐ薄羽を見つめる。

「酷いことに巻き込んでごめん。榛名が考えなしと言うのも最もだと思う」
「いいよ。いいよっていうのも、変だけど……」

 変だけれど、薄羽はそのことには、怒っていないからだ。今後の大学生活に不安はあるけれども。
 秋川は気にしたそぶりはなかったが、榛名はどうだろうか。講義前に、ごめん、とだけメッセージが届いていた。どういう意味が含まれているかはわからない。榛名が小鳥に怒っていたことを考えると、薄羽とも友だちとしての付き合いを考え直したいと思っているかもしれない。
 薄羽の中で不安は尽きないけれども、では小鳥との付き合いをやめるかといえば、そんな選択肢を取るつもりはなかった。

「畑中のことを訊いてもいい?」

 話を逸らすわけでもなく、薄羽は顔を覗き込む。いまでなければ、問いかける機械がないかもしれないと思った。
 薄羽の見間違えでなければ、小鳥は畑中のことで顔を暗くしたようだったからだ。
 小鳥は薄羽が遠慮する理由が分からないと、あっさりと頷いた。

「畑中は高校の頃の友だち……と俺は思ってたけど、向こうは違うかもしれない」

 小鳥は疲れた顔で、先程の小鳥と同じように嘆息した。夕方が近くなってきた部屋はまだ明るいけれど、小鳥の睫毛の影はいつもより濃く感じられる。
「畑中は生徒会長だったんだ。俺は教師ウケが悪かったから、畑中としては面倒を見ていた感覚なんだと思う」
 えっ。薄羽は思わず声を上げた。結構な声だったせいか、小鳥がびっくりしたように目を瞬かせている。

「小鳥って優等生なんだと思ってた」
「どうして?」
「すごく真面目に勉強してるから」

 過去問も使わないくらいだ。分からなければ質問もよく行く。教師からすると、理想的な生徒ではないのか。
 小鳥は苦笑して首を振った。

「勉強はするけど……出席日数がぎりぎりだったんだ。だから学校行ったときはよく職員室に呼び出された」

 卒業できなくなるぞとよく言われた。小鳥は思い出すように口にする。主に、担任、学年主任、生活指導の教師からとのことだった。

「高校の図書館の司書の人は優しかったかな。昼はよく準備室使わせてもらった」

 薄羽はほっと胸を撫で下ろした。逃げ場があったのならよかったと密かに思う。小鳥の顔が、一瞬だけ緩んだのが分かったからだ。

「別に不良ってわけじゃなかったけど、周囲がどう思ってたのかは知らない。畑中に、おまえのせいで今期の生徒会のできが悪いって言われるんだとか詰られたから、周囲からは不良って思われてた可能性はある」
「いやそれはただの言いがかりじゃないか? おれは見てないけど、小鳥のせいとか言うのはおかしいだろ。小鳥って生徒会に入ってたの?」
「いいや? ただ畑中も含めて友人は生徒会に入ってたな。推薦したり、応援演説したりしたよ」
「そっか」

 薄羽は顔が渋くなるのを防ぎながら、なんとか首を上下に振った。畑中のことを薄羽は全く知らないが、ふと小鳥の兄が、小鳥の友人に対してネガティブなイメージを持っていることを思い出した。

「小鳥は悪くないよ」

 薄羽はきっぱりと言った。榛名がどういう愚痴を聞いていたのかわからない。薄羽が想像していることは、間違っているかもしれない。だがこれははっきりと言えると思った。

「畑中のことを聞いたのは、おれもたぶん嫉妬したからだと思う」
「薄羽が?」
「うん」

 そうだ。カナミや葉山に対しては浮かばなかった感情が、畑中という男には感じている。小鳥に友人としてみられて、いまでもそう思われているからだろうか。
 へんなの。
 薄羽は思う。まだ知り合って一年も経っていないのに、手放したくないと思える相手になっている。
 小鳥という存在は、薄羽にとって本当に不思議だった。手のなかで、小さく囀る小鳥のようで、きらきらした宝石のようで、薄羽にとって宝物に感じられる。
 薄羽にだって、いままで好きな相手ができたことはある。だがいままでに、こんな感覚はなかった。足元がふわふわして、小鳥が眩しく感じられて、でもどこかで自分がひどく焦燥に駆られている。この気持ちがどこからくるのかわからない。
 これが恋愛だと言われたのなら、そうなのかもしれない、と納得する。だが違うのかもしれないと反発する気持ちもある。判別はつかない。正解があるものなのかも薄羽は知らない。それでも大切なことをひとつ、知っている。
 小鳥が薄羽に対して独占欲があるように、薄羽にも小鳥に対して独占欲がある。そしてそれが、相手に認められたいと思っている。束縛しないけれど、束縛したいとは思っている。それを、受け入れてほしい。その相手が薄羽にとっては小鳥だった。そして小鳥にとってのそれが、薄羽であってほしい。
 いままでそんなこと、考えたこともなかったのに。

「おれは、小鳥が俺と付き合ってるって言ったのは、びっくりしたけど、盾にされたとは思ってない」
「でも」

 小鳥が反論しようとか身を乗り出したが、薄羽は手のひらを見せ、それを止めた。怒っていることもあるよ、と続ける。

「おれが謝ってほしいのは、小鳥が一方的に好きなだけって言ったことだよ」

 思っても見ないことを言われたとばかりに小鳥が首を傾げている。薄羽は小鳥を撫でていた手を止めて、髪を一房ぐいぐい引っ張る。ささらの髪は掴んだところですぐに手の中から零れていった。

「おれ恋人になってみたいって言ったじゃん」
「それはそういうのに興味があったからじゃないのか?」

 小鳥は混乱したように狼狽えている。
 薄羽はむっとくちびるをへの字に曲げた。もしかして、本当にそれだけだと思っているのだろうか。

「あるけど、あったからってなんとも思ってなかったらそんなひょいひょい付き合ったりしないよ」

 実際誰かと付き合ったことはないけれど、薄羽はしっかりと胸を張った。

「だから、おれは小鳥のこと好きだってことだよ。覚えておいてほしい」

 小鳥は目を見開いて、言葉を失っている。だがその目がきらきらしているので、薄羽はにっこりと笑って見せた。言いたいことは、きっとしっかり伝わったはずだ。

「薄羽」
「なに」
「キスしてもいい?」

 薄羽は思わず笑ってしまう。そういえば今日は、帰ってからキスのひとつもしていなかったのだった。
 薄羽は小鳥の膝の上に座ると、抱きついて耳をかじった。

「いいに決まってる」
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