放浪カモメ

小鉢 龍(こばち りゅう)

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第二章:それは儚いほどに長い夏

紡ぐ運命

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次の日の朝。

ソガはパンク修理キットを鴨居に少し分けてくれた。

そして「気張れや」と一言だけ言って、また加減の知らない強さで鴨居の背中を叩くと、豪快に笑いながら遠く正反対に向かい去っていった。





鴨居はまた自転車をこぎだす。

不思議とペダルが軽くなっているのは気のせいではないようで、パンク修理と一緒に自転車のメンテナンスを習ったからだった。

「僕が思っているほど遠くじゃない……か。どういう意味だったんだろ?」

道も分からず北へと進む鴨居。

しかし何かに導かれるかのように鴨居のペダルは迷うことなく一歩、また一歩と進んでいくのだった。


そして日も暮れる頃。

鴨居は古く小さなお寺の前を通りかかる。

そこは視界の半分が枯れている雑木林で、何だかやけに不気味だった。

「そこの君。もう日が暮れます、今日はここで休んでいかれてはいかがですか?」

急に話し掛けられて鴨居はブレーキを踏んだ。

キキィィっという嫌な甲高い音が辺りに消えていく。

「ここらか先は険しい山道です。昼間なら幾分か大丈夫ですが、日が暮れてからでは地元の者でさえ遭難することもある。」

まるで日本昔話の様な展開に鴨居は驚く。

そして自転車から降りて聞くのだった。

「あなたは……?」

そう尋ねると背の小さい男はにっこりと笑って答える。

「この寺で道を学んでいます。どうぞお上がりなさい。」

和尚(おしょう)は深く一礼をすると鴨居を手招きした。

4段くらいの小さな石段を登るとこれまた小さな寺があった。

「龍巣寺…りゅうすでら?」

厳かな木に深く刻まれた名前。

「りゅうそうじ、と読むんですよ。」

和尚はやわらかく訂正をするとまた手招きをした。

鴨居はその後に続いて歩いていく。

シャリッ。シャリッ。と軽快な砂利の音が響く。



和尚の招いた先には本堂よりも更に一回り小さなホッタテ小屋があった。

「男一人の寝ぐらですので綺麗ではありませんが、野宿よりかは幾分かマシでしょう。」

「いえ本当に助かります。おじゃましまーす。」


小屋の中はやはりと言うべきだろうか、少ない家具すらもボロボロに廃れてしまっていた。

ずっと長くから使い込まれているのだろう。

そのサビすらも厳かに見えてしまう。

和尚は鴨居に座りなさいと手で合図をする。


鴨居はお寺だからなのか、用意してくれた座布団の上で正座をして座った。

「おや?ははは。足を崩しなさい、何も経を唱えようというわけではないのですから。」

「あ、はい。」

そう言われて鴨居は顔を赤くしながら、足を崩して座った。

「ここはよく自転車やバイクで旅をする人が通りかかるのですよ。この前は身体が大きくて、とても大胆に笑う男の方でした。」

「………(ソガさんだ)。」

見るからに優しそうな笑顔に、深く刻まれた笑いじわ。

どことなく亡くなってしまった田舎の祖父に似ていると、鴨居は思った。

「どこから来られたのですか?」

「あ、千葉県からです。」
和尚は茶一色のきゅうすに茶を入れて、二つの茶碗を差し出す。

「千葉。それはそれは遠い所からわざわざ。」

熱いお茶が湯気をたてて部屋の中を横切っていく。

それを見ていたら今までの疲れがどっと押し寄せてきたのか、鴨居は深く眠りについた。


お寺の朝は早い。

本堂の掃除に始まり、敷地内の掃除。

経を唱えて、道を学ぶ。


「って思ってたのに……」

六時に起きた鴨居。

夜になったら寝て、朝が来たら起きるという生活をしてきたため目覚めがよい。

「あ、和尚さんまだ寝てるし……」

イメージとのギャップに鴨居は思わず吹き出す。

そして和尚を起こさないように静かに小屋を出ると、イメージ通りに行動をしてみた。



『ミーン、ミンミン、ミーン。』

早朝だと言うのにむせ返るほど熱い日差し。

耳をつんざくようなセミの鳴き声。

木造の床から匂う湿った空気。

『ドタドタドタ。。』

慣れない床掃除でお世辞にも軽快とは言えない音を立て鴨居は床をみがいた。

一宿の礼と言うのは大げさかもしれないが、これが鴨居なりの感謝の気持ちだったのだ。

「おしょうさーん。床掃除終わりましたぁ。そろそろ起きてくださいよ。」

そう叫んでみたけれども返事がない。




少し返事を待っていたのだが、一向に返事はなく。

鴨居は床にあぐらをかいて座り、目の前に広がる雑木林を見渡した。

「おしょうさん出かけちゃったのかな……?」

真夏の暑い日差しの中。

北風だったのだろう心地よい冷たい風が吹く。

長旅で伸びてしまった鴨居の黒髪を風がフワッと撫でると――



「お、掃除してくれてたんだねご苦労様。」

いつの間にか仏堂から和尚は顔を出していた。

その和尚の大きくはない背中の後ろに一人の少女が立っていることに鴨居は気が付いた。








真夏の刺すような日差しの中出会った少女。

田舎の山奥のお寺で見たのは。

こんな偏狭の地で何よりも孤独を抱えた小さな瞳。

僕はそんな少女に強くひかれてしまったんだ。





「あ、はい。えっと……その娘は?」

鴨居はギシリと鈍い音をたてながら立ち上がるとその少女を指差し尋ねる。

そんな鴨居のことを見て少女はより警戒を強めてしまったのだろう、和尚の背中の奥へと隠れてしまう。

「君と同じだよ。ずいぶん遠くから来たらしい。体も自転車もボロボロだ。」

そう言うと和尚は優しく少女を前に出した。

「こんな出会いも珍しい。お互いに同じ胸中の人と話すのは何か得るモノがあるかもしれないよ?」

そう言い残して和尚は仏堂の奥へと行ってしまう。

残された二人の間にしばし沈黙が流れたが、心地よい風が鴨居を後押しした。

とは言っても、挨拶というのには実にたどたどしかった。

「あ、その……ども。」

「……ども。」





こうして僕達二人の運命の歯車がゆっくりと―

そう、ゆっくりと回りだした。


少女は恥ずかしいのか、はたまた鴨居などに興味がないのか、しきりにキョロキョロと辺りを見渡している。

気まずくなってしまって鴨居は思わずそんな言葉が出てしまっていた。

「あー……えっと。困ったね。」

そう言った鴨居をチラリと見る少女。

目が合ったほんの一瞬に鴨居の顔が赤く染まる。

「えっと……オレ鴨居友徳。君の名前は?」

たびたび声を裏返しながら尋ねると少女がたどたどしく答える。

「ま……」

「ま?」

何かを言おうとして口をつぐみ。

また新たに言い直す。

「……メグ。」

「メグちゃんて言うんだ?」

少女は視線を逸らしながら、何故だか申し訳なさそうに頷いた。


多少疑問を抱いた鴨居だったが、一目見た瞬間にメグの持つ何か悲しいものを感じ取っていたので、あえて気に留めないことにした。


それから2人は和尚が庭の掃除をしに来るまでの間、何の会話もなく気まずい空気の中過ごしましたとさ。


鴨居が本人に全く自覚のない運命の出会いを果たした頃。


大した人通りもない商店街に、似付かわしくないロックな音が響きわたった。

「もしもし、杉宮ですけど。」

それは杉宮の携帯の着信音だったようで、ぽつぽつと振り返った通行人が、冷ややかな視線を送りながらまた各々の買い物へと戻っていく。

「もしもし、オレやけど。」

「悠太か……どうした?」

聞きなれた大阪弁。電話越しに分かる明るさとその表情。

「いやぁそろそろ、おうた頃かなぁって。」

杉宮には誰が誰に会うのか全く分からない。

「何の話だよそれ?」

「へっ?まだおうてへんの?まさか迷ってるんやないやろなぁ……」

ますます分からなくなり混乱する杉宮に気付き、悠太が慌てて事情を説明をする。

「姉貴がな、要くんに会いに行ってんやけど。そろそろ東京に着く頃やと思うねん。」

「悠美が!?」


「悠美が……何で?」

久しぶりの恋人との再会だと言うのに杉宮の心は弾まない。

電話越しでも、それは悠太にも伝わってしまっていた。

「何でって……そんなことも言わな分からへんの?」

杉宮は頭では分かっていた。

だけど、何かがそれを拒む。

「要くん!?」

そうだ身体でも心でも分かっている。

「悠太、オレどうしたらええ?」

喜びで弾む心を何かが押さえ付ける。

すぐにでも迎えに行かなければいけないと、走りだそうとする足を何かが地面にはりつけにする。


杉宮の情けない声に、悠太は憤りを隠せなかった。

「要くん最低や。んなこと他人に聞かな分からへんのか?」

「…………。」

杉宮は押し黙り、悠太の罵倒を待つ。

「要くんに好きな人ができてしもたんなら、仕方ない。本当にそう思っとった。今の今までは。」

悠太の言葉一つ一つがすんなりと杉宮の心を貫く。

「もし中途半端な気持ちで姉貴のこと泣かせおったら、次はオレが会いに行ってアンタしばき倒す。」

そう言って悠太は返答する時間も与えずに受話器を置いた。

『ポツ…ポツ…ポツポツ…ザーーッ』

いつの間にか空を覆っていた雨雲から生ぬるい雫が街に散った。

土砂降りの雨に視界を遮られながら、杉宮は傘もささずに走りだすのだった。



杉宮が走りだした頃。

悠美はまだ東京駅に居た。

「うわ……凄い人おる。次どこに行ったらええのか全然分からん。」

悠美は新幹線の改札を出る。

しばらくうろうろと構内を散策してみたが、構内の広さと出ている電車の本数の多さに、ただ驚いていた。

「こらアカンなぁ……誰かに聞かな。あ、すいません。」

人の良さそうなおばあさんに話し掛けたのだが、その人は会釈をしただけで去っていってしまった。

「なっ……何で話も聞いてくれへんの?関東は冷たいってほんまなんか?」

ジェネレーションギャップならぬローカルギャップとでも言うのだろうか。

大阪ならば道端で声をかければ、大事な会議に遅刻しそうな人など極少数の人以外ならばまず間違いなく足を止め話を聞いてくれる。

なんなら紙を持ってキョロキョロとしているだけで、知らないおばちゃんが「迷てんの?どないしたん?」と声を掛けてくるなんて、ネタが多くあるほど大阪人は世話を焼くのが好きなのだ。

ローカルギャップも多少はあるのだろうが、東京駅と言ったら先に挙げた極少数が沢山いる場所である。

なかなか立ち止まってくれる人はいない。それが現実だった。

「誰か話聞いてやー。」


方向音痴な悠美の悲痛の叫びも、忙しなく歩いていく人達に紛れ掻き消されてしまうのだった。

それから20分ほど構内を迷っていた悠美だったが。

ようやく改札に戻ることができ、千葉に向かう為のルートを駅員に聞くことができた。

と、そこまで聞いて満足してしまった悠美は駅員にホームが何処なのか?を聞き忘れ、また小一時間構内を彷徨うことになる。

「ウチの乗る電車どこぉ?東京駅なんか嫌いや。」

自分が迷っているのを東京駅の広さに責任転換。

相当まいっている様だ。

「あれ?いつの間にか雨降ってきてるやん……さっき売店あったし傘買おかな。」





悠美が売店で傘を買った時、ずぶ濡れになってしまった杉宮が東京駅に到着した。





「あ、うん。それならここを真っすぐ行って山手線の確か……4番ホームじゃなかったかな。」

五人目のトライでようやく足を止めてくれたのは、改札の手前で誰かを待っていた若いサラリーマンだった。

悠美は今まで無視され続けていた悲しみを晴らしてくれたそのサラリーマンに、ありったけの笑顔と深く頭を下げお礼をした。



そして言われた通りに構内を歩いていく。

すると曲がり角で広告に気を取られた悠美の横を杉宮が走り抜けたのだが二人とも気付つかない。

杉宮は立ち止まることなく新幹線降り場の改札を目指していった。

方向音痴な悠美ならば必ず誰かに道を聞くはずだ、と確信していたのだ。

「すいません、大阪弁で話す髪の長い子が道を尋ねに来たりしませんでしたか?」

駅員は1日だけでも、数えきれない程の質問に答えている。

その中のたった一人を思い出してくれと言ったところで本来ならば不可能に近いのだが。

悠美の場合は違った。

生まれも育ちも大阪の、生粋の大阪人でルックスも良く、若いのに一人だったために悠美の印象は濃かった。

「ああ、そんな子居ましたね。千葉までの路線をお教えしたらそっちに向かっていかれましたよ。」

「えっ……あ、そうですか。ありがとうございます。」

杉宮の中で一つの疑問が浮かび上がる。

(くそっ!!どこかですれ違ったのか……?)




その頃、悠美は本来乗るべきホームとは逆のホームで、透明なビニル傘を片手に電車を待っていた。



杉宮は人目も気にせずに走る。

息を切らし、服もはだけ、髪のセットも崩れかけている。

しかし、そんなことは微塵も今の杉宮には気にならなかったのだ。

(……千葉までなら、山手線か?くそっ、いつすれ違ったんだよ。)




「あっ……た。」

ホームへと続く上り階段を全速力で駆け上がる。

『プルルルルル……』

電車の発車を告げる放送。

「くそ、邪魔だよ。どいてくれ……」

杉宮はゆっくりと階段を登る人を掻き分け、一気にホームまでたどり着く。

『5番線発車いたします。』

しかし放送は杉宮のいるホームの向かいの電車のことだった。

間に合った。と胸を撫で下ろす杉宮の視界に一人の女性が写る。

「あっ……あんのバカ電車間違って!!」

そこには今にも間違っている5番線の電車に乗り込もうとしている悠美の姿があったのだ。

杉宮は人目を気にせずに叫ぶ。

「悠美ぃーーーーっ!!」


「えっと……山手線て書いてあるし、これでええんよね?」

5番線に到着した電車を見て悠美は何故だかホッとした様な表情だ。

散々迷い、何度も知らない人に尋ね、心身共に疲れ切っていたのだろう。

何の躊躇(ちゅうちょ)もなく乗り込もうとした瞬間。

他のホームで発着する電車の音の中に微かな声を聞いた。

「名前を呼ばれた気がしたけど、気のせいやんね。」

一瞬止まった悠美だったがまたゆっくりと足を踏みだす。

その瞬間。



「悠美ぃーーーーっ!!」

今度ははっきりと聞こえた。

乗り込んだ電車の窓から辺りを見渡すと、向かい側のホームに杉宮を見つける。

「えっ……要ちゃん。何で?」


『5番線の電車発車いたします。』


「どうしよ……降りな。降ります空けてください。」

いつの間にか満員になった車両から抜け出そうとする悠美。

「どいてや……お願いやから、早く……」




『プルルルルル…プシューーッ…』



京都にあるしみせの旅館。

杉宮の義父、雲静は電話越しに誰かと話をしている。

いつもとは違った険しい表情に、それを見守る従業員達にも緊張がはしっていた。

「……さよですか。いえ、えらい申し訳ない。」

低い口調、ゆっくりとしたテンポ、そしてクーラーの効いた部屋で汗をかいている、異常さにそこにいた全員が事の重大さに気付いていた。


「無理を承知でお願いします、後少し後少しでかまへん、待ってやってください。」

威厳ある当主のその惨めな姿を、従業員達は目を逸らすことなく目に焼き付ける。

「……はい。……はい。………なっ!?そんな馬鹿な話ありまへんやろ。」

雲静の取り乱した声に部屋の空気が一瞬にして凍り付く。

「そんな坂田はん、そんな殺生な話………。いや、仕方ありまへんな、はい宜しく頼みます。」

受話器を置いた雲静だったが、途方に暮れたようにダイヤルを見つめ続けていた。

すぐにでも電話を掛けなければならない人物が二人いたからだ。

しかし、その日に雲静が再び受話器を取ることはなかった。



その日の夜。

雲静はサトばぁを始め、旅館で働くスタッフ全てを大広間に集めた。

「今朝の電話を見てた人の中には感付きはった人もおるやろけど……ちゃんと私の口から言わせてもらいたい。」

五十畳はあるだろうか。広い座敷の部屋だけに明かりが灯っている。

「最近はしみせや言うても客は減るばかり、増え続けとるビジネスホテルに客を取られ経営も困難や。それはウチ、半田の旅館かて同じ。」

雲静が話し始めるとサトばぁは一旦席を外し、熱い茶とお茶請けを人数分用意した。

「みんなももう察しは付いてはると思う。ウチは今経営困難な状態や、知り合いのツテ使ぉて坂田はんに多額の資金を借りてはいたものの、今月からは坂田はんの会社も難しい状況になり、一時でも早く返済してほしいとのことやった。」

「それじゃあ、まさか。」

若い従業員の声に雲静は静かに首を振った。

その姿にサトばぁの次に古株の仲居が涙を流す。

「何年も前からこうなることは予想出来てた。いや、本来やったらもっと早くにこうなっていたのかもしれへんな。」

涙を堪えていた他の従業員達も声を出し泣き出す。

その中でも雲静とサトばぁだけは気丈に振る舞っていた。

「ここまで出来たのも一概にサトばぁ……織里(おさと)さんを始め私を支え続けてきてくれはった皆のおかげや。ありがとう。」

雲静は深々とまるで土下座の様に頭を下げる。



「…………。」

畳に写る雲静の影が小さく震えていた。

そして今まで沈黙を貫いたサトばぁが、雲静のその姿に声を荒げる。

「雲静!!なんぼ自分の力足らず言うても、当主が下の者にそないに簡単に頭を下げるとは何事や。顔上げて、その足りとらん頭で考え!!自分のその姿に他の者が何を感じとるのかをな。」

サトばぁに一喝され、雲静はゆっくりと頭を上げた。

その目に、自分を慕い支え続けてきてくれた従業員達の悔しいそうな、悲しみに暮れた表情が写る。

目を逸らしたい思いを振り切り、雲静は真っすぐに従業員達を見つめた。

その姿はまごうことなき当主としての威厳に満ち溢れたものだった。



「……坂田のとこに借りたんは確か3億と5000万くらいやったか?」

サトばぁの声に雲静は頷く。

サトばぁはもうすっかり覚めてしまった茶をすする。

「雲静、要をこっちに連れ戻し。」

杉宮をこのタイミングで連れ戻す意図に雲静は思い当たるものがあって、躊躇する。

「……しかし織里さん、それは要が。」

「雲静、馬鹿者が!!自分それは自分がどれだけの物を背負っているのかホンマに分かってての事か?」

代々続いてきた半田の旅館。

それを自らの代で降ろす、そのことの重大さは雲静もよくわかっている。

しかし、それでも関西を離れようやく自由と笑顔を取り戻した杉宮、我が息子を思うと気が引けてしまった。

それでもサトばぁは揺るがない。

「この旅館を潰すことはウチの目が黒いうちは何があっても許しはしまへん。今スグにでも要を呼び戻して、延期にしとった三芝財閥の令嬢との縁談に入らし。」


ほのかに涼しい風が、真夏の焼ける日差しの中を揺れる、そんな日。


鴨居はメグと一緒に和尚に頼まれた買い物をしていた。

「あとは……っと。トイレットペーパーとお供え物か。」

和尚に渡されたメモには日用必需品とお供え物のリストがかかれていた。

「メグちゃん重くない?半分持とうか?」

相変わらずメグはあまり口を開かない。

首を少しだけ横に振って、さっさと歩き始める。

お供え物を買い終え、店の外に出ると、この夏一番の強い日ざしが鴨居とメグを照らす。

暑くて、汗が吹き出すように流れていく。

「もう揃ったよね、帰ろうよ。」

メグが珍しく口を開らいたが、さっさと帰ろう。という内容に鴨居は少しがっかりした。


歩きだす二人。

鴨居はいつもよりゆっくりと歩くのだが、それでも女の子の歩幅にはなかなか合わない。

時折後ろを振り返る。

「メグちゃん大丈夫?」

両手いっぱいに荷物を抱えているメグを心配する鴨居だが、鴨居はすでにそんなメグの二倍の量の荷物を抱えていた。

「平気……。」

少しふらふらしているメグを見て鴨居は、すぐ先に見つけたベンチに座らせることにした。

「飲み物か何か買ってくるから休んでて。」

「えっ……でも。。。」

遠慮しようとしたメグに、微笑み鴨居はジュースを買いに走りだした。

「…………変な人。」


近くの売店でポカリスエットとオレンジジュースを買った鴨居の目に、あるものが飛び込んだ。

「へぇ、可愛いな。メグちゃんが被ったらきっと似合うだろうな……」

懐かしい麦わら帽子、ピンク色のリボンがまかれている。

鴨居はそれも買うとメグの待つベンチへと走る。





鴨居はまだ気付いていなかった。

異常なほどに早く脈打つのが、走ったからだけではないことに。





「お待たせ。ポカリとジュースどっちがいいかな?」

鴨居は何故か麦わら帽子を隠しながら、両手のジュースを見せた。

メグはオレンジジュースを手に取ると小さな声でお礼を言う。

「ありがとう、か……カモ。」

鴨居はカモと呼ばれるのは当たり前に思っていた。

小学校ででも中学でも、高校でも、そして大学生になった今でもあだ名と言えばカモだったからだ。

「あ、うん……どういたしまして。」

しかしどうだろう、鴨居は今初めて自分の名前を呼んでもらえたかのように心が弾んでいた。

鴨居はメグの隣に座り、メグには見えないように、麦わら帽子を自分の左手に置いた。




しばらく静かな空気の中で二人は飲み物を口にしていた。


真夏の熱い日ざしの中ゆるやかに冷たい心地の良い風が二人の間を吹き抜ける。

メグの黒いサラサラとした髪の毛をふわりと宙に舞わせた風は、鴨居の元に甘い匂いを届けた。

「カモはどうして旅をしているの?」

メグにカモと呼ばれる度に鴨居の心臓が弾む。

「オレは何もしてない人生が、自分が嫌で、何かをしたいって願うだけの自分を変えたくて……かな。メグちゃんはどうして?」

聞き返されたメグ。

「私は……逃げたの。」

色々な事情がありそうなのは始めから予想し得ていた。

だから、どんな回答でも鴨居は驚かないで聞いてあげられると思っていた。

しかし、その考えが自惚れだったことに気付く。

「……逃げた?」

「そう、逃げたの……」

もっと若い子の愚痴を想像していたのかもしれない。

もしかしたら、遠くへ行きたかったという希望の回答を期待したのかもしれない。

しかしメグの口からの返答は鴨居の考えとは全く違うものだった。

たった一言に鴨居には想像すらできない辛い過去があるのだと思い知らされてしまったのだった。
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