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酒場へ
しおりを挟むある日、馬車を見かけた。領主の紋章が入っていたからマティアスが乗っているのだろう。エリシアは何気なしに見送った。
それが王都へと向かう馬車であったと知るのは数日後の事だった。エリシアは置いてかれたのだ。
ハンナはホッとしていたが、エリシアは違った。
「陛下に追及されないかしら」
「エリシア様…お優しいんだから。言い訳などいくらでも出来ますよ」
「そうだといいんだけれど…」
「マティアス様は先の戦争の功労者なんですから、舌先三寸くらいの術は朝飯前でしょうよ」
ハンナは洗い上げたシーツを乱暴に広げて竿に干した。怒りが収まらないのか、手でパンパンとシワを伸ばした。
「さ、エリシア様、お医者様も体調が良いと仰ってましたが、そろそろお庭の散策をしませんと」
ここに追いやられてから、週に一度、医者がエリシアの診察に訪れるようになっていた。薬を長らく服用していたが、春めいたお陰かここのところはずっと調子がよく、診察もいらない程だった。今回も脈を取っただけで、直ぐに診察を終えた。マティアスが王都へ出立済みだと教えてくれたのも医師だった。
ハンナが散策の仕度で風除けのマントを被せる。エリシアは自分で首元の紐を結んだ。
ハンナの腕に捕まって庭を散策する。新緑の季節らしく薔薇が咲き誇っていた。少し奥まった生垣の切れ間、そこからこの前、抜け出して街へ向かった。その場に差し掛かって、少し小声で話しかけた。
「よくここから外に行けるって知ってたわね」
「元々もしもの時、お嬢さまを逃がそうと見つけた抜け道だったんです。獣道だったんですけと、少し広げたら人一人は通れるくらいにはなりましたので。まさか、この間のようになるとは思いませんでしたが」
「ええ。良い経験になったわ。ここの街の人たちは皆優しくて、お祭りも楽しかったし、街もよく整備されていて…マティアス様がよく統治されているのね」
「よく見ていらっしゃいますね」
「大して見てないわ。ハンナ見て。綺麗なお花」
五つの青い花びらを指差す。ハンナはブルースターと言った。
散策を終えて、戸を締めてからエリシアは手を差し伸べた。
「ねぇハンナ、踊りましょう?」
「私は踊れません」
「簡単よ。こうやって」
「無理です。こないだの祝祭の見ましたでしょう?酷いものです」
「上手い下手じゃなくて、楽しくなるから踊るの」
ハンナの両手を取って、少し強引に右に左に引っ張ってみると、観念したように笑った。初めはゆっくり、だんだん慣れてきてリズムを取ってクルクル踊った。ハンナは自由な踊りの楽しさに目覚めて、めちゃくちゃに踊りだした。小さな家、狭い部屋。少し足を持ち上げただけで机に椅子に当たって、物に当たって、散乱する。外はいつの間にか雨が降っていた。私たちの笑い声の方が大きくて気づかなかった。
踊り疲れて、二人でベットに寝転ぶ。荒い呼吸のまま、エリシアは言った。
「ハンナ…反対すると思うけど、」
「例の酒場の件ですね」
「ええ。誘われているし…一度だけ、見に行きたいの」
するとハンナはニッコリ笑って、起き上がってどこからか服を引っ張り出してきた。
「前のはマティアス様から頂いた物でしたから、万が一屋敷の者が見たらエリシア様だと気づかれるかもしれません」
「まさか…仕立ててくれたの?」
「裁縫はアンナが得意だったんですが、妹に負けない位に丁寧に作ったつもりです」
それは白い衣装だった。手首、足首を隠す一見して普通のドレスのようだが、動きやすいように上下はセパレートされていた。装飾の無さを補うように襟元、袖と裾にはレースを縫い付けてあった。
エリシアは感動して衣装ごとハンナを抱きしめた。ハンナは照れたように笑った。何度も礼を言った。
オットーの酒場へ。入り口が重く二人で押して開けた。戸口の狭さに反して中は広々としていた。丸テーブルが並び、奥はカウンター席、その向かいにオットーがグラスを注いで客とやり取りしていた。
雑多、喧騒、祝祭でも気後れしていた二人だが、ここではもっと気後れした。何せ客が男しかいない。ちょっと帰りたい気持ちも芽生えた矢先、オットーが気づいて二人を呼んだ。数人の客が何だ何だと視線を向ける。エリシアは恐ろしい気持ちが立ってハンナの手を取った。オットーが再び声をかける。エリシアは呼ばれるままおずおずと向かった。
「よぉ、待ってたぜ。よく来てくれたな」
「オットーさん、お久しぶりです」
「ちょうど今からショーが始まるんだ。どんなのか見てってくれ」
席を案内され、ぎこちなく座る。飲み物を出され口をつけるとそれは酒だった。先に気づいたハンナが慌てて止める。何も知らないオットーがお代はいらないよと見当違いな事を言った。
「お嬢さまはまだ十七歳なんです」
「おっと失礼。勿論酒以外もあるぜ。桃ジュース飲むかい?」
「桃?季節外れでは?」
「早生の品種のがあるんだ。うちの娘も気に入ってる」
店主は奥へ引っ込むと、直ぐにグラスを持ってきた。エリシアは礼を言って一口飲むと、顔を綻ばせた。勧められてハンナも一口拝借する。確かに。濃厚なのに爽やかな酸味もあってくどくない。二人はすっかり気に入って直ぐに飲み終えてしまった。
やがてショーが始まる。音楽が鳴りステージに数人の踊り子が整然と並び立つ。一糸乱れぬ動き。観客は歓声を上げた。
一曲、ニ曲、進むごとにエリシアはリズムを取り始め、終わるごとに拍手を送った。
「ハンナ、面白いわ」
「ええ」
「こちらの踊りはよく飛び跳ねるのね」
「そのようですね」
三曲目が終わる。これでショーは終わりらしい。踊り子たちは袖に消えていった。次は弦楽器を持った男が一人現れた。次の演目らしい。ステージの真ん中に椅子を置き静かに奏で始めた。
「こんな感じで、色んな演目を色々回してくんだ」
いつの間にかエリシアの背後に立っていたオットーが言った。エリシアは振り返って、オットーにショーが面白かったことと、桃ジュースが美味しかったことを告げた。
「毎日ショーはあるんですか?」
「大体はやってるぜ。今リュートを弾いてる男はここの従業員だから毎日出てるが、さっきの踊り子は週三回だ。だからもう一組、踊れる子が欲しかったんだよ」
「まぁ…でも私、」
「週一回でも来てくれないか。他の子は客の接待もしたりするが、君は十七だから踊るだけでいい。振り付けの指導もする。給料は一回五マルク」
「そんな…お金、入りません」
「入らない?冗談だろ」
「お、お嬢さま…貰っておいたほうがいいですよ。この先何があるか分からないんですから」
「最初に会ったときから思ってたが、お嬢さん、良いとこの出だよな」
エリシアはドキッとした。ハンナが口を開く前に、オットーは手を振った。
「いや、深ーい事情があるんだろ?聞かないでおくよ」
「そう言っていただけると助かります…」
「お嬢さん、あの踊り子たちは一人一回一マルクだ。お嬢さんは一人で5人分のステージを持たせられる実力がある。だから5マルク」
「買いかぶり過ぎです」
「ショーをして見れば分かる。お嬢さん、どうする?出てみないか?」
エリシアは胸を押さえた。
「…出ます」
「よく言ってくれた」
オットーは手を出す。エリシアは遅れて気づいて慌てて手を握った。
「それでだお嬢さん」
オットーは茶目っ気たっぷりの顔をにじませた。
「まずは名前を教えてくれ」
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