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結
秦国 3
しおりを挟む「……まさか」
口から無意識に言葉が漏れる。
「あいつはずっと、子供の頃はぐれた友人を捜していた。まさかお前が」
「おそらくは」
否定しない声の方角を、高漸離は必死になって見る。
目が潰されていることがこれほど悔しいと思ったことはなかった。あれほどまで探し求めた相手が今、すぐ傍にいる。
「私が慶――荊君と知り合ったのは、斉にいた頃です。子供の頃から親しく付き合っていましたが、彼の家は政争に巻き込まれて汚名を着せられ、国を出るしかなくなった。私は一人そのあとを追ったが、騒乱の中ではぐれてしまった。――彼からこの話を聞いたことは?」
「ある」
「私たちは約束をしていました。もし途中ではぐれたとしても、必ずまた会おうと。そのための取り決めもしていました。あらかじめ待ち合わせ場所を決めていたのです。だが、いくら待っても彼はその場に現れなかった」
「あいつは怪我をしていたんだ。そのせいで昔のことをほとんど忘れてしまって……、家族はおろか、お前のことさえも」
「……そうでしたか……」
「けど、まったく忘れたんじゃない。自分には友人がいたはずだと、そう言ってずっと捜し続けていた」
「そうだったんですか……」
ため息が落ちてくるのが分かった。
「私も彼を捜し続けていました。だが見つけられなかった」
「……思うんだが、お互い捜し続けていたからじゃね? どうせあちこち移動していたんだろう。あいつもそうだったんだ」
「なるほど。お互い行き違いになっていたかもしれませんね」
「まったくだ。……もしそうじゃなかったら」
もし、生きている間に巡り合うことができたのなら。そう思って、高漸離は体をこわばらせた。
今自分の傍らにいる男が纏っているのは、明らかに秦軍の甲冑だ。
「……お前は、もしかして」
「私はその後、この国に辿り着いたのです」
今は宮殿の衛士をしています。その言葉に高漸離は息を呑んだ。
「荊君のあとを追うとき、ほとんど家出状態でした。斉にはもう戻れない、その覚悟はしていましたよ」
高漸離が緊張していることは分かったのだろう。男の声は先ほどよりも柔らかくなる。
「ですが、怖いとは思わなかった。荊君と共に他の国に仕官すればいい。自分たちならきっとできると思っていました。――この国は今広く人材を求めています。乱れた世をまとめ上げるために多くの人が要るからです」
荊軻の友を名乗る男は話を続ける。
「あなたもお分かりのはずだ。今やこの国に逆らえる者は誰もない。私はここで地位を得ました。いつか荊君を呼び寄せるつもりでした。彼と共にこの国で生きていければいいと」
「待ってくれ」
高漸離はそんな話を途中で止めた。
「そんなことは無理だ。あいつは、――そもそもあいつがなにをしたかお前は知って」
「知っています」
不意に腕に痛みが走った。男がまだ腕を手に取っていることに初めて気づいた。
高漸離の腕に爪を立てて男は言う。
「私はあのとき、その場にいたのですから」
「――なんだって。その、お前は」
「恐ろしい男だ荊君は。最上の礼でもって迎えた陛下に斬りかかったのですから。どれだけの騒ぎになったか、あなたには想像もつくまい」
「見ていただけなのか?」
高漸離は懸命に相手の手を払った。代わりに自分が相手の腕を掴んで揺さぶる。
「お前は見ていただけなのか? 荊軻が皇帝を追いつめるのを、ただ指をくわえてみてただけなのか。助太刀しようとか、そういうことは考えなかったのか」
「陛下は私の主君だ。できるはずがない」
「あいつはお前の友人じゃなかったのかよ!」
喉から血が出ないのが不思議なくらいに、声を出すことが苦しかった。荊軻がどれだけの思いをしてこれまで友人を捜していたのか、分かっているだけに辛かった。
荊軻はどう思うだろうか。もしも階上から自分の友人の姿を見かけたら——。
もしかして秦王を仕留めそこなったのは、彼を見つけてしまったからではないか。そのために匕首の切っ先がぶれてしまったのではないだろうか。
だとしたら、荊軻が死んだのはこいつのせいだ。
「離れろ」
高漸離の声は鋭く尖った。
「もう二度と俺に近づくな。顔を見ることができなくてよかった。見れば反吐が出るに決まっている」
さざめくような空気の揺れはきっと苦笑なのだろう。それがまた癪に障る。
「お言葉通りにしましょう。伶人殿」
ぐい、と腕を強く掴まれた。
「貴殿を送り届けたあとは、もう二度と近づきません。約束しましょう」
「離せっ」
「暴れないでください。抱えて運ばれたくはないでしょう」
今度はもがいても手は離されなかった。
「最初秦は西の田舎だった」
引きずるように高漸離を連れて、荊軻の友人は話し続ける。
「それが何故ここまで強大になったかお分かりか」
「知るか」
「仁ではなく法をもって国を治めたこともある。要らぬ儒者や方士を排したことも大きい。だがなによりも大きいのは、陛下が偉大なお方であられることだ」
決して浮つかない落ち着いた口調だ。
かつて難しいことを話すときの荊軻に似ている。そう思うと背筋に寒気が走る。
彼らはこんなにも同じなのに、大きく分かたれてしまっている。
「私はこれほどまでに大きい人物を見たことがない。ご存じかな、燕からの使者が訪れたとき、副使の者は震えて身動きもできなくなっていた。なに、恥ずる必要はない。陛下の前に立つとき大概の人間はそうなる」
言われなくても分かっている。高漸離はそう言いたくなる。筑を撃つように呼び出されるたび、似たような思いに駆られるからだ。他にも呼ばれた者たちが身を固まらせている場面に遭遇したこともある。
「陛下が統一されたのは国ばかりではない。度量衡も文字も貨幣も皆一つとされた。それがどれだけ優れた業績かお分かりか。そのような偉大な方を殺そうとするなど、どれだけ愚かな行為であるかということも」
「知るか。――あいつは、そんなことは言わない」
「荊君は知るのが遅かっただけだ。私がもう少し早く呼び寄せることができていれば、きっと彼も分かってくれた。共にこの国のために尽くすことができた」
扉が開く音がした。聞かなくても分かる、自分の部屋の扉だ。
高漸離は強く手を振った。相手の腕を振り払って、自分から進んで部屋に入る。
「荊君には才がある。彼であればきっとできる」
だが彼はすぐに立ち去ろうとしなかった。耳はその声を拾ってしまう。
「そう、彼なら。――陛下の前にあって畏怖することなく、あんなことができる彼なら」
うるさい、と怒鳴ろうとした。お前の口から荊軻のことは聞きたくない。
「彼ほど恐れを知らぬ者を私は見たことがない。たった一人で階を一気に駆け上がり、陛下の衣を掴んで胸を突こうとした。あの陛下を一時は追いつめたのだ。もし、陛下があのまま剣を抜くことができなければ、――いや、匕首などではなく手慣れた得物であれば、きっと荊君は本懐を成し遂げていただろう」
信じてくれ。うわ言のようなその声は真っ直ぐに高漸離の耳に届く。
「私はそんな彼の友であることが誇らしかったのだよ」
「……戯言を……」
「そうだな。矛盾しているとは分かっている。だが、これは私の中の真実だ。……だからだろうな。私は今も時折夢を見る」
荊軻を援けて、秦王を討ち取る夢を。
「単なる夢だろう」
「そうだ。起きるたびに夢でよかったと思っている」
その声は泣き笑いのように湿っていた。
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(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
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