ビハインド

さいだー

文字の大きさ
上 下
6 / 48
1

1-5

しおりを挟む
「やすみ、来ないな……」

 無意識に呟いた言葉は誰に届くこともない。

 塔屋の扉をぼんやりと眺めながら過ごす、三日目の夜の事だった。


 本当はなんとなくわかっていた。
 やすみが自ら進んでここにやって来る事はないと。でも、どうしても一言謝りたかった。

 命の恩人との別れが、こんなもので良いはずがない。勘違いされたまま、すれ違ったままで終われるはずがない。

 これはきっと、俺のエゴだ。俺と会う事を、やすみは望んでいないのだ。
 実際にこの場に現れていないのがその証明。
 それでも一言、謝りたかった。

 やすみとの関係が修復出来なかったとしても、それでサヨナラになってしまったとしても、ただ一言謝る事が出きればそれでいいと思ったんだ。

 それならば今、やらなければならない事は、待つことではないはずだ。

「そうだよな、そう……」

 静かに決意を胸に秘め、夜空を見上げる。
 やすみの心を映すような曇り空。あいにく星なんて一つも見えそうにもなかった。



 ________________________________________________


 高くそびえ立つコンクリートの塊を見据えていた。

「ほら、どうした?」

 そう自らの足に問いかける。
 地に根が張ってしまったのかと疑ってしまうほど、俺の意思には反して足が前に進もうとしてくれない。


「ほら、行くんだろ?」

 自らを鼓舞するように、両の手でももを叩く。それでも足は進んでくれない。

「くそっ!」

 時刻は昼時ともあって、周囲を行き交う人々の数は少なくない。

 その人々の好奇の目が、こちらに向けられている事に気がつくと、怖じ気は恐怖に変わりつつあった。

 恐怖を感じていると自覚すると全身が震え、吐き気までしてきた。

 無理だ……やっぱり俺には無理なんだ……帰ろう……
 結局、から俺は何も進歩しちゃいない。


「少年、こんな時間にここで何をしているんだ?」

 少年……?俺の事か?込み上げてくる吐き気を無理やりに押さえつけて顔をあげる。
 四日前、屋上で遭遇した看護師さんだった。たしか、朋美さんって言ったか。


「少年、ずいぶんと顔色が悪いな、診察に来たのか?それなら私が付き添うぞ」

 そう言うと俺の体を支えるように腰に手を回す。拒絶するように距離を取ろうとするも、それを許さないと朋美は俺の体を引き寄せた。

「いや、あの、違います、大丈夫なんで……」

 腰に回していた朋美の手を振りほどくと、次は右手首に手を伸ばしてきた。

「大丈夫って感じじゃないね。ほら、脈も早い」


「あの、本当に大丈夫なんで。少し休めば、よくなるんで……」

 俺の言葉を受けて、朋美は一度こちらから目線を離す。そして辺りを見渡してから言った。

「そうかい━━━━━━それなら、あそこで少し休むと良い」

 指差す先は病院からは陰になっているベンチだ。あそこなら人目に触れることもないだろう。

「歩けるか?」

 俺は頷きだけで返事を返す。朋美はベンチまで随伴すると俺の手を引く。


「すいません……」

「困ったときはお互い様だ、気にするな」

 






「少年、少しは落ち着いたみたいだな」

 言いながら朋美はペットボトルの水を手渡してきた。

「あ、はい。ありがとうございます。おいくらですか?」

 素直に水を受けとると、ショルダーバックに手を伸ばす。財布を取り出す為だ。

「なーに生意気言ってんの?タダだよ、タダ。まあ、その様子だともう大丈夫そうだね」

 朋美は俺の左側、ベンチの空いているスペースに当然のように座ると左手に持っていた缶コーヒーの栓をカシャリと開ける。

「で、何しに来たのかな?」

「……」

 答えられなかった。
 やすみに会いに来た。そんな一言が。

 情けない姿を見られてしまったせいか、あの夜の事をやすみに聞いているのかもしれないと思ったせいか、いや、そのどちらもだ。

「あの娘に、会いに来たんじゃないの?私の言いつけを守ってくれたようで。偉いよ少年」

 言いながらケタケタと笑う。そして、でもねと前置きをしてこう続けた。

「━━━━━━悪いけど、会わせられないかな、あの娘が会いたくないってさ」

 言ってから手に持っていたコーヒーを一気に煽る。

「やっぱり、そうですか……」

って言うことは自覚はあるんだね」


「まあ、それなりには……」


「自覚があるっていうのは良いことだよ。少年」

 朋美は俺の頭に手を伸ばすと、もみくちゃになるほどめちゃくちゃに撫で回してきた。
 とても驚いた。ちょっと顔見知りくらいの俺に急に何がしたいんだ!?

「ちょ、なにするんですか!?やめてください」


「すれ違いや、行き違いは君らの歳の頃にはよくあるもんだ、私もそうだったしね。今となっては甘酸っぱい、良い思い出だよ」

 ハッハッハッと、たからかな笑い声をあげて目を細め口角を上げる。まるで猫が毛づくろいをしている時みたいな表情だ。


「……俺、どうしたらいいんですかね?」


「それを私に聞いちゃうかね?少しは自分で考えてみたらどうだい?少年」


「考える。ですか……」
 思わず視線を落とした。考えると言われても、何から考えれば良いのかがわからなかったから。


「そんな顔をするな。うーん……そうだね、少しヒントをあげよう」

 朋美は手に持つコーヒの缶を空に掲げるようにしてから続けてこう言った。


「何をして、どうやって、何を伝えるべきなのか、じゃないかな」


「……」

 考えた。足りない脳をフル回転させて考えた。その間、一言も朋美と俺の間では言葉は交わされなかったのだけれど、朋美は文句一つ言わず待っていてくれた。

 そして、しばらく考えて俺の中で一つの結論に達した。

「あの、一つ伝言をお願いしてもいいですか━━━━━━」
しおりを挟む

処理中です...