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第二章:それは儚いほどに長い夏
その声は優しく
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もう日も暮れた頃。
背の低い金髪の少年が、姉と一緒に住んでいる家に帰宅しようとしていた。
「はぁ、疲れた。サークルの女の子を家に送るんもしんどいもんやな。」
金メッキがはげかけている車のキーホルダーをつけた、部屋の鍵を差し込むと鍵はすでに開いていた。
それはもう姉が帰ってきているということを示している。
少年はドアを開けると大きな声で自らの帰宅を伝えた。
「ただいまー。晩飯残ってるー?」
返事が帰ってこないので少年はリビングへと向かう。
姉はリビングにいた。
「あれ?姉ぇちゃん誰に電話してん?」
少し暗い表情で受話器を取る姉を、からかい半分でいながらも、心配しているようだった。
「誰でもええやろ……」
「ふーん……」
恥ずかしそうにしている姉を見て弟はすぐにピンと来たらしい。
さっきまでよりももっとからかうような声で核心をつく。
「要くんなんやろ?悠美姉、えらいご無沙汰やもんなぁ。」
悠美はドキッと肩を揺らすと、弟の顔を睨み付ける。
その顔はどんどん赤くなっていった。
「うるさいわ悠太のアホ。大学生にもなって8時に家に帰ってくんな、チンクシャ。」
疲れて帰ってきたのに全くヒドイ言われようである。
しかし、どうやらこんなことはこの姉弟には当たり前のことの様で、悠太は気にせずに話を続ける。
「何を隠すことがあんねんな。彼女が彼氏に電話するんなんて当たり前やん。つか、どうせまた約束がどうとかで掛けてないんやろ?」
杉宮との幼い約束が悠美の握る電話の、ダイヤルを固く閉ざしていた。
「だって……要ちゃん言うたんやもん。いつか迎えに行くからそん時まで待っとって。って……」
涙を瞳一杯に溜めながら強がる悠美を見て、悠太は呆れたように首を振ると、少し突き放すような口調で言う。
「ふーん。ほなら、一生待っとれば?要くんが迎えにくるんと要くんの声忘れるんとどっちが先やろなぁ?」
「ちょっ……悠太!!」
悠太は「オレは知らへんよ」と最後に言うと自分の部屋へといってしまった。
残された悠美はまた受話器を取る。
「要ちゃん。ウチ要ちゃんの声忘れたくないんよ……ウチの声忘れて欲しくないんよ?」
震える指先が一つずつ確かにダイヤルを押していく――
『トゥルルルル……トゥルルルル……』
八月の上旬。
大学は夏期休暇の真っ最中である。
しかし講師たちに休息などはない。
佐野はちょうど仕事も一段落し、鳴っている電話に出た。
「もしもし佐野ですが。」
「もしもし明美ちゃんかい?」
少し年老いたか細い声に佐野は聞き覚えがあった。
「あ……お義母さまですか?」
「良かった。覚えていてくれたのねぇ、嬉しいわ。」
佐野は結婚をしていない。
養女というわけでもない。
電話相手のお義母さま。とは義母となるはずだった人――つまり、死んでしまった彼氏の母親のことであった。
「久しぶりね。少し疲れてるような声だけれど大丈夫?」
「はい。仕事が一段落したところでしたので。お義母さまもお変わりないですか?」
佐野はいつもは見せない、柔らかい表情で電話越しの相手に何度も頷いていた。
「それでね、今日電話したのはあなたに、とっても良い縁談があったからなの。母親でもないのにお節介と思われてしまうかもしれないけれど……」
正喜の母、和子(かずこ)は、佐野が彼女のことを実の母のように思っているように、佐野のことを実の娘のように思っていた。
「ありがたいお話ですけれど、私はまだ……」
「正喜のことが忘れられないのね?」
ほんの数秒間だけ和子は佐野の返答を待った。
しかし分かっていた通りに佐野は黙ってしまう。
「正喜は幸せ者ね。明美ちゃんみたいな綺麗で誠実な人にこんなにも好かれて。」
「私はそんな……」
正喜と言う言葉を聞くたびに佐野の心臓が張り裂けそうになる。
「でも、正喜はダメな男ね。」
急に和子は真面目な声でそう言い放った。
「お義母さま……?」
「良い男って、何よりも好きな人を思うことができる人だと思うの。今、明美ちゃんは苦しんでる。他の男性を好きになって幸せになることを拒んでしまっている。」
「お義母さま、それは正喜さんのせいじゃな……」
正喜のせいじゃない。と言い掛けて佐野は言葉を飲み込んだ。
電話越しに和子が泣いているのが聞こえたのだった。
「あのバカ息子。明美ちゃんを一人にさせただけじゃなく。こんな風に辛い思いをさせるなんて……」
和子の泣き声が佐野の胸を痛いほどに突く。
清々しい晴れ渡る空を窓越しに見ながら佐野は、明るい声で言う。
「お義母さま。私、正喜さんと二つの約束をしたんです。」
「約束……?」
佐野は机の一番下から正喜と写っている最後の写真を取り出した。
正喜の明るい笑顔が日差しに栄える。
「はい。一つは私が勝手に約束したことで。正喜さんの命日には煙草を吸わないこと。」
佐野は少し笑いながらそう言った。
和子を和ませる意味もあったのだろう。
「もう一つは?」
「正喜さんは"もしも"の話をするのが好きでした。もしも結婚したら、もしも子供が生まれたら、もしも明日地球が無くなるなら……いろんな話をしたんです。」
佐野は写真の正喜の頬を優しく撫でると、その時のことを思い出しているのか微笑む。
「もしも僕が君より早くに死んでしまったら、どうかすぐにでも違う人を見つけて僕の分まで幸せになって欲しい。」
その時も写真と同じような幼い笑顔をしていたのを佐野は覚えていた。
「君が誰かを見つけるまで僕は幽霊になって監視するし、誰かを見つけた後は仏にでもなって君達を見守り続けるから。って……笑いながらそう言ったんです。」
「ほんとに、正喜さんはダメな男です。」
「明美……ちゃん?」
佐野の啜り泣く声に和子は驚いた。
和子は佐野が泣いているのを見たことが無かった。
正喜の葬儀の時も、お墓参りに一緒に行った時だってそうだった。気丈に振る舞い肩を揺らしながらも涙を見せたことなどなかった。
「幽霊になって監視する、仏になって見守る。なんて言われたらいつも一緒にいる気がして、他の男性なんか探せるわけがないじゃないですか……」
佐野の弱い部分が垣間見えて、何故だか和子は少し嬉しくもあった、そしてくすり、と笑う。
「ほんとバカ息子なんだから、しょーがないねぇ。明美ちゃんもとんだ男を好きになっちゃったもんだね。」
「……はい。」
そう言って二人は笑う。
夏の日差しは温かくて、佐野はいつまでもこの日差しに包まれていたいと。そう思うのだった。
その後もしばらくたわいない話をして、二人は電話を切った。
外は肌も焼けるような猛暑で遠くの空が僅かに揺れた。
その遠くの空に正喜が居たような気がして佐野は空を何度も見上げたが、「バカだな」と呟いて写真を引き出しの中に、大事そうにしまった。
父さんの笑顔が大好きだった。
それは記憶にはない写真として記録された笑顔。
それでもオレはやっぱり父さんの笑顔が大好きだった――
杉宮は静の病室で倒れてから、丸一日眠り続けていた。
そんな杉宮に付きっきりで看病する人の姿がある。
(あ……温かい手。それに大きな手だ。静兄さんじゃない………もしかして)
バッと目を覚ました杉宮が目にしたのは、今頭をよぎった人物ではなどではなかった。
「……親父?」
「ふぅ、ようやく目を覚ましたか。」
そこにいたのは杉宮が毛嫌いしてやまない、雲静だった。
もしかしたら、父さんが?そう一瞬でも思ってしまった自分が恥ずかしくて、杉宮は雲静とは逆向きに寝返る。
「静から連絡をもらった時には驚いたぞ。もうすぐ京都だったというのに東京へとんぼ返りだ。」
「何で戻ってきたんだよ?」
ぶっきらぼうな言葉だったが、杉宮に反抗の態度がないのは分かった。
杉宮は純粋に雲静が自分の病室へと戻ってきた理由が分からなかったのだ。
「自分の息子を心配しない父親がどの世界におる?」
雲静は真っすぐに杉宮を見てそう言った。しかし杉宮が視線を合わせることはない。
「さて、要も目を覚ましたことだし私は帰ろう。旅館を三日も空けるとサトばぁが喧(やかま)しいからな。」
サトばぁとは本田の旅館に長くから努める仲居さんで、雲静が出かけるときなどには旅館を一任する。
優しそうな外見とは裏腹に、口喧しく、時には手もあげる、しかし誰よりも旅館と客を大事にするおばあさんだった。
雲静は椅子にかけてあったコートを羽織ると席を立った。
「あんたは、母さんのことを……」
扉に手を掛けた時、小さな声で杉宮はそう聞いた。
振り向いた雲静はまるで杉宮の実父のような笑顔で一言。
「愛していたよ。」
雲静が帰ってからも杉宮はしばらく、病室の入り口を戸惑う表情で見つめ続けていた。
一週間後に杉宮は無事退院をした。
家に着いた杉宮はしばらくほおったらかしにしていた携帯を手に取る。
すると不在着信のアイコンが表示されていた。
杉宮は着信履歴をチェックする。
「……悠美?」
それは高校生の時からぜっと付き合いを続けている、立石 悠美(たていし ゆみ)からだった。
杉宮は僅かに迷いながらも電話を掛けなおした。
『トゥルルルル……トゥルルルル……』
杉宮は後ろめたさを感じる自分の心を隠せないでいた。
言い得ぬ不安ですぐにでも電話を切ってしまいたかった。
しると四回ほどコールして電話がつながった。
「もしもし。立石ですけど?」
「…………あれ?悠斗か?」
電話に出たのは弟の悠斗で何故だか安堵をもらしてしまっていた。
悠斗はしばらく、聞いたことのある懐かしい声を記憶でたどった。
「もしかして、要くん?えらい久しぶりやんねぇ。元気しよった?」
「ああ。悠斗も相変わらず元気そうだな。」
もうすぐ二十歳になるというのに、小学生のようにはしゃぐ悠斗の声を聞いて、杉宮は聞こえないように笑う。
「電話なんかしてくるの半年ぶりくらいやろぉ?姉ぇちゃんほんまに淋しくしててんやで分かっとんの?」
杉宮は苦笑いをしながら、「すまん」と謝った。
「悠美はまだ帰ってきてないのか?」
「うん、今買い物行ってるみたいやわ。あいつ携帯持ってないから連絡取るんも大変やなぁ。」
悠美は驚く程の機械音痴で、電子機器は悉く扱うことができない。
それどころか奇想天外な発想で見事壊してくれるものだから、悠美は携帯すら持っていなかったのだ。
「ああ。お互い大学生にもなったのに家電てどういうことだよな。はは。」
しばらく会話をしていると、悠太がほんの少し寂しそうに言うのだった。
「要くん、随分標準語が板に付いてきたんやね。もう大阪離れて四年目やもんな、当たり前か……」
『トゥルルルル……トゥルルルル……』
杉宮は後ろめたさを感じる自分の心を隠せないでいた。
言い得ぬ不安ですぐにでも電話を切ってしまいたかった。
しると四回ほどコールして電話がつながった。
「もしもし。立石ですけど?」
「…………あれ?悠斗か?」
電話に出たのは弟の悠斗で何故だか安堵をもらしてしまっていた。
悠斗はしばらく、聞いたことのある懐かしい声を記憶でたどった。
「もしかして、要くん?えらい久しぶりやんねぇ。元気しよった?」
「ああ。悠斗も相変わらず元気そうだな。」
もうすぐ二十歳になるというのに、小学生のようにはしゃぐ悠斗の声を聞いて、杉宮は聞こえないように笑う。
「電話なんかしてくるの半年ぶりくらいやろぉ?姉ぇちゃんほんまに淋しくしててんやで分かっとんの?」
杉宮は苦笑いをしながら、「すまん」と謝った。
「悠美はまだ帰ってきてないのか?」
「うん、今買い物行ってるみたいやわ。あいつ携帯持ってないから連絡取るんも大変やなぁ。」
悠美は驚く程の機械音痴で、電子機器は悉く扱うことができない。
それどころか奇想天外な発想で見事壊してくれるものだから、悠美は携帯すら持っていなかったのだ。
「ああ。お互い大学生にもなったのに家電てどういうことだよな。はは。」
しばらく会話をしていると、悠太がほんの少し寂しそうに言うのだった。
「要くん、随分標準語が板に付いてきたんやね。もう大阪離れて四年目やもんな、当たり前か……」
「しかもその間もたまにしか電話もしてこぉへんし。大阪戻ってきたんなんて三回か四回くらいやろ?なんか理由でもあるん?」
悠太の言葉に杉宮は上手い言葉が出てこなかった。
「あー、あれやろ。千葉で他に好きな人でも出来てしもたんやろ。せやったらしゃーないもんなぁ?……って要くん?」
杉宮は佐野のことをズバリ言い当てられてしまい、嘘でも否定することができずに黙ってしまう。
「ほんまに……そうなんか?」
「いや、オレ――」
杉宮が何か答えたようとした瞬間。
リビングの扉が勢い良く開いた。
「悠太ただいま。電話……誰としとるん?」
「あ、姉ぇちゃん。代わ……ろか?」
悠太は小さく、杉宮にだけに聞こえるように、電話を代わろうか?と聞いた。
不自然な弟の態度に悠美は姉の勘とでも、女の勘とでも言うのだろうか。電話の相手に感付き悠太から受話器を奪い取った。
「要ちゃん?要ちゃんなんやろ!?かな……」
『ツーツーツー……』
悠美の耳に響いたのは、忘れることのできない人の声ではなく、胸をくしゃくしゃに潰してしまう電話の途切れた音だった。
受話器を置いてからも悠美はしばらく放心状態で電話を見つめていた。
いや、正確には、先程までつながっていた電話の相手を。だろうか。
悠太はそっと隣で見ていたが、低い声で切り出す。
「……どうすん?」
「えっ……?」
悠美はまた目一杯に涙を溜めたていた。
「せやから!!もしも、要くんにあっちで好きな人が出来てしもたとしたら、どうすんねん?て言うてんねん。」
悠美はそう言った悠太を儚げな表情をしながら見る。
瞬きもしていないのに涙が頬を伝っていった。
「そんな……だって、要ちゃん、待っとってって。待っとってってそう言うたんやもん!!」
悠太は何も言わずに震える姉を見つめていた。
「待っとって。って……」
手で顔を覆いながら悠美は声を出して泣く。
「お姉ぇ、千葉行ってき。今すぐ千葉行って要くんに直接聞いてきぃや。」
そう言うと悠太は自分の財布から三万円ほど取り出して悠美に手渡した。
「悠太……?」
「やるわけやないで。ちゃんと戻ってきたら返しや?」
「うん……ありがと。」
悠美はすぐに身支度をすると新幹線に乗るために、新大阪駅へと向かった。
走りながら悠美は涙を拭いた。
不安を蹴飛ばす様に、力強く進んでいくのだった。
「要ちゃん……ウチ嫌やで?こんなん絶対に嫌やからな。」
夢を見た。
誰かに追い掛けられている夢だった。
夢占いではよく、見た夢とは逆なことが実際に起こる、なんて言う。
だとしたら……
だとしたら僕は――
きっと。
鴨居が自転車で飛び出してからまるまる二週間が経過した。
真夏の日差しはどんどん強くなる。
茶色くなった皮膚は毎日のようにペリペリと音を立てて剥けていく。
陽射しを遮る駅のベンチで昼食を取っていた鴨居。
ボロボロになった服を変な目で見られても全く動じないほどに彼は強くなっていた。
「よし。今日も上(北)を目指して行きますか。」
そう言って鴨居は、公園などで汲んだペットボトルに入れた水を、グビッと音を立てて飲み込んだ。
なんだかんだで普通な生活をしてきた鴨居である。
一人旅も初めて。ここまで本格的な野宿だって初めて。
もちろん公園で持参したペットボトルに水を汲んだことなどなかったが、今となってはお手のものだった。
人力で進む旅では水の補給は欠かせないこと。
公園や民家、時には学校に忍び込んだりと水を得るためなら手段を選んでいられない。
コンビニなどでミネラルウォーターが売っているが、一日に2リットル、3リットルと補給するわけだから一々買っていたら資金がいくらあっても足りないのだ。
そんな旅を重ね少しは自信も付き始めても良い頃合いなのだが、鴨居の心境にはさほどの変化は見られない。
「……暑いなぁ。」
いつも遠くに聞こえていた声。
『僕はここだよ――』
自転車で走る度に少しずつ
ほんの少しなんだけれど――
近づいている。
そんな気がしていたんだ。
岩手県に入った鴨居。
慣れない道を標識などで見て進むことにもだんだんと慣れてきているようだ。
袋小路に入り込んでしまったり、公道だと思っていたらいつの間にか民家に入ってしまっていて怒られたり。
ましてや軽車両の入ってはいけない高速道に、迷い込んでしまうことも今はなくなった。
軽快に走っていた鴨居だったが、ある違和感を覚える。
どうにもペダルが重く感じるのだった。
もしやと思い鴨居が前輪のタイヤを見ると。
「……あっ。パンクしてる。。。」
空気の抜けたタイヤはフニャフニャと地面に擦れた。
そして空気を入れる管が地面に当たるたびに、自転車がカタッと微妙に揺れる。
もうグラッと揺れてサドルから振り飛ばされてしまえば良いのに、カタッと妙に力なく揺れるものだから何故だか悲しくなる。
「うーわー。どうしようパンク終了なんてしたことないし……つか道具がない。」
自転車で旅をするのにパンクの修理をする道具や、替えのタイヤチューブを持っていくなんて当たり前のことなのだが、鴨居は初心者どころか自転車への関心は0と言ってもいい。
と、まぁ。そんな鴨居が修理キットを持っているワケもなく。
鴨居は道路の端に避け、力なく立ち止まった。
「さて……どうしたもんかな。」
鴨居は辺りを見渡すがひとけが全く無い。
それどころか民家すら見当たらなかった。
だだっ広い麦畑の青だけが一面に広がっている。
「案外広い道路なのに人通りは無し。か……はぁ。疲れたな。」
タイヤのパンクで強制的に足を止められてしまったことで、気が抜けてしまったのだろう鴨居はその場に腰掛けると、そのまま目を閉じた………
「……。」
『…………だよ』
えっ、誰――?
『……こっちだよ』
誰かの声がする……
『どうして気付いてくれないんだ、僕はここだよ!!』
この声は……僕?
どこにいるの?
『ここに居るよ。僕はここだよ。』
え、何?どこにいるの?
ねぇ。
ねぇ!!
「君、大丈夫か?」
ガッと肩を掴まれ、鴨居は身体をビクッと揺らし目を覚ました。
「あ、え?」
目を開けるとそこには、タオルを頭に巻いた男が立っている。
大柄で日焼けをしていて、筋肉質な。
でもそれでいて柔らかな雰囲気を持つ人だった。
「こんな大通りで寝ていたら危ないよ。ま、車はめったに通らないんだけどね。」
豪快な笑顔を見せた男は自分の自転車に付けたバッグから、何かを探す。
「もしかしてあなたも自転車で旅を?」
そう鴨居に聞かれると、男は一瞬驚いたが「そっか」と呟いて笑った。
「そっかそっか。君もか。ママチャリだったけど、この道を通っているからもしかしたらもしかするのかな。なんて思ってたんだ。」
そして男は鴨居に、乱暴に詰め込まれ散乱していた、その道具を手渡した。
「俺は曽我(そが)。みんなソガさんて呼ぶから君もソガさんて呼んで良いよ。」
「あ、オレ鴨居友徳です。あの……ソガさんこの道具って何ですか?」
手渡された道具を見ながら鴨居がそう言うと、ソガは笑顔のまま一瞬硬直する。
「はい?」
ソガに渡された道具は自転車のパンク修理キットだった。
専用の接着剤に、チューブを取り外すための小さなコテ。黒いゴムにオレンジ色の線の入ったシール。
それらの使い方を教わりながらパンクの修理をした。
「いやー、まさかパンク修理もできないのに旅するヤツがいるとは思わなかったよ。バカだなー君。」
ソガは鴨居の背中をバシバシと叩きながら見た目どおり豪快に笑った。
「パンクしてんのは一目見て分かったから、パンク修理キット切らしちゃったんだろうな。って思って声かけたら、まさかねぇ……」
そう言ってまたソガは豪快に笑う。
笑われているのに何故だろうか鴨居は恥ずかしくない。それどころか少し嬉しかった。
「ソガさんはどうして旅をしているんですか?」
パンクの修理を丁寧にソガが教えたために、日が暮れ始めていたので。
二人は少しだけ進んだ所で、今日の寝床を確保した。
「んー。旅の理由ねぇ……まぁ、なんだ自転車で走るのが楽しいからじゃねぇかな?オレの場合は。」
予想どおりの豪快な答えに鴨居は思わず吹き出した。
「あっ、このヤロ笑いやがったな。……それじゃあカモは何で旅なんかしてんだ?」
「お、オレは……」
鴨居はソガだったら、理由を聞いても豪快に笑い飛ばしてくれると思って、正直に話した。
「オレ何処に居ても、誰と居ても、自分がそこに居ないような気がするんです。」
知り合って間もない男に何を真面目に語っているのだろう。と始めのうちは思った鴨居だったが。
ソガのゆるやかで大きな雰囲気にそんな気持ちすらも、飲み込まれていくようだった。
「自分は何処に居るのか?何処へ向かうのか?そんなことが少しでも分かったらな……って思って。」
「居場所探しの旅ってやつか?」
鴨居はソガから分けてもらった乾パンを少しかじる。
「居場所探しって言うか……オレけっこう昔から何処かで自分を呼んでいる声が聞こえるんです。それが自分の声な気がして、遠くから聞こえるから遠くへ行こうって。」
話し終えた鴨居は乾パンをかじりながら、ソガの豪快な笑い声と加減を知らない背中を叩く手を待った。
「……そうか。」
しかし聞こえてきたのはソガに似合わない静かで冷静な声だった。
「分かる気がするよ。遠くで自分を呼ぶ声がするって。俺もそんな時があったから、分かる。」
ソガは何度も低い声で「分かるよ」と言った。
それからソガの地元の話や、北海道の山中で野宿をしていて熊に襲われかけた話を聞いた。
辺りも静まると、ソガが急に真面目な顔をして言うのだった。
「でも、きっとさカモが思ってるほど遠くにはいないと思うよ?」
「どういう意味ですか……?」
核心を聞き出そうとした鴨居だったが、今までとは違った優しげな笑みでソガは言う。
「さぁ?それは、カモが見つけだすこと、見つけなきゃいけないことだと思う。そうだろカモ?」
鴨居は小さく「はい」と言って大きくうなずいた。
ソガは大きな手でカモの頭をグシグシと撫でる。
「ま、気張れや少年。」
最後にそう言ってポンと頭を叩くと、ソガは寝袋のチャックを上までしめ、眠ってしまった。
ソガの豪快ないびきに睡眠を妨害されながらも、人と接することの大切さを再確認した鴨居だった。
背の低い金髪の少年が、姉と一緒に住んでいる家に帰宅しようとしていた。
「はぁ、疲れた。サークルの女の子を家に送るんもしんどいもんやな。」
金メッキがはげかけている車のキーホルダーをつけた、部屋の鍵を差し込むと鍵はすでに開いていた。
それはもう姉が帰ってきているということを示している。
少年はドアを開けると大きな声で自らの帰宅を伝えた。
「ただいまー。晩飯残ってるー?」
返事が帰ってこないので少年はリビングへと向かう。
姉はリビングにいた。
「あれ?姉ぇちゃん誰に電話してん?」
少し暗い表情で受話器を取る姉を、からかい半分でいながらも、心配しているようだった。
「誰でもええやろ……」
「ふーん……」
恥ずかしそうにしている姉を見て弟はすぐにピンと来たらしい。
さっきまでよりももっとからかうような声で核心をつく。
「要くんなんやろ?悠美姉、えらいご無沙汰やもんなぁ。」
悠美はドキッと肩を揺らすと、弟の顔を睨み付ける。
その顔はどんどん赤くなっていった。
「うるさいわ悠太のアホ。大学生にもなって8時に家に帰ってくんな、チンクシャ。」
疲れて帰ってきたのに全くヒドイ言われようである。
しかし、どうやらこんなことはこの姉弟には当たり前のことの様で、悠太は気にせずに話を続ける。
「何を隠すことがあんねんな。彼女が彼氏に電話するんなんて当たり前やん。つか、どうせまた約束がどうとかで掛けてないんやろ?」
杉宮との幼い約束が悠美の握る電話の、ダイヤルを固く閉ざしていた。
「だって……要ちゃん言うたんやもん。いつか迎えに行くからそん時まで待っとって。って……」
涙を瞳一杯に溜めながら強がる悠美を見て、悠太は呆れたように首を振ると、少し突き放すような口調で言う。
「ふーん。ほなら、一生待っとれば?要くんが迎えにくるんと要くんの声忘れるんとどっちが先やろなぁ?」
「ちょっ……悠太!!」
悠太は「オレは知らへんよ」と最後に言うと自分の部屋へといってしまった。
残された悠美はまた受話器を取る。
「要ちゃん。ウチ要ちゃんの声忘れたくないんよ……ウチの声忘れて欲しくないんよ?」
震える指先が一つずつ確かにダイヤルを押していく――
『トゥルルルル……トゥルルルル……』
八月の上旬。
大学は夏期休暇の真っ最中である。
しかし講師たちに休息などはない。
佐野はちょうど仕事も一段落し、鳴っている電話に出た。
「もしもし佐野ですが。」
「もしもし明美ちゃんかい?」
少し年老いたか細い声に佐野は聞き覚えがあった。
「あ……お義母さまですか?」
「良かった。覚えていてくれたのねぇ、嬉しいわ。」
佐野は結婚をしていない。
養女というわけでもない。
電話相手のお義母さま。とは義母となるはずだった人――つまり、死んでしまった彼氏の母親のことであった。
「久しぶりね。少し疲れてるような声だけれど大丈夫?」
「はい。仕事が一段落したところでしたので。お義母さまもお変わりないですか?」
佐野はいつもは見せない、柔らかい表情で電話越しの相手に何度も頷いていた。
「それでね、今日電話したのはあなたに、とっても良い縁談があったからなの。母親でもないのにお節介と思われてしまうかもしれないけれど……」
正喜の母、和子(かずこ)は、佐野が彼女のことを実の母のように思っているように、佐野のことを実の娘のように思っていた。
「ありがたいお話ですけれど、私はまだ……」
「正喜のことが忘れられないのね?」
ほんの数秒間だけ和子は佐野の返答を待った。
しかし分かっていた通りに佐野は黙ってしまう。
「正喜は幸せ者ね。明美ちゃんみたいな綺麗で誠実な人にこんなにも好かれて。」
「私はそんな……」
正喜と言う言葉を聞くたびに佐野の心臓が張り裂けそうになる。
「でも、正喜はダメな男ね。」
急に和子は真面目な声でそう言い放った。
「お義母さま……?」
「良い男って、何よりも好きな人を思うことができる人だと思うの。今、明美ちゃんは苦しんでる。他の男性を好きになって幸せになることを拒んでしまっている。」
「お義母さま、それは正喜さんのせいじゃな……」
正喜のせいじゃない。と言い掛けて佐野は言葉を飲み込んだ。
電話越しに和子が泣いているのが聞こえたのだった。
「あのバカ息子。明美ちゃんを一人にさせただけじゃなく。こんな風に辛い思いをさせるなんて……」
和子の泣き声が佐野の胸を痛いほどに突く。
清々しい晴れ渡る空を窓越しに見ながら佐野は、明るい声で言う。
「お義母さま。私、正喜さんと二つの約束をしたんです。」
「約束……?」
佐野は机の一番下から正喜と写っている最後の写真を取り出した。
正喜の明るい笑顔が日差しに栄える。
「はい。一つは私が勝手に約束したことで。正喜さんの命日には煙草を吸わないこと。」
佐野は少し笑いながらそう言った。
和子を和ませる意味もあったのだろう。
「もう一つは?」
「正喜さんは"もしも"の話をするのが好きでした。もしも結婚したら、もしも子供が生まれたら、もしも明日地球が無くなるなら……いろんな話をしたんです。」
佐野は写真の正喜の頬を優しく撫でると、その時のことを思い出しているのか微笑む。
「もしも僕が君より早くに死んでしまったら、どうかすぐにでも違う人を見つけて僕の分まで幸せになって欲しい。」
その時も写真と同じような幼い笑顔をしていたのを佐野は覚えていた。
「君が誰かを見つけるまで僕は幽霊になって監視するし、誰かを見つけた後は仏にでもなって君達を見守り続けるから。って……笑いながらそう言ったんです。」
「ほんとに、正喜さんはダメな男です。」
「明美……ちゃん?」
佐野の啜り泣く声に和子は驚いた。
和子は佐野が泣いているのを見たことが無かった。
正喜の葬儀の時も、お墓参りに一緒に行った時だってそうだった。気丈に振る舞い肩を揺らしながらも涙を見せたことなどなかった。
「幽霊になって監視する、仏になって見守る。なんて言われたらいつも一緒にいる気がして、他の男性なんか探せるわけがないじゃないですか……」
佐野の弱い部分が垣間見えて、何故だか和子は少し嬉しくもあった、そしてくすり、と笑う。
「ほんとバカ息子なんだから、しょーがないねぇ。明美ちゃんもとんだ男を好きになっちゃったもんだね。」
「……はい。」
そう言って二人は笑う。
夏の日差しは温かくて、佐野はいつまでもこの日差しに包まれていたいと。そう思うのだった。
その後もしばらくたわいない話をして、二人は電話を切った。
外は肌も焼けるような猛暑で遠くの空が僅かに揺れた。
その遠くの空に正喜が居たような気がして佐野は空を何度も見上げたが、「バカだな」と呟いて写真を引き出しの中に、大事そうにしまった。
父さんの笑顔が大好きだった。
それは記憶にはない写真として記録された笑顔。
それでもオレはやっぱり父さんの笑顔が大好きだった――
杉宮は静の病室で倒れてから、丸一日眠り続けていた。
そんな杉宮に付きっきりで看病する人の姿がある。
(あ……温かい手。それに大きな手だ。静兄さんじゃない………もしかして)
バッと目を覚ました杉宮が目にしたのは、今頭をよぎった人物ではなどではなかった。
「……親父?」
「ふぅ、ようやく目を覚ましたか。」
そこにいたのは杉宮が毛嫌いしてやまない、雲静だった。
もしかしたら、父さんが?そう一瞬でも思ってしまった自分が恥ずかしくて、杉宮は雲静とは逆向きに寝返る。
「静から連絡をもらった時には驚いたぞ。もうすぐ京都だったというのに東京へとんぼ返りだ。」
「何で戻ってきたんだよ?」
ぶっきらぼうな言葉だったが、杉宮に反抗の態度がないのは分かった。
杉宮は純粋に雲静が自分の病室へと戻ってきた理由が分からなかったのだ。
「自分の息子を心配しない父親がどの世界におる?」
雲静は真っすぐに杉宮を見てそう言った。しかし杉宮が視線を合わせることはない。
「さて、要も目を覚ましたことだし私は帰ろう。旅館を三日も空けるとサトばぁが喧(やかま)しいからな。」
サトばぁとは本田の旅館に長くから努める仲居さんで、雲静が出かけるときなどには旅館を一任する。
優しそうな外見とは裏腹に、口喧しく、時には手もあげる、しかし誰よりも旅館と客を大事にするおばあさんだった。
雲静は椅子にかけてあったコートを羽織ると席を立った。
「あんたは、母さんのことを……」
扉に手を掛けた時、小さな声で杉宮はそう聞いた。
振り向いた雲静はまるで杉宮の実父のような笑顔で一言。
「愛していたよ。」
雲静が帰ってからも杉宮はしばらく、病室の入り口を戸惑う表情で見つめ続けていた。
一週間後に杉宮は無事退院をした。
家に着いた杉宮はしばらくほおったらかしにしていた携帯を手に取る。
すると不在着信のアイコンが表示されていた。
杉宮は着信履歴をチェックする。
「……悠美?」
それは高校生の時からぜっと付き合いを続けている、立石 悠美(たていし ゆみ)からだった。
杉宮は僅かに迷いながらも電話を掛けなおした。
『トゥルルルル……トゥルルルル……』
杉宮は後ろめたさを感じる自分の心を隠せないでいた。
言い得ぬ不安ですぐにでも電話を切ってしまいたかった。
しると四回ほどコールして電話がつながった。
「もしもし。立石ですけど?」
「…………あれ?悠斗か?」
電話に出たのは弟の悠斗で何故だか安堵をもらしてしまっていた。
悠斗はしばらく、聞いたことのある懐かしい声を記憶でたどった。
「もしかして、要くん?えらい久しぶりやんねぇ。元気しよった?」
「ああ。悠斗も相変わらず元気そうだな。」
もうすぐ二十歳になるというのに、小学生のようにはしゃぐ悠斗の声を聞いて、杉宮は聞こえないように笑う。
「電話なんかしてくるの半年ぶりくらいやろぉ?姉ぇちゃんほんまに淋しくしててんやで分かっとんの?」
杉宮は苦笑いをしながら、「すまん」と謝った。
「悠美はまだ帰ってきてないのか?」
「うん、今買い物行ってるみたいやわ。あいつ携帯持ってないから連絡取るんも大変やなぁ。」
悠美は驚く程の機械音痴で、電子機器は悉く扱うことができない。
それどころか奇想天外な発想で見事壊してくれるものだから、悠美は携帯すら持っていなかったのだ。
「ああ。お互い大学生にもなったのに家電てどういうことだよな。はは。」
しばらく会話をしていると、悠太がほんの少し寂しそうに言うのだった。
「要くん、随分標準語が板に付いてきたんやね。もう大阪離れて四年目やもんな、当たり前か……」
『トゥルルルル……トゥルルルル……』
杉宮は後ろめたさを感じる自分の心を隠せないでいた。
言い得ぬ不安ですぐにでも電話を切ってしまいたかった。
しると四回ほどコールして電話がつながった。
「もしもし。立石ですけど?」
「…………あれ?悠斗か?」
電話に出たのは弟の悠斗で何故だか安堵をもらしてしまっていた。
悠斗はしばらく、聞いたことのある懐かしい声を記憶でたどった。
「もしかして、要くん?えらい久しぶりやんねぇ。元気しよった?」
「ああ。悠斗も相変わらず元気そうだな。」
もうすぐ二十歳になるというのに、小学生のようにはしゃぐ悠斗の声を聞いて、杉宮は聞こえないように笑う。
「電話なんかしてくるの半年ぶりくらいやろぉ?姉ぇちゃんほんまに淋しくしててんやで分かっとんの?」
杉宮は苦笑いをしながら、「すまん」と謝った。
「悠美はまだ帰ってきてないのか?」
「うん、今買い物行ってるみたいやわ。あいつ携帯持ってないから連絡取るんも大変やなぁ。」
悠美は驚く程の機械音痴で、電子機器は悉く扱うことができない。
それどころか奇想天外な発想で見事壊してくれるものだから、悠美は携帯すら持っていなかったのだ。
「ああ。お互い大学生にもなったのに家電てどういうことだよな。はは。」
しばらく会話をしていると、悠太がほんの少し寂しそうに言うのだった。
「要くん、随分標準語が板に付いてきたんやね。もう大阪離れて四年目やもんな、当たり前か……」
「しかもその間もたまにしか電話もしてこぉへんし。大阪戻ってきたんなんて三回か四回くらいやろ?なんか理由でもあるん?」
悠太の言葉に杉宮は上手い言葉が出てこなかった。
「あー、あれやろ。千葉で他に好きな人でも出来てしもたんやろ。せやったらしゃーないもんなぁ?……って要くん?」
杉宮は佐野のことをズバリ言い当てられてしまい、嘘でも否定することができずに黙ってしまう。
「ほんまに……そうなんか?」
「いや、オレ――」
杉宮が何か答えたようとした瞬間。
リビングの扉が勢い良く開いた。
「悠太ただいま。電話……誰としとるん?」
「あ、姉ぇちゃん。代わ……ろか?」
悠太は小さく、杉宮にだけに聞こえるように、電話を代わろうか?と聞いた。
不自然な弟の態度に悠美は姉の勘とでも、女の勘とでも言うのだろうか。電話の相手に感付き悠太から受話器を奪い取った。
「要ちゃん?要ちゃんなんやろ!?かな……」
『ツーツーツー……』
悠美の耳に響いたのは、忘れることのできない人の声ではなく、胸をくしゃくしゃに潰してしまう電話の途切れた音だった。
受話器を置いてからも悠美はしばらく放心状態で電話を見つめていた。
いや、正確には、先程までつながっていた電話の相手を。だろうか。
悠太はそっと隣で見ていたが、低い声で切り出す。
「……どうすん?」
「えっ……?」
悠美はまた目一杯に涙を溜めたていた。
「せやから!!もしも、要くんにあっちで好きな人が出来てしもたとしたら、どうすんねん?て言うてんねん。」
悠美はそう言った悠太を儚げな表情をしながら見る。
瞬きもしていないのに涙が頬を伝っていった。
「そんな……だって、要ちゃん、待っとってって。待っとってってそう言うたんやもん!!」
悠太は何も言わずに震える姉を見つめていた。
「待っとって。って……」
手で顔を覆いながら悠美は声を出して泣く。
「お姉ぇ、千葉行ってき。今すぐ千葉行って要くんに直接聞いてきぃや。」
そう言うと悠太は自分の財布から三万円ほど取り出して悠美に手渡した。
「悠太……?」
「やるわけやないで。ちゃんと戻ってきたら返しや?」
「うん……ありがと。」
悠美はすぐに身支度をすると新幹線に乗るために、新大阪駅へと向かった。
走りながら悠美は涙を拭いた。
不安を蹴飛ばす様に、力強く進んでいくのだった。
「要ちゃん……ウチ嫌やで?こんなん絶対に嫌やからな。」
夢を見た。
誰かに追い掛けられている夢だった。
夢占いではよく、見た夢とは逆なことが実際に起こる、なんて言う。
だとしたら……
だとしたら僕は――
きっと。
鴨居が自転車で飛び出してからまるまる二週間が経過した。
真夏の日差しはどんどん強くなる。
茶色くなった皮膚は毎日のようにペリペリと音を立てて剥けていく。
陽射しを遮る駅のベンチで昼食を取っていた鴨居。
ボロボロになった服を変な目で見られても全く動じないほどに彼は強くなっていた。
「よし。今日も上(北)を目指して行きますか。」
そう言って鴨居は、公園などで汲んだペットボトルに入れた水を、グビッと音を立てて飲み込んだ。
なんだかんだで普通な生活をしてきた鴨居である。
一人旅も初めて。ここまで本格的な野宿だって初めて。
もちろん公園で持参したペットボトルに水を汲んだことなどなかったが、今となってはお手のものだった。
人力で進む旅では水の補給は欠かせないこと。
公園や民家、時には学校に忍び込んだりと水を得るためなら手段を選んでいられない。
コンビニなどでミネラルウォーターが売っているが、一日に2リットル、3リットルと補給するわけだから一々買っていたら資金がいくらあっても足りないのだ。
そんな旅を重ね少しは自信も付き始めても良い頃合いなのだが、鴨居の心境にはさほどの変化は見られない。
「……暑いなぁ。」
いつも遠くに聞こえていた声。
『僕はここだよ――』
自転車で走る度に少しずつ
ほんの少しなんだけれど――
近づいている。
そんな気がしていたんだ。
岩手県に入った鴨居。
慣れない道を標識などで見て進むことにもだんだんと慣れてきているようだ。
袋小路に入り込んでしまったり、公道だと思っていたらいつの間にか民家に入ってしまっていて怒られたり。
ましてや軽車両の入ってはいけない高速道に、迷い込んでしまうことも今はなくなった。
軽快に走っていた鴨居だったが、ある違和感を覚える。
どうにもペダルが重く感じるのだった。
もしやと思い鴨居が前輪のタイヤを見ると。
「……あっ。パンクしてる。。。」
空気の抜けたタイヤはフニャフニャと地面に擦れた。
そして空気を入れる管が地面に当たるたびに、自転車がカタッと微妙に揺れる。
もうグラッと揺れてサドルから振り飛ばされてしまえば良いのに、カタッと妙に力なく揺れるものだから何故だか悲しくなる。
「うーわー。どうしようパンク終了なんてしたことないし……つか道具がない。」
自転車で旅をするのにパンクの修理をする道具や、替えのタイヤチューブを持っていくなんて当たり前のことなのだが、鴨居は初心者どころか自転車への関心は0と言ってもいい。
と、まぁ。そんな鴨居が修理キットを持っているワケもなく。
鴨居は道路の端に避け、力なく立ち止まった。
「さて……どうしたもんかな。」
鴨居は辺りを見渡すがひとけが全く無い。
それどころか民家すら見当たらなかった。
だだっ広い麦畑の青だけが一面に広がっている。
「案外広い道路なのに人通りは無し。か……はぁ。疲れたな。」
タイヤのパンクで強制的に足を止められてしまったことで、気が抜けてしまったのだろう鴨居はその場に腰掛けると、そのまま目を閉じた………
「……。」
『…………だよ』
えっ、誰――?
『……こっちだよ』
誰かの声がする……
『どうして気付いてくれないんだ、僕はここだよ!!』
この声は……僕?
どこにいるの?
『ここに居るよ。僕はここだよ。』
え、何?どこにいるの?
ねぇ。
ねぇ!!
「君、大丈夫か?」
ガッと肩を掴まれ、鴨居は身体をビクッと揺らし目を覚ました。
「あ、え?」
目を開けるとそこには、タオルを頭に巻いた男が立っている。
大柄で日焼けをしていて、筋肉質な。
でもそれでいて柔らかな雰囲気を持つ人だった。
「こんな大通りで寝ていたら危ないよ。ま、車はめったに通らないんだけどね。」
豪快な笑顔を見せた男は自分の自転車に付けたバッグから、何かを探す。
「もしかしてあなたも自転車で旅を?」
そう鴨居に聞かれると、男は一瞬驚いたが「そっか」と呟いて笑った。
「そっかそっか。君もか。ママチャリだったけど、この道を通っているからもしかしたらもしかするのかな。なんて思ってたんだ。」
そして男は鴨居に、乱暴に詰め込まれ散乱していた、その道具を手渡した。
「俺は曽我(そが)。みんなソガさんて呼ぶから君もソガさんて呼んで良いよ。」
「あ、オレ鴨居友徳です。あの……ソガさんこの道具って何ですか?」
手渡された道具を見ながら鴨居がそう言うと、ソガは笑顔のまま一瞬硬直する。
「はい?」
ソガに渡された道具は自転車のパンク修理キットだった。
専用の接着剤に、チューブを取り外すための小さなコテ。黒いゴムにオレンジ色の線の入ったシール。
それらの使い方を教わりながらパンクの修理をした。
「いやー、まさかパンク修理もできないのに旅するヤツがいるとは思わなかったよ。バカだなー君。」
ソガは鴨居の背中をバシバシと叩きながら見た目どおり豪快に笑った。
「パンクしてんのは一目見て分かったから、パンク修理キット切らしちゃったんだろうな。って思って声かけたら、まさかねぇ……」
そう言ってまたソガは豪快に笑う。
笑われているのに何故だろうか鴨居は恥ずかしくない。それどころか少し嬉しかった。
「ソガさんはどうして旅をしているんですか?」
パンクの修理を丁寧にソガが教えたために、日が暮れ始めていたので。
二人は少しだけ進んだ所で、今日の寝床を確保した。
「んー。旅の理由ねぇ……まぁ、なんだ自転車で走るのが楽しいからじゃねぇかな?オレの場合は。」
予想どおりの豪快な答えに鴨居は思わず吹き出した。
「あっ、このヤロ笑いやがったな。……それじゃあカモは何で旅なんかしてんだ?」
「お、オレは……」
鴨居はソガだったら、理由を聞いても豪快に笑い飛ばしてくれると思って、正直に話した。
「オレ何処に居ても、誰と居ても、自分がそこに居ないような気がするんです。」
知り合って間もない男に何を真面目に語っているのだろう。と始めのうちは思った鴨居だったが。
ソガのゆるやかで大きな雰囲気にそんな気持ちすらも、飲み込まれていくようだった。
「自分は何処に居るのか?何処へ向かうのか?そんなことが少しでも分かったらな……って思って。」
「居場所探しの旅ってやつか?」
鴨居はソガから分けてもらった乾パンを少しかじる。
「居場所探しって言うか……オレけっこう昔から何処かで自分を呼んでいる声が聞こえるんです。それが自分の声な気がして、遠くから聞こえるから遠くへ行こうって。」
話し終えた鴨居は乾パンをかじりながら、ソガの豪快な笑い声と加減を知らない背中を叩く手を待った。
「……そうか。」
しかし聞こえてきたのはソガに似合わない静かで冷静な声だった。
「分かる気がするよ。遠くで自分を呼ぶ声がするって。俺もそんな時があったから、分かる。」
ソガは何度も低い声で「分かるよ」と言った。
それからソガの地元の話や、北海道の山中で野宿をしていて熊に襲われかけた話を聞いた。
辺りも静まると、ソガが急に真面目な顔をして言うのだった。
「でも、きっとさカモが思ってるほど遠くにはいないと思うよ?」
「どういう意味ですか……?」
核心を聞き出そうとした鴨居だったが、今までとは違った優しげな笑みでソガは言う。
「さぁ?それは、カモが見つけだすこと、見つけなきゃいけないことだと思う。そうだろカモ?」
鴨居は小さく「はい」と言って大きくうなずいた。
ソガは大きな手でカモの頭をグシグシと撫でる。
「ま、気張れや少年。」
最後にそう言ってポンと頭を叩くと、ソガは寝袋のチャックを上までしめ、眠ってしまった。
ソガの豪快ないびきに睡眠を妨害されながらも、人と接することの大切さを再確認した鴨居だった。
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