10 / 18
転
燕国 3
しおりを挟む荊軻に向かって、高漸離は全力で駆けていった。驚いた顔をしている相手の胸倉を力いっぱい掴む。
そのまま勢いよく、自分ごと相手を邸宅の壁に叩き付ける。物音に驚いた鳥の飛び立つ音が聞こえた。
「話せ」
手の力を緩めるつもりはない。ここで逃げられてはもう終わりだと分かっている。
きっと永遠に会えなくなる。そんなのは嫌だ、耐えられるはずがない。
「話してくれ。他言はしない。必ず俺の中だけに収める」
「……高兄、その話ならもう」
「話さないのなら俺はこの場で自分の手を切り捨てるぞ」
荊軻が目を見開くのにも構わず、高漸離は言い放った。
「絶対に誰にも言わない。現に今まで何一つ漏らしてない。田老師をあんたが殺したなんて言う奴もいるが、そいつらにも俺は話さなかった。それが約束だと思ったからだ」
悔しさに気が狂いそうになったが、それでも口を閉ざした。
「俺はあんたに疑われるのが一番辛い。もし今のままが続くのなら、筑なんてどうせ撃てやしない。だったらいっそ手も弦も切り落とした方がすっきりする。さあ今すぐどちらかを選ばせろ」
「……それは困る」
荊軻の頬に淡くだが微笑が浮かんだ。
「すまなかった。高兄を疑ったわけではなかったんだ、身を案じてのことだった。――だが確かに、高兄の言うとおりだな。俺は田先生と同じ苦しみを味わせていたんだな」
ふ、と荊軻の身体から力が抜けた。彼の手はそっと高漸離の手を自分の襟元から外した。高漸離もあえて逆らわなかった。
「田先生は疑いを晴らすために亡くなられた」
そのまましゃがみ込み、荊軻は呟くように話し始めた。
「先生があの日、宮殿に呼ばれたことは知っているな? 先生は太子からとある謀について相談を受けられた。その内容を先生は他にばらすと思われたんだ。だからああして見事に疑いを晴らされた」
どのように、とは言わないし訊かない。それはもうお互いが目の当たりにしてしまっている。
死人が口を開くことはない。死ぬという究極の選択肢で、田光は太子の疑いに応えてみせたのだろう。
高漸離は自分が喉を鳴らしたことに気が付いた。顔はきっとこわばっているに違いあるまい。目の当たりにしてしまった惨劇が今更ながらに脳裏にちらつく。
何度も唾を飲み込んで、ようやく声が出る。
「なあ。……田老師がそこまでしなければならなかった国家の大事ってのは、一体何なんだ?」
表情のない男に問いかけてみる。
荊軻は黙っていた。だが、その目が自分から外されることもなかった。
やがて、低い声がぽつりと落ちた。
「秦王の暗殺だ」
その話を俺は引き受けた。――今度こそ高漸離は声が出せなかった。
16
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
走狗(いぬ)の名は
筑前助広
歴史・時代
暗黒街を歩く男に生きる希望を与えたのは、たった一人の少女だった――
銭で人を殺す始末屋稼業を営む次郎八は、心に負った傷から目を逸らす為、阿芙蓉(アヘン)と酒に溺れる日々を送っていた。
そんなある日、次郎八は武士の一団に襲われる親子連れを助ける。父親は致命傷を負っていて、今わの際に「この子を守ってくれ」と才之助を託される。
才之助は上州粕川藩にまつわる陰謀の渦中にあり、次郎八は否応が無く巻き込まれていくが――。
田沼時代と呼ばれる安永年間を舞台に、江戸の裏社会と究極の愛を描く。
夕映え~武田勝頼の妻~
橘 ゆず
歴史・時代
天正十年(1582年)。
甲斐の国、天目山。
織田・徳川連合軍による甲州征伐によって新府を追われた武田勝頼は、起死回生をはかってわずかな家臣とともに岩殿城を目指していた。
そのかたわらには、五年前に相模の北条家から嫁いできた継室、十九歳の佐奈姫の姿があった。
武田勝頼公と、18歳年下の正室、北条夫人の最期の数日を描いたお話です。
コバルトの短編小説大賞「もう一歩」の作品です。
雲隠れ-独眼竜淡恋奇譚-
紺坂紫乃
歴史・時代
戦国の雄――伊達政宗。彼の研究を進めていく祖父が発見した『村咲(むらさき)』という忍びの名を発見する。祖父の手伝いをしていた綾希は、祖父亡き後に研究を進めていく第一部。
第二部――時は群雄割拠の戦国時代、後の政宗となる梵天丸はある日異人と見紛うユエという女忍びに命を救われた。哀しい運命を背負うユエに惹かれる政宗とその想いに決して答えられないユエこと『村咲』の切ない恋の物語。
藤散華
水城真以
歴史・時代
――藤と梅の下に埋められた、禁忌と、恋と、呪い。
時は平安――左大臣の一の姫・彰子は、父・道長の命令で今上帝の女御となる。顔も知らない夫となった人に焦がれる彰子だが、既に帝には、定子という最愛の妃がいた。
やがて年月は過ぎ、定子の夭折により、帝と彰子の距離は必然的に近づいたように見えたが、彰子は新たな中宮となって数年が経っても懐妊の兆しはなかった。焦燥に駆られた左大臣に、妖しの影が忍び寄る。
非凡な運命に絡め取られた少女の命運は。
晩夏の蝉
紫乃森統子
歴史・時代
当たり前の日々が崩れた、その日があった──。
まだほんの14歳の少年たちの日常を変えたのは、戊辰の戦火であった。
後に二本松少年隊と呼ばれた二本松藩の幼年兵、堀良輔と成田才次郎、木村丈太郎の三人の終着点。
※本作品は昭和16年発行の「二本松少年隊秘話」を主な参考にした史実ベースの創作作品です。
空蝉
横山美香
歴史・時代
薩摩藩島津家の分家の娘として生まれながら、将軍家御台所となった天璋院篤姫。孝明天皇の妹という高貴な生まれから、第十四代将軍・徳川家定の妻となった和宮親子内親王。
二人の女性と二組の夫婦の恋と人生の物語です。
首切り女とぼんくら男
hiro75
歴史・時代
―― 江戸時代
由比は、岩沼領の剣術指南役である佐伯家の一人娘、容姿端麗でありながら、剣術の腕も男を圧倒する程。
そんな彼女に、他の道場で腕前一と称させる男との縁談話が持ち上がったのだが、彼女が選んだのは、「ぼんくら男」と噂される槇田仁左衛門だった………………
領内の派閥争いに巻き込まれる女と男の、儚くも、美しい恋模様………………
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる