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起
燕国 ― 薊の街 ― 2
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「貴君が勝てば俺が酒を奢ろう。もちろん貴君だけじゃない、この肆の客全員分をな」
そのときは遠慮なく呑んでくれ。振り返ってそう宣言すれば、酔っ払いたちの気勢は否応なしに上がる。
頑張ってくれ高さん、あんたの腕を信じてるからな。――好き勝手に飛び交う声援に、やかましい、と思わず言い返す。
「その代わり、俺が勝てばそのときは俺のために一曲撃ってもらう」
「分かっている」
高漸離は筑の弦をさすった。馴染んだ感触がざわつく心を落ち着かせてくれる。
すぅと息を吸い、竹べらで弦を強く弾いた。じゃらん、という音が勝負の始まりだった。
この世界の音は五声が基本だ。宮商角微羽の五つは、極めて濁った音から極めて澄んだ音まで幅広い。そこへ加えて十二の楽律が組み合わされる。複雑に絡み合う音は豊かさを増すが、演奏は当然難しくなる。あるべき音律を乱して途中でつまずく奏者もいるくらいだ。
だがらこそ高漸離は筑の名手と言われている。一度演奏を始めれば音は停まることなく、湧き出す泉のように弦から生み出されていく。
まず選んだ音は羽だ。最も高く澄んだ音は女性であっても難しい。
挑まれていることは分かったのだろう。荊軻は立ち上がると片頬を釣り上げた。
彼が口を開くとたちまち、伸びやかな声が肆内を満たした。
どよめきが広がる中、目を細めて荊軻は歌っていた。高漸離の編み出す旋律からずれることなく、むしろ添うように喉を震わせている。
彼の声は風となってこの場を駆ける。または光となって跳ねまわる。爽快で眩しく心地よい。耳だけではない、五感の全てがたちまちその声に浚われていく。
士大夫にとって楽は教養の一つだ。美しく安らかな音を尊び、旋律に合わせて干威と羽旄を手に舞い踊る。それを思えば、市井の者ではない荊軻が歌えることも不思議ではない。
だが、と高漸離は思う。
やんごとなき身分の者たちの宴席に招かれ、共に楽器を奏でたことはある。
彼らにとって音楽とは治世の表れだ。為政者の徳が広く領土に行き渡っているかどうかの目安として、民が歌う曲の種類はよく引き合いに出される。
世が乱れるときは音は怒り、国が亡びるときは悲しみに満ちるのだという。
国が平らであることを示すために奏でられる楽の音は、ただひたすら退屈だ。世に逆らわない、抗わない、大人しいだけの音はなんの魅力も感じない。物足りなさに欠伸をかみ殺したことさえある。
誰の音も、自分の胸を震わせなかった。
そう、誰もこの男のようには歌わなかった――。
曲は途中だが、構わずに高漸離は演奏を転調させた。低音の極みである宮から角へ、微に移ってから商へ。次々に音を変えて演奏を続ける。そのたびに荊軻は嫌がるのではなく、楽しげに口元を綻ばせた。
どの曲調でも、彼の声は衰えなかった。ときには地を這うように震え、ときには高みを悠々と舞った。最後に歌辞まで即興で付けられたときには、高漸離も笑うしかなかった。
音楽とは、心の中の感情を表に解き放つことだと言われている。よい演奏は、胸襟を開いて己を語るときよりも強い爽快感を伴う。例えば今がそれだ。
出会ってまだ一日も経っていない男からなにもかも知られ、理解されている気分に、いつしか心は浮き立っていた。
「なるほど。――さすがは薊の街一番の楽士だけはある」
演奏を終えるとすぐ、荊軻は屈託なく笑いかけてきた。応じる自分もきっと笑っているのだろう。伸ばされた手を握り返すことにもはや躊躇いなどなかった。
最初はこんなつもりではなかった。だが今は、それもいいかもしれないと思えるようになっていた。
そのときは遠慮なく呑んでくれ。振り返ってそう宣言すれば、酔っ払いたちの気勢は否応なしに上がる。
頑張ってくれ高さん、あんたの腕を信じてるからな。――好き勝手に飛び交う声援に、やかましい、と思わず言い返す。
「その代わり、俺が勝てばそのときは俺のために一曲撃ってもらう」
「分かっている」
高漸離は筑の弦をさすった。馴染んだ感触がざわつく心を落ち着かせてくれる。
すぅと息を吸い、竹べらで弦を強く弾いた。じゃらん、という音が勝負の始まりだった。
この世界の音は五声が基本だ。宮商角微羽の五つは、極めて濁った音から極めて澄んだ音まで幅広い。そこへ加えて十二の楽律が組み合わされる。複雑に絡み合う音は豊かさを増すが、演奏は当然難しくなる。あるべき音律を乱して途中でつまずく奏者もいるくらいだ。
だがらこそ高漸離は筑の名手と言われている。一度演奏を始めれば音は停まることなく、湧き出す泉のように弦から生み出されていく。
まず選んだ音は羽だ。最も高く澄んだ音は女性であっても難しい。
挑まれていることは分かったのだろう。荊軻は立ち上がると片頬を釣り上げた。
彼が口を開くとたちまち、伸びやかな声が肆内を満たした。
どよめきが広がる中、目を細めて荊軻は歌っていた。高漸離の編み出す旋律からずれることなく、むしろ添うように喉を震わせている。
彼の声は風となってこの場を駆ける。または光となって跳ねまわる。爽快で眩しく心地よい。耳だけではない、五感の全てがたちまちその声に浚われていく。
士大夫にとって楽は教養の一つだ。美しく安らかな音を尊び、旋律に合わせて干威と羽旄を手に舞い踊る。それを思えば、市井の者ではない荊軻が歌えることも不思議ではない。
だが、と高漸離は思う。
やんごとなき身分の者たちの宴席に招かれ、共に楽器を奏でたことはある。
彼らにとって音楽とは治世の表れだ。為政者の徳が広く領土に行き渡っているかどうかの目安として、民が歌う曲の種類はよく引き合いに出される。
世が乱れるときは音は怒り、国が亡びるときは悲しみに満ちるのだという。
国が平らであることを示すために奏でられる楽の音は、ただひたすら退屈だ。世に逆らわない、抗わない、大人しいだけの音はなんの魅力も感じない。物足りなさに欠伸をかみ殺したことさえある。
誰の音も、自分の胸を震わせなかった。
そう、誰もこの男のようには歌わなかった――。
曲は途中だが、構わずに高漸離は演奏を転調させた。低音の極みである宮から角へ、微に移ってから商へ。次々に音を変えて演奏を続ける。そのたびに荊軻は嫌がるのではなく、楽しげに口元を綻ばせた。
どの曲調でも、彼の声は衰えなかった。ときには地を這うように震え、ときには高みを悠々と舞った。最後に歌辞まで即興で付けられたときには、高漸離も笑うしかなかった。
音楽とは、心の中の感情を表に解き放つことだと言われている。よい演奏は、胸襟を開いて己を語るときよりも強い爽快感を伴う。例えば今がそれだ。
出会ってまだ一日も経っていない男からなにもかも知られ、理解されている気分に、いつしか心は浮き立っていた。
「なるほど。――さすがは薊の街一番の楽士だけはある」
演奏を終えるとすぐ、荊軻は屈託なく笑いかけてきた。応じる自分もきっと笑っているのだろう。伸ばされた手を握り返すことにもはや躊躇いなどなかった。
最初はこんなつもりではなかった。だが今は、それもいいかもしれないと思えるようになっていた。
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