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第二章:それは儚いほどに長い夏
不器用な恋の歌
しおりを挟むじめじめとした梅雨が明け、鴨居にとって生涯で一番熱い季節がやってこようとしていた。
七月始め。
暑いというよりは、まだ暖かいと言う表現がしっくりくる。
そんな日。
「はぁ。」
鴨居はいつぞやのリプレイをしているかのように、机に顔を埋めて深いため息を吐く。
しかしどうやら今回は自分の現状に苦悩しているわけでは無さそうだ。
「おーこらこら。人のデスクで辛気臭いため息なんて吐いてくれるなよ、少年。…って、ん?」
そんな鴨居を彼女なりの励まし方で活気づけようとした佐野も、いつかの再現に気付いた様で首をかしげた。
「はは。これで杉宮なんか現れやがったら笑えるのにな……」
すると扉をノックする音が聞こえた。
佐野はこれは再現ではなく、一種のデジャブの類(たぐい)ではないのかと疑い身を恐ばめる。
そして、やはり。というべきか、この男はひょうひょうと現れるのであった。
「あけみちゃん、呼んだ?」
「…なぁ、鴨居この状況どう思う?」
そう振り返った佐野は、今日一番の驚きを目にするのだった。
「へ?何ですかぁ?」
虚ろな目。ダルそうな姿勢。
鴨居は今、心此処に在らず。という状態だった。
手足に力が入らなくて。
時折空をボーッと眺めている自分に気付いて
少しビックリする。
『しっかりしなきゃ』
……って
自分を奮い立たせてみるのだけれど
また何処か遠くの空を見つめていたりするんだ。
こういうのを何ていうんだっけ?
ああ――
そうだ「五月病」だ。
でも、今は七月だから
「七月病」?
まぁ……
どうでもいっか。。。
「おーい、カモ。死んだ魚みたいな目してるけど大丈夫か?」
杉宮は心配してはいるのだろうけれど、笑いながらそう尋ねる。
鴨居はいかにも、ダルいですよ。という雰囲気をむき出しにして答える。
「…うぃっス。」
返事はしているが明らかに大丈夫そうではなかった。
このごろ鴨居はまた佐野の研究室に頻繁に顔を出すようになっていた。
しばらくの間、杉宮は心配そうに鴨居の頭や背中を小突いていた。
すると、佐野がパソコンに目を向けながら素っ気なく言い放つ。
「ま。最近はハプニング尽くしだったようだしな。それらが一気に解決して、気が抜けちまってるんだろうよ。」
佐野の言うとおり、最近の鴨居はハプニングに囲まれた生活をしていたと言っても過言ではなかった。
つい三ヶ月前までは、ありきたりな生活に疑問を抱き、
そんな日常を打破しようともせず、なんとなくで過ごしていたのに。
しかし、そんな生活が一変するキッカケとなったのは、やはりあの合コンだったのだろう。
あの日、あの時からの鴨居といえば…
彼女の親友と、酒に酔っていたとはいえ一晩を過ごし。
先輩の驚愕の恋愛事情を耳にし。
一晩を共にした女におどしも同然で呼び出されたかと思ったら
そこに恋人が現れ、別れを告げられる。
あげくの果てには、集団リンチにあってしまい。
先輩や後輩、同級生にまでいらぬ心配や迷惑をかけたと思い悩んだ。
こうして並べてみると、とても三ヶ月の間に起こった出来事だとは、にわかに信じがたい濃い生活をしている。
そんな鴨居が、今のこの魂の抜けかけているような状態に至ったのは、心の休息とでも言ったところなのだろう。
「あぁ…ダルっ。」
しばらく佐野は鴨居をじっと見つめていた。
「ふーむ、しかし面白いなコイツは。ここまで一気に気の抜けるものなのかね?」
佐野は時折、鴨居をペンでこづいたり、持っていたアンパンで釣ってみたりした。
「何をしても反応無しか……おもしろいな、今度学会で発表しようかな。」
ぐたっとする後輩。
それをよく分からない方法で観察する先生。
そんなよく分からない状況に一緒におかれてしまった杉宮が一言。
「いや、そんな症状のやつそこら中にいるし。あんたただの英語教師だから、心理学的な発表とか無縁だし。」
杉宮の冷静な言葉に鴨居をこづくのを止める佐野。
「むっ……確かにそう言われてみればそうだな。」
「でしょ?」
ようやくこのよく分からない状況から解放されると杉宮が思うのも束の間。
「ふーむ、だがしかし面白いな。」
また楽しそうに鴨居をいじりだす佐野。
「先生仕事中でしょ?何してるんですか?」
呆れる杉宮。
佐野は打ちかけの論文をチラリと見て答える。
「いや、ただの息抜きだけど?」
それからも続く佐野の鴨居観察。
こづく。チョコで釣る。タバコを吹き掛けてみる(よい子は真似をしちゃダメだよ)。研究資料を背中に置いてみる。エトセトラ……エトセトラ……
そして杉宮は思うのだった……
「何故カモは拒否すらしない……?」
そして生温い風が汗ばむ肌を撫でるような季節となる。
この日、新田は腹を括っていた。
「今日こそ彼女に告白するんだ……」
こんなピュアな呟きを聞いてしまったら、ほとんどの人が「春だねぇ」などと微笑ましい目を向けるのだろう。
新田穂波。ギャル男ファッションに憧れを持つ、外見とは裏腹に他人思いの好青年である。
しかし、これだけははっきりとさせておきたい。
新田はギャル男に憧れているわけではない。
ギャル男ファッションに憧れを抱いているのだ。
さて、そんなどうでもいいこだわりを持っている新田は今日の三コマ目の講義の後、ある人を近くの公園に呼んでいた。
今どき告白をする場所に公園を選んでしまうとこが新田らしくて微笑ましいではないか。
「きちんと思いを伝えるんだ……そして。」
新田は愛の告白には二種類あると考えている。
一つは、恋人として歩んでいこうという、ある種の意識確認の様なもの。
これは一般に告白と言われるものだろう。
「そんで…きっぱり諦めよう。」
新田はもう一つの方の告白をしようとしていた。
三コマあった講義もいつの間にか終わっていた。
ずっと告白のイメージトレーニングをしていたら、時間はあっと言う間に過ぎてしまっていたのだ。
そして新田は勇気を振り絞り約束の公園へと向かっていく。
青々とした涼しげな木々の生い茂る公園。
ここは花の都千葉でもかなりポピュラーな場所だ。
しかし千葉県が花の都だと言うのは、大坂が水と光の町だということぐらい、ポピュラーとは言い難かった。
なにはともあれ、そんなハトも散歩している公園の中心には、蓮の葉に囲まれる休憩所がある。
その中の椅子に座ると、新田は目の前に広がる池を眺めた。
「はぁ…幸せそうなカップルばっか。」
池を悠々とボートで横切る四、五組のカップル達。
皆一様にして幸せそうな表情で見つめ合っている。
「そろそろ、来ちゃうんだよ……な。」
左腕にはめた時計を確認すると約束の二時が迫ってきていた。
新田は日陰の涼しい空気を大きく吸い込んむ。
「新田先輩……」
突然の声に、新田は十二分に息を吸っていたことも忘れ、また息を吸ってムセてしまう。
「うっ…げほっ、ごほっ。」
なんとか息を整えた新田は、その人を真っすぐに見つめた。
「急に呼び出してゴメンね、早苗ちゃん。」
さかのぼること三日前。
新田は鴨居と一緒に食堂で昼食をとっていた。
「カモって、カレー好きだよな。」
「うん。」
食堂で最も人気のあるカレー。
辛さを五段階から選べるというのが人気の秘密らしい。
「で、カレー好きなくせにマヨかけるんだよな。」
「…うん。」
鴨居はあまり辛さに強くない。
だから下から二番目くらいにすればいいと思うのだが、鴨居から言わしてみればそれは違うらしい。
上から二番目の激辛を頼み、それをマヨネーズの酸味とほのかな甘味で中和することによって、鴨居の求めるカレーの味になるのだそうだ。
なんて、ことを新田は二ヵ月前くらいに鴨居から聞いていた。
「カモってさ今好きな子とかいんの?」
「…んー?」
鴨居は聞いているんだか聞いていないんだか、はっきりしない返事をした。
どうもまだ七月病が治っていないらしく、なんだかボーッとしている。
「カモはさ。自分が人から好意持たれてるの気付いてる?」
「…んー?」
これまた気の無い返事をした鴨居。
普通だったら呆れられるか、怒りを覚えられても仕方がない。
しかし新田は少しも気にしている様子がなかった。
「その子をもしもオレが取ったらカモはどうする?」
「…んー?」
ぱくぱくとカレーを口に運んでいく鴨居。
どうやらマヨネーズで中和してもまだ辛かったようで、頻繁に水を飲んでいた。
超真面目な顔で話す新田。
明らかにうわの空で聞く鴨居。
端から見るととても不思議な会話はつづいていく。
「良いんだな?」
「…んー?うん。」
今の鴨居の返事は、明らかに質問されたから適当に返事をした。というのが誰から見てもみえみえだ。
「そっか、じゃあ俺今週中にでも早苗ちゃんに告白するからな。」
「…うん。」
鴨居は返事をしていたが、どうやら今の言葉は新田が新田自身に言ったことのように思える。
新田は鴨居に言うことで、自分の迷いを断ち切りたかったのだろう。
「カモ、オレ頑張るよ……」
そうして決意を固めた新田は今まさに、その意中の人物と対峙していた。
「あ、えっと……とりあえず座ろうか。」
新田がそう促すと、岡崎は遠慮がちに頷き新田の隣に座った。
こうして恥ずかしげにしている岡崎はまず誰が見ても女の子そのものだった。
本来ならば新田が呼び出したのだから新田から話始めるべきなのだろうが、緊張でそうもいかないらしい。
しばらく静寂が辺りを包んで、初夏のまだ冷たい風が吹き抜けていく。
新田は、何度もシュミレーションした言葉が喉まで出ているにも関わらず、言葉にできないでいることに腑甲斐なさを感じていた。
すると沈黙に耐えられなくなった岡崎から先に話始める。
「あの……穂波先輩。改まって話がしたい、なんてどうしたんスか?」
話始めるきっかけを貰った新田は今の思いを赤裸々にぶつけるのだった。
「俺ね、初めて早苗ちゃんに会った日から早苗ちゃんのこと好きだったんだ。」
落ち着いた穏やかな声で、そう言われて岡崎は耳を真っ赤にする。
「俺のタイプってさ。背が高くてスラッとした女の子らしい子、だと思ってた。早苗ちゃんそれとは真反対なんだもん。自分でもビックリしたよ。」
そう言って笑う新田。
「なっ!!失礼じゃないスか……もう。」
顔を真っ赤にしながら岡崎はそう言った。
きっと怒りに顔を染めていたわけではないのだろう、新田に好きだ、と言われてからずっと頬を染めている。
「うん…だから。ああ、そうか好きなんだ。って気付いた時には、どこが好きとかじゃなく岡崎早苗という女の子が好きなんだって。思った。」
岡崎は恥ずかしさからか下を向いている。
「ああそうか"理屈じゃない好き"ってこういうことか。って思えたんだ。」
最後に新田はにっこりと微笑んだ。
そして、また暫く沈黙が流れたが新田は黙ってしまったわけではなかった。
最後の言葉を自ら噛み締めようとしていたのだ。
「俺、"君を幸せにする"自信は持てないけど。"君を幸せにする努力をする"自信がある。何より君と居ることで俺は幸せになれる確信があるんだ。だから……」
新田の告白の途中だというのに岡崎は何を思ったのか急に立ち上がった。
そして新田を見るなり頭を下げる。
その瞳は、いっぱいになった涙でキラキラと輝いていた。
「ゴメンなさい穂波先輩。私、わたし……」
そう言うと突然岡崎は走ってその場を去ってしまった。
公園から駆け出した岡崎は真っすぐに大学へと向かっていた。
涙で視界がぼやけている。
彼女の走った軌跡にポタポタと小さな水滴が落ちた。
雨ではない、それは彼女の涙だ。
ゴメンなさい。
ゴメンなさい。
ゴメンなさい……
きっとあなたの最後の言葉を
「付き合ってほしい」なんて言葉を聞いたら
私は断ることができなかったから……
あなた以外を思っている。
そんな中途半端な気持ちで付き合いたくはなかったから……
私はあなたから逃げてしまったけど。
でも、私はあの人ときちんと向き合うから
だから……
ゴメンなさい。
穂波先輩、大好きです。
そして岡崎は大学に着くと、真っ先に佐野の研究室へと向かう。
そこにいるであろう人物に会うために。
研究室にはちょうど鴨居しか居なかった。
佐野の資料の整理を手伝っていたらしいのだが、佐野は一服に出ているようだ。
鴨居は珍しい人物の登場に少し驚いた顔をしたが、優しく招き入れる。
「どうしたの?入りなよ、早苗ちゃん。」
「……はい。」
その頃、新田はまだベンチに腰掛け池を眺めていた。
「あーあ、フラれちったなぁ。」
ボーッと見つめている先では先程までいたボートに乗るカップル達の代わりに、数匹のアイガモがのんびりと泳いでいた。
「にしても……あんな半端な所で断らないでくれよ。きっちり告白して、きっぱり諦めよう。って思ってたのに。」
新田はまだほのかに岡崎の匂いの残る、横のベンチを見つめる。
「くっそ女々しいよなぁ……諦められねぇよ。好きなんだよオレ。あんな断られ方したって、早苗ちゃんがカモのことしか見てないからって、好きなもんは好きなんだよちくしょーーっ!!」
新田の叫びに散歩をしていた人達が振り向いた。
その顔はだれもがにこやかで、優しい気持ちに満ちていた。
「きっと俺ってば、いつだって真っすぐにカモだけを見つめている。そんな早苗ちゃんが好きだったんだろうな……」
新田はいつもより重く感じる腰を上げると、何故だろういつもより身体は軽く感じるのだった。
池の周りの柵にまで歩いていき、優雅に泳ぐアイガモ達を見つめる。
真下に落ちていた小さな小石を拾い上げて、アイガモ達に当たらないように気を付けながら、アイガモを目がけて石を投げつけた。
「ったく……憎らしいよ、カモ。」
ポチャンと小石は同心円の波を生み出しながら、ゆっくりと沈んでいく。
波に足を捕られたかのようなアイガモが、わずか先を泳ぐ小さなアイガモを見つめていた。
その先に泳ぐ、もう一羽を真っすぐに見つめているそのカモを……
夕暮れに霞む光が、鴨居と岡崎のいる部屋を暖かく照らしだす。
岡崎は部屋に入ると扉をゆっくりと閉めた。
黙って立ちすくんでしまう岡崎を疑問に思った鴨居。
「早苗ちゃん…どうしたの?」
鴨居に優しくそう聞かれると、岡崎はうつむいたままに話し始めるのだった。
「さっき……穂波先輩に告白されちゃいました。」
「新田くんが……。早苗ちゃんは新田くんのこと好きじゃないの?」
岡崎は左右に首を振ると、消えてしまいそうな声で答える。
「穂波先輩は凄く優しくて、私なんかには勿体ないくらい格好よくて……」
時折あいづちを打ちながら鴨居は岡崎の話を聞いていた。
鴨居はまだ、これは後輩の恋愛相談なのだろう。くらいにしか思っていなかったのだ。
「だったら……付き合ってみても良いんじゃないかな?」
そう言われた岡崎は急に、泣きそうな目で鴨居を睨み付けると、ボロボロと涙をこぼしはじめた。
「なんで……何でカモ先輩は分かってくれないんスか?」
沈んでいく太陽が、事態を飲み込めていない鴨居の困惑した表情を朱色に染めていく。
「え?ゴメン、オレよく状況が理解できてないんだけど、分かってくれないって――何が?」
岡崎は握った手を小さく震わせる。
そして、深呼吸をして叫ぶように言うのだ。
「私はカモ先輩のことがこんなにも好きなのに!!何でカモ先輩は気付いてくれないんスか!?」
頬も顔も耳までもを赤くして、岡崎はまた下をむいてしまった。
「えっ…?」
恋愛相談に来たと思っていた後輩からの、突然の愛の告白に鴨居はますます困惑してしまう。
岡崎はそんな鴨居を見て、悲しそうに涙を流した。
小さな手で涙を拭うが、涙は大きな粒となって床に落ちていく。
「私、ずっと前からカモ先輩のこと好きだったんです。カモ先輩の隣にいると、ドキドキして。」
岡崎はときどき、しゃくりながらもその思いの丈を打ち明けていく。
ゆっくりと、ゆっくりと沈む太陽が今にも遠くのビルの中に隠れようとしていた。
「先輩の笑顔を独り占めにしたい。って……先輩と手を繋ぎたい。って、そんなことばかり考えてて。」
鴨居の心臓が不器用な音をたてる。
その時、ふと鴨居の頭にある言葉が過るのだった。
『自分への好意を持ってくれる人って世界にどのくらいいるのだろう?
もしかしたらほんの数人で、その人を逃してしまったらオレは独りになるんじゃないかって……』
言い得ぬ不安が鴨居を支配していく。
(オレは早苗ちゃんのこと"嫌いじゃない"。だったら別に付き合っても良いんじゃないか?)
独りになりたくない。という感情が鴨居の頭を混乱させていた。
そんな時に、ある女性からの言葉が胸の辺りから聞こえたような気がして、鴨居は正気を取り戻す。
『今度は本当の恋をして幸せになってね。』
(そうだ……何を考えてるんだよオレ。また同じ間違いを、真希にしてしまった間違いを犯すところだったじゃないか。)
鴨居は自分への怒りをとりあえず胸の内にしまう。
そして改めて岡崎へと向き直すと、できるだけ傷つけない言葉を選ぶようにして言う。
「ありがとう早苗ちゃん。凄く嬉しいけど……オレは君と付き合うことはできないよ。」
岡崎の潤んだ瞳から、徐々に光が消えていった。
鴨居は胸が締め付けられような感覚に陥ったのだが、言葉を続ける。
「前に付き合っていた子をオレは深く傷つけてしまったんだ。好きでも無いのに付き合って、その子の思いが怖くなって逃げてしまった。」
すっかり暗くなった部屋に明かりを灯すことなく、二人は向き合う。
「そして、そのことから一つ学んだ……相手を思う『心』の無い『恋』が成り立つことはないんだ。って。」
岡崎の啜り泣く声が、暗い部屋に不思議なくらい確かに響く。
「もう、あんな間違いを犯して、自分を好きになってくれた子を傷つけたくないんだ。だから、アリガトウ……ごめんね。」
溢れだした感情が、鴨居をほんの少し成長させる。
振り絞った言葉が、仕方なくも相手を傷つけていく。
きっと、いつになったって恋愛とはこういうものなのだ。
すると急にパッと部屋が明るくなった。
泣いている岡崎の前で真剣な顔をしている鴨居を見て、長い一服から帰ってきた佐野は目を丸くする。
「えっ……と。お邪魔だったか?」
まいったな。と小さくぼやいて佐野は頭をかいた。
岡崎はくしゃくしゃになった顔を、強くぬぐうと出口へと歩きだす。
そして扉を開けると、鴨居の顔は見ずに。
いや見れないままに明るい声を作って言うのだった。
「先輩が私のことをそこまで考えて出してくれた答えだって分かって嬉しかったでス。困らせちゃってゴメンなさい……」
パタンと扉を閉めると、岡崎が走り去っていく音が、徐々に小さくなっていくのが聞こえた。
佐野には今の鴨居の気持ちが手に取るように分かっていた。
すぐにでも追い掛けるべきだ。謝らなくては。と思っていることはバレバレだった。
そしてそれが間違いであると知っている佐野は鴨居を止める。
「鴨居。頼んでおいた資料は?」
急いでいるのに。と言わんばかりの鴨居らしくない表情で佐野を振り返る。
唇を噛み締めながら残っている資料を見た。
「あと少し残ってます……」
そうか。と小さく言って佐野は今まで鴨居が作業していたパソコンを覗き込んだ。
そして、いつもの様に煙草を取り出す。
「うん、ご苦労だったな。ここまで仕上がってりゃ十分だ。帰っていいぞ。」
「えっ……?」
鴨居は呼び止められて、作業を続けろ。と言われるとばかり思っていたので驚いてしまう。
鴨居は机の上に置いていた荷物を持ち、部屋から出ていこうとした。
すると、佐野が静かに言う。
「ただ……岡崎は放っておけ。詳しい事情は知らんがな、泣きながら謝罪と礼を言ったやつにかけてやれる、便利な言葉なんて人間は持ち合わせちゃいないよ。」
そして佐野は手に持っていた煙草を口にくわえると、机の引き出しから真新しいマッチ箱を取り出した。
そこから一本マッチを抜き出し、火を点ける。
「ましてや告白を断ったやつが相手にかける言葉なんて、きっぱり諦めさしてやる為の"付き合えない"って言葉くらいなもんなんだよ。」
先生の言っている言葉は理解できた。
しかし、だからどうすれば良いのか鴨居にはわからなくて。
「先生……オレはどうすればいいんですか?」
「ん?待てよ……鴨居、今日は何日だ?」
マッチから煙草に火を移そうとした手を止めて、佐野はそう唐突に鴨居に尋ねた。
「し、7月の15日ですけど。どうかしたんですか?」
佐野は手で顔を覆い、残念そうにため息をした。
そしてまだ火の点いたばかりの煙草を灰皿に押しつけた。
「禁煙日なんだ。すっかり忘れてて三本吸っちまったけどな……」
すると綺麗なほどに悲しい表情をして佐野は空を見上げた。
しばらくボーッと空を見上げていた佐野。
ふと、教え子の相談に乗っていたことを思い出す。
「あー、あんたがどうすればいいか?だったな。」
鴨居は無言で頷く。
「うん……普通に接してやれば良い。ただ普通にな。」
佐野はしゃべりながら、車輪の付いた椅子を手前に引くと、腰を落とした。
「先生オレ……」
真面目な顔をしながら、時折下を向く鴨居。
佐野はパソコンに向き合いながら、淡々と言う。
「何を複雑な顔してやがる、人から好意を持たれて告白までされたんだぞ?喜べ。誰もが好きなだけ経験できる様な事じゃあない。」
最後にニッと笑って、それっきり佐野は言葉を発しなかった。
鴨居は空を見つめる。
いろんな人からのいろんな言葉が、頭から離れないでいた。
鴨居が家路についてからも佐野は資料の整理をしていた。
部屋の電気を消して、明かりといえばパソコンの光だけ。
そんな薄暗い空間で、ポツンと窓際にたたずみ、佐野は二つのグラスと高級そうなワインを手にしている。
「約束破っちゃってゴメン。あんたの誕生日だけは煙草吸わないって約束してたのに……」
佐野は机の一番下の引き出しから一枚の写真を取り出して、窓の枠に立て掛ける。
「それに、もう一つの約束も守れそうにないんだ……馬鹿な女だよね。」
写真には豪快な笑顔で、子供のように佐野に抱きつく一人の男性と幸せそうな顔をしている佐野の姿があった。
佐野は少しずつワインを注ぐと、片方を持ってもう片方のグラスにコンと優しく打ち付けた。
「今日からは私の方がお姉さんだね。ハッピーバースデイ……正喜(まさき)。」
佐野の忘れられない過去を杉宮が知るのは、もう少し先の暑く、雨で視界すらないそんな日のことになる。
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