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しおりを挟む目を開けた頃には、部屋は随分と明るくなっていた。何処からか涼しい風が吹いてきて、思い出す。アンは慌てて体を起こした。
部屋には誰もいなかった。いや、侍女のソルが壁際に佇んでいた。アンが起きたのに気づいて近づいてくる。
「アン様、お体の方はいかがですか?」
「え?」
ソルはその先を言いにくそうに伺ってくる。アンは取り敢えず大丈夫、と答えた。
「湯浴みでもされますか?」
またもソルは聞いてくる。湯浴み?アンはそれも断った。
一人、朝食を取りながら、アンは気を失う前の事を思い返していた。思い出すと胸が苦しくなる。
知らない経験だった。唇と唇を合わせるだけだと思っていた。口の中の感触を思い出すと、どうも食欲がわかなかった。
ほとんど残した朝食を見て、ソルは今日はよくお休みしたほうが、と言ってくる。
「大丈夫ですよ。庭に行きたいわ。準備をしてください」
あまり考えすぎてはいけない。気晴らしがしたかった。
テオが何をしているのか気になって聞いてみる。もし庭にいたら書庫にでも行こうと思ってのことだった。まだ顔を合わせたくなかった。
「朝からずっと政務をしております。先王の時に逮捕された臣下たちの釈放をするとか」
テレンスが王だった僅か一ヶ月の間に、多くの有能な臣下が怒りを買って逮捕、失脚していた。先々代が奪ったマルス国の領地を、なんの交渉も無しに返還すると宣言した折、その決定を覆すよう諫言した臣下たちだ。
戦争回避、隣国デングとの講和も控えている。テレンスが付けた大きな傷を治すのには、色々な問題を同時に解消していかなければならない。
テオが眠っていた時間は本当に少なかった。人がいないからだ。臣下が戻ってくれば、少しはテオも楽になるだろう。アンはもう二度と政務に関わるべきでないと思っている。その考えを変える気は無かった。
庭の散策を終えると、陛下からお呼びがかかった。
アンが執務室へ伺うと、部屋にはテオの他にもう一人、宰相が待っていた。
「隣国デングの使者が明日到着する」
テオは朝のことなどすっかり忘れているらしい。宰相がいるのだから当たり前か。澄ました顔をしていた。
「王妃もぜひ同席し、使者を迎えてほしい」
それくらいなら、とアンは了承した。意見を言うつもりは無いが、王妃としての役目を放棄するつもりは無い。断る理由も無かった。
「陛下に従います」
「──バーニン」
は、と宰相が返答し一枚の紙を渡してくる。名簿だった。見覚えのある名ばかり。
「呼び寄せる臣下の名だ。精査を王妃に頼みたい」
「わたしは…」
「関わる気は無いのだろう?そうも言ってられるか」
テオは吐き捨てるように言う。
「私は長く軍に所属し、軍部には精通しているが、王宮の人間には疎い。この宰相の意見も聞いているが、いまいちこの男を信用出来ない」
信用出来ない、と言われた宰相は、ニコリとアンに笑顔を見せた。アンはこの宰相に見覚えは無かった。ただ、佇まいからして長く外国で暮らしていたように見えた。
名簿に目を通す。アンが監獄にいる間に、大分、逮捕者が増えたらしい。記載の無い者たちの名を一つ一つ言うと、宰相が、その人は隠居しただの、その人は処刑されただの、淀みない答えが返ってきた。
「どうだ?不備はあるか」
「いえ、私より、そちらの宰相殿の方がお詳しいかと」
「貴女の意見が聞きたい。決めるのは私が決める」
「──では、今王宮に残っている、テレンス前王の元にいた臣下たちですが、彼らをどうか冷遇なさらないように。もちろん前王に忠誠を誓っているものもいましたが、家を守るために前王に従わざるを得なかった者たちもおります」
宰相は「その名簿もある」と言って新たな紙を渡してきた。これだけ準備がいいのなら、自分などますます必要が無いだろうに。
「有能な奴だけ教えてくれればいい。後はこちらで対処する」
遠慮しても時間の無駄なようだ。アンは素直に名を告げた。それから宰相の質問にいくつか答える。
テオはアンの話を聞き終えると、部屋に戻るように言った。アンは下がろうとした。
「ああ、アン」
呼び止められ振り返る。テオは持っていたペンをくるりと器用に回した。
「また夜は遅くなる。待ってないで先に休んでいなさい」
「…は、はい」
急に私的な話になって、アンは一気に恥ずかしくなった。有能な宰相は聞いていないふりをしてくれている。
アンは急いで部屋を辞した。
王妃が扉の向こうに姿を消してから、テオは隣の宰相に話しかけた。
「どう思う?」
宰相はうなずく。
「さすがは王妃様ですね、私の調べと一致します」
「そうか」
「どうせなら最初から王妃様にお聞きすればよかったと思うくらいです。無駄な時間でした」
「まぁそう言うな。それに私はお前を信用していないのは事実だ」
「私を試したのですか」
「いや、王妃を試した」
アンが本当にテレンスを脅かすほどの王宮での影響力を持っていたのか。
「テレンス様が皇太子であらせられた頃から、密かに王妃様を女王にという声もあったようですよ。それだけあのお方は、王宮の臣下たちを掌握しておられたようです。その分、女性で、しかも王族の血を引いていない者が台頭するなどと疎まれてもいたようですが」
「にしては随分と控え目ではないか?」
「野心の無い方ですから。だからその分、あのお方が本当に国の為に尽くしているのが伝わるのでしょう」
テオは、愛妾のサリタを思い出していた。あれだけの仕打ちを受けても、愛妾を許したアンの気質は、優しいという言葉だけではあまりにも優しすぎる。
テオの心情を察した宰相が苦笑する。
「まぁ王妃様を疑っても仕方ありません。今は講和が優先です」
「一つ、聞きたいんだが」
「はい」
「女というのは、新しい男の前では生娘になるものなのか?」
「…はい?」
アンと口を重ねて、直ぐに経験が無いのが分かった。演技だとしたら相当腹黒だ。少し重ねただけで気を失ってしまうなど、そこまではさすがに演技出来ないだろうとは思うが、そうなると彼女は処女となる。いくら嫌悪する相手だとしても初夜は迎えるだろうに。不思議でしょうがなかった。
「どう思う?」
宰相は口を曲げて答えあぐねていた。彼にしては珍しい反応だった。テオは聞くのを止めて、政務に取りかかった。
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