荊軻断章

古崎慧

文字の大きさ
上 下
6 / 18

薊の街 3

しおりを挟む
「まず俺が何者かという問いだが」

 荊軻けいかが案内した彼の舎は簡素な佇まいだった。荷物が少ないからだ、ということに高漸離こうぜんりはすぐ気づいた。明日にでも旅立てるくらいになにもない。
 一方で、書の類が積まれているのも意外だった。酒肆さかばでの姿しか知らないが、思った以上に物静かな男なのかもしれない。

「高兄は俺について何を知っている?」
えい人だということを聞いたくらいだな」
「確かに俺は衛国で育った。だが生まれた国はせいだ。その頃は姓もけいではなくけいだった」
「慶氏? 斉国の慶氏だと?」
 思わず声が出た。よい生まれだろうと踏んではいたが、そこまでの名門だとは思っていなかった。
「どういうことだ?」

 その姓を捨てるような理由など思いつかない。そもそも姓はこの世界にとって、己の身分証明書と同じだ。どんな血脈に属しているかの説明になり、先祖を祀るための資格となる。
 姓を変えるということは、それを放棄することにつながる重大事だ。

「それだけのことが起きたということだろうな」
 驚愕の視線を向けられても、荊軻の様子は変わらなかった。

「慶氏であることを隠さなければならないような何かがだ。それだけの罪を犯したか、はたまた罪を被せられたか……。どちらにせよ、家族もろとも国を追われたのは事実だ」
「そんな他人事みたいな」
「実は俺にとってはそうなんだ」

 荊軻の頬が引きつった。それが笑みだということに気づくのに時間がかかった。

「俺たち家族は、斉からすんなり出させてもらえたのではない。かなり大きな争いごとに巻き込まれたんだ。命からがら逃げだしたというのが正しいだろうな。――まだ子供だった俺はそのときに大怪我を負った。特に頭の傷がひどくて、逃げ出した衛国で半年ほど寝たきりになっていた。まあ幸い良い医者に恵まれて、このとおり治ったわけだが」

 とん、と彼は自分の頭を指でつついた。

「ここだけがどうしても治らなかった」

 ほとんどのことを忘れてしまった。荊軻の言葉に高漸離は目を丸くした。そんなことがあるのか、とは言えない。それは彼のぎこちない笑い方からして事実だと分かる。
 悲しみはとうの昔に通り越して、もう笑うしかないのだろう。

「自分のことはおろか、親兄弟のこともろくに覚えていない。だから最初は驚いた、目を覚ましたら見も知らぬ奴らに囲まれていたわけだからな。てっきり人さらいに連れていかれたのかと思ったくらいだ」
「……今は、もう大丈夫なのか?」

 問いかけに、彼は首を横に振る。

「今もまだ駄目だ、ろくに思い出せていない。――家族はいろいろ手を尽くしてくれた。医者や薬を探し回って、怯えて泣いてばかりいた俺を励ましてくれた。だが、どうにも俺はそれが耐えられなかった。親身になってくれればくれるほど、彼らの言うことは本当かと、逆に疑いが増していった」
 荊軻の言葉は一度途切れた。

 これ以上は訊けなかった。きっと、家族との間にできた齟齬はとうとう埋まらなかったのだろう。
 持て余した厚意は重荷になり、最後は家を出てしまうしかなかった――。

「だが、一つ覚えていたこともある」
 重い沈黙を払ったのは荊軻の声だ。

「俺には一人友人がいたんだ。幼い頃から随分と仲がよかった。実は、騒乱に巻き込まれて死にかけた俺を助けてくれたのも彼だ。俺にとっては命の恩人だと言っていい」

 そう話す荊軻の顔からこわばりが溶けていく。よほど大切な相手なのだろう。

「なんだ、よかったな」
 高漸離は心からそう思った。姓をなくし、家族から離れた男にも寄る辺というものがあったのだ。もし今ここに酒があったのなら、彼の杯を満たしてやっただろう。

「どんな相手なんだ? いつか紹介してくれよ、一緒に酒が飲みたい」
 身を乗り出して、高漸離は話を促す。
「……すまん」
 だが、向かい合わせにいる男は途端に言葉を詰まらせた。
「分かっているのはこれだけなんだ。相手の名も姿も分からないし思い出せない。他のことと同じで、あとは忘れてしまっている」
「なんだって?」

 思わず声を上げてしまった。恐縮する荊軻の顔を見て悪いとは思ったが、一度口にした言葉は抑えられない。

「忘れたって、本当にか。だって、命の恩人なんじゃ」
「好きで忘れているわけじゃない」
 むうと相手の唇が曲がった。
「俺だってこのままは嫌だ、思い出したい。もう一度会ってきちんと礼を伝えたいし、俺が忘れてしまっている話も聴かせてもらいたい」
「そりゃそうだ。会えたら思い出せることだってあるかもしれないよな」
「高兄もそう思うか、俺もだ。だから俺は彼を捜している」

 諸国を流れ続けているのはそのためなのだと、荊軻は初めて語った。
 高漸離は絶句するしかなかった。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

夕映え~武田勝頼の妻~

橘 ゆず
歴史・時代
天正十年(1582年)。 甲斐の国、天目山。 織田・徳川連合軍による甲州征伐によって新府を追われた武田勝頼は、起死回生をはかってわずかな家臣とともに岩殿城を目指していた。 そのかたわらには、五年前に相模の北条家から嫁いできた継室、十九歳の佐奈姫の姿があった。 武田勝頼公と、18歳年下の正室、北条夫人の最期の数日を描いたお話です。 コバルトの短編小説大賞「もう一歩」の作品です。

富嶽を駆けよ

有馬桓次郎
歴史・時代
★☆★ 第10回歴史・時代小説大賞〈あの時代の名脇役賞〉受賞作 ★☆★ https://www.alphapolis.co.jp/prize/result/853000200  天保三年。  尾張藩江戸屋敷の奥女中を勤めていた辰は、身長五尺七寸の大女。  嫁入りが決まって奉公も明けていたが、女人禁足の山・富士の山頂に立つという夢のため、養父と衝突しつつもなお深川で一人暮らしを続けている。  許婚の万次郎の口利きで富士講の大先達・小谷三志と面会した辰は、小谷翁の手引きで遂に富士山への登拝を決行する。  しかし人目を避けるために選ばれたその日程は、閉山から一ヶ月が経った長月二十六日。人跡の絶えた富士山は、五合目から上が完全に真冬となっていた。  逆巻く暴風、身を切る寒気、そして高山病……数多の試練を乗り越え、無事に富士山頂へ辿りつくことができた辰であったが──。  江戸後期、史上初の富士山女性登頂者「高山たつ」の挑戦を描く冒険記。

らぁめん武侠伝 ――異聞水戸黄門――

北浦寒山
歴史・時代
格之進と八兵衛は水戸への帰り道。ある日中国・明からやって来た少女・玲華と出会う。 麺料理の材料を託された玲華の目的地は、格之進の恩師・朱舜水が在する水戸だった。 旅する三人を清国の四人の刺客「四鬼」が追う。故郷の村を四鬼に滅ぼされた玲華にとって、四人は仇だ。 しかも四鬼の本当の標的は明国の思想的支柱・朱舜水その人だ。 敵を水戸へは入れられない。しかし戦力は圧倒的に不利。 策を巡らす格之進、刺客の影に怯える玲華となんだかわからない八兵衛の珍道中。 迫りくる敵を迎撃できるか。 果たして麺料理は無事に作れるのか。 三人の捨て身の反撃がいま始まる! 寒山時代劇アワー・水戸黄門外伝・第二弾。全9話の中編です。 ※表紙絵はファル様に頂きました! 多謝! ※他サイトにも掲載中

檻の中の楽園

白神小雪
歴史・時代
フセイン政権下のイラクに暮らす主人公。彼は、独裁政権の下で何不自由無く過ごしていた。しかし、彼はある日、外国の新聞を見てしまう。その刹那、彼の中の何かが壊れていく音がした。 果たして、真実は人を幸せにできるのだろうか?

桑の実のみのる頃に

hiro75
歴史・時代
 誰かにつけられている………………  後ろから足音が近づいてくる。  おすみは早歩きになり、急いで家へと飛び込んだ。  すぐに、戸が叩かれ………………  ―― おすみの家にふいに現れた二人の男、商人を装っているが、本当の正体は……………  江戸時代末期、甲州街道沿いの小さな宿場町犬目で巻き起こる痛快時代小説!!

松前、燃ゆ

澤田慎梧
歴史・時代
【函館戦争のはじまり、松前攻防戦の前後に繰り広げられた一人の武士の苦闘】 鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争。東北の諸大名家が次々に新政府軍に恭順する中、徳川につくか新政府軍につくか、頭を悩ます大名家があった。蝦夷地唯一の大名・松前家である。 これは、一人の武士の目を通して幕末における松前藩の顛末を描いた、歴史のこぼれ話――。 ※本作品は史実を基にしたフィクションです。 ※拙作「夜明けの空を探して」とは別視点による同時期を描いた作品となります。 ※村田小藤太氏は実在する松前の剣客ですが、作者の脚色による部分が大きいものとご理解ください。 ※参考文献:「福島町史」「北海道の口碑伝説」など、多数。

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

九州のイチモツ 立花宗茂

三井 寿
歴史・時代
 豊臣秀吉が愛し、徳川家康が怖れた猛将“立花宗茂”。  義父“立花道雪”、父“高橋紹運”の凄まじい合戦と最期を目の当たりにし、男としての仁義を貫いた”立花宗茂“と“誾千代姫”との哀しい別れの物語です。  下剋上の戦国時代、九州では“大友・龍造寺・島津”三つ巴の戦いが続いている。  大友家を支えるのが、足が不自由にもかかわらず、輿に乗って戦い、37戦常勝無敗を誇った“九州一の勇将”立花道雪と高橋紹運である。立花道雪は1人娘の誾千代姫に家督を譲るが、勢力争いで凋落する大友宗麟を支える為に高橋紹運の跡継ぎ統虎(立花宗茂)を婿に迎えた。  女城主として育てられた誾千代姫と統虎は激しく反目しあうが、父立花道雪の死で2人は強く結ばれた。  だが、立花道雪の死を好機と捉えた島津家は、九州制覇を目指して出陣する。大友宗麟は豊臣秀吉に出陣を願ったが、島津軍は5万の大軍で筑前へ向かった。  その島津軍5万に挑んだのが、高橋紹運率いる岩屋城736名である。岩屋城に籠る高橋軍は14日間も島津軍を翻弄し、最期は全員が壮絶な討ち死にを遂げた。命を賭けた時間稼ぎにより、秀吉軍は筑前に到着し、立花宗茂と立花城を救った。  島津軍は撤退したが、立花宗茂は5万の島津軍を追撃し、筑前国領主としての意地を果たした。豊臣秀吉は立花宗茂の武勇を讃え、“九州之一物”と呼び、多くの大名の前で激賞した。その後、豊臣秀吉は九州征伐・天下統一へと突き進んでいく。  その後の朝鮮征伐、関ヶ原の合戦で“立花宗茂”は己の仁義と意地の為に戦うこととなる。    

処理中です...