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承
薊の街 1
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秋空に胡歌が高く響いた気がした。
――高漸離は軽く目を閉じた。もっとも、燕国の首都である葪の街から荒野は遠い。実際こうして聞こえるものは、市場に溢れる身近な音だ。
客を呼び留めようとする下人たちの声、市場に連れてこられた家畜たちの嘶き、大人に叱られたらしい子供の泣き声。
一方、肆内は先ほどからしんと静まり返っている。酔客たちの視線は皆、高漸離が膝の上に置いた楽器に注がれている。
筑は琴に似た小ぶりな楽器で、張られた弦をつま弾くのではなく、竹の棒で文字通り撃って演奏する。
じゃらん、と手で弦をかき鳴らすと、客たちが息を呑むのが分かった。高漸離は背を伸ばして、筑の弦を撃ち始めた。
一曲目が終わる頃、傍らにいた荊軻が立ちあがる。二曲目が始まると同時に、彼は朗々とした声で歌い始める。
よほど高漸離を気に入ったのか、三日と空けずに彼は酒肆に顔を出すようになった。その目的はこうして高漸離の演奏に合わせて歌うことだ。
初めて会ったときに歌うのが好きだと言っていたが、それはきっと本当だろう。だから、高漸離も荊軻が歌うことを妨げない。むしろ彼の中でこれだけは間違いなく好ましいと思っている。伸びやかな声に導かれるように、筑の音もまた高らかに鳴り響いていく。
やがて、肆にいる者たちの手拍子が始まる。自分たちが演奏を始めるといつもこうなる。皆手を打ち鳴らし、身体を揺らし、感極まった者は泣き始める。
何曲も繰り返して、演奏は終わった。わっ、と客たちが自分たちの周りに押し寄せ、歓声と酒が浴びせられる。
賑わいは陽が傾き始めてもなお続いた。
「ちょっと失礼する」
高漸離はふらりと立ち上がった。酔い覚ましのため、外の空気を吸いに出る。
だが、あいにくと表通りは人々でごった返していた。明かりのための油が贅沢品である以上、陽が落ちればほとんどの肆は閉まる。それまでに家に戻ろうと、皆足を速めている。
おぼつかない足取りで、路地裏に向かう。さすがに人の気配はない。
しばらく壁にもたれて目を閉じていた。時折吹く風が頬を冷やすが、酔いはなかなか醒めなかった。
水をもらえばよかったか――そんなことを思った。今からでも酒肆に戻ろうか。
「今日もいい腕だったよ高さん」
冷たい風に乗って、そんな声が聞こえた。
「どれだけ皆が酔っ払っても、あんたが筑を撃つと口を閉ざす。あんたの音を聞き逃したくないからね。大したものさ」
「……またお前か」
目を閉じたまま、高漸離は言葉を返した。胸がむかつくのは酒の酔いのためではない。
へへ、と耳障りな笑い声が聞こえてくる。
「あんたにはもっと似合った場所がある。こんな砂まみれの埃っぽい場所じゃなくて、掃き清められたお綺麗な殿堂がね。夢見たことはないかい、中原の宮中で士大夫様たちが居並ぶ中、演奏する自分ってやつを」
「ない」
中原の殿堂とやらがどこを指すか、分からない者はあるまい。
古来より文明発祥の地とされるかの地域は今、西の大国である秦のものだ。燕から出たことのない自分にとって、胡地と同じくらいにそれは遠い。
「秦王は人材を尊ぶ。それは文官武官のみの話じゃない」
にべなく断ったつもりだが、話し相手はまだ諦めない。
「あんたの腕なら王は間違いなく頷く。楽人としてこれ以上の名誉はない、あんたがその気ならいつだって紹介してやっても」
「断る」
「高さん」
「王がなんだ、俺は俺が気に入った奴にだけ筑を撃つ。馴れ馴れしく話しかけないでくれ。俺はあんたに用はないんだ、さっさと――何をする!」
「いつも話を聞いてくれないあんたが悪い」
突然ぐいと腕を掴まれ、高漸離は目を開けた。いつの間にか傍にいる男に笑みはない。
抵抗する間もなく羽交い絞めにされた。あっという間に口元を布で覆われる。
最初からそのつもりだったのだと気付いたがもう遅い。もがいてみるが、まだ酒が回っている体ではろくな抵抗もできなかった。逆にぐいと引きずられて膝を崩しかける。
まずい、と思った。このままでは本当に連れ去られてしまう。だが助けを呼ぼうにも声が出せない。
このままでは何もできない――。
「その手を離せ」
この場に不釣り合いなほど、物静かな声だった。
この場に現れた荊軻は、落ち着き払った様子でこちらを見る。同じくらいに呑んでいるはずだが、その輪郭はどこも崩れていない。
いつもは腹立たしくなる態度も、さすがに今はありがたい。高漸離の胸中に訪れた安堵は、しかしすぐに掻き消えた。視界の端に、男が取り出した刃物が映ったのだ。夕陽の朱に染まる鋼の不吉さに、おのずと身が堅くなる。
「それは無理でしょう。荊の旦那」
へへ、と男は笑った。余裕すらある響きに虫唾が走る。
「俺は知っているんですよ。あんた、荊卿と呼ばれているくせにたいそうな臆病者らしいですよね。趙の楡次でも邯鄲でも、争いごとになると途端に尻尾を巻いて逃げ出したって話じゃないですか。後を追われる前に荷物をまとめて、宿を出て行ったんですってねえ」
「ほお。詳しいな」
「否定しないのは褒めてやりましょうか。まあできませんよねえ、事実なんですから。恥の上塗りになるだけですもんねえ」
この粗雑な声を聴くのが耐えられなくなってきた。高漸離はなんとか相手を振りほどこうともがいてみるが、効果はない。
かと言って、荊軻が誰かを呼びに行く気配もない。普段はあんなにいるはずの街の人々も、一人としてここを覗き込もうとしない。
誰も頼ることができない。高漸離は覚悟を決めた。自分は自分で救うしかない。
「そろそろ潮時でしょう。あんたもいつまでもこんな処にいるんじゃなくて、さっさと荷物をまとめて出ていきゃいいんだ。いつだってこの話を広めてやっていいんですよ、俺は、」
いてっ! と男は不意に叫んだ。高漸離が男の手を噛んだのだ。
縛めが緩んだのと同時に、懸命に相手を振りほどいた。男はたたらを踏んだが、倒れるまではいかなかった。その目は獣のようにぎらりと光った。
「てめぇ!」
太い腕が振り上げられた。刃がきらめき、突然のことになす術もなく身体が竦んだ。
なにもできないまま刺される、――はずだった。
――高漸離は軽く目を閉じた。もっとも、燕国の首都である葪の街から荒野は遠い。実際こうして聞こえるものは、市場に溢れる身近な音だ。
客を呼び留めようとする下人たちの声、市場に連れてこられた家畜たちの嘶き、大人に叱られたらしい子供の泣き声。
一方、肆内は先ほどからしんと静まり返っている。酔客たちの視線は皆、高漸離が膝の上に置いた楽器に注がれている。
筑は琴に似た小ぶりな楽器で、張られた弦をつま弾くのではなく、竹の棒で文字通り撃って演奏する。
じゃらん、と手で弦をかき鳴らすと、客たちが息を呑むのが分かった。高漸離は背を伸ばして、筑の弦を撃ち始めた。
一曲目が終わる頃、傍らにいた荊軻が立ちあがる。二曲目が始まると同時に、彼は朗々とした声で歌い始める。
よほど高漸離を気に入ったのか、三日と空けずに彼は酒肆に顔を出すようになった。その目的はこうして高漸離の演奏に合わせて歌うことだ。
初めて会ったときに歌うのが好きだと言っていたが、それはきっと本当だろう。だから、高漸離も荊軻が歌うことを妨げない。むしろ彼の中でこれだけは間違いなく好ましいと思っている。伸びやかな声に導かれるように、筑の音もまた高らかに鳴り響いていく。
やがて、肆にいる者たちの手拍子が始まる。自分たちが演奏を始めるといつもこうなる。皆手を打ち鳴らし、身体を揺らし、感極まった者は泣き始める。
何曲も繰り返して、演奏は終わった。わっ、と客たちが自分たちの周りに押し寄せ、歓声と酒が浴びせられる。
賑わいは陽が傾き始めてもなお続いた。
「ちょっと失礼する」
高漸離はふらりと立ち上がった。酔い覚ましのため、外の空気を吸いに出る。
だが、あいにくと表通りは人々でごった返していた。明かりのための油が贅沢品である以上、陽が落ちればほとんどの肆は閉まる。それまでに家に戻ろうと、皆足を速めている。
おぼつかない足取りで、路地裏に向かう。さすがに人の気配はない。
しばらく壁にもたれて目を閉じていた。時折吹く風が頬を冷やすが、酔いはなかなか醒めなかった。
水をもらえばよかったか――そんなことを思った。今からでも酒肆に戻ろうか。
「今日もいい腕だったよ高さん」
冷たい風に乗って、そんな声が聞こえた。
「どれだけ皆が酔っ払っても、あんたが筑を撃つと口を閉ざす。あんたの音を聞き逃したくないからね。大したものさ」
「……またお前か」
目を閉じたまま、高漸離は言葉を返した。胸がむかつくのは酒の酔いのためではない。
へへ、と耳障りな笑い声が聞こえてくる。
「あんたにはもっと似合った場所がある。こんな砂まみれの埃っぽい場所じゃなくて、掃き清められたお綺麗な殿堂がね。夢見たことはないかい、中原の宮中で士大夫様たちが居並ぶ中、演奏する自分ってやつを」
「ない」
中原の殿堂とやらがどこを指すか、分からない者はあるまい。
古来より文明発祥の地とされるかの地域は今、西の大国である秦のものだ。燕から出たことのない自分にとって、胡地と同じくらいにそれは遠い。
「秦王は人材を尊ぶ。それは文官武官のみの話じゃない」
にべなく断ったつもりだが、話し相手はまだ諦めない。
「あんたの腕なら王は間違いなく頷く。楽人としてこれ以上の名誉はない、あんたがその気ならいつだって紹介してやっても」
「断る」
「高さん」
「王がなんだ、俺は俺が気に入った奴にだけ筑を撃つ。馴れ馴れしく話しかけないでくれ。俺はあんたに用はないんだ、さっさと――何をする!」
「いつも話を聞いてくれないあんたが悪い」
突然ぐいと腕を掴まれ、高漸離は目を開けた。いつの間にか傍にいる男に笑みはない。
抵抗する間もなく羽交い絞めにされた。あっという間に口元を布で覆われる。
最初からそのつもりだったのだと気付いたがもう遅い。もがいてみるが、まだ酒が回っている体ではろくな抵抗もできなかった。逆にぐいと引きずられて膝を崩しかける。
まずい、と思った。このままでは本当に連れ去られてしまう。だが助けを呼ぼうにも声が出せない。
このままでは何もできない――。
「その手を離せ」
この場に不釣り合いなほど、物静かな声だった。
この場に現れた荊軻は、落ち着き払った様子でこちらを見る。同じくらいに呑んでいるはずだが、その輪郭はどこも崩れていない。
いつもは腹立たしくなる態度も、さすがに今はありがたい。高漸離の胸中に訪れた安堵は、しかしすぐに掻き消えた。視界の端に、男が取り出した刃物が映ったのだ。夕陽の朱に染まる鋼の不吉さに、おのずと身が堅くなる。
「それは無理でしょう。荊の旦那」
へへ、と男は笑った。余裕すらある響きに虫唾が走る。
「俺は知っているんですよ。あんた、荊卿と呼ばれているくせにたいそうな臆病者らしいですよね。趙の楡次でも邯鄲でも、争いごとになると途端に尻尾を巻いて逃げ出したって話じゃないですか。後を追われる前に荷物をまとめて、宿を出て行ったんですってねえ」
「ほお。詳しいな」
「否定しないのは褒めてやりましょうか。まあできませんよねえ、事実なんですから。恥の上塗りになるだけですもんねえ」
この粗雑な声を聴くのが耐えられなくなってきた。高漸離はなんとか相手を振りほどこうともがいてみるが、効果はない。
かと言って、荊軻が誰かを呼びに行く気配もない。普段はあんなにいるはずの街の人々も、一人としてここを覗き込もうとしない。
誰も頼ることができない。高漸離は覚悟を決めた。自分は自分で救うしかない。
「そろそろ潮時でしょう。あんたもいつまでもこんな処にいるんじゃなくて、さっさと荷物をまとめて出ていきゃいいんだ。いつだってこの話を広めてやっていいんですよ、俺は、」
いてっ! と男は不意に叫んだ。高漸離が男の手を噛んだのだ。
縛めが緩んだのと同時に、懸命に相手を振りほどいた。男はたたらを踏んだが、倒れるまではいかなかった。その目は獣のようにぎらりと光った。
「てめぇ!」
太い腕が振り上げられた。刃がきらめき、突然のことになす術もなく身体が竦んだ。
なにもできないまま刺される、――はずだった。
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