荊軻断章

古崎慧

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秦国 2

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 光を失ったあとも、高漸離こうぜんりの音は変わらなかった。むしろ視力を失くしたことで五感が冴えわたっているのか、前にも増してその腕は上がったという評判だ。
 秦王しんおうから召し出しがあるたび、高漸離は賞賛と褒賞とを手にした。抱えきれない栄誉が、彼の部屋にうずたかく積み上がっていく。だが、それは決して胸を明るくするものではなかった。

 高漸離の顔が晴れることはなかった。下人として暮らしていたときよりも塞いでいたかもしれない。
 その理由は分かり切っている。

 ある日、高漸離は皇帝が催した宴席を途中で辞した。いささか酒を過ごしました、酔った手ではちくが撃てません、と恐縮してみせれば笑い声と共に解放してもらえた。

 介添えの手を断り、歩き始める。最初こそ戸惑いよく転びもしたが、今では常人と同じように歩くことができる。広い宮殿内は市場よりも歩きやすい。今のように、人気がなければなおのことだ。

 足は自分の部屋ではなく、違う場所へと向かう。

 長い回廊を過ぎ、いくつかの扉を開けた。風の冷たさからして、きっと夜なのだろう。ますます都合がいい、と思う。今の自分であればきっと人目にはつかない。

 今日こそ、と思う。今日こそ辿り着いてやる。筑を抱きしめながら高漸離は思う。
 今日こそ彼の元まで辿り着いてやる。

「――高漸離殿?」

 目的の扉を開けようとしたそのとき、誰何すいかの声がかけられた。同時にぐいと腕を掴まれて引かれる。
 筑を取り落としそうになり身体がこわばる。転びそうになった体を支えたのは、がっしりとした腕だった。

「いかがされましたか、このような時間にこのような場所で」
「……いや、……」

 筑を抱え直して、高漸離はぎこちなく笑う。

「すまない……。酔っていたみたいだ。自分の部屋に戻ろうとして、迷ってしまって」
「あなたの部屋でありましたらここではありませんよ」

 ここは玉殿です。そう指摘され、高漸離は恐縮してみせた。

「気づかなかった。まさかそんな場所まで……私は不敬なことをしようとしていたのか」
「お気をつけ下さい。あなただからよかったものの、他の者ならこれだけできっと投獄されてしまう。陛下にとってここは、」

 命を狙われたこともある場所で——、と言いかけてはっと相手は口を噤んだ。高漸離はなんとか聞かなかったふりをしてみせた。

 本当は分かっている。言われるまでもない。
 ここは荊軻けいかが秦王に挑み、そして散った場所だ。



 王宮に納められるとき、期待したことがあった。荊軻についてなにか話が聴けるのではないかと。

 秦王の暗殺未遂について、市井に流れていた噂話は色々ありすぎて、どれが本当であるのかが分からなかったということもある。高漸離が聴いたものの中には、耳を塞ぎたくなるほどひどい内容のものもあった。それらが払拭できればいいと思っていた。

 だが、ここに入ってから荊軻については、なに一つ聞くことができなかった。

 多分、気を遣われているのだろう。自分が荊軻と友人であったことは誰もが知る事実だ。あえて聞かせることもないと考えてくれているのだろうと。
 だがその気遣いは高漸離にとって、真綿で首を絞められるようなものだった。荊軻のことを忘れさせられるのは、優しく殺されているのと同じだと、誰も気づいてはくれない。

 自分は荊軻の最後の場で、いまだに手向けの曲を奏でることすらできずにいる。

 それが叶えばあとはもうどうでもいい。皇帝の不況を買うことなど恐れない。自分にとって一番恐ろしいのは、彼の友でいられなくなることなのだから。



「高漸離殿?」

 腕を引かれても立ち尽くしていることを、さすがに不審に思ったのだろう。相手が訝し気に問いかけてくる。

「どうされましたか? 部屋までご案内いたしましょう、さあ」

 その手を払って、高漸離はしゃがみ込んだ。

「その、……すまない、少し酔いが回ったみたいで。しばらくこのままにさせてもらえないだろうか。醒めればすぐに去るから」

 それまで一人にしてくれないか。そう言うつもりだった。
 今夜という機会を逃してはまたいつここへ来られるか分からない。一体いつ荊軻を弔うことができるのかも分からなくなる。

「それはなさらぬ方がいい」

 諭すような声とともに腕を引かれて、泣きたくなる。

「お気をつけなさい。盲いたとはいえ、貴殿はまだ監視されている。疑いを招くような行いは慎むべきだ」

 戻りましょう。そう言って引かれる腕の力は先ほどよりも強くなる。

「部屋までお送りいたします、掴まって下さい。貴殿になにかがあればけい君が悲しむ……」
「っ!」

 高漸離はがばりと立ち上がった。
 気配に向かってやみくもに両手を突き出す。襟を掴もうとして失敗した手は、空しく宙に鈎爪を立てる。

 俺の姓だが、けいではない。斉ではけいと呼ばれていた。――かつての荊軻の言葉を忘れたことはなかった。

「まさかお前は知っているのか、荊軻を、――あいつを!――」

 叫んだ口は素早く塞がれた。筑ごとそのまま物陰に引きずり込まれる。

「――ええ」

 すぐ傍で囁くように、相手は言った。

「私はあの男の友人ですから」

 その言葉に、高漸離は再びへたり込んだ。


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