3 / 18
起
燕国 ― 薊の街 ― 2
しおりを挟む
「貴君が勝てば俺が酒を奢ろう。もちろん貴君だけじゃない、この肆の客全員分をな」
そのときは遠慮なく呑んでくれ。振り返ってそう宣言すれば、酔っ払いたちの気勢は否応なしに上がる。
頑張ってくれ高さん、あんたの腕を信じてるからな。――好き勝手に飛び交う声援に、やかましい、と思わず言い返す。
「その代わり、俺が勝てばそのときは俺のために一曲撃ってもらう」
「分かっている」
高漸離は筑の弦をさすった。馴染んだ感触がざわつく心を落ち着かせてくれる。
すぅと息を吸い、竹べらで弦を強く弾いた。じゃらん、という音が勝負の始まりだった。
この世界の音は五声が基本だ。宮商角微羽の五つは、極めて濁った音から極めて澄んだ音まで幅広い。そこへ加えて十二の楽律が組み合わされる。複雑に絡み合う音は豊かさを増すが、演奏は当然難しくなる。あるべき音律を乱して途中でつまずく奏者もいるくらいだ。
だがらこそ高漸離は筑の名手と言われている。一度演奏を始めれば音は停まることなく、湧き出す泉のように弦から生み出されていく。
まず選んだ音は羽だ。最も高く澄んだ音は女性であっても難しい。
挑まれていることは分かったのだろう。荊軻は立ち上がると片頬を釣り上げた。
彼が口を開くとたちまち、伸びやかな声が肆内を満たした。
どよめきが広がる中、目を細めて荊軻は歌っていた。高漸離の編み出す旋律からずれることなく、むしろ添うように喉を震わせている。
彼の声は風となってこの場を駆ける。または光となって跳ねまわる。爽快で眩しく心地よい。耳だけではない、五感の全てがたちまちその声に浚われていく。
士大夫にとって楽は教養の一つだ。美しく安らかな音を尊び、旋律に合わせて干威と羽旄を手に舞い踊る。それを思えば、市井の者ではない荊軻が歌えることも不思議ではない。
だが、と高漸離は思う。
やんごとなき身分の者たちの宴席に招かれ、共に楽器を奏でたことはある。
彼らにとって音楽とは治世の表れだ。為政者の徳が広く領土に行き渡っているかどうかの目安として、民が歌う曲の種類はよく引き合いに出される。
世が乱れるときは音は怒り、国が亡びるときは悲しみに満ちるのだという。
国が平らであることを示すために奏でられる楽の音は、ただひたすら退屈だ。世に逆らわない、抗わない、大人しいだけの音はなんの魅力も感じない。物足りなさに欠伸をかみ殺したことさえある。
誰の音も、自分の胸を震わせなかった。
そう、誰もこの男のようには歌わなかった――。
曲は途中だが、構わずに高漸離は演奏を転調させた。低音の極みである宮から角へ、微に移ってから商へ。次々に音を変えて演奏を続ける。そのたびに荊軻は嫌がるのではなく、楽しげに口元を綻ばせた。
どの曲調でも、彼の声は衰えなかった。ときには地を這うように震え、ときには高みを悠々と舞った。最後に歌辞まで即興で付けられたときには、高漸離も笑うしかなかった。
音楽とは、心の中の感情を表に解き放つことだと言われている。よい演奏は、胸襟を開いて己を語るときよりも強い爽快感を伴う。例えば今がそれだ。
出会ってまだ一日も経っていない男からなにもかも知られ、理解されている気分に、いつしか心は浮き立っていた。
「なるほど。――さすがは薊の街一番の楽士だけはある」
演奏を終えるとすぐ、荊軻は屈託なく笑いかけてきた。応じる自分もきっと笑っているのだろう。伸ばされた手を握り返すことにもはや躊躇いなどなかった。
最初はこんなつもりではなかった。だが今は、それもいいかもしれないと思えるようになっていた。
そのときは遠慮なく呑んでくれ。振り返ってそう宣言すれば、酔っ払いたちの気勢は否応なしに上がる。
頑張ってくれ高さん、あんたの腕を信じてるからな。――好き勝手に飛び交う声援に、やかましい、と思わず言い返す。
「その代わり、俺が勝てばそのときは俺のために一曲撃ってもらう」
「分かっている」
高漸離は筑の弦をさすった。馴染んだ感触がざわつく心を落ち着かせてくれる。
すぅと息を吸い、竹べらで弦を強く弾いた。じゃらん、という音が勝負の始まりだった。
この世界の音は五声が基本だ。宮商角微羽の五つは、極めて濁った音から極めて澄んだ音まで幅広い。そこへ加えて十二の楽律が組み合わされる。複雑に絡み合う音は豊かさを増すが、演奏は当然難しくなる。あるべき音律を乱して途中でつまずく奏者もいるくらいだ。
だがらこそ高漸離は筑の名手と言われている。一度演奏を始めれば音は停まることなく、湧き出す泉のように弦から生み出されていく。
まず選んだ音は羽だ。最も高く澄んだ音は女性であっても難しい。
挑まれていることは分かったのだろう。荊軻は立ち上がると片頬を釣り上げた。
彼が口を開くとたちまち、伸びやかな声が肆内を満たした。
どよめきが広がる中、目を細めて荊軻は歌っていた。高漸離の編み出す旋律からずれることなく、むしろ添うように喉を震わせている。
彼の声は風となってこの場を駆ける。または光となって跳ねまわる。爽快で眩しく心地よい。耳だけではない、五感の全てがたちまちその声に浚われていく。
士大夫にとって楽は教養の一つだ。美しく安らかな音を尊び、旋律に合わせて干威と羽旄を手に舞い踊る。それを思えば、市井の者ではない荊軻が歌えることも不思議ではない。
だが、と高漸離は思う。
やんごとなき身分の者たちの宴席に招かれ、共に楽器を奏でたことはある。
彼らにとって音楽とは治世の表れだ。為政者の徳が広く領土に行き渡っているかどうかの目安として、民が歌う曲の種類はよく引き合いに出される。
世が乱れるときは音は怒り、国が亡びるときは悲しみに満ちるのだという。
国が平らであることを示すために奏でられる楽の音は、ただひたすら退屈だ。世に逆らわない、抗わない、大人しいだけの音はなんの魅力も感じない。物足りなさに欠伸をかみ殺したことさえある。
誰の音も、自分の胸を震わせなかった。
そう、誰もこの男のようには歌わなかった――。
曲は途中だが、構わずに高漸離は演奏を転調させた。低音の極みである宮から角へ、微に移ってから商へ。次々に音を変えて演奏を続ける。そのたびに荊軻は嫌がるのではなく、楽しげに口元を綻ばせた。
どの曲調でも、彼の声は衰えなかった。ときには地を這うように震え、ときには高みを悠々と舞った。最後に歌辞まで即興で付けられたときには、高漸離も笑うしかなかった。
音楽とは、心の中の感情を表に解き放つことだと言われている。よい演奏は、胸襟を開いて己を語るときよりも強い爽快感を伴う。例えば今がそれだ。
出会ってまだ一日も経っていない男からなにもかも知られ、理解されている気分に、いつしか心は浮き立っていた。
「なるほど。――さすがは薊の街一番の楽士だけはある」
演奏を終えるとすぐ、荊軻は屈託なく笑いかけてきた。応じる自分もきっと笑っているのだろう。伸ばされた手を握り返すことにもはや躊躇いなどなかった。
最初はこんなつもりではなかった。だが今は、それもいいかもしれないと思えるようになっていた。
22
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
空蝉
横山美香
歴史・時代
薩摩藩島津家の分家の娘として生まれながら、将軍家御台所となった天璋院篤姫。孝明天皇の妹という高貴な生まれから、第十四代将軍・徳川家定の妻となった和宮親子内親王。
二人の女性と二組の夫婦の恋と人生の物語です。
あかるたま
ユーレカ書房
歴史・時代
伊織の里の巫女王・葵は多くの里人から慕われていたが、巫女としては奔放すぎるその性格は周囲のものたちにとっては悩みの種となっていた。彼女の奔放を諫めるため、なんと〈夫〉を迎えてはどうかという奇天烈な策が講じられ――。
葵/あかるこ・・・・・伊織の巫女王。夢見で未来を察知することができる。突然〈夫〉を迎えることになり、困惑。
大水葵郎子/ナギ・・・・・伊織の衛士。清廉で腕が立つ青年。過去の出来事をきっかけに、少年時代から葵に想いを寄せている。突然葵の〈夫〉になることが決まり、困惑。
山辺彦・・・・・伊織の衛士頭。葵の叔父でもある。朗らかだが機転が利き、ひょうきんな人柄。ナギを葵の夫となるように仕向けたのはこの人。
源次物語〜未来を生きる君へ〜
OURSKY
歴史・時代
元特攻隊員の主人公が最後に見つけた戦争を繰り返さないために大切な事……「涙なしでは読めない」「後世に伝えたい」との感想を頂いた、戦争を調べる中で見つけた奇跡から生まれた未来への願いと希望の物語……この物語の主人公は『最後の日記』の小説の追憶編に出てくる高田さん。
昔、私にある誕生日プレゼントをくれたおじいさんである高田さんとの出会いをきっかけに、大変な時代を懸命に生きた様々な方や縁のある場所の歴史を調べる中で見つけた『最後の日記』との不思議な共通点……
様々な奇跡を元に生まれた、戦時中を必死に明るく生きた元特攻隊員達の恋や友情や家族への想いを込めた青春物語
☆カクヨムより毎日転載予定☆
※歴史的出来事は公平な資料の史実を元に書いていて、歴史上の人物や実際にある映画や歌などの題名も出てきますが、名前の一部を敢えて変えているものもあります(歌詞は著作権切れのみ掲載)
富嶽を駆けよ
有馬桓次郎
歴史・時代
★☆★ 第10回歴史・時代小説大賞〈あの時代の名脇役賞〉受賞作 ★☆★
https://www.alphapolis.co.jp/prize/result/853000200
天保三年。
尾張藩江戸屋敷の奥女中を勤めていた辰は、身長五尺七寸の大女。
嫁入りが決まって奉公も明けていたが、女人禁足の山・富士の山頂に立つという夢のため、養父と衝突しつつもなお深川で一人暮らしを続けている。
許婚の万次郎の口利きで富士講の大先達・小谷三志と面会した辰は、小谷翁の手引きで遂に富士山への登拝を決行する。
しかし人目を避けるために選ばれたその日程は、閉山から一ヶ月が経った長月二十六日。人跡の絶えた富士山は、五合目から上が完全に真冬となっていた。
逆巻く暴風、身を切る寒気、そして高山病……数多の試練を乗り越え、無事に富士山頂へ辿りつくことができた辰であったが──。
江戸後期、史上初の富士山女性登頂者「高山たつ」の挑戦を描く冒険記。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~
めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。
源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。
長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。
そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。
明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。
〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
1916年帆装巡洋艦「ゼーアドラー」出撃す
久保 倫
歴史・時代
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセンは、かつてドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と呼ばれたが、世界第一次大戦の混乱から生じたドイツ革命の最中、オランダに亡命して退位。
今は、少数の謹慎と共にオランダユトレヒト州ドールンで、趣味として伐採する安楽な日々を過ごしているが、少々退屈であった。
そんな折、かつての寵臣より招待状が届いた。
その招待に応じ、ヴィルヘルムは、古びた救世軍のホールに足を運ぶ。
世界第一次大戦時、アラビアのロレンスと並び評されるソルジャー オブ フォーチューン(冒険家軍人) フェリックス・フォン・ルックナーの戦記、ご観覧くださいませ。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
<日本書紀演義シリーズ> 太子薨去(たいしこうきょ)622
TKF
歴史・時代
聖徳太子(厩戸皇子)死す!
その知らせに蘇我馬子、山背皇子、推古天皇らは激しく動揺。
一方で、妃の一人である橘妃は、悲しみをまぎらわすために、”天寿国繍帳”の名で知られるカーテンをつくったのであった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる