荊軻断章

古崎慧

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燕国 3

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 荊軻けいかに向かって、高漸離こうぜんりは全力で駆けていった。驚いた顔をしている相手の胸倉を力いっぱい掴む。
 そのまま勢いよく、自分ごと相手を邸宅の壁に叩き付ける。物音に驚いた鳥の飛び立つ音が聞こえた。

「話せ」

 手の力を緩めるつもりはない。ここで逃げられてはもう終わりだと分かっている。
 きっと永遠に会えなくなる。そんなのは嫌だ、耐えられるはずがない。

「話してくれ。他言はしない。必ず俺の中だけに収める」
「……高兄、その話ならもう」
「話さないのなら俺はこの場で自分の手を切り捨てるぞ」

 荊軻が目を見開くのにも構わず、高漸離は言い放った。

「絶対に誰にも言わない。現に今まで何一つ漏らしてない。でん老師をあんたが殺したなんて言う奴もいるが、そいつらにも俺は話さなかった。それが約束だと思ったからだ」

 悔しさに気が狂いそうになったが、それでも口を閉ざした。

「俺はあんたに疑われるのが一番辛い。もし今のままが続くのなら、ちくなんてどうせ撃てやしない。だったらいっそ手も弦も切り落とした方がすっきりする。さあ今すぐどちらかを選ばせろ」
「……それは困る」

 荊軻の頬に淡くだが微笑が浮かんだ。

「すまなかった。高兄を疑ったわけではなかったんだ、身を案じてのことだった。――だが確かに、高兄の言うとおりだな。俺は田先生と同じ苦しみを味わせていたんだな」

 ふ、と荊軻の身体から力が抜けた。彼の手はそっと高漸離の手を自分の襟元から外した。高漸離もあえて逆らわなかった。

「田先生は疑いを晴らすために亡くなられた」

 そのまましゃがみ込み、荊軻は呟くように話し始めた。

「先生があの日、宮殿に呼ばれたことは知っているな? 先生は太子からとあるはかりごとについて相談を受けられた。その内容を先生は他にばらすと思われたんだ。だからああして見事に疑いを晴らされた」

 どのように、とは言わないし訊かない。それはもうお互いが目の当たりにしてしまっている。
 死人が口を開くことはない。死ぬという究極の選択肢で、田光は太子の疑いに応えてみせたのだろう。

 高漸離は自分が喉を鳴らしたことに気が付いた。顔はきっとこわばっているに違いあるまい。目の当たりにしてしまった惨劇が今更ながらに脳裏にちらつく。
 何度も唾を飲み込んで、ようやく声が出る。

「なあ。……田老師がそこまでしなければならなかった国家の大事ってのは、一体何なんだ?」

 表情のない男に問いかけてみる。
 荊軻は黙っていた。だが、その目が自分から外されることもなかった。

 やがて、低い声がぽつりと落ちた。

しん王の暗殺だ」

 その話を俺は引き受けた。――今度こそ高漸離は声が出せなかった。

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