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第二章:それは儚いほどに長い夏
静かな夏の始まり
しおりを挟むとある町外れの清潔そうで、大きな大学病院。
真っ白な外観に青々と茂る中庭の木々が、その病院の活気を表している。
そんな病院の一室に杉宮は似合わない花束を抱え入っていく。
滑りの良いドアは静かに、パタンと音をたてて閉まった。
「なんだ要。今日も来てくれたのかい?」
優しげな眼差しとほほ笑みを浮かべる青年。
身体は痩せ細り、弱り切っているのが見て取れた。
杉宮は病室にあった花瓶を手に取ると、花束を植え替えてその青年の横の棚に置いた。
「調子はどう?静兄さん。」
「うん、見ての通りさ。」
そう言って静は笑った。
杉宮も笑みを返すが、その顔から心配の色が消えることはない。
「最近よく父さんが見舞いに来てくれるんだよ。」
父さん。という言葉を耳にした瞬間に杉宮の顔色が変わるのを静は見逃していなかった。
「あの野郎、静兄さんの心労増やすようなことしやがって。」
そう言って怒りをあらわにする杉宮を見て、静は少し哀しげに笑うのだった。
「要は父さんが嫌いかい?」
「当たり前だろ、アイツのせいで、アイツのせいでお袋は…………」
杉宮の顔が憎しみに歪む。
俺達のお袋は……正確には俺と樹の母親は身体が弱かった。
父親は俺が二歳で、樹が産まれた直後に交通事故で死んでしまったらしい。
父親はあまり写真が好きじゃなかったようで、俺は父親の写真を一つしか見たことがない。
綺麗なウェディングドレスに身を包み幸せそうな顔をしたお袋と、とても優しげに笑うその人の写真。
お袋が今の親父と再婚したのは俺が小学校を卒業するほんの少し前のことだった。
京都で有名な旅館の一人息子だったその人・半田 雲静(はんだ うんせい)も、お袋と同じ時期に妻を事故で亡くしていた。
そんな二人だから互いの気持ちが分かってしまったのだろう、出会ってから再婚に至るまでにそれほど時間はかからなかった。
互いにバツイチ、そして子持ちだった。
雲静には旅館を継がせると決めた息子がいた。それが静兄さんだった。
静兄さんは俺よりも三つ年上で、俺や樹のことを本当の兄弟のように扱ってくれた。
でも、樹や俺から見た静兄さんは兄弟ではなかったんだ。
お袋の愛した父親の様な優しい笑顔をする静兄さんを、俺達は自分の父親と知らない内に重ねてしまっていたのかもしれない。
静兄さんは勉強も運動も、料理や、絵や、歌も人間関係だって……何でも出来てしまう人だった。
それだけに親父や周りの期待は生半可なものではなかった。
五代に渡り継がれてきた旅館を自分の代で終わらせてはいけない。そんなプレッシャーが親父にはあったのだろう。
そして静兄さんが大学を卒業して旅館を継ぐのが目と鼻の先になったころ。
静兄さんは調度良い機会だからと、軽い気持ちで健康診断に行った。
その時に血液に異常があることが分かった――
すぐさま専門的な血液検査をした。
その結果、静兄さんは白血病の一種であることが分かり、緊急入院とすることになる。
その時の親父の落胆ぶりと言ったら目も当てられないほどだったのを、よく覚えている。
それと時を同じくして親父は異常な量の酒を飲み、家でも暴れるようになった。
そしてそんなことが続いたある夜に俺と樹は見てしまう。
お袋が心不全で急死してしまう三日前の日に、親父がいつもの様に酒を飲み暴れ、止めようとしたお袋の胸を強打したのを。
そんなことをされても、笑って痛みを堪えていた母の顔を。
「アイツが俺と樹のお袋を殺したんだ。」
グッと拳を握り締める杉宮。
静はそんな杉宮を諭すように話し始める。
「要。お母さんの病気の発症とお父さんから受けた傷とは無関係だと、お医者さんが説明してくれただろう?」
「兄さんは実際にアイツがお袋を殴ったのを見てないからそんなことが言えるんだ!!」
病室に杉宮の哀しげな叫び声が響き渡る。
静は握り締められた杉宮の手を優しく掴む。
「要。これだけはわかって欲しい。お母さんを誰よりも愛していたのは父さんだ。そしてお母さんが亡くなって一番胸を痛めたのも父さんなんだよ。」
杉宮はそんな静の手を無理矢理に振り払った。
「アイツがお袋を愛していた?アイツがお袋の死に胸を痛めた?はは……何言ってんだよ、アイツは……」
「ちゃんと聞いてくれ要!!」
静の叫び声が病室に反響する。
「要がもし、お母さんの死を父さんの責任とするならそれは、責任の対象が違うんじゃないか?」
静は杉宮に口を挟ませないよう、畳み掛けるように、間をあけずに言い放つ。
「父さんが酒で暴れるようになったのは、全て僕が病気になったことに原因がある。ならばお母さんの死は僕に責任がある、そうだろう?」
「何で……」
杉宮は口惜しそうな歯痒そうな、表情を床に落とす。
そして下を向いたままで声を張り上げた。
「何で静兄さんはアイツをかばう様なことを言うんだよ!?」
静は一瞬驚いた表情をしたが、優しく杉宮の顔を上げさせると、言うのだった。
「何で?ってそんなの決まっているよ――」
静はまたいつもの優しげな表情をする。
「僕の、いや僕達の愛すべき父親だからさ。」
にっこりと笑った静の顔を杉宮は見ることが出来ずに、目を逸らす。
黙ったまま立ち上がると杉宮は出口へと振り返る。
「静兄さん今日はゴメン、負担かけるような話しちゃって。」
「いいよ。それより要。明日も来てくれないかな?大事な話があるんだ。」
「……?うん、分かった明日も来るよ。」
そう言って杉宮は、手を振る静を背に病室を出ようとした。
杉宮がドアのとってに手を掛けた瞬間、病室のドアが開き誰かが病室に入ってきた。
「要……来てたのか!?」
「お久しぶりですね、オトウさん。それでは。」
杉宮は父親の顔を一度たりとも見ることなく去っていった。
雲静は杉宮が去っていくのを背中越しに見送ると、静かに扉を閉めた。
「静、体調はどうだ?」
雲静はさっきまで杉宮が座っていた椅子に腰掛ける。
「最近は父さんと要が会いに来てくれるから調子が良いです。」
「そうか……おや、綺麗な花だな。誰かのお見舞いかい?」
しばらくの間、2人は優しい表情で杉宮の持ってきた花を見つめていた。
そして雲静は、さっきの杉宮の表情を思い出したのか哀しげな顔で静に聞く。
「要はまだ私を恨んでいるのだな……それも仕方の無いことだが。そうだ、要から樹のことは聞いているか?」
杉宮が目一杯の憎悪を抱く、雲静とは本当に杉宮の思うような人物なのか。
少なくとも今、静を慈愛の眼差しで見つめ、樹のことを気に掛けるこの人物は、誰が見てもただ、一生懸命に子を思う父親そのものであった。
「まったく……父さんも要も言葉が足らないよ。」
杉宮が病室を出ていってから、静と雲静は話し続けていた。
「要も樹も僕の言うことを素直に聞いてくれる子なのに、父さんのことについては全く聞く耳を持ってくれない……」
「仕方ないさ……」
そう悲しげに呟いた雲静を見て、静はより悲しげな表情を浮かべる。
「仕方ない。なんて言わないでください。あの子達は父さんがどれほど美由紀さんを愛していたか知らないから、あんなことを言うんだ。」
美由紀とは要と樹の母親の名前である。
雲静は頷きも返事もせずに静の話を黙って聞いた。
「それに……要はまだ父さんが僕に旅館を継がせようとしているんだ。と勘違いしているんだよ?」
その時ついに雲静の沈黙が破れたが、まるで靄でもかかるかのような小さな声であった。
「はは、あの子も美由紀と似ていて早合点する所があったからな……」
そう小さく笑った雲静に静の不満は募るばかりだ。
「なぁ……静。」
「……はい。」
雲静は何かを飲み込みかけたが、きちんと音にする。
「要はウチを素直に継いでくれるだろうか……?」
今でも時々夢に見るんだ。
小学生の時に
母と兄と一緒に見た映画
その主人公は
自分と妙に重なるところがあって
感情移入してしまった
唯一の映画だった。
彼はどうしてあんなに強いんだろう?
たった一人で飛び出して
色々なことを経験して
自ら――
現状を打破してしまった。
オレも彼の様に
飛び出すことができたのなら――
オレも
オレも…………
「はぁ、はぁ、はぁ……」
鴨居は山道の整備の行き届いていない道でひたすらに自転車をこいでいた。
八月の中旬。
鴨居の熱い季節がようやく幕を開けようとしていた。
三日は着っぱなしのTシャツは汗でビショビショに濡れてしまっている。
ひたすらに自転車をこいでいると、山越えの途中の道路で鴨居は景色に目を奪われた。
ガードレールのほんの向こうは足も竦(すく)むような崖。
しかし、その底から視界いっぱいに深緑の生い茂る山々が連なっていた。
「凄いな……足元がコンクリじゃなかったら、もっと自然の中に生きていることを実感できたかな?」
その時、ほとんど人通りのないその道を、大型トラックが鴨居のスレスレを通っていった。
それを合図に現実に帰った鴨居はまた自転車を漕ぎ始めるのだった。
オレも彼の様に
飛び出すことができたのなら――
オレも
オレも…………きっと。
この日、病院に向かう杉宮の足取りは重かった。
いつもならば大好きな兄に会えるのだと、わずかながら心が弾む思いだったのだが、今日は違っていた。
昨日の口論を杉宮は引きずってしまっていたのだった。
病室の前までくると杉宮の足が止まってしまう。
いつもならば、自然と足が前に踏み出すのに今日はまるで地面と鎖でつながっているのではないか?そう思うほどに重かった。
しばらく立ちすくんでいると、病室から優しい声がする。
「要、そんな場所に立ってないでお入り。」
そのいつも通りの声に杉宮の不安も後悔も洗い流された。
杉宮は扉を開け、病室へと入っていく。
「おはよう、要。」
「お……おはよう、静兄さん。」
少し戸惑う杉宮を見て、静は楽しそうに頬笑んだ。
「親父は……?」
「昨日のうちに京都に帰ったよ。」
「そう……」
杉宮は言い知れぬ胃の痛みを感じていた。
「静兄さん、話って何だい?」
明るい話題を振り絞るのだが出てこず、杉宮の口からはそんな言葉が出てきた。
「立ってないでお座り?ゆつくり話したいんだ。」
「うん……兄さん。」
杉宮が椅子に座ると、静はゆっくりと話し始めた。
「大切な話だからちゃんと最後まで聞いておくれ。良いかい?要は勘違いしているんだ。」
静のその言葉に杉宮は体温が急に上がるのを感じた。
ガタッと音を立てながら、杉宮は立ち上がる。
「また親父の話?だったら悪いけど俺は帰るよ。」
露骨にそう言い放つと杉宮は病室から出ていこうとした。
しかし、そんな杉宮の足は彼には予想だにし得なかった言葉により、歩みを止めることとなった。
「要に本田の旅館を継いで欲しいんだ。」
杉宮は自分の耳を疑う。
「静兄さん、今なんて?」
「要。半田の旅館を、父さんの後をお前に継いで欲しいと思っている。」
杉宮は少しずつ、自分の足から感覚が消えていくのを感じた。
「だって……アイツはずっと静兄さんに旅館を継がせようとしていて。」
視界が揺れ、胃の痛みも頂点に達する。
「父さんは僕が倒れたその日から僕に旅館を継がせることは無い。無理せず自分の身体を一番に考えてくれ。と言ってくれていた。」
杉宮は自分の頭が混乱しているのを実感しながらも、あやふやな自分の言葉を止めることが出来なくなっていた。
「そんな、嘘だ。だってアイツは……料理長や仲居さん達から俺に継がせようと言われても、ずっと俺にだけは継がせられない。って……」
静はそんな杉宮をなだめることも、落ち着かせることもなく、低い声で言う。
「それは美由紀さんとの約束だったからさ。」
「母さんとの約束……?」
ますます混乱する頭を杉宮はもうどうすることもできなくなっていた。
「そうだよ。」
杉宮の足から完全に力が抜け、その場に座り込む。
「美由紀さんは僕の代わりに要か樹に旅館を継がせることにずっと反対していたんだ。」
静はしばらく間を置いて、杉宮が落ち着きを取り戻すのを待った。
「『ウチの子達に礼儀作法やしきたりの濃い仕事は向きません。それこそ半田の名に泥を塗ることになってしまうかもしれません。』これが美由紀さんの口癖だったらしい。」
「母さんは俺達よりも半田の顔を取ったっていうことか?」
静はゆっくりと首をふる。
「そして、その話をした後は決まって嬉しそうにこう言ったそうだよ。『ウチの子達はやんちゃ者で、籠に入れては生きていけません。あの子達にはどうか広い世界で何事にも縛られることなく、暮らさせてあげてくださいね。』と。」
優しい静の微笑みが、窓から差し込み光に照らされていた。
そしてしばらく沈黙がはしる。
外はちょうど真昼を迎えようとしていた。
「分かるかい要?父さんは半田の旅館を捨てることになっても、美由紀さんとの約束を守り通そうとていたんだよ。」
「し、信じられるもんか、そんなこと。」
静は少し曖昧な表情をして、杉宮を見下ろした。
「要……きちんと話もしていないくせに、その人の本質が分かるだなんて思うなよ。」
静の言葉が杉宮の耳の奥に届いた瞬間。
「………痛っ」
「要……?」
杉宮は気を失い、座り込んだまま前のめりに倒れる。
「要?かなめ!!」
静がすぐに自分のナースコールで看護士を呼ぶ。
杉宮は急性胃潰瘍でしばらく入院することになった。
『チュンチュン』
優しい小鳥のさえずりが、鴨居の耳をくすぐる。
「ん…んぁ……」
ムクリと身体を起こしたその場所は、河川敷の橋の下だった。
「新聞て温かいんだな…」
今の言葉は決して、叙情的に新聞のことを称賛したわけではない。
やむを得ず野宿をせねばならない状況に陥ってしまった際に、布団代わりとして利用すると、思いのほか温かい。と言う極めて叙事的な意味である。
「あー……頭かゆい。つか、臭い。。。」
ボリボリと頭をかくと、四日間は洗っていないのだから当たり前だが、手に油が光った。
鴨居は新聞紙をどけると、立ち上がり、青く澄み切る空に向かって伸びをする。
「んあーーっ、よし。」
そう言って鴨居が向かったのは、河川敷に広がる運動場に設置された水道だ。
「えっと……誰もいない、よ、な?」
辺りを怪しげにキョロキョロと伺った鴨居。
人影が見当たらないと判断した瞬間、おもむろにTシャツを脱ぐ。
そして、水道から水を勢い良くだすと、油の乗った頭を洗い始めた。
「うん…よし。」
何が、よし。なのかは分からないが、鴨居は頭の痒みが取れて満足そうだ。
続いて鴨居は脱いだTシャツも丁寧に洗っていく。
あのビデオを見終わった瞬間に、僕は家を飛び出していたんだ。
昔からどこか頭の隅にあった感覚。
自分は此処に居ないのではないか――?
何処か遠くで僕が来るのを待ってるのではないか――?
そんな感覚が頭を過(よぎ)り
自覚したときにはもう自転車で走りだしていたんだ。
「二日かけてやっと栃木を抜けられた……山道だから時間かかったんだけど、意外と広かったんだんだな。」
今、鴨居は福島県に来ている。
昨日までの四日間は千葉から栃木を走っていた。
「……にしても、け、ケツ痛ぇ。」
自転車は解説するまでもなく、尻に重心がかかってしまう移動手段である。
普段何気なく使うくらいなら気にはならないのだが、部活の遠征や、隣町のスーパーの大安売りに臨んだことのある人はこの痛みを経験しているんじゃないだろうか。
ロードレースや長距離を移動するための、尻だけに重心のかからない専門的な自転車もあるが、鴨居がそんな物を持っているわけがなく。
いわゆるママチャリで移動をしていた。
ちなみにママチャリでの旅を世間では、無謀と言う。
鴨居は水だけで洗ったTシャツをそのまま着て、真夏の焼け付くような日差しにあてる。
真夏の空は自然の乾燥機の様で、すぐにTシャツを乾かしてくれた。
「さて、これからどうしよう……かな?」
何処か遠くで僕が来るのを待ってるのでは……?
その感覚に身を任せて出てきてしまったので、ちゃんとした目的地はなかった。
「遠く……そうだ、とりあえず遠くまで走ろう。」
そうして鴨居は行く宛てもないままに北を目指して走りだすのだった。
千葉から栃木に行ったのは実家に寄るためだった。
そこで両親に色々と経緯を話し、心配しないようにと言った。
『お願いだから無事に帰ってきて。』
そう言った母の心配そうな顔が頭の中にしみ込んで
胸の辺りに深く沈んで離れようとしない。
都会は自転車に優しくない。
本来ならば車道を通るべき自転車が車道の隅を走ると、クラクションの嵐に巻き込まれるはめになる。
しかし歩道も厳しいのが現実だ。
街中をうごめく人々を避けながら走るのは不慣れだと容易ではない。
くわえて国道を走ってみると分かるのだが、まず歩道自体が無いことが多い。
大げさでなく目と鼻の先をトラックがビュンビュンと横切っていくのだ。
安全なはずの停止線の内側は、命をギリギリで守ってくれる言わば、デッドラインと言えた。
「あれ?……あれれ?」
田舎道は楽である。
時間によっては人がほとんどいないので、歩道を悠々と走れる。
というか、車道ですら気兼なく走れる。
しかし、やはり人も何でも良いことばかりではない。
田舎にはコンビニが少ない。
都会を走ると、多いところでは10分か15分感覚くらいでコンビニが立っている。
多すぎる。というのが実に素直な感想ではあるのだが。
「コンビニがない……つうか見渡すかぎりに田んぼしかないんですけど。」
自転車は三時間も走ると腹がすき、10分もすれば喉が渇く。
鴨居は知らなかったが意外と過酷な乗り物だったようである。
鴨居は空になってしまったペットボトルを少しだけ恨めしそうに振った。
「飲み水エンプティー。なんなら腹もエンプティー……もしかして死ぬ?」
照りつける焼けるような日差しを浴びながら自転車を漕ぎ続けていると。
青々と麦の茂る道、沢山の虫達の鳴き声に鴨居の腹の虫の音がだらしなく交じっていった。
夕暮れ間近。
宿無し旅最大の試練がやってくる。
「ない……ない……なーーーーい!!」
野宿での寝床確保は実はなかなかの試練である。
都会にはないだろうけど、田舎なら何処でも寝れるんじゃないのか?
そう思う人は少なくないだろう。
だがしかし、いややはりと言うべきだろうかこの御時世である。
民家に近いと夜な夜な警察が回ってきていたり。
かといって民家から離れ、一面田んぼの中にある電波塔の足場で寝ようとしたらたまたま通りかかった農家の方に、そりゃあもう冷たい眼差しで見られたり。
こんなことを羅列し始めたら切りが無いのだ。
それでも寝床はなんとしてでも探さなければ、旅ができなくなってしまう。
夕陽すらも視界から去ろうとした時。
「おっ、河川敷に橋みっけ!!助かったぁ。」
最終的に落ち着くのは橋の下や、雑木林の中などとなるのはいた仕方がないのだ。
「先客もけっこういるけど、ここは大丈夫そうだな。」
橋の下にはブルーシートが貼ってあることが多々ある。
そんな人を仮に住居人と呼ぶならば、鴨居の様な旅人は下宿人と言うことになるのかもしれない。
そんなこともあり、住居人がいる場合にもやはり移動を余儀なくされるので、結果、野宿での寝床の確保は最大の試練と言えるのだった。
「はぁ、疲れた……」
「慣れると野宿も悪くないなぁ。」
新聞紙にくるまりながら、鴨居はそんなことをつぶやいた。
川のせせらぎを聞きながら横を向くと、温かなネオンが視界に入る。
「にしても、ホテルって高過ぎだよ。一泊6500円てどういうこと?」
野宿なんて小学校のキャンプ以来したことのない鴨居である。
千葉から栃木へ向かうさい、初日は一日中かけて走ったが埼玉県で日が暮れた。
どうしても野宿がためらわれた鴨居はビジネスホテルに泊まったのだが、その値段の高さに驚き、旅費の都合もありそれからは野宿をしようと決意したのだった。
「母さん心配してたな……心配。そうだ、大学の皆に何も言わずに出てきちゃったんだっけ。心配して……」
心配してくれてるのか?
そんな不安が鴨居を襲う。
すると急に今まで感じていなかった、孤独感や焦燥感が押し寄せ、寒くもないのに鴨居の身体をふるわせた。
鴨居は新聞紙を頭までかぶると、疲れがたまっていたのだろう、そんな不安に震える中で眠りについた。
翌日の明朝。
鴨居の傍で何やら怪しげにごそごそと動く人影があった。
「ん、んー?」
気配に気付いたのか鴨居がムクリと起き上がると、目の前には青いジャージに青い帽子をかぶった、髭もじゃもじゃのおじさんがいた。
しかも何やら鴨居のカバンの中を物色している模様。
「…………あ。」
「…………。」
しばらく見つめ合う二人。
どうやら二人とも予想外の展開に言葉を失っているらしい。
困り果てたおじさんが、フケのたまった頭をボリボリかきながら言う。
「お、おう。よく眠れたかい?☆」
まだ寝呆けている鴨居。
「あ、はい。これはどうもご親切に……ぃ?」
ようやく違和感を感じ、辺りをキョロキョロと見回す。
河川敷。早朝。布団は新聞紙。
朝起きたら青い髭もじゃおじさん。びっくり。丁寧な挨拶。お礼言う……
「って、人のカバンあさって何してんですかーーっ!!」
叫ぶ鴨居。
おじさんはビックリしすぎて足が固まっている。
「ほ、ほらアレだよ。おめぇさんが起きるまでに、荷物の整理しといてやろーと思ってよ。へへ。」
何とつまらない言い訳であろうか。
そして何と胡散臭い笑顔か。
「へへ。で誤魔化されるわけないでしょう!!」
その後もおじさんの下手な言い訳と、どうしても鬼になりきれない鴨居との問答が、小鳥のさえずり響き渡る河川敷に不協和音の如く響き渡りましたとさ☆
「はあ、はぁ。ところで、あんちゃん何でこんなとこで寝てんのさ。まさかオレ達と一緒なわけねぇよな?」
ようやく問答を終えたらしい二人は、何故か座って話をしていた。
「はぁ、はあ。いや、あの何ていうかその……遠くへ行きたいなって。」
下を俯きながらそう言った鴨居。
おじさんは赤くなった鼻をかいて言う。
「あんちゃんよ。もう少し気抜いてみたらどうだ?ほら、オレみてぇなのに財布盗られても気にしねぇくらいおおらかによ。」
「……つかアンタ財布盗ろうとしてたんかい。」
「いや、それは冗談じゃねぇか。とにかくよ若ぇのに何だか肩がこっちまってるように見えるぜ?」
ポチャンと音を立て、水面が同心円を描きながら揺れた。
その波を無意識に目で追っていると何だか虚しさを感じた。
それは今の現状になのか、それとも何かに焦っている自分自身になのか。
「おじさんは何時からここにいるんですか?」
「リストラされて、母ちゃんに逃げられてからだから……3年くれぇ前か?」
鴨居は聞いてはいけないことを聞いた気がして、少しだけ後悔した。
けれどおじさんの顔には目には、恨みや悲しみそのどちらも感じられなかった。
「寂しくないんですか?」
鴨居は自分でも何故だかは分からないが、口から次々と質問が出てきた。
おじさんは、若者と話をするのが嬉しいのか、はにかんだ照れくさそうな笑顔で答えてくれる。
「そりゃ寂しい時だってあるさ。でもこれがよツラいことばっかってわけでもねぇんだな。ほれ。」
「ほれ」と言っておじさんが指差した先では、二人のおじさんが朝からだと言うのにベンチで缶ビールを片手に語り合っていた。
「あいつらはオレと一緒。妻も子供にも逃げられちまったヤツらよ。だがよ、そんなヤツらだって集まりゃ酒が飲める。酒が飲めりゃ話もできるし笑顔にだってなれる。」
みすぼらしいのに誇らしげなその顔が鴨居にはやけに輝いて見えた。
「オレはよ。こう思うね。オレらみたいに路頭に迷おうと、社会で認められようと、恋人がいようと、家族がいようと。人間てやつはよ嫌でも、悲しくもなるし嬉しくもなるんだよ。」
朝日が誇らしげに高く上がる。
いつの間にか鴨居を覆っていた高架の影は鴨居の眼の先へと移っていた。
「だからよ、おめぇさんそんなつまらなそうな顔しなさんな。」
「……えっ?」
見透かされた様で恥ずかしかった。
でも、それ以上に、自分の気持ちを分かってもらえた気がして嬉しかった。
「家族もいる。大学にも行ってる。こうして旅をしてる。……大丈夫だ自信持て、おめぇさんはこんなにも楽しいことしてるじゃねぇか。あとは肩の力抜いて"楽しいこと"を"楽しむ"だけだ。な?」
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「楽しいことをすればそれだけで楽しくなるのだと思ってた……そうだよな。楽しいことだって楽しまなけりゃ楽しくなんかなれないんだよな。」
それからしばらく鴨居は川面を眺めていた。
時折、水面が不安定に揺れた。
まるで自分の気持ちの様だ、と鴨居は笑った。
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