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9.無邪気なカシス

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 マル壁際に下がるのを確認すると、ホセは房の扉を開けた。瞬間、ホセの足下を何かがしゅっと通り過ぎる。

「ふんっ!」

 それに合わせて飛び上がっていたホセは着地をすると、素早く房の中へ入る。しゅっ、しゅっ、しゅっとホセの足下を執拗に狙うのは、カシスの尻尾だ。うまく交わしながら、飼い葉桶に干し藁を追加する。するとカシスが食べ始めるので、その隙に飲み水も追加をする。それでもときどき襲う尻尾を避けながらブラシでカシスを磨く。

「よろしいですか、マルさん。ここからは時間との勝負になります。カシスが干し藁を食べ終わる前に鞍を付けるのです。よく見ていてください、いきます!」

 あらかじめ房の扉に引っかけておいた複雑な作りの革ベルトを手にすると、素早くカシスの顔に通す。カシスが邪魔そうに鼻先で追い払おうとするのを、ホセは身体をかがめたり反らしたり、素早さと柔軟性をもって対処する。
 しゅっ、と尻尾を振れば、さっと飛ぶ。
 ぐいっ、と顔ごと迫れば、くねっと避ける。
 そうこうするうちに鞍は装着され、飼い葉桶もほぼ同時に空になった。

「これで準備は終わりです。ご主人様が騎乗される場所までカシスをこのまま引いていきます。今朝はマルさんがいるせいでしょうか、大人しい方でした。ですが……」

 朗らかに話すホセが、突然かくんと首を傾ける。そこにできた空間へカシスの尻尾が槍のごとく刺しこまれた。空打ったカシスは尻尾でビタンと床を打つ。
「最後まで気を抜いてはいけません。カシスも私相手なので手加減はしていますが、それでも当たれば無事では済まないのですから」

 ホセは爽やかに不穏なことを言いながら、胸元のポケットから取り出した片眼鏡をかける。肩書きは庭師長で、着ている服も土色の動きやすい作業着なのに、よどみのない所作や言葉遣いは、執事そのものだ。

「おれにもできるようになりますか……?」
「もちろんです。カシスは旦那様以外どなたも背に乗せないのですが、マルさんは旦那様と騎乗できたではないですか。花生みだからでしょうか、マルさんを気に入ってるのだと思います。きっとわたくしよりも仲良くなれるでしょうね」

 さあ、と続けてマルへ革の手綱を渡す。誘導はマルの仕事。
 教わったとおり、カシスの横に立つ。手綱は軽く張るように短く持つ。余って垂れた分は空いた手で。くいくいと引くと、子どもの掌ほどのうろこを隙間なく並べられた脚で歩み出してくれた。大きな一歩に合わせ、こちらも歩幅を調節する。
 ドスッ。ちょこちょこ。
 ドスッ、ドスッ。ちょこちょこちょこちょこ。
 大きなカシスと小さなマル。これではどちらが誘導しているのか分からない。

「お上手ですよ、マルさん。このままお屋敷のアプローチまで行きましょう。ですが油断は禁物です。カシスはまれに……」
「まれに?」
「火を噴くのです」

 え、と思う間もなく、ホセからシャツの背中側を掴まれて一歩が遅れた。マルの目の前は、ごお、と真っ赤な炎が通り過ぎる。驚いてカシスを見ると、口元から漏れた赤く小さな炎が揺れていた。
 ホセが止めてくれなければ、今頃ろうそくのように頭を燃やされていたのだ。

「ほ、ほ、ほせっ、ホセさんっ!」
「カシスは怒っても火を噴きますが、楽しくても噴きます。今のはご機嫌な証拠ですね。見てください、尻尾が揺れているでしょう」

 尻尾ならば、ホセが手入れをしているときにだって振り回していた。あの太い尻尾に当たれば、よくて打撲。悪くて骨折するだろうと容易に想像がつく。今のこれがご機嫌な証拠だと言われても、どこが? と疑問符しか浮かばなかった。

「ご安心ください。すぐに見極められるようになりますから」

 そんな日が果たしてマルにくるのか、それとも頭を燃やされるのが早いか。恐る恐る横を見上げたら金色の瞳と目が合ってしまった。ぎゃお、と一鳴きしたカシスの口元で尖った歯がきらりと光る。
 怖い。けれど、逃げるわけにはいかない。なにも持たないマルが拾われたのは奇跡だ。ここにいる者たちはみな善良で、誰もマルを傷つけたりなどしない。逃亡奴隷だと知られないようにこそこそ隠れたり、食事の心配をする暮らしになど戻りたくもない。少しくらいなら頭を焦がされても、囓られてもこの屋敷にいたいのだ。

「ほ、ホセさん、俺、カシスと友達になれるようにします!」
「友達ですか?」
「はい! だって、友達なら燃やされないし、食べられないでしょ? だから俺はカシスの友達……ううん、親友になりますっ!」
「それは素敵な目標ですね」
「はいっ! わぁっ!」

 カシスが突然マルの首を長い舌で舐め回してくる。粘り気のある唾液で首元はどろどろだ。

「カシスっ! うわ、なんで⁈ やめろ、俺は親友だぞ、やめろってばっ!」
「マルさん、お気付きではなかったのですね。首元に小花が咲いたのです。野に咲くような可憐な白い花でしたよ」

 そうだったのかと気付いても現状は変わらない。手綱は離せない。たった一輪の小花で満足できないカシスは、まだマルの首元を名残惜しそうにべろべろと舐めている。

 くす、とささやかな笑い声がしたような気がしたが、アプローチの扉の前にはロナウドがいるだけ。
 笑い声は気のせいだったのだろう。

「おはようございます旦那様」
「お、おはようございます。だんなさま」
「あぁ。お早う」

 革手袋をはめた大きな掌を出されたので、手綱を渡すとすれ違い様に頭をぽんとしてきた。

「っ!」

 特段意味などないのか、ロナウドは表情一つ変えずカシスへ騎乗する。さっきまで尻尾を振り回したり、炎を噴いたり、首筋を舐めたりしていたカシスは、ロナウドが騎乗しやすいようにかがんだままびくともしない。
 この場で動揺しているのは、おそらくマル一人だ。
 とくん。とくん。胸の中でまるでリスがダンスをしているようにとくんと跳ねて、マルは不思議で仕方なかった。

「行ってくる」
「行ってらっしゃいませ旦那様」
「い、いってらっしゃいませっ、だんなさまっ」

 颯爽と鞍にまたがると、カシスは翼をぐううんと広げる。やや背中を丸めて、ため込んだ力を足の裏から吐き出すようにばっと飛び上がり、羽ばたいて空へ駆け上がった。みるみるうちに小さくなっていく旦那様を見送る。
 かっこいい。

「誠にその通りでございます」
「え、今、口に出てましたか?」
「ええ、出ていましたとも。無理もありません。旦那様の操竜技術は本当に素晴らしいのですから。さすが十六で竜騎隊第五部隊の隊長に任じられただけはあります」

 じゅうろく。聞き間違いだろうか。
 驚いたおかげで、胸のリスは静かになった。
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