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8.小さな王様
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マチルダから聞いたとおり、ロナウドは帰宅後に入浴してから夕食を済ませた。瓶に残るワインが半分になるとマルたち全員を呼び、そこでマルの紹介がされた。
結果、マルは嫁ではなかった。
「一人手伝いがいると楽だろう。カシスは私がいるときは大人しいが、いないときは誰の言うことも聞かない。ホセは庭師長だが、実際には執事と厩舎番も兼ねている。マチルダは腰を痛めたばかり。問題ないのは料理長だけだが休みが取れない。これではいつか破綻する。だが幸いなことにマルは花生みだ。カシスもいくらかいうことを聞くだろう。他の業務は三人が教えてやってくれ」
「おれは……お嫁さんじゃないんですね?」
「うん? 嫁が良かったのか?」
「い、いえ。安心しました。お嫁さんとかお母さんって、よく知らないので、おれなんかじゃお嫁さんになっても、きっと失敗しちゃいそうだから……」
ほっとした。マルにとってお嫁さんもお母さんも、漠然とした想像しかつかない。どちらも家にいる人、温かくて優しそうな人。大きな差はないけれど、強いて言うならお嫁さんはうきうきしている。マルのいた孤児院がそうだった。孤児院にいた職員は、結婚すると楽しそうに辞めていく。好きな人と一緒になるのは、素敵なことらしい。自分には無縁の話だ。
だから正直な気持ちを口にしたつもりだったのに、なぜか部屋の空気は暗くなった。ロナウドの杯は止まり、料理長とマチルダは背中が丸くなって、ホセは片眼鏡をさっと拭く。どうやら言わない方が良い話題だったのかもしれない
「あ、あの、これからお手伝い、頑張ります……。よろしくおねがいします」
「……あぁ、期待してる」
解散後、ホセがマルの部屋へ案内した。使用人用の簡素な部屋は、屋根裏の一角にあった。例の見晴らしの良い部屋の隣だ。
「今は夜ですが、日が当たるとこちらからの眺めも絶景ですよ」
あの景色が見えるなんて。きっと朝日に照らされる庭も素晴らしいのだろう。屋根があって、壁があって、ベッドも、椅子も、机も、クローゼットもある。しまう服がなくても、読む本がなくても、手紙を出す相手がいなくても嬉しかった。
「王様みたい……」
逃亡奴隷からの逆転劇だ。
花生みに生まれついたせいで、暴力と搾取ばかりの日々を送ってきた。明日の食事を心配せず、夜明けを楽しみにして眠れることなど記憶の限りはない。
ベッドの上には折りたたまれたシャツがある。広げてみるとかなり大きい。マルの膝丈ぐらいだ。寝間着に違いないと、さっそく服を脱いだ。
マルの腕には青色のインクで雑に彫られた識別番号の入れ墨がある。背中はもっと酷い。肌の色はほとんど見えない。ほぼインクの色をした背中に彫られたのは、卑猥な言葉だったり、落書きだったり、どうでもいいメモだったり。ボスの悪口も彫ったそうだが、そこは後から真っ黒に塗りつぶされた。
どれもマルが奴隷だった証拠だ。奴隷には人権もなければ、入れ墨を拒否する権利もない。
いつか、ロナウドたちには逃亡奴隷だと打ち明ける必要があるのかもしれない。それか、黙って再び逃亡する日がくるのかもしれない。
いつか。いつかだ。
憂いはあるけれど、今は考えないことにした。明日は朝から食事が食べられる。自分の分もあるらしい。この屋敷にいる全員に、毎日朝食も昼食も夕食も出される。なんて素敵なことか。
小さな王様はベッドに入って、そっと目を閉じた。
マルの一日は、厩舎内にいる竜とロバの世話から始まることになった。厩舎は敷地の隅にある木造だ。通常なら竜がいる厩舎は、レンガ作りの頑丈な建物にする。けれどカシスは幼竜のころからロナウドに大層懐いているので、家畜用の厩舎を大きくしただけの造りになっている。
入り口に近い房にはロバがいて『どんぐり』と書かれた簡素な木の札が下がっていた。
「このロバの好物はどんぐりなんですか?」
「いいえ、ロバの名前です。毛色がどんぐり色でしょう?」
話をしながら干し藁を飼い葉桶に、飲み水を水桶に追加する。確かに毛並みはドングリ色をしているし、とても艶がある。手間をかけてかわいがられている証拠だ。
「名前はだれが考えたんですか?」
「旦那様です。旦那様のロバですから」
どんぐり色をしたロバのどんぐり。なら赤紫の肌色をしたカシスはきっと果物からとったに違いない。彫刻のように表情筋が固まった顔と、鍛えられた見事な体躯をもつロナウドが、どんな顔をして『どんぐり』やら『カシス』やら、かわいらしい名前を考えたのか。随分とちぐはぐな気がした。
「どんぐりの清掃やブラッシングは、日中にします。最優先はカシスの準備です。旦那様がいつ騎乗してもよろしいように整えておかなければなりません」
ホセは見本を見せると言うと、身体の関節という関節を、入念に回し始める。そうしてほぐし終わるとカシスの房の前に立った。手元には、長い柄の付いた竜用のブラシと、干し藁の入った桶を携えている。いつの間にか片眼鏡は外していた。
「これから手入れを始めますが、危険なのでマルさんはもう少々後ろへ下がっていてください。今日は見学で結構です。竜の世話で肝心なのは、最初です。舐められたらいけません。では、参りますっ!」
ホセの目がきらりと光り、緊張感が走る。
なにやら凄いことが起きそうな気配だ。
結果、マルは嫁ではなかった。
「一人手伝いがいると楽だろう。カシスは私がいるときは大人しいが、いないときは誰の言うことも聞かない。ホセは庭師長だが、実際には執事と厩舎番も兼ねている。マチルダは腰を痛めたばかり。問題ないのは料理長だけだが休みが取れない。これではいつか破綻する。だが幸いなことにマルは花生みだ。カシスもいくらかいうことを聞くだろう。他の業務は三人が教えてやってくれ」
「おれは……お嫁さんじゃないんですね?」
「うん? 嫁が良かったのか?」
「い、いえ。安心しました。お嫁さんとかお母さんって、よく知らないので、おれなんかじゃお嫁さんになっても、きっと失敗しちゃいそうだから……」
ほっとした。マルにとってお嫁さんもお母さんも、漠然とした想像しかつかない。どちらも家にいる人、温かくて優しそうな人。大きな差はないけれど、強いて言うならお嫁さんはうきうきしている。マルのいた孤児院がそうだった。孤児院にいた職員は、結婚すると楽しそうに辞めていく。好きな人と一緒になるのは、素敵なことらしい。自分には無縁の話だ。
だから正直な気持ちを口にしたつもりだったのに、なぜか部屋の空気は暗くなった。ロナウドの杯は止まり、料理長とマチルダは背中が丸くなって、ホセは片眼鏡をさっと拭く。どうやら言わない方が良い話題だったのかもしれない
「あ、あの、これからお手伝い、頑張ります……。よろしくおねがいします」
「……あぁ、期待してる」
解散後、ホセがマルの部屋へ案内した。使用人用の簡素な部屋は、屋根裏の一角にあった。例の見晴らしの良い部屋の隣だ。
「今は夜ですが、日が当たるとこちらからの眺めも絶景ですよ」
あの景色が見えるなんて。きっと朝日に照らされる庭も素晴らしいのだろう。屋根があって、壁があって、ベッドも、椅子も、机も、クローゼットもある。しまう服がなくても、読む本がなくても、手紙を出す相手がいなくても嬉しかった。
「王様みたい……」
逃亡奴隷からの逆転劇だ。
花生みに生まれついたせいで、暴力と搾取ばかりの日々を送ってきた。明日の食事を心配せず、夜明けを楽しみにして眠れることなど記憶の限りはない。
ベッドの上には折りたたまれたシャツがある。広げてみるとかなり大きい。マルの膝丈ぐらいだ。寝間着に違いないと、さっそく服を脱いだ。
マルの腕には青色のインクで雑に彫られた識別番号の入れ墨がある。背中はもっと酷い。肌の色はほとんど見えない。ほぼインクの色をした背中に彫られたのは、卑猥な言葉だったり、落書きだったり、どうでもいいメモだったり。ボスの悪口も彫ったそうだが、そこは後から真っ黒に塗りつぶされた。
どれもマルが奴隷だった証拠だ。奴隷には人権もなければ、入れ墨を拒否する権利もない。
いつか、ロナウドたちには逃亡奴隷だと打ち明ける必要があるのかもしれない。それか、黙って再び逃亡する日がくるのかもしれない。
いつか。いつかだ。
憂いはあるけれど、今は考えないことにした。明日は朝から食事が食べられる。自分の分もあるらしい。この屋敷にいる全員に、毎日朝食も昼食も夕食も出される。なんて素敵なことか。
小さな王様はベッドに入って、そっと目を閉じた。
マルの一日は、厩舎内にいる竜とロバの世話から始まることになった。厩舎は敷地の隅にある木造だ。通常なら竜がいる厩舎は、レンガ作りの頑丈な建物にする。けれどカシスは幼竜のころからロナウドに大層懐いているので、家畜用の厩舎を大きくしただけの造りになっている。
入り口に近い房にはロバがいて『どんぐり』と書かれた簡素な木の札が下がっていた。
「このロバの好物はどんぐりなんですか?」
「いいえ、ロバの名前です。毛色がどんぐり色でしょう?」
話をしながら干し藁を飼い葉桶に、飲み水を水桶に追加する。確かに毛並みはドングリ色をしているし、とても艶がある。手間をかけてかわいがられている証拠だ。
「名前はだれが考えたんですか?」
「旦那様です。旦那様のロバですから」
どんぐり色をしたロバのどんぐり。なら赤紫の肌色をしたカシスはきっと果物からとったに違いない。彫刻のように表情筋が固まった顔と、鍛えられた見事な体躯をもつロナウドが、どんな顔をして『どんぐり』やら『カシス』やら、かわいらしい名前を考えたのか。随分とちぐはぐな気がした。
「どんぐりの清掃やブラッシングは、日中にします。最優先はカシスの準備です。旦那様がいつ騎乗してもよろしいように整えておかなければなりません」
ホセは見本を見せると言うと、身体の関節という関節を、入念に回し始める。そうしてほぐし終わるとカシスの房の前に立った。手元には、長い柄の付いた竜用のブラシと、干し藁の入った桶を携えている。いつの間にか片眼鏡は外していた。
「これから手入れを始めますが、危険なのでマルさんはもう少々後ろへ下がっていてください。今日は見学で結構です。竜の世話で肝心なのは、最初です。舐められたらいけません。では、参りますっ!」
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