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24.悪女の噂

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 マルの部屋の前にロナウドが立っている。
 
「ごっごしゅじ……」

 叫びそうになる唇に、人差し指を一本当てられる。

「宿舎で叫んではいけない」
「……むぁい(はい)」
「部屋に呼ばれたいのだが、いいだろうか?」

 こくこくと頷いてマルが部屋の扉を開け、急いで壁と脇机にあるランプに火を灯す。
 ここは一人で暮らすには十分な部屋だ。窓があって、ベッドもあって、棚も机も椅子もある。足らないものは、あの素晴らしい景色と思っていた。そうもそうではあるけれど。もっと大事なものが足りなかった。目の前にいるロナウドが足りなかったのだ。
 きっと、ここがとんでもなく豪奢な部屋だとしても、王宮にあるような庭園があったとしても、同じように思うだろう。
 彼が視界に入るだけで、いつもより部屋が明るい。そんなことあるわけがないのに。あるわけがないから、気が付いてしまう。
 ロナウドを足らないと思っていた理由を。

「困った、これでは足りないな」
「え⁈」
「一人部屋だから、椅子が一脚しかないのは当然か。いや、こちらが押しかけたのだから仕方ない。実はこれを持ってきたのだ」

 マルは考えが筒けになってたのかと内心焦ったが、そうではなかったので胸をなで下ろす。
 ロナウドが持っていたのは、籐で編まれたバスケットだ。金具を外して広げると、ワインのミニボトルや食器がバンドで固定されていて、油紙で包んだチーズまで出てきた。

「カシスが花を食べたがって……。違うな、私がマルと食べたかったのだ。そう何度も時間を共有したわけでもないのに、なくなると落ち着かなくてな」
「……ご主人様、まだ一日ですよ」
「私はこらえ性がないのかもしれない」
「気が合いますね。俺もです」

 冷えていた夜の空気が、ふっとあたたかく感じた。
 そうしてベッドに並んで腰掛けたり、一人が椅子に座ったり、立ったりもしたが、どうもしっくり治まらない。身長差と微妙に合わないのだ。

「今度からはもう一つ椅子を用意しておきます」
「待て、これならどうだろう。ほら、ここだ」

 ロナウドが椅子に座り、ぽんと腿を叩く。
 腿。そこは腿の上。そこは主人の膝の上だ。

「座り心地は良くないかもしれんが、高さは合うかもしれない。嫌じゃなければだが」
「い、いやじゃないですけど……いいんですか?」
「私が構わないのだ。あとはマル次第だ」

 マルは少し考えてから、では、とおもむろにロナウドの膝の上に座る。チーズを食べるなら横向きがいいだろうと横を向く。近い。身長差がほどよく埋まり、顔と顔が近くなった。

「どうやら追加の椅子はいらないな。ほら、どうだ?」

 よく磨かれたいつもの細い銀色のフォークにチーズを刺してマルへ向けられる。マルが好きなレーズン入りだ。ぱくりと食べる。

「美味しいです」

 ロナウドが食べさせてくれているのだから。
 マルの首には青々としたつるが絡まって、そこへいくつも花が連なって生まれた。もう一口食べると、さらにつるが伸びて花も生まれる。
 ロナウドに会えて嬉しい、嬉しいと、抑えられない気持ちが花になっていく。

「これは見事だ。だが、つるがある」
「そうですね……」
「悩みがあるのか?」

 以前、マルはロナウドへ『悩むとつるが生まれやすい』と伝えたからだ。本心が現れてしまうのは、花生みの欠点だなと思ったが、今更だった。
 ロナウドに拾われたこと以外は、花生みのせいで損ばかりの人生を歩んできた。

「……ないです。花の生み方をアベルに教えてもらったから、それでたくさん生めたんだと思います」
「そうか、ならいいが……」
「ご主人様の方こそ、悩みがあるんじゃないですか?」
「悩み……?」
「はい。ありそうに見えます」

 一呼吸分だけ逡巡し、実は、とロナウドが切り出した。

「マルが『男をたぶらかす稀代の悪女で浮気者』だと忠告してくれた者がいてな」

 マルの頭には、くりくりのくせ毛の同僚が浮かんだ。

「悪女……なんですか、俺」
「ふむ。それによると、マルは私と付き合いながらアニムスと浮気しているそうだ」
「えぇ、俺、チーズが浮気相手だって聞いたような……気がしたんですけど……。違ったかな?」
「チーズか。それは困った。アニムスが相手なら決闘という手も取れるが、チーズが相手ではかなり厳しい。負けてしまうかもしれぬ。そら、もう一切れどうだ」

 口にチーズが運ばれて、また花が次々と生まれていく。

「マルにこれほど花を生ませられるのは、チーズをおいて他にないからな」

 悪女と付き合うのは大変だ、と付け足す唇は、柔らかな弧を描いていた。

「えーと、そうですね……チーズは強敵です!」
「この花の量を見る限り、かなり手強い相手だ」

 ロナウドはミニボトルから直接ワインを飲む。ロナウドの膝には、つるを巻いて花を散らしたような下働きのマルがいる。
 ひっそりとした非日常があった。クローゼットの中に隠れたり、立ち入り禁止の洞窟を探検をするような、悪さを一匙味わう。

「お返しです。どうぞ」

 マルもロナウドへチーズを差し出す。それを当たり前のようにロナウドも食べた。

「気遣いをする悪女か」
「はい」

 ロナウドが構ってくれるのなら悪女の噂もそう悪くはないと思えた。
 マルがくふふと笑うと、大きな手で頭をくしゃくしゃに撫でられた。
 夜が更けるのが惜しい。チーズを食べるように、ゆっくりと味わいたいと思うのに。


 ■■■


「また呼ばれたいのだが、いいだろうか」
「いつでも歓迎します」

 別れ際に、もう一度頭を撫でられた。
 ロナウドが屋根裏の階段をきしませながら降りていく。その音が聞こえなくなるまで、マルは部屋の扉の前で耳を澄ませていた。
 静かな世界に戻ってしまうと、一層寂しさが増す。ロナウドがいなくなった部屋は、とても暗く見えてしまう。ささっきまではとても明るかった。
 そうだ。やっぱりそうなのだ。
 自分はロナウドが好きなのだ。
 マルは崖の上から暗い海へ突き落とされたように、心が沈んでいく。

 逃亡奴隷が主人に恋してどうしようというのだ。

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