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38.逃げられない
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店から追い出され、マルは隣のおもちゃ屋の前にあったベンチへ腰を下ろした。温かいコートを纏っているのに、風が頬を切るように痛かった。
ワインで染まってしまったハンカチはもう贈れない。代わりの品を用意できる金もなくなってしまった。マルは空になった麻袋とともに、小さな肩掛け鞄へしまった。そしてやっと、笛の存在を思い出した。緊急時の笛だが、吹けなかった。
吹いたとしても、あの場ではどうにもならない。ゴロナが居る限り、逃亡奴隷だと暴かれる恐れもある。
それに吹いてたら奪われたかもしれない。自分には過ぎた銀の笛。ロナウドとお揃いだ。宝物なのだ。
マルは先ほどまで確かに幸せだった。初めて人へ贈り物をするのが嬉しかった。ゴロナがやってくるまでの話だが。
老女は突然起きた災難をマルへぶつけ、気を晴らした。けれどマルは二人からただ泥を浴びせられただけで、耐えることしかできなかった。
ゴロナに遭遇し、老女には金を奪われた。なぜこんなことに。そう思っても解決できるはずもなく、ただ悲しかった。
『楽して生きてたって、ろくな人間になれやしないんだから』
老女に言われた言葉が胸をえぐる。楽に生きてきたなんて、思ったことも感じたこともない。
頬を伝う涙のように、幸せはいつもマルから溢れて逃げてしまう。
「マル、どうしたんだ⁈」
俯いていた顔を上げると、目の前にアベルがいた。肩から提げた鞄が膨らんでいたので、買い物は無事に終わったようだった。
「あ……べる……」
「おい、具合悪いのか。いいから、動くなじっとしてろ」
腹から不快なものがこみ上げてくる。口から全て出してしまえば楽になれそうだけど、今口を開けても醜い恨み言まで吐きそうだった。
アベルは横へ座って、当然のようにマルへ膝を貸した。
「ありが……」
「いいって、黙ってろよ。マルが落ち着いたら、僕が馬車拾ってくるから、それに乗って帰ろう」
しばらくして吐き気が幾分和らぐと、アベルが馬車を探しに行った。少しすると目の前に幌を張った荷馬車がやってきて、そこからアベルが降りたので驚いた。
「これな、竜騎隊も世話になってる鍛冶屋の馬車なんだよ。丁度通りかかってさ、今から修繕した剣とかを竜騎隊へ運ぶところなんだって。乗せてってくれるから、これで帰ろう」
荷台へ乗り込むと大きな木箱がいくつも並んでいたが、二人で座るには十分な空きがあった。馬車はがらごろとのんびりした音を立てながら進んだ。
アベルの肩を借りながら、そっと目を閉じる。
全て悪夢だったと思いたかった。
そんなわけないのに。
食欲もなく酷く疲れていたので、その日は何もしないで早々にベッドで寝た。
翌日は怠い身体を何とか起こした。アベルが心配してくるので、元気に振る舞った。
誰にも相談できない。自分は逃亡している奴隷で、治安部に捕まりでもしたら投獄される犯罪者だなんて、どうして言えようか。
ゴロナに見つかってしまったからには、今後城下へは行けない。
「おーい、マル。昨日馬車を使っただろう。馬車屋の親父さんが礼をしたいとか言って、門のところで待ってるぞ」
隊員から声がかかる。年末の宿泊先を募集したときからちょこちょこ話すようになった隊員の一人だった。
竜騎隊の門番は隊員が交代制で担う。当番時間は持ち場を離れられないので、言付けはメモや伝言を繋ぐ。
鍛冶屋へ礼をするようなことはしていない。むしろ乗せて貰ったマルが礼を言う立場だ。
アベルは荷車を引く馬へ礼として花をあげたので、その件かもしれないと思った。運賃にしては、とても高価なものだ。
それなら礼を言われるのは自分ではなくアベルだと隊員へ話した。
「銀髪の花生みを探してるらしいから、マルだろ。アベルは金髪だしな」
先方の勘違いかもしれないが、取りあえず正門へ向かった。
竜騎隊本部の門は大きい。けれども通常は閉じていて、馬車が通るときだけ開けられる。人の出入りも同じだが、馬車用の扉よりも小さい扉がおまけのようにあって、そこを使用するようになっている。
昨日アベルは馬へ花をあげたが、自分は乗せて貰っただけ。そう思うと、どうしてマル自身が花生みだと鍛冶屋は知ったのか不思議だった。けれどアベルが何かの拍子に話したのだろうと、思い至った。
門のすぐ横で立っていた男は、髪を結わえて小綺麗な身なりをしていた。
背を向けていたので、鍛冶屋かどうか分からなかった。
正直なところ、鍛冶屋の男の顔は覚えていない。昨日馬車を降りるとき、具合が悪くてお礼を言い損ねてしまったので、たとえ人違いだったとしても挨拶ができるならしておきたかった。
「こんにちは。昨日、馬車に乗せてくれた鍛冶屋さんですか?」
だから、そこまで考えが至らなかったのだ。
ゴロナがここへ来る可能性に。
「『痛み』は馬鹿でいいな」
男はゆっくり振り返った。マルの大嫌いな笑みを浮かべて。
「ご……」
ゴロナ。
「ここに俺がいるのが不思議か? 簡単だぜ、鍛冶屋の馬車を尾行しただけだ。おっと、大声を出すんじゃねぇ。もし誰かを呼ぼうとしてみろ、逃亡奴隷だって今ここでバラしてやるからな。知ってんだろ? 逃亡奴隷がどれだけ重罪か」
まだ陽は高いのに、終業の鐘が鳴った気がした。
『違う』
『終わったのは』
『俺がここにいられる時間』
ワインで染まってしまったハンカチはもう贈れない。代わりの品を用意できる金もなくなってしまった。マルは空になった麻袋とともに、小さな肩掛け鞄へしまった。そしてやっと、笛の存在を思い出した。緊急時の笛だが、吹けなかった。
吹いたとしても、あの場ではどうにもならない。ゴロナが居る限り、逃亡奴隷だと暴かれる恐れもある。
それに吹いてたら奪われたかもしれない。自分には過ぎた銀の笛。ロナウドとお揃いだ。宝物なのだ。
マルは先ほどまで確かに幸せだった。初めて人へ贈り物をするのが嬉しかった。ゴロナがやってくるまでの話だが。
老女は突然起きた災難をマルへぶつけ、気を晴らした。けれどマルは二人からただ泥を浴びせられただけで、耐えることしかできなかった。
ゴロナに遭遇し、老女には金を奪われた。なぜこんなことに。そう思っても解決できるはずもなく、ただ悲しかった。
『楽して生きてたって、ろくな人間になれやしないんだから』
老女に言われた言葉が胸をえぐる。楽に生きてきたなんて、思ったことも感じたこともない。
頬を伝う涙のように、幸せはいつもマルから溢れて逃げてしまう。
「マル、どうしたんだ⁈」
俯いていた顔を上げると、目の前にアベルがいた。肩から提げた鞄が膨らんでいたので、買い物は無事に終わったようだった。
「あ……べる……」
「おい、具合悪いのか。いいから、動くなじっとしてろ」
腹から不快なものがこみ上げてくる。口から全て出してしまえば楽になれそうだけど、今口を開けても醜い恨み言まで吐きそうだった。
アベルは横へ座って、当然のようにマルへ膝を貸した。
「ありが……」
「いいって、黙ってろよ。マルが落ち着いたら、僕が馬車拾ってくるから、それに乗って帰ろう」
しばらくして吐き気が幾分和らぐと、アベルが馬車を探しに行った。少しすると目の前に幌を張った荷馬車がやってきて、そこからアベルが降りたので驚いた。
「これな、竜騎隊も世話になってる鍛冶屋の馬車なんだよ。丁度通りかかってさ、今から修繕した剣とかを竜騎隊へ運ぶところなんだって。乗せてってくれるから、これで帰ろう」
荷台へ乗り込むと大きな木箱がいくつも並んでいたが、二人で座るには十分な空きがあった。馬車はがらごろとのんびりした音を立てながら進んだ。
アベルの肩を借りながら、そっと目を閉じる。
全て悪夢だったと思いたかった。
そんなわけないのに。
食欲もなく酷く疲れていたので、その日は何もしないで早々にベッドで寝た。
翌日は怠い身体を何とか起こした。アベルが心配してくるので、元気に振る舞った。
誰にも相談できない。自分は逃亡している奴隷で、治安部に捕まりでもしたら投獄される犯罪者だなんて、どうして言えようか。
ゴロナに見つかってしまったからには、今後城下へは行けない。
「おーい、マル。昨日馬車を使っただろう。馬車屋の親父さんが礼をしたいとか言って、門のところで待ってるぞ」
隊員から声がかかる。年末の宿泊先を募集したときからちょこちょこ話すようになった隊員の一人だった。
竜騎隊の門番は隊員が交代制で担う。当番時間は持ち場を離れられないので、言付けはメモや伝言を繋ぐ。
鍛冶屋へ礼をするようなことはしていない。むしろ乗せて貰ったマルが礼を言う立場だ。
アベルは荷車を引く馬へ礼として花をあげたので、その件かもしれないと思った。運賃にしては、とても高価なものだ。
それなら礼を言われるのは自分ではなくアベルだと隊員へ話した。
「銀髪の花生みを探してるらしいから、マルだろ。アベルは金髪だしな」
先方の勘違いかもしれないが、取りあえず正門へ向かった。
竜騎隊本部の門は大きい。けれども通常は閉じていて、馬車が通るときだけ開けられる。人の出入りも同じだが、馬車用の扉よりも小さい扉がおまけのようにあって、そこを使用するようになっている。
昨日アベルは馬へ花をあげたが、自分は乗せて貰っただけ。そう思うと、どうしてマル自身が花生みだと鍛冶屋は知ったのか不思議だった。けれどアベルが何かの拍子に話したのだろうと、思い至った。
門のすぐ横で立っていた男は、髪を結わえて小綺麗な身なりをしていた。
背を向けていたので、鍛冶屋かどうか分からなかった。
正直なところ、鍛冶屋の男の顔は覚えていない。昨日馬車を降りるとき、具合が悪くてお礼を言い損ねてしまったので、たとえ人違いだったとしても挨拶ができるならしておきたかった。
「こんにちは。昨日、馬車に乗せてくれた鍛冶屋さんですか?」
だから、そこまで考えが至らなかったのだ。
ゴロナがここへ来る可能性に。
「『痛み』は馬鹿でいいな」
男はゆっくり振り返った。マルの大嫌いな笑みを浮かべて。
「ご……」
ゴロナ。
「ここに俺がいるのが不思議か? 簡単だぜ、鍛冶屋の馬車を尾行しただけだ。おっと、大声を出すんじゃねぇ。もし誰かを呼ぼうとしてみろ、逃亡奴隷だって今ここでバラしてやるからな。知ってんだろ? 逃亡奴隷がどれだけ重罪か」
まだ陽は高いのに、終業の鐘が鳴った気がした。
『違う』
『終わったのは』
『俺がここにいられる時間』
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