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三ノ宮メイウェイという男

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「うま~っ!」

 都内でも有数の高級マンションが立ち並ぶ区域、その高層階の一室で、目の前の男が破顔して口の中のものを咀嚼している。

「リャオさん!これすごくおいしいです!最高!こんな栄養のあるもの食べられるなんて僕すっごく幸せです!」
「そ、そんな大したものは作ってませんっ!メイウェイさんは大袈裟です…。」
「もう。リャオさんは自分がどんなに凄いことをしているか、全然自覚がないから困ります。もっと自分の価値を知って下さい!」

 今日の朝ご飯は、と言ってももう昼前だが、貝で出汁を取りエビを散らし、大葉やゴマなど数種の薬味を乗せた白粥に、さっぱりした梅ミソ付きの骨付き鶏のから揚げと、豆腐とアボカドのサラダ、汁物はネギと生姜をふんだんに使用し鶏ガラで出汁をとった清湯(チンタン)スープ…。
 朝だから消化に良いようにあっさりした味付けでかつ体が温まるような食材を選んだだけで、あくまで庶民的な朝食の献立だ。そんな大層なものじゃない。
 ただ、目の前で「おいしい、おいしい」と言いながら幸福そうに食べる青年の食材の好き嫌いの要望に応えつつも、料理人として栄養バランスと消化のしやすさを考慮したものだっただけに、定番のメニューとは言え、やはり褒められると嬉しく感じてしまうのは確かだ。

「しあわせ、しあせだなあ。リャオさん、いつかお店開いて下さいね。僕、きっと毎日通います!」
「また、そんな冗談言って。」
「本気ですよ!」

 むぅ、と意地になったように頬を膨らませるが、愛嬌があるせいで全く嫌味に感じない。

「あ、やばい。もうこんな時間!」
「お仕事お疲れさまです。片付けは任せて、歯ァ磨いてきて下さい、ね?」
「はい!」

 きちんと「ごちそうさまでした。」と言って食べ終わった食器をシンクに降ろし、勢いよく洗面所に向かう茶髪のその青年は、名を三ノ宮(さんのみや)メイウェイと言う。新卒で大手証券会社に入社すると同時に将来の経営陣を担うために幹部コースへと進んだいわゆるエリート階級の人間だ。

 何を隠そう、俺の立派な雇い主サマなのである。

 いかんせん勤務時間が短いため社保完備ではないものの、それでも交通費、労災費、雇用保険費は別途支給という好待遇。そんな俺の雇用主は、天はお気に入りの人間には二物も三物も与えるようで、顔面はもちろん、性格まで良いヤツときた。その証拠に、今日だってたくさん褒めてくれた。俺にはもったいない言葉ばかり。

 まあでもメイウェイが美味しいと言うのも分かる。ふふん、なんてったって、今日はから揚げのサクサク具合も良かったし、出汁を取る工程の火加減も上手くできたし、けっこうな自信作だったんだ、ああ早く死にた―。

「っ…くない、しにたくない、しにたくない…!」

 とっさに頭に思い浮かんだ言葉とは真逆の言葉を口で唱える。
 この発作には非常に困っている。ふいに、本当に唐突に、何の脈絡も無く頭をもたげてくる暗澹たる真っ黒な思いに気づかないフリをし、全くもって正反対のことをブツブツと呟きながら、気を紛らわせるかのように彼が食べ終わった食器を洗浄機に突っ込み、帰り支度をする。

 メイウェイは本当に働き者だ。今日は祝日だというのに急遽会社から出社するようにと言われたようで、こうしてバタバタと出向かわなければいけないのだから。つい、「メイウェイさんはどうしてそんなに毎日頑張れるんですか?すごいなぁ。頑張り屋さんだなあ。」というセリフが口をついて出てしまうくらいに。そういうときは決まって物凄い勢いで抱きしめられるから不用意な発言は気を付けなければいけないのだが。

 大変なはずなのに、それをおくびにも出さず、俺の前では機嫌よくいてくれる。
 それに比べ、俺はこんな短時間勤務でさえ内心ではひぃひぃ言いながら体を動かしている。普通の人に比べたら、俺なんか全然頑張れていな―…。

「ではリャオさん、いつもの、お願いします!」 

 ネガティブな思考を遮るように元気な声を掛けられ、ハッと目線を上げる。眉目秀麗な顔に笑顔を浮かべ、メイウェイが俺に対して両手を広げていた。もう何度目かも分からない、よく見慣れたその儀式に、俺はためらうことなく主人の期待に応えるためにそっと抱きつく。

「ぎゅー!」

 幸せそうに俺の体を強く抱きしめながら、メイウェイは大きな声を出す。
 彼によればこれは、「行ってらっしゃいのハグ」なのだそうだ。ちなみに俺がメイウェイ宅に出勤後、仕事を始める前に「おはようのハグ」もある。

 最初の頃、一介の雇われ家事代行でしかない、しかも“男”の俺になぜハグをするのかと尋ねれば、

『いや、異性にしたらセクハラでしょ!しませんよ!』

『もー!何言ってるんですか』と赤くなりながら的外れな説明をされたことがある。
うん、そういうことを尋ねたわけではないのだが。

 ともかくこれをしないとうちの雇用主サマは納得しないので心を無にして仰せのままに従っている。メイウェイは存外に力が強いので、本人的には普通のハグなんだろうが、一般人の俺からすればけっこう苦しいぐらいの力加減だ。だからこちらからもある程度力を込めなかったなら、きっと今ごろ何本か骨が折れていたに違いない。俺からも力を込めると謎に嬉しそうな笑い声が頭上から聞こえる気がするのはたぶん気のせいだろう。

 ただ最近はあまりにもこの行為に慣れ過ぎて、この儀式がないと仕事が始まったり終わったりした気がしないまでになってしまっている自分がいることに、少し危うさを感じてもいる。
 だって雇われの男が雇い主にハグしてもらわないと仕事が始まった気がしなくてソワソワするってヤバくない?
 俺はけっこう重傷なのかも知れない。

        ▽

 どうにかこうにか人間の形を保って今日の仕事を終え帰宅する。
 築50年の木造ボロアパート、その1階に位置する共用の風呂・トイレのすぐ横の部屋、わずか四畳半の俺の城。木造だから上の階や隣の人の生活音は良く聞こえるし、水場の真隣なせいで夜中に誰かが洗濯機やシャワーを使うとその音で目が覚める。

 荷物を玄関先の定位置に置き、そのままの足で敷きっぱなしになった薄いせんべい布団に着の身着のまま倒れ込む。
 布団の上に転がった途端、今まで張っていた糸が切れた人形のように体が重くなる。首を動かすことさえ億劫になる程に。
 今までの過去、これからの未来、何もかもに価値を見出せず、絶望する。自分が要らないモノのように思えて、生きる価値なんか無くて、むしろ生きているだけで誰かに迷惑をかけているようで自然と涙が出る。

 苦しい、助けて欲しい、だけど助けを乞う先も思い浮かばず頭の中でひたすらに誰にともなく『助けて』と『ごめんなさい』と『許して下さい』を叫び続ける。

 この思考の沼にハまってしまうと自分ではどうすることもできない。
 体が人としての原型を留めずドロドロと液体のように溶けていくような感覚に襲われながら、まだ日没ですらない時間だというのに俺は意識を手放した。
 眠れるわけではない。ただ、まとまらない思考の上を反復横跳びしながら、浅い眠りと悪夢の間でうとうとするのだ。

目標金額まであと:50万円
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