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第一章:それはいつもと違う春
日常と憂鬱な朝に
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変わらない日常。ありきたりな生活。退屈な授業に乏しい財布。二年間の大学生活で手に入れたのは"情けない"という自分へのレッテルだけ。
とある大学のとある科目の研究室。カーテンの隙間から差し込む僅かな明かりが、ほの暗い雰囲気を放つ室内をぼんやりと照らしている。教授のデスクと、会議用の長机に2人の影。
「何してんだよオレ・・・・・・」
山積みになった期限を過ぎた春休みの課題。その参考資料を横目に、一番上にあった本をパラパラと目も通さずにめくっていく。頁は有限なので、やがて最後のページに辿り着き、少年はパタリとその本を閉じた。
「はぁ・・・・・・」 机に顔を埋める様にして、そう深くため息を吐いたのは鴨居 友徳(かもいとものり)。勉強も運動も、容姿、スタイル、何をとっても平凡。誰かから特別に好かれるタイプではないけれど、誰かから特別に恨みを買うようなタイプでもない。
身長は同年代と比べると少し平均よりも低く、身軽な方だ。少し色素の薄い黒髪は、伸ばしている訳ではなかったが、たまたま美容院に行くタイミングが合わず前髪は眉毛よりも下に伸びてきていた。
そんな、どこにでも居そうな平凡な少年の唯一の長所をあげるならば、誰にでも人当たりが良く"知り合い"が多いことくらいだろうか。
「おー、こらこら。ヒトのデスクで辛気臭いため息なんか吐いてくれるなよ少年」
鴨居の真正面の教授用の机でパソコンと向き合い、資料整理をしている女性。彼女の名前は佐野 明美(さの あけみ)。胸の谷間が見えるほどにYシャツをはだけさせ、かなり濃い目の煙草を斜めにふかす。外見はいかにも不真面目そうだが、教授の席に堂々と座っている彼女はれっきとしたこの大学の教授である。
「佐野先生…」
「・・・・・・ん?なんだ」
鴨居は佐野と課題とを交互に見てから言う。
「先生の教科…・・・マジ課題多すぎっス」
そういった鴨居の手元を佐野が覗くと、自分が出した英語の課題が手が付けられていないままになっていた。
「――って、何やってんだオレ……じゃねぇよ。本当に何してんだ貴様は!!」 そう言い放って、佐野は小さく息を吐いた。
「しかしオマエさん。よくもまぁ、課題出しそびれた教科の教授の机で居残りできたもんだな、コラ」
佐野はそう一喝すると、大して気にしてはいないらしく、すぐにパソコンへと向き直ってしまう。そんなこんなで佐野のゲキを受け。鴨居が嫌々ながらも真面目に課題に取り掛かってから数分のこと。
「コンコン」 とドアをノックする音がして、背の高い短髪の青年が部屋に入ってきた。
「おーっす、あけみちゃん居る?」 ひょうひょうとした態度で入ってくるやいなや、その男は仮にも教授のことをちゃん付けで呼んでみせた。ふてぶてしいにもほどがあるその男は鴨居の一つ上の先輩、杉宮 要(すぎみやかなめ)だった。鴨居とは違いルックスが良く、背が高い、また掴み所の無い性格からか女学生からの人気が高い。
「杉宮、てめぇ。何回下の名前で呼ぶなっつったら分かんだよ」
佐野の睨みにも杉宮は手をひゃあっと挙げておどけて見せただけだった。これは何を言ってもダメだと悟った佐野は大きなため息を一つして仕事を続ける。
「お、カモもここ来てたんだ。あけみちゃんの課題?」 ここでのカモとは鴨居のあだ名だ。
「…そっス」 鴨居はペンを動かし続けながら、そんな気のない返事を返した。
「あ、そだ……あけみちゃん、はいこれ」
何かを思い出した杉宮は、そう言って佐野に二冊の本を手渡した。佐野はその本をペラペラとめくると簡単にチェックをしていく。
「…で?課題を後から出しておいて何か言うことはないのか?」 にこぉ、っと素晴らしいばかりの威圧感を放ちながら笑う佐野。それに気付いているのか、いないのか杉宮も笑顔を返し言う。
「ごめんね☆」 杉宮はふてぶてしくそう言い放っただけでなく、最後にウィンクまでして見せた。
「杉宮要。春休みの課題提出……」 佐野はデスクの引き出しを開け、受け取った本をそこに入れると見せかけ――
「却下!!」 なんとそのまま三階の窓から、杉宮の課題を投げ捨てた。
「って!ノォォオン!!」 まるで韋駄天の様な速さで部屋を後にする杉宮。そのわずか数秒後に佐野が本を投げ捨てたのであろう地点から杉宮の声が聞こえた。
「あんの糞ババァ。今に見てろよ……」 まさか上にいる佐野に聞こえているだなんて知る由もない杉宮。彼が佐野の教科の単位を落とすことになるということは言うまでもない。
「…おい鴨居。オマエさん、間違っても"ああ"は成るなよ」
「…うっス。心から誓うっス」
しばらくして息を切らしながら杉宮が、佐野の教室に戻ってきた。
「はぁはぁ。ところでカモさぁ。今日の合コンの人数足んねぇんだけど来ない?」
佐野に投げ捨てられた本を回収し、再度提出に来た杉宮。何故か息を切らしながら鴨居の隣に座り、何やら問題を解いていた。提出が遅れた罰。というか聞こえてないと思って悪口を言った罰で、課題をかなり追加されていたのだ。
「…・・・合コンですか」
鴨居は残りわずかになった問題を解き続ける。合コンの誘いとあらば、普通の男子学生は二つ返事で参加するものだが、鴨居は何故か気乗りしないようだ。
「あ、でも。お前彼女いるしな。無理にってわけじゃないから」
実は鴨居には付き合って四か月になる恋人がいた。向こうから告白され、鴨居は特に何とも思っていなかったのだが、告白されて嫌な気はせず、彼女の容姿はタイプに足るものだったので勢いで付き合いを始めた。
「ああ…別に平気っスよ。どうせ最近会ってないですし」
付き合ってしまえば、後から愛情もわくもんだろう、そんな考えだったのだが。付き合い始めても鴨居にそんな感情が芽生えることはなく、今では自然と疎遠の状態になってしまっていたのだった。
「ふーん、もったいないな可愛い顔してんのに」
「顔だけ。ですから……」
鴨居は全ての問題を解き終えると、ペンを筆箱に投げ入れ課題の本を勢い良く閉じた。そして席を立ち佐野に課題を手渡し、杉宮に振り返える。
「行きましょ、合コン」
「おう!」
その朝、鴨居は激しい頭痛で目覚めることになった。ガンガン頭をぶたれていると錯覚するほどの痛みと、胃やら肝臓やらがヒリヒリムカムカとする気持ちの悪さに襲われる。
「うげ…二日酔いだ。はぁ……って、えぇっ!!」
頭痛や吐き気だけだったらどれだけ幸せな目覚めだったことだろう。
「えっ……これは……」 気が付くと鴨居の腕の中で裸で眠る見知らぬ女。
「もしかすると、否。もしかしなくても、そうだよな……」 そして、周りを見渡すと明らかに自分の部屋ではなかった。
「うーわー」 がっくしと肩を落としたが、現状のままでいる意を決し、その女の肩をゆすって起こす。
「ん…うぅん。あ、おはよう。」 眠気眼でボーッと鴨居を見つめてその女は微笑んだ。
「お…おはよう。。。」
もう何が何だか分からなくなってしまって、鴨居は呑気に挨拶を返してしまう。そして、ふと気が付くのだった。
(って…おはよう。とか言ってる場合かオレ!!) 自分の中でそう自分にツッコミを入れる鴨居。このような状況に陥っていて、まったく器用なものである。
「えっと…ゴメンなさい。君は誰?」 自ら最低な男だと分かってはいるのだが、相手の素性を知らぬまま帰すわけにはいかなかった。
「ひっどぉい。昨日私に散々あんなことや、こんなことしといて」 そう言いながら女はぷくぅっと頬を膨らまし怒ってみせる。やはり最低なことをしてしまったのだろうか、と不安そうな顔をした鴨居を見て女はクスリと笑う。
「なーんてね、大丈夫だよ。カモ君、"する"前に酔っ払って寝ちゃったから」
「えっ…あ、そうなの?良かった」
酒の勢いで見知らぬ女性と一晩を供にしただけでも問題なのに、男女の関係になってしまうのなんて言語道断である。鴨居の記憶にはないのだが、とにかくそうなることだけは避けられた様で鴨居は安堵の言葉をこぼしていた。
「良かった……?」
しかし、相手にしてみればそうもいかない。受け入れる覚悟ができていたのに、当の相手が寝てしまったのだ。これはもう侮辱に等しい行動だった。そんな女の様子に気付いた鴨居がベッドの上で土下座をして謝る。
「いや、本当にゴメンなさい」
下げた頭を少しだけ上げて女の表情を伺うが。まだ少し不機嫌そうだった。
「いいけどね、別に。そんなことより朝食おごってよ。そこで昨日の話もしてあげるから」 そう言うと女は鴨居の前で恥ずかしがる様子もなく服を着始める。よくよく考えると今は鴨居も裸の状態だった。ベッドの上で裸で土下座する大学三回生……哀れ。その一言に尽きる。
そして、2人はホテルを出ると近くのファミリーレストランで朝食を取ることにした。鴨居は名前も知らない女とレストランで食事なんて不思議な感覚になっていた。
「いらっしゃいませ。ご注文の方はお決まりでしょうか?」
二日酔いの激しい鴨居は朝食を取る気力も無くコーヒーだけを頼んだ。
「カモ君、コーヒーだけ?なに朝食べない派なの?」
そんな鴨居とは打って変わって、その女は朝からだというのにフレンチトーストとシーザーサラダを食べ、そしてコーンポタージュを頼んだ。
「うん…二日酔いがキツくて食う気になれない。いつもはちゃんと朝も食ってるけどね」
「ふーん。まぁ、合コンの席であれだけ飲めばそうなるか」
そこでようやく鴨居は昨日、自分が合コンに参加していたことを思い出す。
「てことは、君も合コンに参加してたの?」 温かいコーヒーを無糖のまま飲み、鴨居は尋ねた。
「君。って止めようよ。私の名前は大川 美鈴(おおかわ みすず)」
大川はにっこりと笑うと、鴨居をジーッと見つめる。そう。「言い直せ」 という合図である。
「あー…大川さんは」
「美鈴ちゃん」
名字で呼ぼうとしたら、下の名前で呼べ、と言葉を遮られてしまった。鴨居はため息をついて、希望どおりに言い直す。
「美鈴ちゃんは、あの合コンに参加してたの?」
「お待たせ致しました、フレンチトーストになります」
「ありがとっ」 大川は嬉しそうに、ウエイトレスから受け取ったフレンチトーストを一口大に切り分けていく。器用に食べながら話は進んでいく。
「うん。まぁ、参加したくてしてたわけじゃないんだけどね。人数合わせで連れてこられただけ」
そして切り分けたトーストを、雰囲気とは似合わぬ上品な手つきで小さい口に運んでいく。
「で、行ったは良いんだけどチャライやつばっかで良い男いないしさぁ。早く抜けたいなぁーって考えてた所に――」
大川はさっきの上品さはどこへいったのか、下品にも持っていたフォークで鴨居を指差した。
「カモ君がいたってわけ。私はすでに酔っ払ってたカモ君を誘って違うお店へ。カモ君の話題ってさ、結構聞いてたからすぐにピンと来たよ。」
「え・・・…オレの話って、誰から?」
鴨居の反応に大川は少し面食らったような表情をしたが、すぐに意地の悪そうな笑みを見せる。
「さて問題です。昨日の女の子達はいったい何の集まりだったのでしょうか?」 いきなりのカルト問題を始める大川に鴨居はたじろぐ。
「えっ…・・・と」
「はい、残念。正解は慶葉大学2回生でした。では次、私の年齢はいくつでしょうか?」
大川は次々とマイペースで問題を出していく。
「え……一つ下くらい?」
「おっ、正解。では最後の問題です。慶大2回生で私とカモ君の共通の知り合いといえば?」 そう言って大川は意地悪い笑顔を見せた。鴨居はその笑顔に不安を感じて、真剣に思い出そうとした。自分の知り合いであの有名な慶大に通う人物。
そして、ある一人の女性だけが浮かび上がり、冷や汗が背中を伝った。
「もしかして…真希(まき)の知り合い?」
鴨居の言葉を聞くやいなや大川は満面の笑みを浮かべた。
「大正解。私はカモ君の恋人の山下 真希の友達でーす」
最悪。ただその一言が鴨居の頭を支配した。最近はあまり会っていないからといって、まさか彼女の友達と一夜を過ごしてしまうなんて。「間違いました」 では済まない話だ。鴨居は胸焼けを忘れてしまえるほどに頭が痛くなるのを感じた。
「あ、その。このことは真希には…・・・」
「分かってるってぇ。昨日のことは私とカモ君だけのヒ・ミ・ツだよ」
何故だろう鴨居は、その言葉に妙な不安を感じてならないのだった。
朝食を食べ終えると本当に何事もなく大川は去っていった。鴨居は拭えきれない胸騒ぎを抱えながら、午後からの講義に出るために大学へとむかっていくのであった。
合コンでのことがあってから、鴨居は周りから見てもあからさまに分かるほど自己嫌悪にひたりきっていた。不幸中の幸いといえるのは、大川が約束どおり鴨居のことを黙ってくれているであろうことだった。
「相変わらずの音信不通だな……真希」
鴨居の携帯の中で唯一グループ分けされている女性からの連絡は、ここ1ヶ月ないままだった。
「なんかオレって今"泥沼"ってやつ?」
目的もなく進学して……
ただ授業に出て……
生活費が必要だからバイトして……
淋しいから"知り合い"をたくさん作って……
でも、"友達"って呼べる人は居なくて……
自分はどうしようもなく
孤独なんだ。って……
弱々しく頭を抱えている。
そんな自分が――大嫌いなんだ。
鴨居はぼうっとガラス張りの廊下から、中庭を見つめる。すると――
「おっス、カモ」
「痛っ!!」 ビシッと何の前触れもなく鴨居の頭頂部にチョップをお見舞いしながら杉宮は現れた。
「杉宮先輩……」
鴨居の不安そうな淋しそうな表情。それを見て杉宮は鴨居を外に連れ出した。
「ちょっ…杉宮先輩。どこ行くんスか?俺すぐに次の講義があるんですけど……」
「いいから。黙ってついてこいって」 そう言いながらグイッと鴨居の手を引っ張る杉宮。鴨居は観念して杉宮の後に続いていくことにした。
本棟を出て、緑いっぱいの中庭を突っ切り、鴨居の学科ではあまり使うことのない第3棟へと入る。杉宮の手に引かれるままに、2人は屋上へと登っていった。
屋上の扉を開けた瞬間、体がのけぞるような風が流れ込む。
「あ、先客いるわ」 何故か杉宮は空を見上げながらそう呟いた。誰も居ない屋上で鴨居も空を見上げる。青々と澄み切った空。宙の海を飛ぶ小さな鳥。
その時唐突に――
俺ってチッポケだな。
……って思った。
そんなチッポケな俺の、チッポケな頭で考えた悩みなんて……
この澄み切った世界からすれば、取るに足らないくらいチッポケな問題で。
考えても無駄なだけかな?なんて――
そんなことを思ったら、自然と顔がほころんでいったんだ。
「気持ちいいっスね。杉宮先輩」 そう言って振り返った鴨居の視界に、何故か杉宮の姿はなかった。
「あれ?先輩……?」
すると、どこからともなく現れた人物が鴨居に近付いてきた。
「…ん?誰かと思ったら鴨居じゃないか。気晴らしか?」 居なくなった杉宮の代わりにそこに立っていたのはなんと佐野であった。佐野は相変わらず羞かしげもなくシャツをはだけさせ、その豊満な胸の谷間を見せ付けている。
「あ、佐野せんせい。杉宮先輩見ませんでした?」
佐野は白衣の胸ポケットから煙草を取り出すと、マッチで火を点ける。その姿があまりにもサマになっていて鴨居は煙草は嫌いだったが「格好いい」 だなんて思ってしまう。
「ん?なんだ杉宮と一緒だったのか…あいつな、アタシがここに居ると逃げやがるんだよ」
鴨居には杉宮が何故佐野から逃げたのか分からなかった。佐野は空に向かってゆっくりと白い煙を吐き出す。
「にしても。お前ら本当に仲良いな。そもそも、学科も違うのにどうやって知り合ったんだ?」 そう突然に聞かれて鴨居はほんの少し昔を振り返る。
「あ、オレ1年の時の始業式でサークル勧誘の人に絡まれちゃった時があったんですけど……」
入学式を終え、新入生だけのオリエンテーションを終え。今日から夢のキャンパスライフが始まろうとしていた。
太陽の日差しはとても暖かくて、まるでオレ達の入学を祝ってくれている様な日だったのを鮮明に覚えてる。もう何度か通ったこの道も不思議と新鮮に感じるのは、噂の『花のキャンパスライフ』というものの始まりだからなのかもしれない……
「うわ…やっぱり凄い人の数。新入生だけでも千人近くいて在校生もだから…凄い、凄いな」
校門付近のあまりの人の多さに、オレの少ないボキャブラリーでは感動を表す言葉が「凄い」 しか出てこなかった。校門を抜けると、まるで文化祭でもやっているような雰囲気に包まれていて、なんだかそわそわしてしまう。柔道着や剣道着、チア、野球やサッカーのユニフォームを来た人が、膨大な量のビラを配っている。
「あ、君新入生だよね?どう?野球サークルで爽やかな汗かかない?」
ビラは手書きで書かれているものが大半で、安っぽい紙で出来ていた。一歩歩くたびに強引にポケットにビラが詰められていく。
「ラグビー部で全国を目指そう!!」
「囲碁・将棋研究会で知的なキャンパスライフを送りませんか?」
「チア部に入って可愛い服で踊りましょう」
ぞろぞろと入ってくる新入生に余すことなく勧誘の手が伸ばされていく。鴨居が歩調を早くしようとした、その時だった。
「こんにちは。ちょっと良いかな?」 肩をぽんと叩かれたのでオレは振り向いた。
「ねぇ、君。オレらボクシング部なんだけどさ。人数足りなくて廃部になりそうなんだよね。」
そこにいたのは数人のガタイの良い強面の人達だった。
「いや…でもオレ。格闘技は向いてないんで」 そう丁寧に断って先に進もうとすると行く手を阻まれ、肩に腕を回される。
「向いてる向いてないなんてやってみなきゃ分かんないじゃん。とりあえず部としての認可が出るまでいてくれりゃそれでいいから、な?」 そんなこと言いながら、無理矢理に回した腕でオレの動きは完全に制御されてしまった。
ギリギリと腕に力を入れながら話すその人達は、オレを確実に威嚇している。
「いや…でも」 それでも断ろうとした時。完全に態度が一変した。
「分かんねぇヤツだな。痛い目みるまえに入っちまえば良いだろうがよ。あ?俺らなんか間違ったこと言ってるか?」 そのまま肩をガッと掴まれてしまって、恥ずかしいことにオレは内心かなりビビってしまっていた。そして諦めて入部しようとした時だった。
その人が現れたのは――へらへらと笑いながら近づいてきた背の高い男。恐らくは先輩であろう。
「あれー?小林じゃん。こんなとこで何やってんだよ。英文化研究会の勧誘の人手足りねぇの知ってんだろ?」 校舎の中からひょっこりと出てきたその人は、僕を見てそう言った。
(え……小林?この人誰かと勘違いしてないか?) オレが何も反応しなかったので、その人は続けて言う。
「おーい、小林聞いてる?」
「えっ、だ…・・・」 「誰ですか?」と言おうとしたオレの口を軽くふさいで、ボクシング部の人達に気付かれない様にオレにウィンクをした。
(そっか、この人オレのことを助けようとしてくれているんだ。) オレは「お願いします」 と思いを込めて小さく頷く。その人はオレの肩を掴んでいる人達を鋭い目付きで睨み付ける。
「あんたらさ、うちの部員にちょっかい出さないでくれるかなぁ?」 オレの肩を掴んでいたボクシング部の人の手を掴むと、その人はオレを解放してくれた。
「ちっ……なんだよ。杉宮の連れかよ。おい退くぞ」
杉宮と呼ばれたその人。ボクシング部の人達は何故か少しおびえたように、足早に去っていった。
「大丈夫だった?無理矢理勧誘されてたんだろ?」
「あ、ありがとうございました。えっと……」
杉宮さんの優しい笑みにオレは妙に安心したのを今でも覚えてる。そして、杉宮先輩が握手を求めるように手を差し出した。
「俺、杉宮要。君は?」 オレは差し出されたその手を握り替えそうと、手を出す。
「鴨居友徳です。杉宮先輩ありがとうございました。って…………え?」
杉宮先輩はオレの手を取ると、ぐっと親指だけを握った。
「あの、先輩……?」
そして何故か自分の手に持っていた朱肉にオレの親指を押しつける。
「あの……これって」 そして、これまた何処から取り出したのか分からないが、部活やサークルの入部届けに俺の朱印を押し付けると、あっけらかんと言い放ったのだった。
「鴨居くん・・・…英文化研究会へようこそ☆」
(えぇーっ!!!!あんたが本当の悪徳勧誘なんかい!?)
これがオレと杉宮先輩との初めての出会いだった。
「・・・…と。まぁ、こんな感じだったんですけどね」
「そうか」 そう言って佐野は少し楽しそうに笑った。
晴天の空に佐野の煙草の煙が溶け込んでいく。
「あ、そういえば、その後に初めてここに来たんですよ。杉宮先輩の一番好きな場所なんだ、って」 鴨居のその言葉を聞いた佐野が少し戸惑ったような表情をした。そして、吸い切った煙草を携帯灰皿に入れると、新たにもう一本の煙草を取り出して吸い始める。
「そういや。アタシと杉宮が初めて会ったのもここだったな……」
わずかだけど懐かしそうで、ほんのちょっとだけ悲しそうな佐野の表情。
「えっ…?」 っと驚いた表情のまま興味津々な眼差しで自分を見つめてくる鴨居の顔を見て、佐野は「ぷっ」 と吹き出した。
「知りたいか?」 佐野の問いに鴨居は反射的に答える。
「はい。凄く興味あります!」
佐野は吸い始めたばかりの煙草を消す。
「うん……そうだな。教えてやらん!!」
「へっ…?」 がっはっは。と笑いながら背中越しに手を振って、佐野は屋上から去っていった。唖然とした表情のまま独り屋上に残された鴨居が、杉宮と佐野の出会いの物語を知るのはもう少し後になる。
とある大学のとある科目の研究室。カーテンの隙間から差し込む僅かな明かりが、ほの暗い雰囲気を放つ室内をぼんやりと照らしている。教授のデスクと、会議用の長机に2人の影。
「何してんだよオレ・・・・・・」
山積みになった期限を過ぎた春休みの課題。その参考資料を横目に、一番上にあった本をパラパラと目も通さずにめくっていく。頁は有限なので、やがて最後のページに辿り着き、少年はパタリとその本を閉じた。
「はぁ・・・・・・」 机に顔を埋める様にして、そう深くため息を吐いたのは鴨居 友徳(かもいとものり)。勉強も運動も、容姿、スタイル、何をとっても平凡。誰かから特別に好かれるタイプではないけれど、誰かから特別に恨みを買うようなタイプでもない。
身長は同年代と比べると少し平均よりも低く、身軽な方だ。少し色素の薄い黒髪は、伸ばしている訳ではなかったが、たまたま美容院に行くタイミングが合わず前髪は眉毛よりも下に伸びてきていた。
そんな、どこにでも居そうな平凡な少年の唯一の長所をあげるならば、誰にでも人当たりが良く"知り合い"が多いことくらいだろうか。
「おー、こらこら。ヒトのデスクで辛気臭いため息なんか吐いてくれるなよ少年」
鴨居の真正面の教授用の机でパソコンと向き合い、資料整理をしている女性。彼女の名前は佐野 明美(さの あけみ)。胸の谷間が見えるほどにYシャツをはだけさせ、かなり濃い目の煙草を斜めにふかす。外見はいかにも不真面目そうだが、教授の席に堂々と座っている彼女はれっきとしたこの大学の教授である。
「佐野先生…」
「・・・・・・ん?なんだ」
鴨居は佐野と課題とを交互に見てから言う。
「先生の教科…・・・マジ課題多すぎっス」
そういった鴨居の手元を佐野が覗くと、自分が出した英語の課題が手が付けられていないままになっていた。
「――って、何やってんだオレ……じゃねぇよ。本当に何してんだ貴様は!!」 そう言い放って、佐野は小さく息を吐いた。
「しかしオマエさん。よくもまぁ、課題出しそびれた教科の教授の机で居残りできたもんだな、コラ」
佐野はそう一喝すると、大して気にしてはいないらしく、すぐにパソコンへと向き直ってしまう。そんなこんなで佐野のゲキを受け。鴨居が嫌々ながらも真面目に課題に取り掛かってから数分のこと。
「コンコン」 とドアをノックする音がして、背の高い短髪の青年が部屋に入ってきた。
「おーっす、あけみちゃん居る?」 ひょうひょうとした態度で入ってくるやいなや、その男は仮にも教授のことをちゃん付けで呼んでみせた。ふてぶてしいにもほどがあるその男は鴨居の一つ上の先輩、杉宮 要(すぎみやかなめ)だった。鴨居とは違いルックスが良く、背が高い、また掴み所の無い性格からか女学生からの人気が高い。
「杉宮、てめぇ。何回下の名前で呼ぶなっつったら分かんだよ」
佐野の睨みにも杉宮は手をひゃあっと挙げておどけて見せただけだった。これは何を言ってもダメだと悟った佐野は大きなため息を一つして仕事を続ける。
「お、カモもここ来てたんだ。あけみちゃんの課題?」 ここでのカモとは鴨居のあだ名だ。
「…そっス」 鴨居はペンを動かし続けながら、そんな気のない返事を返した。
「あ、そだ……あけみちゃん、はいこれ」
何かを思い出した杉宮は、そう言って佐野に二冊の本を手渡した。佐野はその本をペラペラとめくると簡単にチェックをしていく。
「…で?課題を後から出しておいて何か言うことはないのか?」 にこぉ、っと素晴らしいばかりの威圧感を放ちながら笑う佐野。それに気付いているのか、いないのか杉宮も笑顔を返し言う。
「ごめんね☆」 杉宮はふてぶてしくそう言い放っただけでなく、最後にウィンクまでして見せた。
「杉宮要。春休みの課題提出……」 佐野はデスクの引き出しを開け、受け取った本をそこに入れると見せかけ――
「却下!!」 なんとそのまま三階の窓から、杉宮の課題を投げ捨てた。
「って!ノォォオン!!」 まるで韋駄天の様な速さで部屋を後にする杉宮。そのわずか数秒後に佐野が本を投げ捨てたのであろう地点から杉宮の声が聞こえた。
「あんの糞ババァ。今に見てろよ……」 まさか上にいる佐野に聞こえているだなんて知る由もない杉宮。彼が佐野の教科の単位を落とすことになるということは言うまでもない。
「…おい鴨居。オマエさん、間違っても"ああ"は成るなよ」
「…うっス。心から誓うっス」
しばらくして息を切らしながら杉宮が、佐野の教室に戻ってきた。
「はぁはぁ。ところでカモさぁ。今日の合コンの人数足んねぇんだけど来ない?」
佐野に投げ捨てられた本を回収し、再度提出に来た杉宮。何故か息を切らしながら鴨居の隣に座り、何やら問題を解いていた。提出が遅れた罰。というか聞こえてないと思って悪口を言った罰で、課題をかなり追加されていたのだ。
「…・・・合コンですか」
鴨居は残りわずかになった問題を解き続ける。合コンの誘いとあらば、普通の男子学生は二つ返事で参加するものだが、鴨居は何故か気乗りしないようだ。
「あ、でも。お前彼女いるしな。無理にってわけじゃないから」
実は鴨居には付き合って四か月になる恋人がいた。向こうから告白され、鴨居は特に何とも思っていなかったのだが、告白されて嫌な気はせず、彼女の容姿はタイプに足るものだったので勢いで付き合いを始めた。
「ああ…別に平気っスよ。どうせ最近会ってないですし」
付き合ってしまえば、後から愛情もわくもんだろう、そんな考えだったのだが。付き合い始めても鴨居にそんな感情が芽生えることはなく、今では自然と疎遠の状態になってしまっていたのだった。
「ふーん、もったいないな可愛い顔してんのに」
「顔だけ。ですから……」
鴨居は全ての問題を解き終えると、ペンを筆箱に投げ入れ課題の本を勢い良く閉じた。そして席を立ち佐野に課題を手渡し、杉宮に振り返える。
「行きましょ、合コン」
「おう!」
その朝、鴨居は激しい頭痛で目覚めることになった。ガンガン頭をぶたれていると錯覚するほどの痛みと、胃やら肝臓やらがヒリヒリムカムカとする気持ちの悪さに襲われる。
「うげ…二日酔いだ。はぁ……って、えぇっ!!」
頭痛や吐き気だけだったらどれだけ幸せな目覚めだったことだろう。
「えっ……これは……」 気が付くと鴨居の腕の中で裸で眠る見知らぬ女。
「もしかすると、否。もしかしなくても、そうだよな……」 そして、周りを見渡すと明らかに自分の部屋ではなかった。
「うーわー」 がっくしと肩を落としたが、現状のままでいる意を決し、その女の肩をゆすって起こす。
「ん…うぅん。あ、おはよう。」 眠気眼でボーッと鴨居を見つめてその女は微笑んだ。
「お…おはよう。。。」
もう何が何だか分からなくなってしまって、鴨居は呑気に挨拶を返してしまう。そして、ふと気が付くのだった。
(って…おはよう。とか言ってる場合かオレ!!) 自分の中でそう自分にツッコミを入れる鴨居。このような状況に陥っていて、まったく器用なものである。
「えっと…ゴメンなさい。君は誰?」 自ら最低な男だと分かってはいるのだが、相手の素性を知らぬまま帰すわけにはいかなかった。
「ひっどぉい。昨日私に散々あんなことや、こんなことしといて」 そう言いながら女はぷくぅっと頬を膨らまし怒ってみせる。やはり最低なことをしてしまったのだろうか、と不安そうな顔をした鴨居を見て女はクスリと笑う。
「なーんてね、大丈夫だよ。カモ君、"する"前に酔っ払って寝ちゃったから」
「えっ…あ、そうなの?良かった」
酒の勢いで見知らぬ女性と一晩を供にしただけでも問題なのに、男女の関係になってしまうのなんて言語道断である。鴨居の記憶にはないのだが、とにかくそうなることだけは避けられた様で鴨居は安堵の言葉をこぼしていた。
「良かった……?」
しかし、相手にしてみればそうもいかない。受け入れる覚悟ができていたのに、当の相手が寝てしまったのだ。これはもう侮辱に等しい行動だった。そんな女の様子に気付いた鴨居がベッドの上で土下座をして謝る。
「いや、本当にゴメンなさい」
下げた頭を少しだけ上げて女の表情を伺うが。まだ少し不機嫌そうだった。
「いいけどね、別に。そんなことより朝食おごってよ。そこで昨日の話もしてあげるから」 そう言うと女は鴨居の前で恥ずかしがる様子もなく服を着始める。よくよく考えると今は鴨居も裸の状態だった。ベッドの上で裸で土下座する大学三回生……哀れ。その一言に尽きる。
そして、2人はホテルを出ると近くのファミリーレストランで朝食を取ることにした。鴨居は名前も知らない女とレストランで食事なんて不思議な感覚になっていた。
「いらっしゃいませ。ご注文の方はお決まりでしょうか?」
二日酔いの激しい鴨居は朝食を取る気力も無くコーヒーだけを頼んだ。
「カモ君、コーヒーだけ?なに朝食べない派なの?」
そんな鴨居とは打って変わって、その女は朝からだというのにフレンチトーストとシーザーサラダを食べ、そしてコーンポタージュを頼んだ。
「うん…二日酔いがキツくて食う気になれない。いつもはちゃんと朝も食ってるけどね」
「ふーん。まぁ、合コンの席であれだけ飲めばそうなるか」
そこでようやく鴨居は昨日、自分が合コンに参加していたことを思い出す。
「てことは、君も合コンに参加してたの?」 温かいコーヒーを無糖のまま飲み、鴨居は尋ねた。
「君。って止めようよ。私の名前は大川 美鈴(おおかわ みすず)」
大川はにっこりと笑うと、鴨居をジーッと見つめる。そう。「言い直せ」 という合図である。
「あー…大川さんは」
「美鈴ちゃん」
名字で呼ぼうとしたら、下の名前で呼べ、と言葉を遮られてしまった。鴨居はため息をついて、希望どおりに言い直す。
「美鈴ちゃんは、あの合コンに参加してたの?」
「お待たせ致しました、フレンチトーストになります」
「ありがとっ」 大川は嬉しそうに、ウエイトレスから受け取ったフレンチトーストを一口大に切り分けていく。器用に食べながら話は進んでいく。
「うん。まぁ、参加したくてしてたわけじゃないんだけどね。人数合わせで連れてこられただけ」
そして切り分けたトーストを、雰囲気とは似合わぬ上品な手つきで小さい口に運んでいく。
「で、行ったは良いんだけどチャライやつばっかで良い男いないしさぁ。早く抜けたいなぁーって考えてた所に――」
大川はさっきの上品さはどこへいったのか、下品にも持っていたフォークで鴨居を指差した。
「カモ君がいたってわけ。私はすでに酔っ払ってたカモ君を誘って違うお店へ。カモ君の話題ってさ、結構聞いてたからすぐにピンと来たよ。」
「え・・・…オレの話って、誰から?」
鴨居の反応に大川は少し面食らったような表情をしたが、すぐに意地の悪そうな笑みを見せる。
「さて問題です。昨日の女の子達はいったい何の集まりだったのでしょうか?」 いきなりのカルト問題を始める大川に鴨居はたじろぐ。
「えっ…・・・と」
「はい、残念。正解は慶葉大学2回生でした。では次、私の年齢はいくつでしょうか?」
大川は次々とマイペースで問題を出していく。
「え……一つ下くらい?」
「おっ、正解。では最後の問題です。慶大2回生で私とカモ君の共通の知り合いといえば?」 そう言って大川は意地悪い笑顔を見せた。鴨居はその笑顔に不安を感じて、真剣に思い出そうとした。自分の知り合いであの有名な慶大に通う人物。
そして、ある一人の女性だけが浮かび上がり、冷や汗が背中を伝った。
「もしかして…真希(まき)の知り合い?」
鴨居の言葉を聞くやいなや大川は満面の笑みを浮かべた。
「大正解。私はカモ君の恋人の山下 真希の友達でーす」
最悪。ただその一言が鴨居の頭を支配した。最近はあまり会っていないからといって、まさか彼女の友達と一夜を過ごしてしまうなんて。「間違いました」 では済まない話だ。鴨居は胸焼けを忘れてしまえるほどに頭が痛くなるのを感じた。
「あ、その。このことは真希には…・・・」
「分かってるってぇ。昨日のことは私とカモ君だけのヒ・ミ・ツだよ」
何故だろう鴨居は、その言葉に妙な不安を感じてならないのだった。
朝食を食べ終えると本当に何事もなく大川は去っていった。鴨居は拭えきれない胸騒ぎを抱えながら、午後からの講義に出るために大学へとむかっていくのであった。
合コンでのことがあってから、鴨居は周りから見てもあからさまに分かるほど自己嫌悪にひたりきっていた。不幸中の幸いといえるのは、大川が約束どおり鴨居のことを黙ってくれているであろうことだった。
「相変わらずの音信不通だな……真希」
鴨居の携帯の中で唯一グループ分けされている女性からの連絡は、ここ1ヶ月ないままだった。
「なんかオレって今"泥沼"ってやつ?」
目的もなく進学して……
ただ授業に出て……
生活費が必要だからバイトして……
淋しいから"知り合い"をたくさん作って……
でも、"友達"って呼べる人は居なくて……
自分はどうしようもなく
孤独なんだ。って……
弱々しく頭を抱えている。
そんな自分が――大嫌いなんだ。
鴨居はぼうっとガラス張りの廊下から、中庭を見つめる。すると――
「おっス、カモ」
「痛っ!!」 ビシッと何の前触れもなく鴨居の頭頂部にチョップをお見舞いしながら杉宮は現れた。
「杉宮先輩……」
鴨居の不安そうな淋しそうな表情。それを見て杉宮は鴨居を外に連れ出した。
「ちょっ…杉宮先輩。どこ行くんスか?俺すぐに次の講義があるんですけど……」
「いいから。黙ってついてこいって」 そう言いながらグイッと鴨居の手を引っ張る杉宮。鴨居は観念して杉宮の後に続いていくことにした。
本棟を出て、緑いっぱいの中庭を突っ切り、鴨居の学科ではあまり使うことのない第3棟へと入る。杉宮の手に引かれるままに、2人は屋上へと登っていった。
屋上の扉を開けた瞬間、体がのけぞるような風が流れ込む。
「あ、先客いるわ」 何故か杉宮は空を見上げながらそう呟いた。誰も居ない屋上で鴨居も空を見上げる。青々と澄み切った空。宙の海を飛ぶ小さな鳥。
その時唐突に――
俺ってチッポケだな。
……って思った。
そんなチッポケな俺の、チッポケな頭で考えた悩みなんて……
この澄み切った世界からすれば、取るに足らないくらいチッポケな問題で。
考えても無駄なだけかな?なんて――
そんなことを思ったら、自然と顔がほころんでいったんだ。
「気持ちいいっスね。杉宮先輩」 そう言って振り返った鴨居の視界に、何故か杉宮の姿はなかった。
「あれ?先輩……?」
すると、どこからともなく現れた人物が鴨居に近付いてきた。
「…ん?誰かと思ったら鴨居じゃないか。気晴らしか?」 居なくなった杉宮の代わりにそこに立っていたのはなんと佐野であった。佐野は相変わらず羞かしげもなくシャツをはだけさせ、その豊満な胸の谷間を見せ付けている。
「あ、佐野せんせい。杉宮先輩見ませんでした?」
佐野は白衣の胸ポケットから煙草を取り出すと、マッチで火を点ける。その姿があまりにもサマになっていて鴨居は煙草は嫌いだったが「格好いい」 だなんて思ってしまう。
「ん?なんだ杉宮と一緒だったのか…あいつな、アタシがここに居ると逃げやがるんだよ」
鴨居には杉宮が何故佐野から逃げたのか分からなかった。佐野は空に向かってゆっくりと白い煙を吐き出す。
「にしても。お前ら本当に仲良いな。そもそも、学科も違うのにどうやって知り合ったんだ?」 そう突然に聞かれて鴨居はほんの少し昔を振り返る。
「あ、オレ1年の時の始業式でサークル勧誘の人に絡まれちゃった時があったんですけど……」
入学式を終え、新入生だけのオリエンテーションを終え。今日から夢のキャンパスライフが始まろうとしていた。
太陽の日差しはとても暖かくて、まるでオレ達の入学を祝ってくれている様な日だったのを鮮明に覚えてる。もう何度か通ったこの道も不思議と新鮮に感じるのは、噂の『花のキャンパスライフ』というものの始まりだからなのかもしれない……
「うわ…やっぱり凄い人の数。新入生だけでも千人近くいて在校生もだから…凄い、凄いな」
校門付近のあまりの人の多さに、オレの少ないボキャブラリーでは感動を表す言葉が「凄い」 しか出てこなかった。校門を抜けると、まるで文化祭でもやっているような雰囲気に包まれていて、なんだかそわそわしてしまう。柔道着や剣道着、チア、野球やサッカーのユニフォームを来た人が、膨大な量のビラを配っている。
「あ、君新入生だよね?どう?野球サークルで爽やかな汗かかない?」
ビラは手書きで書かれているものが大半で、安っぽい紙で出来ていた。一歩歩くたびに強引にポケットにビラが詰められていく。
「ラグビー部で全国を目指そう!!」
「囲碁・将棋研究会で知的なキャンパスライフを送りませんか?」
「チア部に入って可愛い服で踊りましょう」
ぞろぞろと入ってくる新入生に余すことなく勧誘の手が伸ばされていく。鴨居が歩調を早くしようとした、その時だった。
「こんにちは。ちょっと良いかな?」 肩をぽんと叩かれたのでオレは振り向いた。
「ねぇ、君。オレらボクシング部なんだけどさ。人数足りなくて廃部になりそうなんだよね。」
そこにいたのは数人のガタイの良い強面の人達だった。
「いや…でもオレ。格闘技は向いてないんで」 そう丁寧に断って先に進もうとすると行く手を阻まれ、肩に腕を回される。
「向いてる向いてないなんてやってみなきゃ分かんないじゃん。とりあえず部としての認可が出るまでいてくれりゃそれでいいから、な?」 そんなこと言いながら、無理矢理に回した腕でオレの動きは完全に制御されてしまった。
ギリギリと腕に力を入れながら話すその人達は、オレを確実に威嚇している。
「いや…でも」 それでも断ろうとした時。完全に態度が一変した。
「分かんねぇヤツだな。痛い目みるまえに入っちまえば良いだろうがよ。あ?俺らなんか間違ったこと言ってるか?」 そのまま肩をガッと掴まれてしまって、恥ずかしいことにオレは内心かなりビビってしまっていた。そして諦めて入部しようとした時だった。
その人が現れたのは――へらへらと笑いながら近づいてきた背の高い男。恐らくは先輩であろう。
「あれー?小林じゃん。こんなとこで何やってんだよ。英文化研究会の勧誘の人手足りねぇの知ってんだろ?」 校舎の中からひょっこりと出てきたその人は、僕を見てそう言った。
(え……小林?この人誰かと勘違いしてないか?) オレが何も反応しなかったので、その人は続けて言う。
「おーい、小林聞いてる?」
「えっ、だ…・・・」 「誰ですか?」と言おうとしたオレの口を軽くふさいで、ボクシング部の人達に気付かれない様にオレにウィンクをした。
(そっか、この人オレのことを助けようとしてくれているんだ。) オレは「お願いします」 と思いを込めて小さく頷く。その人はオレの肩を掴んでいる人達を鋭い目付きで睨み付ける。
「あんたらさ、うちの部員にちょっかい出さないでくれるかなぁ?」 オレの肩を掴んでいたボクシング部の人の手を掴むと、その人はオレを解放してくれた。
「ちっ……なんだよ。杉宮の連れかよ。おい退くぞ」
杉宮と呼ばれたその人。ボクシング部の人達は何故か少しおびえたように、足早に去っていった。
「大丈夫だった?無理矢理勧誘されてたんだろ?」
「あ、ありがとうございました。えっと……」
杉宮さんの優しい笑みにオレは妙に安心したのを今でも覚えてる。そして、杉宮先輩が握手を求めるように手を差し出した。
「俺、杉宮要。君は?」 オレは差し出されたその手を握り替えそうと、手を出す。
「鴨居友徳です。杉宮先輩ありがとうございました。って…………え?」
杉宮先輩はオレの手を取ると、ぐっと親指だけを握った。
「あの、先輩……?」
そして何故か自分の手に持っていた朱肉にオレの親指を押しつける。
「あの……これって」 そして、これまた何処から取り出したのか分からないが、部活やサークルの入部届けに俺の朱印を押し付けると、あっけらかんと言い放ったのだった。
「鴨居くん・・・…英文化研究会へようこそ☆」
(えぇーっ!!!!あんたが本当の悪徳勧誘なんかい!?)
これがオレと杉宮先輩との初めての出会いだった。
「・・・…と。まぁ、こんな感じだったんですけどね」
「そうか」 そう言って佐野は少し楽しそうに笑った。
晴天の空に佐野の煙草の煙が溶け込んでいく。
「あ、そういえば、その後に初めてここに来たんですよ。杉宮先輩の一番好きな場所なんだ、って」 鴨居のその言葉を聞いた佐野が少し戸惑ったような表情をした。そして、吸い切った煙草を携帯灰皿に入れると、新たにもう一本の煙草を取り出して吸い始める。
「そういや。アタシと杉宮が初めて会ったのもここだったな……」
わずかだけど懐かしそうで、ほんのちょっとだけ悲しそうな佐野の表情。
「えっ…?」 っと驚いた表情のまま興味津々な眼差しで自分を見つめてくる鴨居の顔を見て、佐野は「ぷっ」 と吹き出した。
「知りたいか?」 佐野の問いに鴨居は反射的に答える。
「はい。凄く興味あります!」
佐野は吸い始めたばかりの煙草を消す。
「うん……そうだな。教えてやらん!!」
「へっ…?」 がっはっは。と笑いながら背中越しに手を振って、佐野は屋上から去っていった。唖然とした表情のまま独り屋上に残された鴨居が、杉宮と佐野の出会いの物語を知るのはもう少し後になる。
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