上 下
5 / 15
一章

4

しおりを挟む

 綾女が扉を開けて台所に入ってきた。夕食の支度に取りかかろうとしていた植村は、手を止めた。

「まだご飯これからですよ。なにか飲みますか?」
「俺作るよ。家でも作ってたし」
「いいですよ別に。ここではゆっくりしててください」

 着替えた綾女は、黒の浴衣姿だった。植村のだ。袖はピンで留めていた。膝丈は腰紐でどうとでも調節できるが、おはしょりが長くなってしまい不格好だ。
 
「宿代ぐらいは働くよ。俺の身体は興味ないみたいだし、働かないとね」
「それはありがたいですが」
「エプロン一つしか無いの?」

 一つは既に植村がつけていた。綾女は目ざとく壁の金具に引っ掛けてあるもう一枚を持ってきて、それは所謂いわゆるかっぽう着だったので、頭から被っていた。かっぽう着を持っているのは浴衣の袖が出ず、汚さない利点があるからだ。

「取り敢えずテーブル拭くね。何作るつもり?」
「うどんです」
「うどんなんてあるの?」
「冷凍してありますから」

 電子レンジで温めれば、直ぐに出来る優れものだ。消化もいいし、夏はそればかりになる。

「あとサラダ作ります」
「キュウリとトマト?」

 彼は網カゴに入っているそれらを見て言った。有り難いことに裏手には、湧き水が滲み出ている。収穫した野菜を網カゴに入れて冷やしておけば、冷蔵庫要らずで爽やかな食感を楽しめる。

「じゃあこれ切っとくよ。適当でいいでしょ?」
「あなた好みで。ドレッシングは冷蔵庫にいくつかありますから、好きなの出しておいてください」
「おっけー」

 我が家は基本、鍋は上部の収納入れに置いてある。ステンレス製のパイプ棚であるから、そこにS字フックでお玉やらプラスチックのまな板を吊り下げていた。
 植村はそのプラスチックのまな板を綾女に渡した。すると綾女は嫌そうに、まな板を凝視した。

「汚い」
「あ、すみません」

 洗ってはいるが、どうしても汚れは残ってしまう。一人暮らしが長く、気にしていなかったが、指摘されて改めて見てみると確かに汚かった。

「普通のまな板あるじゃん。あれ取ってよ」

 パイプ棚を指さす。端に木のまな板を置いていた。本当によく見つける。言われるまま取り出す。棚の奥行き分の長さしかない小さなまな板で、厚みはあるからこれだけでも、まぁまぁ重い。
 長らく使っていなかったから軽く洗って調理台に置く。早速、綾女はそこにキュウリを並べて切り出した。ここは彼に任せておこう。  

 うどんをチンして皿に盛り付け、卵を乗せてネギを散らす。味付けは麺つゆのみ。そこに七味をふる。
 植村が出来上がる頃には、とっくに綾女はサラダを作り終えていた。色味を気にしてか、キュウリとトマトを交互に盛り付けて、おしゃれに仕上げていた。

「俺は足るけどさ、先生もっと食べたら?」
「夜はいつも控えめなんです」
「太ってないけどね」  

 太っていないのは、それだけ努力をしているからだ。毎日の摂生が、将来の体型維持に繋がる。
 
 居間に運んで昼と同様、向かい合って食事を取る。綾女が選んだドレッシングはゴマだった。金胡麻をすり潰して作った自家製だから、店で買うよりも香ばしく新鮮だった。
 遠慮なしに綾女はドレッシングを皿に目一杯かけた。キュウリを一切れ口に運ぶと、お、という表情になった。

「ドレッシング無しで良かったかも。山の野菜は美味しいんだね」
「採りたてですから」
「先生が育てたの?一人で?」
「教えてもらいながらです」
「ねぇ何でその喋り方?」

 綾女は、にっと笑って顎に手を乗せた。挑発的な笑み。からかわれ慣れてしまった植村も、背を曲げて頬杖をついた。

「昔からこういう喋り方です」
「家族にもそれ?」
「家族いません」
「俺と一緒だ」

 笑みが深まる。口端の吊り上がった角度が絶妙で、こちらを見つめる視線に耐えられず、下を見る。綾女は後ろにのけ反って大笑いした。

「先生の負けー」

 いつの間に勝負していたんだか。植村はそのまま、うどんをすすった。

 

 
 綾女が風呂に入っている間に、蚊帳を張っておく。一つしか無い蚊帳に、昨日は二つ布団を敷いたが、今朝のことがあるから、今日は別の部屋で寝よう。
 
 玄関を入って周り廊下を真っ直ぐ進めば二間続きの居間。右手に進めば四畳ほどの小さな部屋がある。そこは植村の執筆部屋で、明かりを入れるため出窓を取り付けてあるものの、大量に積まれた本で積み重なって役目を果たしていない。しかも最近は居間で書くことが多かったから、実質ここは荷物置き場になっていた。
 執筆部屋は、家の中で珍しく鍵のある部屋だった。少し片付ければ、布団を敷くスペースぐらいは確保出来る。床に置かれた本を別の積み重なっている本の上に乗せていく。床を拭いていくと、ついつい目に留まる本のタイトル。手に取って広げてしまえばもう終わり。活字中毒というわけでは無いが、読み始めると止まらなくなってしまう。

 読み始めて直ぐに我に返れたのは、また悲鳴が聞こえたからだ。本を閉じる。あの騒ぎ様はおそらく、また虫が出たのだろう。立ち上がって風呂場へ向かった。

 
 

 コガネムシだと言う。網で虫をすくう。脱衣所に避難していた綾女が、入口から顔を出す。

「殺した?」
「殺しませんよ。逃がします」

 浴室の小窓を開けて網を振る。虫が逃げたと同時に小窓を閉めてみせた。

「他にいない?大丈夫?」
「大丈夫ですよ」
「先生ここにいてよ。また出てくるかも」

 綾女は裸のままだった。浴室に入ってくるのと入れ替わって、植村は脱衣所のマットを踏んで足裏の水気を切った。
 
「まだ虫出てきたら虫取り網で捕まえてください」
「絶対いや」

 扉越しの声が届く。そう言うだろうと思っていた植村は、脱衣所の向こうの周り廊下まで下がって座り込んだ。



 
 植村が風呂から上がると、居間から綾女の声が聞こえた。襖越しに聞こえたその声は、誰かと話しているようだった。通話しているのだろう。

『……はい、いえ…いりません。すべて、すててください。…はい、ありがとうございます…私は、もう和典かずのり様の妻ではありませんから……いいんです。…はい、植村先生は親切にしてくださいます。ですから、いいんです。……はい、はい………』

 植村と対する時とは違い、控えめで弱々しい声だった。遠山家からの電話だろう。面識のある心当たりのある者といえば、夫の弟しかいなかった。義母だとしたら、もっと苛烈に彼を責め立てただろうし、そもそも電話にも出ていなかったかもしれない。

 家の事情に踏み込んで彼を保護している時点で、一線を超えてしまっている。彼の命を助けたと奢る気はさらさら無い。これ以上は深入りするべきでは無いとは思っている。ただ、彼がオメガの性にであるが故に、己を殺した人格を形成しているのを、見るのも聞くのも気分が悪かった。

 これは自分の考えだけで、わざわざ彼に何かを告げて、慰めようなどとは思わなかった。彼は喜ばないし慰められない。胸の内に留めて、自分で消化するしかない。

 綾女に気づかれないように、廊下をそっと歩く。頭を乾かしていないが、このまま執筆部屋で寝てしまおう。
 

 
 
 深夜、目が覚める。植村は小走りで居間に向かった。戸を開けて蚊帳をくぐる。

「綾女さん!」

 肩を叩く。喉が潰れそうな金切り声が、ピタリと止む。荒い息遣いと鈴虫の声だけになる。
 暗闇では、彼の意識状態が把握できない。照明を引っ張る。ほのかな明かりに照らされた綾女の顔は、汗をかいているのに蒼白だった。涙を流していた。天井を見つめて、植村が声をかけても唇は震えるばかりで、音にならなかった。
 視線が合わない。パニックに陥っている。

「綾女さん、大きく息を吸って」

 呼吸は早くなるばかりだ。植村は台所へ走り冷蔵庫から点滴パックを取り出した。新品の布巾を濡らして居間に戻る。

 部屋の隅に置いておいた鞄から、注射針と管を引っ張り出す。点滴スタンドを引き伸ばしてパックをかけ、綾女の腕を消毒し、針を差し込む。テープで固定し、滴下の速度を調節する。暴れないよう念のため腕を押さえながら、濡らした布巾で彼の額、首の汗を拭った。

「鎮静剤、投与してますからね。直ぐに落ち着きますよ」

 やっと綾女は、声に反応してこちらを見てくれた。呼吸はまだ早い。大きく息を吸うようにと、もう一度言うと、そうしようと胸を膨らませていたが、震えていた。
 催眠作用のある鎮静剤だから、じき眠りにつくはずだ。植村は明かりを落として、彼の眠りを促した。

 鈴虫は鳴り止まない。外からなのに、他に音がないからかよく聞こえた。耳を澄ましていると、自分の膝に何か触れる違和感を感じた。

「せんせい…」

 綾女の手だった。伸びた爪が、植村の膝あたりを引っ掻いた。

「ごめんね…。虫、ほんとに苦手…」
「ええ分かります。目を閉じて」
「…閉じたくない…」

 布団に沈み込む綾女の身体は、本当に細い。アバラは浮いて、手の甲も骨が見えている。
 今日だけで彼は、。
 一度目は蜂、二度目はコガネムシ。
 彼が庭に出た時、草花を飛び回る蝶や、本物の蜂がいたのに、何食わぬ顔で歩いていた。彼は虫など恐れていない。本当に怯えて苦しんでいるのは、虫などではない。

 番を失ったオメガは、精神が不安定になる。発情期異常ヒートバグが一時的に無くなった事から、それが表に現れてきた。

 一度目も二度目も安定剤を飲ませた。三度目の今回が一番、症状が重く、鎮静剤を投与したが、体力が無い今の状態では何度も使えない。出来れば今日が一番酷い日であって欲しいが、この有り様では、そうはいかないだろう。

 踏み込むべきではない。無責任な事は言えない。時間だけが彼に植え付けられたトラウマを解消する術となる。

 せんせい、と呼ばれる。その度に植村は答えて、彼が眠るまで、それは続いた。


 綾女との生活を始めて一週間経った頃、電話が鳴った。森医師からだった。

「森先生、どうしたんですか」
『なにがどうしただ。定時連絡をしろと言っただろうが』

 植村は頭をかいた。日々に忙殺されて、すっかり忘れていた。今は朝の八時。まだ綾女は起きていない。初日から鎮静剤を使用するほどの発作を起こしていた綾女を気にして、植村は毎日、同じ蚊帳の中で寝ていた。
 隣の布団で背を向けて寝息を立てている綾女を気遣って、一旦、台所へ場所を移す。それでも聞こえていそうなので勝手口から庭へ向かう。朝曇りか視界は悪く、地表にまで雲が泳いでいた。

「今のところ発情期異常ヒートバグは起こってません。最初の二日は鎮静剤を投与するほどの精神の乱れはありましたが、今は落ち着いています」
『食事は取ってるか』
「私より食べてます。睡眠過多ですが、許容範囲です」
『うやましい限りだ』

 万年寝不足の医師からしたら確かに、うらやましい話だろう。植村は苦笑するしかない。

「脳死の夫はどうなんです?容態は?」
『こちらも落ち着いている。あれから遠山家の者は誰も見舞いに訪れていない。冷たいものだな』

 あの母親ならやりかねないと思った。人情味のある弟まで見舞っていないのは、高圧的な母親に止められているからかもしれない。

『その夫のアルファだが、クリニックに通っていた記録が残っていた』
「子供が出来なかったからでしょう。綾女さんは闇医者からホルモン剤を打ってもらっていたと言ってましたけど」
『それがな、、ホルモン剤を投与していたんだと』
「えっと…ホルモンですよね?」
『記録ではそうだが、事故を起こした車内には、使用済みのホルモンが残されていたそうだ』
「それは…妙な話ですね」

 基本的にホルモン剤といえばオメガホルモンの事を指して、孕む側に投与される。孕ませる側が投与したら逆に生殖能力が低下してしまう。勃たなくなるからだ。

 綾女は夫には隠れてオメガホルモンを打っていた。夫が綾女に打たせる為に所持していたなら、使用済みにはならない。事実だけを突き合わせるなら、夫が自分で使っていたことになる。まさか間違えてオメガホルモンを打っていたとは思えない。

『君には関係無いだろうが、一応は伝えておこうと思ってな』

 一応、と森医師は言うものの、実際は綾女から何か聞いていないかという期待があったのだろう。あいにく植村はその期待には応えられなかった。

「事故を起こしたのは、何か事件に巻き込まれたからでしょうか」
『警察は事件性は無いと言っていた。ただ、そのオメガホルモンは、事故直前に自分で打っていたらしい』

 ホルモン剤を打った直後に事故。偶然とは思えない。考えられるのは──

「まさか副作用で気分が悪くなって事故したとか?本当に事件性は無いんですか?」
『事故は偶発的に起こった。バイクと乗用車が接触事故を起こし、信号待ちをしていたアルファの車に、バイクが衝突した』

 そんな事故では、確かに事件性は低い。ただホルモン剤の疑問は残る。

『アルファは事故後に、ベータに「転換」したと話したな?』
「ええ」
『事故のショックで転換したものだと思っていたのだが、それがホルモン剤によって故意に引き起こされた転換だとしたら、彼はオメガとの番解消を望んでいたことになる』
「馬鹿な」植村は電話を持ち直した。「有り得ないですよ。番を解消したいなら、アルファ側から一方的に断ち切ればいい。ホルモン剤で『転換』する必要はない」
『何にせよ、私たちは警察ではない。これ以上の事実の解明は不可能だ』

 だが、と森医師は続ける。

『俺はオメガ側に事情があるのではと考えている』

 森医師は、きっぱりと言った。綾女へと向かった疑問が、何故か寒々とした空気となって頬をかすめる。

『強制的な番解消とはいえ、あれ程のメスのニオイを放出したオメガはいなかった。よく病院に搬送されるまで誰にも犯されなかったとすら思っている。それぐらいに強すぎるニオイだった』
「何が言いたいんですか」
『ホルモン剤ではなく、麻薬を打っていたとしたら?君は、オメガが本当にホルモン剤を打っていたと思うか?』

 ホルモン剤を打っていたのに最初に気づいたのは植村だった。腕に残る注射痕の周りには、ホルモン剤投与特有の紫の斑点が残っていた。彼は闇医者で打ってもらっていたと言っていた。今となっては、別の何かだったと思わざるを得ない。

「私にどうしろと?麻薬検査でもさせるんですか?」
『必要無い。ホルモン剤の件は完全に雑談だ。君は今まで通り、遠山綾女の世話をしてくれればいい』
「雑談の域を超えてます」
『誰にも話せないからな。君に話して楽になったよ』

 冗談めかして森医師が笑う。定時連絡を怠った罰と思えば、甘んじて受けいれるしかない。
 とはいえ話が深刻過ぎる。植村は嫌味の一つでも言ってやろうかと思った。だが、勝手口から綾女が出てきたのを発見して、とっさにしゃがみ込む。庭の手入れをしていると見せかけながら、植村は小声でまた連絡すると伝え、電話を切った。

「先生?なにか出来てる?」

 髪をかき上げながら綾女が近づいてくる。植村はさも今気づいたふりをしながら、立ち上がった。

「キュウリです」
「また?作り過ぎ」
「去年は一本だけ植えたら枯れてしまったので、二本植えてたんです。どちらも元気に成長して、今この通りです」

 葉に隠れていたキュウリを見せる。大きい、と綾女は素直に感心していた。

 
 中断したが、森医師はこう言いたいのだろう。オメガに麻薬を打たせてアルファを誘惑させる闇医者がいる。誘惑されたアルファは番を解消出来ず、また薬漬けになったオメガは心身を崩壊させ、やがて死に至る。何としてもアルファと番になりたいオメガが使う最後の手段だ。
 アルファが呪縛から逃れるには「転換」するしかない。だから森医師は綾女を疑ったのだろう。
 異常な色香の放出も、麻薬によるものだと考えれば辻褄が合う。

 それを綾女がしているとは思えないのは、ひとえにその魅力的過ぎる容姿にあった。悪く言えば相手に困らない美貌の綾女が、そんな麻薬に手を出すとは思えなかった。それに精神的に不安定ではあるが、麻薬中毒の支離滅裂な言動は今のところ無い。

 アルファのホルモン剤の件は疑問が残る。残るが、植村にはどうする事もできない。厄介ごとばかりもたらす森医師に腹が立ちつつ、とりあえずキュウリをもいだ。


 ピクニックしたいと言う綾女に、裏山を案内する。整備などしていないから、十分ほど藪こぎが続いた所で、綾女は根を上げた。

「もう無理!」
「もう?もう少し頑張れば、景色が一望出来ますよ」
「景色なんかどうでもいいんだよ。俺ピクニックって言ったよね。一面のお花畑とかないの?」

 そんな少女趣味の花畑なんか無い。ああ言うのは自然にはならない。せっせと植えた人の努力のたまものだ。だから入場料が必要になる。

 植村は進むのを止めて振り返る。藪を払うのにナタを使っていたが、重いから肩に置いた。

「じゃあ帰りましょう。うちの庭でも眺めながら、サンドイッチでも食べましょう」
「いつもと一緒じゃん」
「いつもピクニックだったと思えばよろしい」

 思ってたのと違う!と怒り出した綾女は、先に下に降りていった。今日は風が強い。藪が体をつついてくる。麦わら帽が飛ばされないように押さえる。
 小さな背中がもっと小さくなっていく。転びやしないかと心配しながら、植村も降りる。さて、ご機嫌斜めなお嬢様をどう機嫌取りしようか。

 

 
 玄関に靴が投げ捨てられていた。冷蔵庫を閉める音がした。飲み物でも飲んでいるらしい。

 向こうも帰ってきたのに気づいたらしい。綾女が呼んでくる。台所に向かうと、さっきの不機嫌など無かったかのように、すっかり上機嫌になっていた。
 
「先生、いいの持ってるね」

 彼は下の棚の奥に隠していた酒瓶を掲げてみせた。それは、植村が前作を書き上げた記念に、編集者から慰労として贈られた酒だった。

「焼酎ですよそれ」

 どう見ても見た目二十歳に見えない彼が、酒瓶を嬉々として開けているのが似合わな過ぎた。冷蔵庫から梅干しを出していたから、梅割りでもするのだろう。

「焼酎にサンドイッチって合うのかな」
「なにか作りますよ」
「ナスビあったよ。前作ってくれたニンニク炒め。あれ作って」
「作りますけど、お酒は駄目です。貴方は安定剤服用していますから」
「今週は飲んでないからいいじゃん」
「駄目です」
「やだね」

 問答している間に、綾女は梅割りを作ってさっさと飲んでしまった。止める隙も無かった。
 少し口をつけただけで、綾女は飲むのを止めて調理台にグラスを置いた。美味しい、と呟く。

「先生も飲んでみなよ。美味しいよ」

 これ以上、綾女が飲まないようにグラスを奪う。少し濃いめの割り方だった。

「貴方が酒を嗜むとは思いませんでしたよ」
「俺の仕事だからね」
「仕事?」
「アルファは美しいオメガを侍らすのがステータスだからね。よくパーティーに連れ出された。ボンボンは酒飲めないから俺が飲んでた」

 自信満々で調理台に腰かけると、甘い吐息を吐いた。思わせぶりに微笑んで、脚を上げる。ピクニックを中断して家に戻ってからの彼は、長ズボンから短パンに履き替えていた。素足が誘うように植村の内腿を撫でる。植村は容赦なくはたき落とした。
 綾女は調理台に上半身を寝転んで、ころころと笑った。

「冗談が通じないんだから」
「からかわないでください。貴方が美しいのは分かってますから」
 
 満足そうに、綾女はそのまま目を閉じる。顔は笑ったままだ。料理を作るにはそこをどいて欲しいのだが、なんだかもう作らなくてよくなっているような気がする。

「ねぇ先生、だっこして」
「嫌です」
「じゃあ起こして。手引っぱって」

 何かしてきそうと警戒しながら、手を引っぱる。先週指摘した、すっかり長くなった水色の爪が植村の手に食い込む。薬指だけ折れたまま、伸びた分はそのまま、爪先の水色のネイルは剥げているのに、彼は全く切ろうとしない。切るのを拒絶しているようにも見える。
 体を起こした綾女は、調理台に座ったまま乱れた前髪を整えた。

「ここの天井、花の模様だったんだ。知らなかった」

 言われて上を見る。白の天井には、花柄の壁紙が貼られていた。リフォームした時に何となく選んだ柄だったが、綾女に指摘されるまで、植村はすっかり忘れていた。

「ピクニックは外れ。お酒は駄目。全部空振り。つまんない」
「今は療養中なんですから。休むのが仕事ですよ」
「気分転換させてよ。先生からかっても面白くないし」
「なら庭の水やりお願いします。バジル取ってきてください」
「いるのはバジルだけ?」
「ええ」

 はーい、と調理台から降りると、綾女は勝手口のサンダルを履いて、軽い足取りで庭へ行った。
 水やりと言っても、予め穴の開いたホースが張り巡らされているから、綾女は蛇口を捻るだけでいい。
 一気に静かになる。今のうちにと、ナスの炒め物を作ろうとエプロンを取った。




 綾女が叫び声を上げる。すっかり寝入っていた植村は飛び起きて、隣の綾女を叩き起こす。

「綾女さん」

 呼びかけるが、叫び声は止まない。植村はもっと強く肩を叩いた。
 
「綾女さん!」

 植村は顔を歪めた。綾女の手に後頭部を掴まれて、強い力で引かれる。余りの力強さに、植村は抵抗出来ず、唇が合わさる。綾女の悲鳴は続いていて、錯乱状態で、獣に噛みつかれたように、頬が痛みに熱くなる。
 今まで力で敵わないことなど無かった。細腕なのに、どうしても抵抗出来なかった。

「あ…!ああ…!」

 強くかき抱かれる。小刻みに震え、頬をかすめる愛撫だけが不自然に優しかった。
 名を呼ばれる。自分の名では無かった。何度も呼ばれ、終わらない謝罪に、植村はやっと綾女の腕を掴めた。

「私は植村です!」

 びくり、と、嗚咽が止まる。震えは止まらない。植村はさり気なく肩を撫でた。

「…………」
「…安定剤飲みましょうか」
「いい…いらない。うなされてただけ」

 独り言のように素っ気なく呟いて、綾女は起き上がる。今日は満月。暗闇でも彼の顔を伺えた。涙が煌めく。綾女は拭うと、大きく息をついた。

「……電気つけて先生」

 言われるがまま電気をつける。一瞬、眩しそうな顔をした綾女は、植村の顔を見ると、俯いて自分の長い爪を見やった。

「ごめん、ほっぺ、怪我させちゃった」

 綾女の水色の爪先には僅かに血がこびりついていた。植村は頬の痛みを理解した。爪で引っかかれて、傷になったようだ。

「救急箱どこ?消毒しないと」
「自分でやります。貴方は手を洗ってください。立てますか?」

 よろけながらも綾女は立ち上がる。涙が止まらないまま台所に向かっていくのを見送ってから、鏡のある洗面所へ向かう。廊下を歩きながら、綾女の声を殺した嗚咽を背中に聞く。胸が傷んだ。苦しんでいるのを見るのは辛い。かつて経験したから余計に。
 日常と並行して死の実感に触れると、この日常をあの人はもう知らないのだと気づくあの瞬間が、何度も折に触れて感じる。何度も何度も繰り返していくと、次第に喉が締まってくる。息苦しく古い空気ばかりを留めておきたくなる。

 鏡を見ると三つ筋、線が引かれていた。このくらいならなんてこともない。軽く洗うだけにしておく。

 台所に包丁があるのを知っていて、植村は止めなかった。嗚咽を横目に居間に戻る。かといって横になる気にもなれず、鞄を開けて薬の在庫をチェックする。

 古い空気は、淀みがない。写真と同じ。過去だけの人となったあの人は、変われない。変わりようがない。淀みがない。古い空気となる。

「せんせい」

 妙なことに、古い空気が喋りだした。止血用の包帯を取り出していた植村が顔を上げると、それは綾女だった。

「何してるの?」

 綾女は濡れ布巾を目に当てながら、傍らに座り込んだ。目は赤く腫れていたが、涙は引いていた。

「包帯?」
「ええ」
「顔に巻くの?」

 植村が自分で使うと思われている。植村は否定した。

「備品の確認してただけです」
「こんな時に?」
「自分で言います?」
「まぁ気まずいよね。馬鹿みたいに泣いてる奴ほっといて寝れないよね」

 肩から落ちる浴衣を直しながら、綾女は髪を耳にかけた。気だるけな姿に色気があった。

「爪切りどこ?」
「そこの棚です」

 引き出しを開けて爪切りを取り出す。ティッシュを床に置いて、爪を切り始めた。手と足を切り終えて、丸めて屑入れに捨てた。

「…………」

 綾女は、短くなった爪を眺めながら膝をかかえた。短くはなったものの、爪先には水色が残っていた。

和典かずのり様は、」

 綾女は、力なく笑った。残った水色を植村に見せびらかした。

和典かずのりは、コレだけは上手いんだ。他はてんで駄目なのに。俺の爪塗るのだけは、最初から上手だった」
「良い関係だったのですね」
「俺と和典かずのりはな。オメガが歓迎されないのはどこの家だって一緒だ。夫だけでも良い人だったのは、本当に幸運だった」

 うなされる度に、綾女は彼の名を呼んだ。苛まれるように叫んでいたのは、最愛の人を失った哀しみの深さからだった。

「先生、もう薬いらない。なんだか薬飲んじゃうと、アイツが薄れる気がする」
「それは、嫌ですね」
「だろ?同じ夢見るんだ。和典かずのりが手を振る夢。だんだん遠くなっていく。だから覚める前に少しでも近づいておかないと」
「貴方は、一途な人ですね」

 そんなんじゃないと、綾女は首を横に振る。

和典かずのりは、自分で着替えもしたことないお坊ちゃまで、家事なんて言葉も知らなくて、常に使用人に囲まれてるような、金持ちの息子だった。大学生になってハメを外したいと思ったんだろ。歓楽街でカモられて路地裏でボコられてたのを助けたら、一目惚れしたって言ってきやがって、適当にあしらってお家に帰したら、次の日にはアパート突き止めて毎日やって来て、ホント迷惑だった。ヒートで動けなくなってたら、アイツ…ヒートが何なのか知らなかったんだぜ。重い病気か何かだと勘違いして、病院に運んで医者に言われるがまま高い抑制剤の費用出しやがった。金返すって言ったら、助けてくれた礼だからいらないって。それより無理をするなって。アイスクリーム買ってきてくれて、美味しかった」

 当時を思い出してか、苦笑する。照れ笑いだった。

「生まれて初めて金出して買ったのが、そのアイスクリームだったんだと。ホントにボンボンだよな」
 
 慈しむように爪を眺めて、それきり綾女は何も言わなかった。噛みしめるように自分で自分を抱きしめていた。


 二週間、三週間が過ぎて、綾女のヒートの暴走が治っているか確かめられた。
 てっとり早いのは綾女が人と接触することだが、無関係な人間を巻き込むわけにはいかない。
 そこで森医師が休日返上で、この山奥に来てくれることになった。


 森医師が当てられるのを考慮して、送迎は植村が請け負った。山道を登っていると、森医師はさり気なく薬を飲み始めた。

「どこか悪いんですか?」
「酔い止めだ」
「辺鄙ですみません」
「いや、一度来てみたかった。どんな所に住んでるのか興味があった」

 森医師は、植村が何故こんな所に住んでいるのか知っている数少ない関係者だった。一度は一方的に断ち切ったのに、それでも連絡をくれた稀有な人だった。

「もし綾女さんのヒートが起きなかったら、歓迎会でもしますよ。腕をふるいます」
「料理するのか?」
「そりゃしますよ。一人だったんですから」
「それは楽しみだ」

 背の高い木々の間の道を進む。昼間でも暗いからライトをつけていた。ときおり射し込む光がフロントガラスに反射して視界を塞ぐ。

「遠山綾女を本気で引き取るつもりなのか?」
「私はその気ですが、彼にあそこに住んでもらうわけにはいきません。あくまで身元引受人として、彼をサポートするつもりです」
「オメガを一人にさせる気か」
「綾女さん、天涯孤独だそうですよ。施設を出てからは一人で生きていたそうです。大丈夫ですよ」

 職は植村の担当編集者から斡旋してもらうつもりだった。人情味のある編集者なら下手な所は紹介しないだろう。

「心配だな」
「大丈夫ですよ」
「君が心配だ」
「私はもとに戻るだけです」
「今までが異常だったとは思わないか」

 森医師を一瞥する。彼は真っ直ぐ前を見ていた。酔わないように遠くでも見ているのだろう。

「というと?」
「病院に帰ってこないか」
「そういう話をするのなら、ここで降りてください」

 車を止める。ドアロックを解除する。森医師は微動だにしなかった。
 無言が続いたので、車を走らせる。少しスピードを上げると、段差で大きくバウンドした。




 車を降りるまでも無かった。玄関前にたどり着いた時点で、森医師は既に当てられていた。

「もう少し離れた場所に車を移動してくれ」
「分かりました」
「凄いニオイだ」

 森医師は口と鼻を覆った。色香に惑わされない安全な場所まで後退して、森医師をそのままに、植村は家へ走った。

 森医師があれだけの反応を見せているならば、中にいる綾女もヒートを起こしているに違いない。玄関で靴を脱ぐのに戸惑って、投げ捨てながら戸を開ける。
 果たして、綾女はヒートを起こしていた。植村が開けたと同時に、抑制剤を自らの腕に打っていた。

「打つのはその一本だけにしてください」

 綾女の顔は赤く、涙を浮かべていた。
 
「せんせい…」
「森医師を送っていきます。一時間で戻りますが、一人では無理そうなら」
「お、おれ治ってないの?和典かずのりに会えない?」
「今は考えないで。何とかして方法を探しますから、横になってください」

 すがりつく綾女をなだめて、横に寝かせる。扇風機を当てて体を冷やしておいて、その場を離れた。



 とんぼ帰りとなった車内では、森医師が窓を開けて風にあたっていた。

「窓閉めてください。エアコン最大にします」
「すまない」
「こっちのセリフです」

 つまみを回して最大出力にする。冷たい風が吹き荒れる中、植村はハンドルを持つ手に冷房が当たらないように風向きを変えた。

「想像以上だったな」

 森医師は嘆息する。植村も同じ思いだった。一ヶ月近く経つのに、全く変わっていない。色香に衰えが無いのなら、綾女は一生あのままとなる可能性が高かった。

「研究したら学会で発表できるレベルだぞ」
「絶対にやめてください」
「だが、あれでは私達の手に負えないかもしれない」
「私の元では安定しています」
「一生を面倒見るつもりか」
「一生ああなら、そうなるかもしれません」

 番解消されたオメガは、衰弱死する場合もある。一見すると綾女は、衰弱しているようには見えない。望みはあった。

「だが安楽死も視野に入れておくべきだ」
「森先生までそんなこと…」
「オメガは弱い。番を失ったオメガは特に。脳死のアルファの心臓が止まった時、あのオメガがどうなるかは、オメガ自身にしか分からない」
「死なせません」
「死を望むかもしれないと言っているんだ。植村君、事態は深刻だ。防護服を着ていれば我々でもヒートしたオメガを扱える。今のうちに病院に引き取らせてくれ」
「私のエゴから、彼に生きていて欲しいと思っているように見えますか?」
「見える」

 植村は短く深く沈黙した。

「私には、彼が生きていたいと思っているように見えます。私の言葉を今は、信じてはくれませんか」
「だが」
「貴方は、妻と娘の事故を知らせなかった」
「……いま、それを言うのは卑怯だろう」
「卑怯で結構。……ここで降りてください」


 車を止めた場所は、山を降りたばかりの道路。二車線の一般道路が走ってはいるものの、左右は田んぼばかりで、車通りは無く、ひとけも全く無い。
 森医師は怪訝な顔をしながらも、素直に車を降りた。こんな所で降ろされたら、途方にくれてしまうのが分かっていても、植村の発言が尾を引いてか、文句の一つも言ってこなかった。

 植村は来た道を引き返そうと車を反転させた。去り際、窓を開ける。

「タクシーは呼んであります。そのうち来ますから、適当な木陰で待っていてください」
「放り出されるかと思ったよ」
「放り出してやろうかと思いましたよ」
 
 では、と車を走らせる。自然とアクセルを押す足が強くなる。山道を速く走る技術など持ち合わせていない。それでも逸る気持ちが植村を焦らせた。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

膀胱を虐められる男の子の話

煬帝
BL
常におしがま膀胱プレイ 男に監禁されアブノーマルなプレイにどんどんハマっていってしまうノーマルゲイの男の子の話 膀胱責め.尿道責め.おしっこ我慢.調教.SM.拘束.お仕置き.主従.首輪.軟禁(監禁含む)

満員電車の中で痴漢されたのは俺!?

成瀬瑛理
BL
『ん? 何だこいつ、痴漢か? 俺のケツを狙ってやがる――!!』 ※学校帰りに電車に乗って帰る途中、満員電車の中でいきなり痴漢に遭遇。しかもその痴漢男がテクニシャンだったからさぁ大変! 狙われるケツを死守したい高校生男子の車内でのめくるめく奮闘劇――。

死ぬほど抱きたかった爆モテ陽キャ同級生に泣くほどハメられてます。

白川いより
BL
少し不愛想で自分の感情を表に出すのが苦手な高校三年生の相沢裕貴はいわゆる陽キャで何でもできるうえに顔もよく、女子からモテモテの一ノ瀬達也に恋心を抱いていた。 ある日、相沢の秘密が一ノ瀬にばれてしまい、そこから二人の関係は歪んでいく。

エロトラップダンジョンを経営してる受けがひたすら攻めにへこへこしてるちょっと可哀想なお話

ぺけ
BL
敬語攻め×不憫受け ボコボコにされて住まいをエロトラップダンジョンに改造された挙句そこの管理人をさせられてる受けが 攻めを盲信しているのでそれでも一緒にいてくれたら嬉しい♡とはしゃいでいる、 攻めからの愛はまったくない系不憫な受けを曇らせる話です 今の所続きはないのですが 好みの設定なのでそのうち続き書けたら、と思い連載という事で……

モブだけど貴重なオメガなので一軍アルファ達にレイプされました。

天災
BL
 オメガが減少した世界で、僕はクラスの一軍アルファに襲われることになる。

有能社長秘書のマンションでテレワークすることになった平社員の俺

高菜あやめ
BL
【マイペース美形社長秘書×平凡新人営業マン】会社の方針で社員全員リモートワークを義務付けられたが、中途入社二年目の営業・野宮は困っていた。なぜならアパートのインターネットは遅すぎて仕事にならないから。なんとか出社を許可して欲しいと上司に直談判したら、社長の呼び出しをくらってしまい、なりゆきで社長秘書・入江のマンションに居候することに。少し冷たそうでマイペースな入江と、ちょっとビビりな野宮はうまく同居できるだろうか? のんびりほのぼのテレワークしてるリーマンのラブコメディです

【BL】SNSで人気の訳あり超絶イケメン大学生、前立腺を子宮化され、堕ちる?【R18】

NichePorn
BL
スーパーダーリンに犯される超絶イケメン男子大学生 SNSを開設すれば即10万人フォロワー。 町を歩けばスカウトの嵐。 超絶イケメンなルックスながらどこか抜けた可愛らしい性格で多くの人々を魅了してきた恋司(れんじ)。 そんな人生を謳歌していそうな彼にも、児童保護施設で育った暗い過去や両親の離婚、SNS依存などといった訳ありな点があった。 愛情に飢え、性に奔放になっていく彼は、就活先で出会った世界規模の名門製薬会社の御曹司に手を出してしまい・・・。

近親相姦メス堕ちショタ調教 家庭内性教育

オロテンH太郎
BL
これから私は、父親として最低なことをする。 息子の蓮人はもう部屋でまどろんでいるだろう。 思えば私は妻と離婚してからというもの、この時をずっと待っていたのかもしれない。 ひそかに息子へ劣情を向けていた父はとうとう我慢できなくなってしまい…… おそらく地雷原ですので、合わないと思いましたらそっとブラウザバックをよろしくお願いします。

処理中です...