荊軻断章

古崎慧

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薊の街 3

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「まず俺が何者かという問いだが」

 荊軻けいかが案内した彼の舎は簡素な佇まいだった。荷物が少ないからだ、ということに高漸離こうぜんりはすぐ気づいた。明日にでも旅立てるくらいになにもない。
 一方で、書の類が積まれているのも意外だった。酒肆さかばでの姿しか知らないが、思った以上に物静かな男なのかもしれない。

「高兄は俺について何を知っている?」
えい人だということを聞いたくらいだな」
「確かに俺は衛国で育った。だが生まれた国はせいだ。その頃は姓もけいではなくけいだった」
「慶氏? 斉国の慶氏だと?」
 思わず声が出た。よい生まれだろうと踏んではいたが、そこまでの名門だとは思っていなかった。
「どういうことだ?」

 その姓を捨てるような理由など思いつかない。そもそも姓はこの世界にとって、己の身分証明書と同じだ。どんな血脈に属しているかの説明になり、先祖を祀るための資格となる。
 姓を変えるということは、それを放棄することにつながる重大事だ。

「それだけのことが起きたということだろうな」
 驚愕の視線を向けられても、荊軻の様子は変わらなかった。

「慶氏であることを隠さなければならないような何かがだ。それだけの罪を犯したか、はたまた罪を被せられたか……。どちらにせよ、家族もろとも国を追われたのは事実だ」
「そんな他人事みたいな」
「実は俺にとってはそうなんだ」

 荊軻の頬が引きつった。それが笑みだということに気づくのに時間がかかった。

「俺たち家族は、斉からすんなり出させてもらえたのではない。かなり大きな争いごとに巻き込まれたんだ。命からがら逃げだしたというのが正しいだろうな。――まだ子供だった俺はそのときに大怪我を負った。特に頭の傷がひどくて、逃げ出した衛国で半年ほど寝たきりになっていた。まあ幸い良い医者に恵まれて、このとおり治ったわけだが」

 とん、と彼は自分の頭を指でつついた。

「ここだけがどうしても治らなかった」

 ほとんどのことを忘れてしまった。荊軻の言葉に高漸離は目を丸くした。そんなことがあるのか、とは言えない。それは彼のぎこちない笑い方からして事実だと分かる。
 悲しみはとうの昔に通り越して、もう笑うしかないのだろう。

「自分のことはおろか、親兄弟のこともろくに覚えていない。だから最初は驚いた、目を覚ましたら見も知らぬ奴らに囲まれていたわけだからな。てっきり人さらいに連れていかれたのかと思ったくらいだ」
「……今は、もう大丈夫なのか?」

 問いかけに、彼は首を横に振る。

「今もまだ駄目だ、ろくに思い出せていない。――家族はいろいろ手を尽くしてくれた。医者や薬を探し回って、怯えて泣いてばかりいた俺を励ましてくれた。だが、どうにも俺はそれが耐えられなかった。親身になってくれればくれるほど、彼らの言うことは本当かと、逆に疑いが増していった」
 荊軻の言葉は一度途切れた。

 これ以上は訊けなかった。きっと、家族との間にできた齟齬はとうとう埋まらなかったのだろう。
 持て余した厚意は重荷になり、最後は家を出てしまうしかなかった――。

「だが、一つ覚えていたこともある」
 重い沈黙を払ったのは荊軻の声だ。

「俺には一人友人がいたんだ。幼い頃から随分と仲がよかった。実は、騒乱に巻き込まれて死にかけた俺を助けてくれたのも彼だ。俺にとっては命の恩人だと言っていい」

 そう話す荊軻の顔からこわばりが溶けていく。よほど大切な相手なのだろう。

「なんだ、よかったな」
 高漸離は心からそう思った。姓をなくし、家族から離れた男にも寄る辺というものがあったのだ。もし今ここに酒があったのなら、彼の杯を満たしてやっただろう。

「どんな相手なんだ? いつか紹介してくれよ、一緒に酒が飲みたい」
 身を乗り出して、高漸離は話を促す。
「……すまん」
 だが、向かい合わせにいる男は途端に言葉を詰まらせた。
「分かっているのはこれだけなんだ。相手の名も姿も分からないし思い出せない。他のことと同じで、あとは忘れてしまっている」
「なんだって?」

 思わず声を上げてしまった。恐縮する荊軻の顔を見て悪いとは思ったが、一度口にした言葉は抑えられない。

「忘れたって、本当にか。だって、命の恩人なんじゃ」
「好きで忘れているわけじゃない」
 むうと相手の唇が曲がった。
「俺だってこのままは嫌だ、思い出したい。もう一度会ってきちんと礼を伝えたいし、俺が忘れてしまっている話も聴かせてもらいたい」
「そりゃそうだ。会えたら思い出せることだってあるかもしれないよな」
「高兄もそう思うか、俺もだ。だから俺は彼を捜している」

 諸国を流れ続けているのはそのためなのだと、荊軻は初めて語った。
 高漸離は絶句するしかなかった。
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