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20.花生みのアベル

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 誰が発言したのだろうかと辺りを見回しても誰もいない。可憐なアベルがいるのみだ。
 『新入り』とは、マルのことだ。入ったばかりの新人だ、間違いない。『ばあか』とは、ばか? ばかだ。
 ごろつきたちに囚われているころは、挨拶のように聞いていたが、久々に訊いた悪口だった。それで気が付くのに間があいた。

「じろじろ見てんじゃねえ、キモっ。さっさとそのクッキー缶を寄越せよ、グズ」

 薄いピンク色をした繊細そうな唇には不釣り合いな文言にマルが目をぱちくりさせる。
 アベルがマルの手から銀色の缶を奪う。中身は第四隊長から振る舞われたごちそうクッキーだ。大事に食べるつもりが、アベルはさも当然のように食べている。
 
「それ、第四隊長からもらったクッキー」
「知ってる。いつもこの缶でくれるから。美味いよな、これ」

 無造作にアベルが食べるので、みるみる減っていく。

「そうだけどそうじゃなくて、俺のクッキーだって」
「しょうがねぇな、分けてやるよ、ほら」

 マルの口へクッキーがねじ込まれる。強引とはいえ、口に入れば美味しい美味しいごちそうだ。噛めばさっくさく。バターの香りも最高。丁寧に丹念に大事に味わいたいところだ。それなのに「食ったらとっとと働け、カス」と首根っこを掴まれて、放り込まれたのは竜の厩舎だった。
 手伝いの新人として紹介されて、ひたすら掃除や雑用をした一日になった。
 竜騎隊の厩舎は規模が大きい。疲労感もロナウドの屋敷で働いていたときの比ではない。昼食もとらずにいたので、マルはぼろぼろどころかぼろ雑巾だ。そして肝心のアベルは、一日中姿を消していた。
 ふらふらになって、偶然出会ったアムニスに寮の場所と食堂を訪ねると、酷く驚かれた。

「お前、花生みなのに、なんで粘土みたいになってんだ?」

 相当げっそりしているらしい。
 花生みは疲労が慢性的に溜まり過ぎると花が少なくなったり黒い花を生んでしまうので、重労働はさせないようにしている。花生みの仕事は、竜の世話係ではあるが軽作業が主で、ぼろ雑巾にも粘土にもならないそうだ。

「あ、もしかしてアベルか? あいつにやれって言われたんだろ。あいつ結構クセあるからな! 飯も食えてねぇの? やべぇ、食堂は遅くなるとろくなもん残ってねぇぞ。急ごう!」

 長身のアニムスが、マルをひょいと肩に担ぎ上げる。マルはぐるんと視界が一転して、背中と地面しか見えなくなった。

「これ以外の抱き方したら、ロナウド隊長が文句言いそうだからな。揺れるけど我慢してくれ。いくぞ!」
「わ、わぁーーっ⁈」

 恥ずかしさに抗う気力もなく、なすがままに運ばれている。
 食事がないくらい、慣れていた。マルの人生では、三食食べられたことの方が少ない。
 それに屋敷で朝食も食べたし、第四隊長の部屋ではクッキーまで食べていた。以前に比べたらそうとう贅沢をしている。空腹ではあるけれど、少し頭がくらくらする程度だ。大丈夫なのだ。これくらい。
 それでもアニムスはマルを食堂の椅子に座らせると、手慣れた様子で色々と運んできた。パンも肉もスープもある。

「この時間にしちゃあ結構残ってたな。マル、遠慮なく食べろ。今ならまだお代わり出来るぞ」

 我慢できると思っていた腹がくぅと鳴った。食べ始めてみるとするする入るし、食欲も俄然やる気を出してきて、胃袋がいくらでも受け付ける。

「俺はアニムスさんと会うとき、いつも腹ぺこで助けて貰ってる」
「あっはっは。そういやそうだ。俺はさぁ、四人兄弟の長男だから、ちっさい奴が元気ないとすぐ腹減ってるのかと思っちまうんだよな。あとマルが花生みなのもあるな。つい世話を焼きたくなる」
「俺が花生みだから? アニムスさんも花が欲しいってこと?」

 花生みは『歩く金貨』と揶揄されることもある。生み出す花は高値で売れるからだ。花生みを手に入れれば、楽も出来るし贅沢もできる。
 金の亡者の餌食になってきたマルは、アニムスの発言が引っかかった。
 

「そりゃ花はあればありがたいさ。でもちっと違うかな。竜はさ、戦場じゃ俺と運命共同体だし、地上じゃ恋人のようなものさ。だから竜の欲しがる花を生んでくれる花生みは、俺の協力者って感じがするな。協力者は大事だろ?」

 アニムスがマルの銀糸をくしゃくしゃとかき混ぜた。

「そ……っかぁ。恋人かぁ」

 それならば分かる気がした。好きな人へ捧げる贈り物ならいい。私腹を肥やすために『歩く金貨』になるより、恋人と仲良くするための協力者の方がずっと素敵だ。

「おまけにマルは隊長が囲った花生みだしな」
「かこ……?」
「聞いてな……いやいや、察知して……もいないな。了解、今聞いたのは忘れてくれ。……にしてもおっかしいな、チーズでまとまった話じゃねぇのか?」


 ロナウドが腕を組んでなにやら考え込む。
 一方でマルは、ふと思い出す。チーズといえば、マルが毎晩のように食べさせて貰っていたのは、アニムスの実家が作っているチーズだ。

「あの、アニムスさんのチーズ、たくさん食べました。どれも美味しいです。ごちそうチーズでした」
「そか、ごちそうか。そう言ってもらえると嬉しいな。ありがとよ」

 アニムスが言うには、宿舎の食堂に卸しているチーズも実家のチーズ屋が作っているそうだ。店の看板は、ミルク缶でも牛でもなく、アニムスが幼いころに描いた竜を、両親が気に入って看板にしてしまったと話した。

「近くを通ることがあったら、是非立ち寄ってくれ。一番のフレッシュチーズを渡すよう言っておくから」

 それからアニムスは宿舎を案内した。一通り説明して、最後はマルの部屋だった。宿舎はあくまでも竜騎隊の隊員の寮なので、隊員以外は屋根裏部屋か隣接する別の建物の部屋を充てられている。マルの部屋は屋根裏だった。
 風呂敷に包まれた一つだけの荷物はベッドの上に置かれている。窓の下にはは、別の建物の屋根が見えた。花壇はない。
 ロナウドの屋敷の屋根裏部屋からの眺めとは、まるで違う。朝の光に照らされる素晴らしい一日の始まりは、ここでは難しい。

「王様じゃなくなっちゃった……」

 今朝も見た光景は、当分見られなくなった。分かっていたことだ。思い返すのはやめようとマルはベッドに入る。
 耳を澄ませると、階下で人が歩く音や、話している声が少し聞こえた。どれくらいの人がここに住んでいるのだろうか。考えていると、幕を引くように今日の終わりがやってきた。

 いつもなら、次に目を開くのは翌朝のはずだった。けれどもそうならなかったのは、マルの部屋の扉から金属音が聞こえたから。蝶番のきしむ音がして、遠慮のない足音がベッドへ近づいてくる。
 そして、ひどく苛立ったような声が。

「おい、もう男をたらし込んだのか? この淫売が」
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