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一章

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 三日。たった三日で、自分の人生が大きく変わってしまった。悠々自適な山奥での暮らし。晴耕雨読の日々を送っていたのに、そこに一人加わる事になろうなど、つい三日前、いやついさっきまで、これっぽっちも思っていなかったのに。
 それは向こうも同じだろう。しかもまだ説明もしていない。彼の家族から一ヶ月の猶予期間をもらったはいいものの、勢いで来てしまった手前、どう切り出せばいいものか、植村は考え込んでいた。

 最初の申し出を打ち明けたのは森医師だ。当然、考え直すように言われた。

「君がそこまでする必要は無い」
「……………」
「責めるなら私を」

 植村は首を横に振った。確かに、こんな行動をしてしまった原因の発露を森医師は知っている。だが最終的に決めたのは自分だ。森医師を責めるわけがない。
 植村の決意を感じ取ったらしい。肩に手を置かれる。それが最後だった。

 


 病室の綾女は、ベッドをリクライニングさせてテレビを見ていた。昨日降った豪雨で、この地方にも少なからず被害が出ていた。家屋の浸水被害を伝えるニュースが流れていた。

 入室した音に気づいて、綾女がこちらを見る。長い前髪を耳にかけると、水色のマニュキュアが艶めいた。

「先生、どこ行ってたの?もしかして和典かずのり様、もうお亡くなりになったんですか?」 
「いえ、彼の父親が帰国する一ヶ月は待つそうです」
「そう…当主様が、戻られるんですね」

 改めて見れば見るほど、遠野綾女は美しかった。容姿はもちろんだが、伏し目がちで、控えめな姿に魅了される者は多いだろう。細い肩を見ると、庇護欲をかきたてられる。

「つきましては一ヶ月、私が貴方の身柄を預かることになりました」

 いろいろ捻った言い方をしても、ただ言い訳にしかならないような気がして、単刀直入に告げた。
 案の定、綾女は大きく目を見開いて、固まった。

「……………」
「綾女さんは今、誰にでも発情してしまう体質になっています。他人との接触を避けるため、このフロアを貸し切っています。一ヶ月間、病院側としてもベッドを使えないのは困りますので、一時的に預かることになりました」
「……一ヶ月後、私はどうなるんですか」
「分かりません。もしかしたら症状が落ち着いて、普通に生きられるようになるかもしれません」
「お義母かあ様は、なんと言っていましたか」

 植村の沈黙で察したのだろう。綾女は声を震わせて、同じ質問を繰り返した。

「教えてください」
「……安楽死を望んでいました」
「──あのババア」

 ドスの効いた声になる。初め、この薄幸の青年が発しているのだと思えなくて、今度は植村が固まった。

 乱暴に頭を掻いた綾女は、ベッドから降りた。テレビ台に置いていた残り少ないミネラルウォーターを飲み干すと、それを床に叩きつけた。

「あぁクソッ!最低だ!こんなことになるんなら、ボンボンなんかと番になるんじゃなかった!」

 弱々しい態度が一変し、怒りを爆発させる。ヒステリーを起こした患者を、見慣れてはいたが、こんなにも急に変わった人は珍しかった。

「綾女さん、落ち着いて」

 聞こえていないのか、さらにテレビ台に置いてあったリモコンが叩きつけられる。衝撃で中の電池が散らばった。
 病院の備品を壊されては、かなわない。植村は綾女の腕を掴んだ。

「落ち着いて。そう言ったのは母親だけで、弟さんは反対されていましたよ」
「あのビビリが母親に逆らえるわけ無いだろ!当主が戻ったら直ぐに私を殺すように言うさ。そういう女だ」
「そうはさせませんから、座ってください。そんなに血圧を上げては、倒れてしまいます」

 綾女は腕を振り払うと、ブラインドを潰して窓に寄りかかった。

「あの馬鹿、勝手に解消して死にやがって。使えないと思ってたが本当に使えなかったな」
「夫にそんなことを言ってはいけませんよ。それにまだ脳死段階で、まだ死んではいません」
「牧師気取んなよ」綾女は醒めた目で笑う。「和典かずのりとは契約して番になったんだ。どっちもどっちだろ」
「契約?」
「俺は発情期__ヒート__#が他より重くてな。三ヶ月に一回が普通なのに一ヶ月に一回来る。一ヶ月の半分は体調不良だ。そんなの耐えられない」

 稀に、他のオメガよりもヒートの頻度が多い者がいる。そういった者達は余分に抑制剤が必要になるので、国からの援助が受けられる。
 それよりも手っ取り早いのは、番関係になること。
 番になれば、周囲に色香をふりまかない。発情期ヒートも軽くなる。更に子を産めば、発情期ヒートは起こらなくなる。いちいち発情期ヒートが来ていては、子を育てられないからだ。だからヒートが始まる年齢になると同時に番になるケースが多かった。

「番になって子を産めば、後は自由にしていいって言われた。贅沢出来ると思って契約したのに、よりにもよって最悪な死に方しやがって。最低だ」

 そこには脳死した夫を悼む気など、さらさら無い。ただ迷惑そうな態度が前面に出ていた。

「俺は一切、誘ってないからな。向こうから近づいて来たんだ。ババアは当然信じなかったけどな」
「話は分かりました。とりあえずベッドで寝てください」
「飽きた。腰が痛い」

 その通りに腰を叩く。体を伸ばして腕を回すと、ベッドの端に足を組んで座った。
 植村に向かって、にやりと笑う。小悪魔のような意地悪な笑みだった。
 
「先生、一ヶ月どう引き取るんだよ。教えてよ」
「私の家、山奥にあるんです。他人との接触も絶たれますから、そこで住んでもらおうかと」
「虫嫌いなんだけど。蛇とか出る?」
「虫は出ますし蛇も出ます」

 うえ、と嫌そうな仕草をする。

「そこから病院通うの大変じゃない?」
「実は私、本業は作家なんです」
「作家?本とかの?」
「ええ。村上むらかみアランという名前で本を出しています」

 本名のウエムラを反対にするとムラウエ。変換すると村上になるからムラカミとした。それだけの安直なペンネームだった。

「知らない」

 と、興味なさそうに綾女は言った。そうだろうと思っていたので、植村は傷つかなかった。

「まだ新人作家ですので」
「本自体読まない。さかしいオメガは、番相手を探すのに苦労する」

 なんでもない顔をしていたので、これがオメガ達にとっての一般常識なのだろう。

「でも」と、綾女は続けた。「もう番にはなれないから、先生の本から読んでみてもいいかもしれないな」
「光栄です」
「先生こそいいの?俺こんなんだよ。幻滅したでしょ?」
「確かに驚きましたが、貴方の性格は関係ありませんから。安楽死は不当だと思ったので、引き取ると言ったんです」

 綾女は目をぱちくりさせた。

「先生が引き取るって言ったの?」
「ああ。ええ、そうです」
「…ならお礼しないと」

 服を脱ぎだしたので、植村は止めた。

「止めてください」
無性エラーだから興奮しない?」
「ええそうなんです」

 くすくす笑う綾女に投げやりに答える。無性エラーだからと言って性欲が無い訳では無い。安直に体を差し出そうとするのは、それだけがオメガ性の価値だと擦り込まれているからだ。

「それより本当に休んでください。私の家、ここから二時間かかるんです。病み上がりには辛いですから、少しでも回復してください」
「それよりお腹空いた。水ばっかり飽きた。サンドイッチとか食べたいな」

 ヒートの再燃を繰り返していたから、点滴で命を繋いでいた。この三日で余計に痩せて、アバラが浮いていた。
 態度だけみれば、随分、回復したように見える。まともな食事が出来たら、もっと回復するだろう。

「買ってきます。何がいいですか?」
「やった。先生大好き」
「そういうのいいですから。心にも無いこと言うと疲れるでしょう」
「バレた?」
「ババアとかボンボンとか聞かされたら分かりますよ。で、何がいいですか?」

 舌を出して愛嬌を振りまいた後、ベッドに横になってテレビを見出した。

「売れ残ってる奴でいいよ。好き嫌いとかないから」
「じゃあ適当に買ってきます」

 ひらひらと手を振られる。テレビはまだ災害のニュース映像が流れていた。この短時間で、青年の正体を明かされて、少なからず植村は動揺していた。怒りをぶちまけたかと思えば、植村には媚びを売る。ころころと変わる態度にたくましさすら感じた。

 母親が嫌悪するのも無理は無かった。契約で番になったと知ったら、強制的に安楽死させるかもしれない。それだけは避けたかった。



 眼の前に倒れた大木が現われて、植村は車を止めた。助手席に座る綾女は溜め息をついた。

「また?しかもさっきより大きい」
「一昨日、雨降りましたからね。まぁよくあることです。台風の後なんかだとこれよりもっと酷いですよ」

 帰宅するために、病院を出たのか深夜。綾女のヒートに当てられないよう、人が消えた時間でないと出発出来なかったからだ。

 郊外に出て田舎道を抜け山道に入る。一本道だが道幅は狭い。林道を走るのだが、林業の方が仕事熱心で、道はよく整備されていた。
 だが今回のように豪雨があるとそうはいかない。崩れる危険がある為、数日は山には入らない。植村の方が先に林道に入った為、倒木があちこちに転がっていた。

 植村は車を降りてトランクを開ける。そこからチェーンソーを取り出して発動させる。倒木を何個かにカットしたものを、道の下に落としていく。下は川が流れていた。天気が良ければ釣りも出来るが、今は泥水で濁っている。

 チェーンソーを仕舞い運転席に戻る。車を走らせると、隣の綾女が膝を抱えだした。

「医者ならもっとまともなトコ住めるでしょ。なんでこんな辺鄙へんぴなトコ住んでるの」
「すみませんね。自然が好きなんです」
「信じられない。正気を疑う」

 猫被りを止めた綾女は不機嫌を隠さずに、ずけずけと物を言った。下手に媚びを売る態度よりはマシだが、何だか反抗期の子供と接しているような気にもなる。親のやることにいちいち反対するような、否定的な言葉が多くなった。
 厭世的とも違うが、社会を斜めに見ていると言うか、なんにせよこれが彼の「素」なのだろう。

「あとどれくらい?」
「うーん…十分も無いと思います」
「二時間で着くって言ったくせに、もう二時間以上は過ぎてる」
「なにせこの悪路ですし、夜中はとにかく視界が悪いですから」

 ハイビームにしても、そこまで遠くの視界を確保出来なかった。草木が生い茂って、昼間でもそびえ立つ木々で夜のように暗い道だ。苔が生えていて滑りやすい。

「電気あるのそこ?」
「通ってますよ。ガスも水道も。台風が酷いと寸断する時もありますが、まぁ一ヶ月の内では大丈夫でしょう」
「ネットは?」
「基地局近いんでありますよ」

 綾女はまた溜め息をついた。車に乗ってからもう何度も聞いている。

「一ヶ月も山小屋生活だなんて。耐えられるかな」
「体調不良なら私が診ますから」
「ボケてんの?山小屋での生活が耐えられないって言ってる」
「貴方は案外神経が太いですから。山小屋くらいなんてこと無いでしょう」

 鼻で笑って、綾女は助手席の窓に顔を向けた。暗闇で何も見えないと思ったのか、直ぐにフロントに向き直る。

「そういえば先生って何歳?白髪たくさんあるけど、顔は若いよね」
「貴方よりは、おじいさんですよ」
「何歳?」
「三十二です」
「おっさんだ。あはは。おっさん」

 ジジイと言われなかっただけマシなのかもしれない。ひとしきり笑い終えた綾女は、座席に沈み込んだ。そのまま話が途絶える。
 お喋りになったり静かになったり、先程からこんな調子だ。浮き沈みが激しい。新たな住まいに移るのに、少なからず緊張しているのかもしれない。

 つづら折れを登る。中腹の脇道に入れば、我が家は直ぐそこ。急坂のカーブに綾女は、カエルが潰れたような声を上げた。




 家の前に車を停めて、玄関を開ける。スイッチを押すと電気は無事に生きていて、玄関を照らした。
 
「そこ、敷居ありますから気をつけて」

 後ろからついてきた綾女に注意する。彼は、キョロキョロと周りを見渡しながら、敷居をまたいだ。
 植村は上に上がって、綾女の為に次々と電気をつけていった。居間に座るように言うと、中央のローテーブルに両手を置いて座った。
 季節は夏。開け放しておいた障子から蛾が入り込んでくる。電灯の周りをせわしなく飛ぶ様を、綾女は嫌そうに見上げた。

「荷物を運びますから、のんびりしててください。そのまま寝るのなら布団を敷きますよ」
「ここで?」

 綾女は蛾を指差した。

「寝れるわけないだろ」
「蚊帳を張りますから、虫は入ってきませんよ」
「虫を見ながら寝ろって?」
「これからは毎日そうですよ。安楽死させられるよりはマシだと思えば、大抵のことは平気になれますよ」
「一ヶ月後に安楽死になるかもしれない憐れなオメガから、多少の我儘わがままは許してやろうって思えよ」
「死なせません」
「……ははっ」

 馬鹿にした笑いが漏れる。仰向けに寝転んだ綾女は、腹に手を置いて深呼吸した。

「お風呂入りたい。それから寝たい」

 反抗期というよりは、まるでお嬢様だ。遠山家のあの薄幸の演技は、相当の無理をしていたらしい。自由になれた開放感からなのか、植村が害を加えないと高をくくっているのか。
 無性エラーなのが一番の理由かもしれない。オメガの色香に惑わされない安全な存在だから、どこまで許されるのか試しているのかもしれない。

「先生?聞こえた?」
「ええ」
「あとあそこの蛾、追い払って」
「後で虫除け焚いておきますから、それで勘弁してください」

 綾女は寝返りを打つ。その横顔は微笑んでいた。

 
 夢を見ていると気づくと、夢から醒める。意識が浮上する最中に、違和感を覚えた。

 植村は手を振った。何かを弾く形となって、手のひらに衝撃が残った。

「──あいったぁ…ちょっと、いきなり叩くなよ」

 綾女の声。目線を下げると、頭を押さえていた。植村が叩いたのは、綾女の頭だった。

「……なにしてるんですか」

 布団が剥ぎ取られ、衣服が脱がされていた。植村の寝間着は黒の浴衣だが、下が広げられていた。

「本当に勃たないのかと思って。実験」

 体を起こした綾女は、その場に胡座あぐらをかいた。寝込みを襲っておいて、悪びれる様子は一切無かった。

 立ち上がって乱れを直す。帯を締め直してから、蚊帳の外に出る。外はすっかり日が昇っていた。時間を見れば昼を過ぎていた。こんな時間に起きるのは仕方なかった。久しぶりに我が家に戻ったのが深夜三時過ぎ。それから綾女を風呂に入らせて髪を乾かしてやって、眠りについたのが四時過ぎ。ここ連日、徹夜だった植村は正直まだ寝足りない。綾女に起こされなければ今日はずっと眠っていたかもしれない。

「実験はどうだったんです?」

 蚊帳が一つしか無いからと、二つの布団をくっつけて眠ったのが間違いだった。今夜からは別の部屋で寝よう。

「自分が一番分かってんだろ。先生、まだ三十二なんだろ?枯れてんだな」
「おっさんですから」
「じいさんだろ?」

 綾女が近づく分だけ距離を取る。すると彼は面白がって、蚊帳の外に出るなり植村に飛びついた。

「っわ!びっくりさせないで」
「なに怖がってんだ。あははっ。こんなオメガに揶揄からかわれて可哀想に。もう触ったりしないから安心しろよ」

 一度だけ強く抱きしめた綾女は、一二歩、後ろに下がると、黒の紐を掲げた。それは梅村が締めていた帯だった。あの抱きついた一瞬で、帯を外したらしい。凄い早わざだ。浴衣の前が開く。身体を見られないように合わせを閉じる。

「先生けっこう良い体してるな。白髪じゃなかったらモテたろうに」
「そういう貴方は貧相ですよ。もっと増やした方がいい」
「先生の腕次第だな。お腹空いた。何か作って」

 はい黒帯、と返される。植村は固く結び直した。



 
 平屋の木造建築のこの家は、築百年の古民家を改修したものだ。山を切り開いた一軒家であるから、一人で住むには広すぎるくらいだ。一人増えたとしても変わらない。その気になれば、一日中、顔を見合わせずに過ごせる。

 居間をぐるりと囲むように、小部屋が配置されている。周り廊下を歩けば、一通りの場所は把握出来る。シンプルな造りだ。わざわざ案内せずとも、適当に行けば台所にも風呂場にも行ける。

 その台所で、植村は朝食件昼食の準備をしていた。改修する前は土間だったこの部屋も、床を敷いて居間と同じ高さに作り変えている。いちいち履物を履く必要が無く非常に楽だ。
 
 四日放置していた冷蔵庫の中は、肉と調味料を保存しておくだけのためで、野菜は庭から取ってくれば事足りる。酪農を営む知り合いから貰ったソーセージがまだ残っていた。卵もある。

 冷凍しておいたパンがあるが、彼を肥えさせるには米の方がいいだろう。取り敢えず二合を早炊きで炊く。味は落ちるが十五分で食べられる。

 そういえばと、漬けておいた梅がそろそろ良い頃合かもしれない。調理台の下から壺を取り出す。蓋をあけると、紫蘇の色に染まった梅がひしめき合っていた。一つ食べてみると、満足のいく酸っぱさだった。

 汁も作った方がいいかと。同じく調理台の下に放置されていた圧力鍋を引っ張り出す。埃を被っていたから洗っておく。ここで暮らしていると早く料理をする必要が無い。自然、こういった調理器具は使わなくなっていた。とはいえ、適当に野菜を煮込めば立派なスープになるし、放置しておけるから使い勝手は良かった。

 エプロンを忘れていた。入口にかけておいたそれを外す。耐水、耐油で汚れが分かるように白色のもので、ここに来た時に買ったからもう五年になる。少々ほつれてはいるが、気になるほどではない。

 エプロンの紐を後ろで結ぶ。取り敢えずは準備は出来た。米が炊ける十五分で作り上げたい。植村は袖を捲った。


 

「なにこれ」

 不満そうというよりは変なものを見るような目で、綾女は出された食事を見下ろした。

 居間は二間続きで、片方は寝室で埋まっている。もう一つの部屋に、食事を用意した。

 植村が作ったのはお粥とスープだった。スープはペースト状にしてあるので、噛むという行為は全く無かった。
 
「病院食じゃん」

 と、綾女が言うのも無理は無かった。スプーンで何度か掬う動作をするものの、具は無い。

「がっつりしたの期待してたのに。こんなに気遣わなくても普通の食事で良かったのに」
「私も最初はそう思ったんですけど、綾女さん喉痛そうでしたから」

 綾女は喉に手を当てた。

「知ってたの」
「貴方が前後不覚の時に、一通りの検診はしましたから。腕の注射痕の事情も知ってますよ」
「よく分かったね。さすがお医者さん」
 
 綾女はスプーンを口につけた。美味しい、と言ってくれた。

「子供出来なくてさ。だから路地裏の医者にホルモン剤打ってもらってた」
「ちょっと待ってください。産科で打ってもらってなかったんですか」
「オメガが不妊治療なんて笑っちゃうだろ?」

 スプーンではもどかしいと思ったのか器ごと飲み始めた。一気に飲み干すと、直ぐに粥にも手を付ける。

「料理上手だね先生。作ってくれる人いなかったの?」
「闇医者での投与なんて危険です。本当にホルモン剤だったのかも怪しい」
「いいじゃんもう終わったんだから」

 軽い調子で言う綾女は、どこか他人事だ。病院の血液検査では異常は無かった。精密検査まではしていないが、一抹の不安は残る。

「こっちも美味しい。ただのお粥なのに、塩だけ?」
「ええ」
「先生も食べなよ。冷めるよ」
「ええ。おかわりいります?」
「あるの?欲しいなぁ。スープの方」

 器を受け取って台所へ。よそっていると、悲鳴が聞こえた。ドタドタとこちらに走ってきた綾女は、蜂が飛んできたと大騒ぎした。



 畳の上に寝転んで、午睡ごすいを決め込む綾女の、水色のネイルが目に留まる。薬指だけ折れた爪。起きたら切るように言っておこう。
 ブランケットを敷いて、綾女は腹を抱えるように眠っていた。寝息の聞こえない寝息を立ていた。美貌と相まって、人形のような造形だ。

 寝ている間に、植村は四日放っていた庭の手入れをすることにした。浴衣から作業用のシャツとズボンに着替えて、麦わら帽子を被って外に出る。
 前の住人が苦労して切り開いた土地であるから、それなりの広さがある。一人暮らしであれば、その一部を畑にしてしまえば、生きていけるだけの野菜は確保できる。

 植村は野菜の他に、花も同じ場所に植えていた。最初は虫除けの為に植えたマリーゴールドが、これが意外と良い色味だったので、他の花も植えて増やした。今では花がメインで、隙間に植えてある野菜のほうが完全な脇役になっていた。

 咲き誇る花をかき分けて、雑草を抜く。雨が降ったおかげで一気に野菜が成長したものの、雑草もそれ以上に伸びていた。こまめに抜いても、雑草は次から次へと生えてくる。終わりのない、地味で労力のかかる仕事。夏は特に辛く、汗もかくし腰は痛くなる。それでも、植村はこうした作業が好きだった。一つのことをしていれば、他を考えなくて済む。座禅を組むような悟りを開ける。それで雑草まで一掃出来るのだから、とってもお得だった。

 きりの良い所で小休止する。冷やしておいた麦茶を飲もうと勝手口から台所に入ると、綾女が先に冷蔵庫を開けていた。
 
「あれ先生、なにやってんの顔真っ赤」
「庭の手入れです。雑草を抜いていました」

 麦わら帽子を外して顔をあおぐ。首に巻いたタオルで汗を拭う間に、綾女は麦茶をコップに注いで持ってきてくれた。台所に上がるのに靴を脱ぐのが面倒だと思っていた植村にとって、嬉しい気遣いだった。

「ありがとうございます」
「麦茶でよかった?」
「ええ」

 麦茶を飲む間、綾女はずっとこちらを見ていた。飲み終えると、綾女はもう一杯いるかと聞くので、お願いする。

「俺も庭行っていい?やっぱ虫いる?」
「いますよ。虫除けスプレーありますから、少しは効果あるかもしれません」

 二杯目を注いだ綾女は、一口二口飲んでから、植村に渡してきた。受け取って、彼が口をつけたのとは違う場所から麦茶を飲んだ。



 自分の麦わら帽子を貸したが、大きすぎて前が見えないと返される。昨今の若者は陽に晒されるのを嫌がる傾向にあると言うが、彼は全く気にせず庭に出た。

「凄いね。本当に山の中だ」

 庭を歩きながら、周囲を見回す。山の中腹の土地は、見晴らしが良いとは言えない。日当たりは良いものの、周りの山々に囲まれていて、日が昇るのは遅く、沈むのが早い。日照時間が短かった。

 綾女はシャツに短パンのスタイルだった。寝間着のままなのは、彼の服がこれしかないからだ。後は入院で着ていた検査着があるが、あんなのは着たくないだろう。買い揃えておけば良かったのだが、退院の手続きやら一時預かりのやり取りですっかり失念していた。

「貴方の服を買いに行かないといけませんね」
「先生の貸してよ」
「それで良いにしても、肌着は必要でしょう」
「肌着?パンツのこと?」
「ええそうです」
「穿かないよ俺」

 ほら、と綾女は短パンを引っ張って中を見せようとする。植村は見なかった。 

「…おじいさんの服なんか着たくないでしょう。麓ならそんなに時間かかりませんから適当に買ってきます」
「根に持つなよ。おじいちゃん」目を細めて妖艶に笑う。「草むしり疲れたでしょ?俺の為に服なんて買わなくていい」
「不便でしょうが」
「くっだらない」

 綾女は庭の中に走って行ってしまった。花を飛び越えて先まで駆けていってしまう。庭を抜けたら後は草原のような原っぱが広がる。最後は崖になって終わる。

「そっちは崖ですよ!」

 叫ぶが聞こえたかは分からない。彼の小さな背中を眺めながら、植村は歩いて後を追った。
 
 どこまでも走っていくかと思われた矢先、突然、前のめりになったかと思えば、そのまま綾女は原っぱの中に倒れて消えた。まさか崖に落ちたのかと慌てて向かうと、彼はただ転んだだけだった。

「怪我は?」

 綾女は立ち上がって膝を払った。両膝が汚れているが、怪我は無さそうだ。

「窪みがあったんだ。雨でぬかるんでたみたい。汚れちゃった」
「服は変えた方がいいですね」

 泥が衣服にまで飛び散っていた。早速、唯一の服を駄目にしたわけだ。綾女はさっきの問答をすっかり忘れて、ハンカチ代わりにTシャツで手を拭ったから更に汚した。植村ばかりが洗濯の手間を気にして、無頓着な綾女は更に先へと進みだした。

「そっちは崖ですよ」
「うん。崖を見てみたい」
「危険ですよ」
「ぞくぞくしたいんだ」

 まるで会話が噛み合わない。他人とはこんなにも分かり合えないものなのだろうか。振り回されている。天真爛漫と取るべきか、わがままと取るべきか。

 崖の手前で止まった綾女は、下を見るように身を乗り出した。危ないと思った植村は咄嗟に手首を掴んだ。

「ちょっとだけ見晴らし良いね」

 こちらを見もせずに言う。一応、下の集落の田んぼ我見えるが、綾女の言う通り木々が邪魔して良くは見えない。

「裏手に登れば展望台はあります」
「疲れそう。今だって疲れた」
「じゃあ戻りましょう。何だか貴方、落ちそうで怖いです」

 どこが面白かったのか。彼はからからと笑い出した。

「『あなた』ってさぁ、変じゃない?お前でいいよ」
「お前は嫌いです。言ったことありません」
「先生もイイトコの育ちなんだな」
「綾女さんこそ、先生って呼ばなくていいですよ。先生辞めてますから」
「ふーん」興味無さそうに言う。「でも、小説家なんでしょ?やっぱ先生だ」

 先生と呼ばれるほど、植村の著作は売れていなかった。でも綾女はなんとなく先生と呼びたそうにしているから、強くは否定しなかった。

「なんで助けてくれたの」
 
 その言葉があまりにも自然で、彼の魅惑的な瞳がこちらを捉えるものだから、植村は心臓を鷲掴みにされたような心地になって、反応出来なかった。

「こんな所に住んでるのは、人間と関わりたくないからでしょ。俺といるの嫌でしょ?なんで連れてきたの」
「死ぬ必要がなかったからです」
「オメガに思い入れでもあった?恋人でもいた?」
「貴方がベータでもアルファでも同じことをしました」
「ふーん。自分のことは喋りたくないんだ」

 地面を蹴るような仕草をする。後ろ手に組んだ手から、割れた爪を思い出す。

「薬指」

 と言っただけなのに、綾女は過敏に反応した。驚いた顔をしてこちらを振り返った。

「え?」
「薬指、の爪…割れてますから切ったほうがいいですよ…」

 尻すぼみに声が小さくなったのは、酷く傷ついたように、顔が歪んでいったから。
 触れてはならない話題だったのだろう。それはお互い様で、自分だって自分のことを知られたくない。過去を思い出したくないから。
 
 今更になって、空に立ち上る夏雲に気づく。夕立の雲だ。また雨が降る。雨が降れば、野菜が育つ。花が咲く。また雑草をむしらなければ。そうやって、自分を誤魔化さなければ、ここに立っている人があのだと錯覚してしまいそうだった。


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スーパーダーリンに犯される超絶イケメン男子大学生 SNSを開設すれば即10万人フォロワー。 町を歩けばスカウトの嵐。 超絶イケメンなルックスながらどこか抜けた可愛らしい性格で多くの人々を魅了してきた恋司(れんじ)。 そんな人生を謳歌していそうな彼にも、児童保護施設で育った暗い過去や両親の離婚、SNS依存などといった訳ありな点があった。 愛情に飢え、性に奔放になっていく彼は、就活先で出会った世界規模の名門製薬会社の御曹司に手を出してしまい・・・。

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オロテンH太郎
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これから私は、父親として最低なことをする。 息子の蓮人はもう部屋でまどろんでいるだろう。 思えば私は妻と離婚してからというもの、この時をずっと待っていたのかもしれない。 ひそかに息子へ劣情を向けていた父はとうとう我慢できなくなってしまい…… おそらく地雷原ですので、合わないと思いましたらそっとブラウザバックをよろしくお願いします。

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