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後日談【終】
しおりを挟むくるみを持つ癖は、幼い頃、それで命を繋いだからだ。いつも二つばかりを小袋に入れて腰にぶら下げている。
くるみは、『セシルの冒険』の主人公の好物だ。憧れて持ち歩いたのが始まり。もう十年になる。
セシル・アーセナル・キング。十五の春を迎えようとしていた。
「お前もそろそろ嫁を見つけないとな」
政務をこなす父は奏上に目を通しながら、何でもないかのように言う。机を挟んで対面で立つセシルは硬直した。
「よ、よめ…?」
「何も直ぐに相手を決めろって言ってるわけじゃない。それなりに目星をつけておけばいい」
「はぁ…目星、ですか」
「私もお前くらいの年に、王妃と出会った。良い機会だから、外遊でもするか?一年くらい見聞を広げれば、女の一人や二人、見つけてこれるだろ」
学ばせるために外遊するのではなく、妻を探すために外遊を勧められるとは思わなかった。セシルは首を横に振った。
「ここにいます。母上も体調が思わしくないようですし、離れたくありません」
父と目が合う。鋭い瞳を向けられ、思わずたじろいでしまう。
「いつまでも母親の世話ばかりしてるから、お前に近づく女がいないんだ。母離れしろ」
「母上が患っているのに、他の女性を気にかけてなんかいられませんよ」
「侍医に任せておけ」
「それに、皇太子としての職務はこなしております。私的なことまで干渉しないでいただきたい」
「妃を見つけるのも職務だ。早く見つけて、母を安心させてやろうとは思わないか」
「…思いません!母さまが一番です!」
勢いよく部屋を飛び出す。呼び止める声は無視する。そのまま母の部屋へ直行した。
ベットに横たわる母に、先のやり取りを話す。すると母はころころと笑い出した。
「何がそんなにおかしいのですか」
「ふふ…だって、おかしいんだもの」
「どこが、何故です」
「セシルには心に決めた人がいるのに、陛下が全く気づいてないところ」
指摘され、うつむく。母はまた笑った。
「どうなの?最近は。教えて」
「どうって…別に。手紙のやり取りしかしてないし、もう何年も会ってない」
「お手紙では何をやり取りしてるの?」
「……秘密」
母はまた笑う。いつもそう。母はいつも笑って、いつも楽しそう。本当は病で体が辛いはずなのに、そんな素振りを全く見せない。
「セシルも、もう十五になるのね。大きくなったわ」
母の手が、座るセシルの膝に触れる。セシルは手を取った。
「大きい手。産まれたときはこんなに小さかったのに」
「小さい頃のことはよしてください」
「そうね。先のことを話さないとね。陛下の言われる外遊は私も賛成です。皇太子のうちに、色々と見て回ってほしいもの」
「…離れたくないんです」
「理由が私だけなら、ぜひ行ってらして。大丈夫。まだ死なないから」
「やめてくださいそんなこと」
ごめんね、と言われると辛くなる。セシルも謝った。
自室に戻り机の棚を開ける。何通もある手紙の束。全て同じ人物からの手紙だ。
手紙の差出人はララ・ブラウン。『セシルの冒険』の作者、ザーラの娘だ。
とある事情で昔、その一家の元で暮らしていた。ララとはその時の良い友達だった。以来、手紙のやり取りが何年も続いている。ラジュリーに戻ってからは一度も会っていない。だから、今、彼女がどんなふうに成長しているかは分からない。向こうも自分と同じ気持ちだと思いたいが、手紙からは読み取れない。いつも他愛のない話ばかりを送り合っている。
その手紙の束の下に、一通の古い手紙がある。セシルはそれを取り出して広げた。
それはザーラの家に匿われている時に届いた、母からの唯一の手紙だった。元気ですか?早く会いたい。会えるのを楽しみにしている。そんな内容の文章が綴られている。セシルにとって、その手紙は宝物だった。
母は体の弱い人だった。自分が物心ついた頃から、母はたびたび伏せっていた。昔は庭も歩いていたのに、今はそれさえも出来なくなった。
父が母のもとに訪れることは、あまりない。広い部屋で母が一人寂しく過ごしているのを思うと、セシルは居ても立っても居られなくなる。愛された記憶があるから尚更、母の傍にいたい。それで母離れしろと言われたら、腹も立つ。短気なのは父親譲りだ。嫌になる。
そっと手紙をしまう。椅子にもたれて、窓から見える雲を眺めた。
母の部屋に向かう途中から、なにやら楽器を鳴らす音が聞こえる。ちょうど母の部屋から、その音は流れていた。
入ると父と母がいた。ベットの端に座る母がリュートをかき鳴らし、直ぐに後ろにくっつくように座っている父が、柄のコードを押さえていた。時々、こうやって二人でリュートを演奏することがある。今日は母の体調が良いように見えた。
「あ、セシル。おはよう。今日は早くに来てくれたのね」
「おはようございます。父上も。朝議は良かったのですか?」
「全然詰めてこないで再議をかけてきたからほっぽり出してきた」
「それは…良くないのでは?」
「そうよね。良くないと思うわ」
母も同意しながらリュートをつま弾く。ぽろん、と鳴る音はとても小さい。
「じゃあセシルも来たし、俺は戻ろうかな」
「駄目です。まだ始めたばかりじゃないですか。セシルに聴かせましょう」
「聴かせるって言ったって、聴かせられるような出来じゃないんだがな」
コードを変えた父を見て、母が弦を鳴らす。リズムが乗れてなくて、ただ音を鳴らしているだけのように聴こえる。
「どう?」
と母が聞く。
「音は鳴ってます」
「何の音楽か分かるかって聞いてるんです」
「絶対に分かりませんよ」
父が同意する。
「ほらな。まずリズムが壊滅的だ。その訓練からしないとな」
「貴方の弦の押さえが遅いからズレるんです」
「俺のせいにするなよ」
やれやれと父は弦を押さえるのを止めた。ベットから降りて、母からリュートを取り上げる。
「もう終わりだ。寝てろ」
「もう?」
「調子に乗ると悪くなる。ほどほどにな。セシル、後は頼む」
父が部屋から出ていこうとするので、先回りして扉を開けておく。礼を言って父は扉を通り抜けていった。
ベットに戻ると、さっきとはうって変わって母は辛そうに横たわっていた。
「母さま!」
母は苦しそうな顔をしながら無理に笑う。
「大丈夫…ちょっと、疲れただけ」
「医者を呼んできます」
「大丈夫だから…寝てれば良くなります」
医者を呼んだら父に知らせが行く。それを懸念しているのだ。父を心配させたくがないために、わざと元気に見せていたのだ。セシルは怒りをグッと堪えて、母が楽に寝られるようにクッションを置いて寝所を整えた。
手が信じられないほど冷たかった。それに気づかない父でも無いだろうに。セシルは父が出ていった扉を睨みつけた。
朝議が終わった頃合いに、執務室を訪れる。相変わらず大量の奏上に埋め尽くされている。宰相に任せる国王もいるというが、父は全て目を通していた。
「父上、母上のことで話が。お人払いを」
「そんな暇はない。このまま話せ」
冷たい物言いに怒りを感じながら、一歩近寄って話をする。
「…母上、無理をしていたみたいで、父上が出られて直ぐに体調が悪くなったんです。父上に知られたくないと侍医も呼んでないんです」
「王妃の言う事なんか無視して直ぐに呼べばいい。辛いのは本人だ」
「母上の気持ちも汲んでください。母上は、父上をいつも待っておられます」
「俺が行ったら無理をする。ならば極力会わないほうがいいだろうな」
「そういうことを言っているのではありません!父上は、母上に冷たい。気まぐれに訪れて、自分の都合で去っていく。それで良いと思っている。全然、母上を顧みていない」
ダン、と音がした。父がペンで机を叩いた音だった。
「昨日も言ったが」父は何も無かったようにペンを走らせる。「お前は母親にくっつき過ぎだ。妃候補でも見つけてこいよ」
「そんな気になれません。私のせいで母は病気なのに」
「今なんて言った」
「母は病気だと」
「その前」
「私のせいで…母は、私を産んで体調を壊したと聞きました。だから母を助けるのは当たり前です」
父は書くのを止めて、奏上を片手で器用に折りたたんだ。
「それは違う。お前は何の関係もない。誰から聞いたかは知らないが、王妃の病との因果関係はない」
「だとしても母上が苦しんでいるのに放っておけません。父上も、もっと母上を気にかけてあげてください」
一応、と言った体で父は頷く。手をひらひらさせる。
「侍医は呼んでおく。下がれ」
下がれと言われたら下がるしかない。セシルは頭を下げた。
王宮の外で、荷車が止まっていた。木箱が乗っていて、おそらくは父の好きなワインだろう。使用人用の入口でなく、わざわざ表のエントランスに運ばれたということは、どこかからの献上品だろう。冷やかしついでに行ってみると、使用人がセシルに気づいて集まってきた。
「セシル皇子」
「誰からの献上品?」
「新大陸からでございます」
新大陸。ここ十年にもならない内に見つかった新たな大陸だった。西の果ての果てにあるという。
「目録をご覧になりますか?」
一応目を通す。酒ではなく、ほとんどが植物の乾燥したものだった。種も入っている。庭の一区画に、新大陸の植物を植えて育てている場所がある。これらもそこに植えるのだろう。父の変わった趣味だった。
夕方にも母の部屋を訪れる。朝のぐったりした状態からは大分回復して、顔色は良くなっていた。セシルは安堵した。
「体調はどうですか?」
「大丈夫だってば。会うたびに聞かないで」
「すみません。あ、さっき新大陸から植物届いてましたよ」
「あら、また庭が変なので増えちゃうわね」
「あれの何がいいのか全然分からないよ。うちの庭、そろそろ新大陸になりそう」
「あははっ。それは面白そう」
笑った拍子に咳き込む。セシルは慌てて背中をさすろうとするのを制される。
「そんなに心配しないで。むせただけだから」
「無理しないで。正直に言って」
「本当だから。本当」
母はゆっくり息を吐く。
「昼にね、陛下がいらっしゃったの」
「そう」
「陛下の方が顔色が悪かったわ。まだご政務しているようならセシル、休むように言ってあげて」
「父さまより、母さまの方が」
「陛下は頑張り屋さんだから、倒れてしまったら元も子もないでしょ。長生きしてもらわないと」
「母さまにも長生きしてほしいんだ」
うん、と答える。今にも消えてしまいそうな、囁きだった。
父の元へ。政務はしておらず不在だった。机の奏上は朝よりも増えていた。それを見ながら隣の部屋へ向かう。執務室にいないときは隣の部屋にいることを知っていた。
隣の部屋の部屋は、仮眠室として主に使われているが、今は床一面に、乾燥した植物が並べられていた。あの新大陸の植物だろう。
部屋には父と侍医がいた。膝をついて、目録に目を通しながら、一つ一つ検分していた。
「どうしたセシル、また説教か。ちゃんと王妃の見舞いはしてきたぞ」
「またこんなものを持ち込んで。新大陸への出資金も馬鹿にならないのに。なぜこんなものばかり集めてるんですか」
「王の特権だろ。そんなことまで口出すなよ」
「陛下をお諌めするのも、皇太子の役目です」
父は枯れた植物のニオイを嗅ぐ。元に戻して立ち上がる。
「じゃあ嫁も見つけてこいよ」
「それとこれとは話が違います。母が、父の顔色が悪いからと、まだ政務をされておられるなら休むように伝えてくれと言われたから来ただけです。ご趣味に興じられておられるなら結構です。失礼します」
「まぁ待て。明日、昼食会があるからお前代わりに顔出していけ」
「は?嫌ですよ。代理なんかできませんよ」
「相手はご令嬢方だから問題ない。気に入った娘がいれば王妃にでも伝えといてくれ」
「はぁ!?なに勝手なことしてるんですか?昨日の今日でそんなことしないでください」
「あー俺も休むか。皆下がれ。おやすみ。早く寝ろよ」
「父上!」
食い下がろうとすると、侍医に止められる。広げた植物もそのままに、父はさっさと次の間に逃げてしまった。
仕方なく侍医と部屋を出ると、少し、と言って廊下の隅に移動する。
「陛下をどうかお責めにならぬよう。陛下は、王妃様への特効薬を探しておいでなのです」
「薬…?本当に?」
「新大陸に自生している植物は、土地の影響からか薬効のあるものが多く、それを知った陛下がああやって管理しておられるのです」
「なら何故隠す必要がある。言ってくれれば」
「まだ効果の分からぬ物も多々あります。取り扱いの難しい物も。どれがどう効果があるのか、まずは陛下は自らの身体で試されてから、王妃さまへ処方されます。皇太子殿下のお優しい性格を思えば、そのおいそれと言えぬものですよ」
どうかご内密に、と侍医は念を押す。
一人残された廊下で、セシルは立ち尽くした。
翌日の昼食会。気は進まなかったが出ないわけにもいかず、セシルは仕方なく出席した。
困ったことだが、セシルはあまりの人の顔を覚えられなかった。特に何故か女性の顔が覚えられない。みんな同じような顔をしているように見える。皇太子としては致命的とも言える欠点だった。
「殿下、またお目にかかれて嬉しゅうございます」
などと言われても、セシルには初対面に思える。愛想笑いをしておいた。
「ますます陛下に似てらして」
別の女性。父に似ているのは昔からよく言われた。それが良いことで喜んで良いものなのかよく分からない。これも愛想笑いしておく。
「そろそろ良い話の一つや二つ、おありになるのではないですか?」
「良い話とは?」
「嫌ですわ!生涯のご伴侶のことですわよ」
言われて思い直す。ここにいる女性たちは、全て自分の候補であると。
セシルは女性たちを見返した。確かに、見目麗しく見えた。だからと言って、それだけの理由で選ぶことは出来ないし、選ぶ気も無い。
むやみに声をかければ勘違いさせてしまう。セシルは出来るだけ無口で過ごした。
昼食会、数々の誘いを断って、母の部屋を訪れるが、診療中との事で入れなかった。セシルは自室で待機した。
時間が出来たときにクルミを割る。セシルはクルミを持ち歩く習慣はあるが、食べようとは思わない。今割っているのは、全て母に食べてもらうためだった。
割っていると、従者が訪れを告げる。誰がやって来たのかを聞いた途端、セシルは駆け出して扉を自ら開けた。
「母上!」
女官に支えられて待っていた母は、目をぱちくりさせた。突然、息子が大声でやって来たのだから当然の反応とも言えたが、こちらだってまさか母が訪ねてくるとは思わない。お互いに驚いていた。
女官に代わり母を抱き上げ椅子に座らせる。母が立っていることすら珍しく、こうして訪ねてくることなど初めてだった。
「まさか歩いて来たのですか?」
クッションを背中に当てて出来るだけ楽な態勢にさせる。母も心得たもので、ゆったりと座り込んだ。
「そのまさかですよ。今日はとっても体調がいいの」
「それでも、この部屋までは遠かったでしょう。ベットで休まれますか?楽になります」
「さすがに息子の寝室まで入る気は無いわ。今日は本当に体調が良いんです。セシルが気にかけてくれるから、元気になってきたわ」
セシルはクルミを思い出した。今割った分だけでもと、皿の上に乗せてテーブルに置く。
「今剥いたばかりですから、食べてください」
「わ、凄い!セシルも食べましょう」
控えていた使用人に目配せする。直ぐに紅茶が運ばれてくるだろう。母が子供のようにパクパク食べるのを、セシルは微笑ましく見守った。
「昼食会はどうでした?良い子はいた?」
くすくす笑いながら聞いてくる。セシルは無言でクルミを食べる。
「昨日の話、少しは考えてくれた?」
「外遊の件なら、断るつもりです」
「ダッカンに行ったら、ララに会えますよ」
「ララをダシにしないで」
「だって気になるんだもの」
意地悪してくる母に、セシルは言った。
「母さまは、どうして父さまと結婚したの?」
「あ、そうね。どうして結婚したのかしら」
「求婚されたんでしょ?」
「そうだけど、そうねぇ…結婚した時は、ずっと喧嘩してたわねぇ。ずっと怒鳴り合ってたかも」
「え、そうなの?」
自分が覚えているのは、両親とも仲睦まじい姿。昔から二人は仲がいいものだと思っていた。
「見たことないよ」
「見せないようにしてたもの。貴方の前では、良い親であろうとしてたの」
昔を思い出したのか、母は両手で口元を隠す。
「でも今思えば、何でも言いあえたあの頃が懐かしい」
「今は、言えない?」
「言えますよ。全然言えちゃう。言わなくなったのはあの人の方」
クルミを食べきって、手についたクズを指ですり合わせて皿に落としている。小さな動作が繊細で、実に絵になった。
「セシル、誰を選んでも私も陛下も文句なんて言いませんから、気になるんだったら、一度、会ってみたらどうですか?」
「でも…」
「私を理由にしないでね。貴方は貴方の人生があるのだから」
ね、と肩を叩かれる。笑みを向けられ、セシルは恥ずかしくなって顔を背けた。
意を決して父に外遊の件を伝える。父はいつもの仏頂面で、そうか、と言った。
執務室は既に人払いを済ませていた。二人だけになっても、父は机の上に積まれた奏上に目を通すのをやめない。
「ダッカンに行きたいそうだな。そっちよりはグレアの方が治安が良い。出来ればそっちに行ってほしいんだがな」
「必要なら行きます。でも…あの、ララに会いたいんです」
「ララ…?」
「ザーラさんの娘さんです」
「ああ、思い出した。よくいじめられてたな」
そうだっただろうか?セシルはいまいち覚えていなかった。覚えているのは、一緒に本を読んだ思い出だ。
「それで…彼女と話をしたいんです」
「…ザーラの娘か。彼女なら確か結婚したぞ」
「え…?」
「ダッカンの新聞に載っていた。何でも王族と結婚したとかで。結構話題になっていた。知らないのか?」
セシルは目の前が真っ暗になる。そのまま、何も考えられなくなった。
アーサーがそっと部屋を訪れると、やはりエリザベスの元にセシルはいた。
近づくと、ベットの端に座るエリザベスの膝の上に頭を乗せ、セシルは床に膝をついて眠っていた。
「器用なやつだな」
呟くと、エリザベスは静かに、と口元に人差し指を当てる。泣きつかれて、やっと眠った所だという。
「こうしてみると、まだまだ子供ね」
小さな声だった。アーサーもエリザベスの耳に口を近づけて、極力小さな声で話すよう、心がける。
「知ってたのか?ザーラの娘のこと」
「ずっと文通してたの知ってたでしょ。可哀想に。初恋は実らないものだから、仕方ないわね。しばらくは引きずるでしょうね」
「俺は実ってる」
「張り合わないで。この子は繊細なの。そっとしておいてね」
赤ん坊の頃にしていたように、エリザベスはセシルの背中をトントンと優しく叩いた。子供のあやし方だったが、実際セシルはよく眠っていた。
「…アーサー、夢みたいだわ。この子がこんなに大きくなるなんて。今でも信じられない」
「まだ十五だ。まだ大きくなる」
「そうね。でも今の姿を見られて、私は満足」
「…リズ」
「大丈夫。まだ死なないわ。新しい薬がよく効くの。ずっと体調良いもの」
「だったら、そんなふうに笑うなよ」
「どんな顔?」
「悟ったみたいな顔」
エリザベスは、にっと笑って、アーサーの頬をつねった。
「アーサーも、そんな顔しないで」
「どんな顔してる?」
「嫉妬してる顔。貴方も膝枕して欲しいのね」
アーサーもエリザベスの頬をつねり返す。エリザベスは顔を背けて痛い痛いと大げさに言った。
膝が揺れたせいか、セシルがくぐもった声を出して頭を動かし始めた。慌ててエリザベスが口を閉ざすが、もう遅い。
セシルは目を覚ます。顔をゆるゆる上げて、エリザベスとアーサーをそれぞれ見やって、不思議そうな顔をした。目が赤く、泣いたあとがはっきり残っていた。
「セシル」エリザベスが声をかける。「ごめんね起こして」
セシルはまだ寝ぼけ眼で、ゆっくり首を横に振った。
「母さま…」
「ん?」
「僕、ダッカンに行きます」
「いいの?ダッカンじゃなくてもいいのよ?」
「ダッカンは、民衆の政治に対する関心が強い。父さまの援助があったのも事実ですが、無事に国を立て直しました。実際に見に行って、勉強したいんです」
前では王制廃止となったダッカンだが、今世では倒れず、なんとか踏みとどまっている。王は君臨し続けているが、民衆も交えた議会が開かれ、政治体制はオープンになっている。珍しい飛躍を遂げていた。
「それに、レオン叔父さんもいるし、久々に会いに行ってくるよ」
レオンは現在、ダッカン国の大使を務めている。王弟が務めるような役職ではなかったが、外国で働きたいという希望を叶えて任命していた。レオンは王宮で働いていた使用人と結婚し、今は子供が二人いる。貴族でない者との結婚は前代未聞で、それなりに反対はあったが、アーサーが全て黙らせた。
「父さま。あの変な植物、母さまのためだったんだね」
「医者が言ったんだな?あいつめ」
「責めないでね。僕のために言ってくれたんだ」
新大陸から取り寄せている薬草。採集、乾燥、梱包、目録作りから簡単な薬効の記録まで、すべてを一人の男の手によって任されていた。その男は罪人で、西の果ての更に西へと追いやられたが、無事に新大陸を発見した。
毒に長けていた男だから薬にも詳しく、数年後に小さな封筒と共に入っていた植物がラジュリーまで奇跡的に届いた。それがきっかけとなり、開拓団を送り新大陸での新たな調査をさせた。その頃にはエリザベスの原因不明の体調不良が続き、送られてくる植物たちにささやかな効果が認められ、優先的に送るように指示していた。
「リズの病気は心配するな。父さんが治しておくから。お前が戻ってくる頃には回復しているだろう」
「そうね、貴方が戻ってくるまでには、元気になってるわ。だから気兼ねなくお勉強してきてね」
「妃候補も見つけてこい」
「まだセシルは傷心してるの!その話は禁止!」
怒られて黙る。セシルは涙を拭うような仕草をして、エリザベスの膝から離れた。
「父さまはどうして母さまと結婚したの」
唐突に言われて、アーサーはもっと黙る。過去のいろいろな出来事が頭をかすめて、一つの映像で止まった。
「…顔、かな」
思わず口にした言葉で二人から睨まれる。アーサーは我に返って咳ばらいした。
「違う。誤解するな。俺は女の顔が覚えられないんだ。皆同じに見える。だがリズの顔は覚えられた。それだけだ」
「それだけ?」エリザベスが片眉をあげる。
「強いてあげれば、という意味だ。他意はない」
「…僕も、覚えられない。母さまと、ララの顔は覚えてるんだけど」
うなだれて、セシルはすっかり気落ちしている。自分に姿は似ているが、まさか顔が覚えられないことまで遺伝するとは。励ますように背中を叩くと、痛いと怒られた。
「まぁ…次、顔が覚えられる女を見つけたらアプローチすればいい。頑張れ」
「だからまだ傷ついてるんだからそっとしてあげてってば」
「僕、勉強しに行くんだけど」
口々に言いながら、ふと、セシルの腰にぶら下げた小袋に目線がいく。中に入っているのはクルミだ。あれがなければあの時、セシルと共に死んでいた。クルミはとても硬い殻ことから、家族を守る意味を持つ縁起物だというのを、セシルは知っているだろうか。
その話を聞かせてやろうと口を開く。穏やかな時が流れていた。
遊学のためにダッカン国へ旅立ったセシルが、再会したララの冷遇を知り、思わず連れて帰って来て、ちょっとした騒動となるのだが、それはまた別の話。
手を引かれ、庭を歩く。残った左手を、エリザベスは労るように両手で包んでくれる。
指差す方を見やる。いつも見ている庭なのに、今日は何故か特別なように感じた。
「アーサー」
その黒髪も瞳も、いつも見ている姿。なのにただ陽の光の元にいるというだけで、こんなにも印象が違う。
「どうしたの?」
覗き込んでくる彼女に、何でもないと答える。そっと額にキスをした。
「体調は?」
「平気です。走れそう」
「まだ駄目だ。そこのベンチに座ろう」
今度は手を引いて、二人で座る。生温い風。薔薇がよく咲いていた。
久しぶりの外だからなのか、この咲き誇る薔薇だからなのか、エリザベスはずっと微笑んでいた。その横顔をずっと眺め続ける。
ふと目が合う。エリザベスは満面の笑みを見せた。
「ねぇアーサー」
「ん?」
「このまま私たちいつか死んでいくでしょう?」
「そんな話は聞きたくない」
「悪い話じゃないの。死んだとして、目が覚めたら、また時を遡っていたらとどうする?」
いたずらのような、試されているような質問に、アーサーは苦笑する。
「三度目は無い」
「もしもの話。私だったら、この国から逃げ出すわ」
「俺がいるのに?」
「そうよ。うんと遠いところへ逃げて、誰も知らない土地へ行って、お店を開くの」
「俺がいるのにか」
「そうだって言ってるじゃない。でね、飴を作って売ろうかと思うの」
「甘いの好きだもんな」
彼女がこれでもかと言うくらいに紅茶に砂糖を入れるのを、何度止めたことが。体に悪いと言ってもこれだけは全く聞いてくれない。
そこまで話して、エリザベスは手のひらを見せた。いつの間に持ち歩いていたのか、そこには紙に包まれた飴が一つあった。
「まさか、作ったのか?」
「試作第一号です。食べてみて」
菓子を作れるまでに回復したという思いと、いつの間にそんな重労働をしていたのかと、複雑な感情のまま飴を口に放る。
「どう?美味しい?」
「甘いのは分かる」
「貴方はまぁそんなものよね」
期待してないという態度を取られる。こちらも無理に心無いことを言うつもりも無かった。
「で?飴を売ってどうするつもりだ」
「たくさん売るの。色んな種類の飴を作って、かわいい箱に入れて売るの。絶対に売れるわ」
「だといいな」
「待ってるから、迎えに来てくださいね」
エリザベスの言葉は、真意を測りかねた。何が言いたいのだろうと言葉を待つ。
「貴方が全部捨てて私の所に来てくれるのを待ってます」
「国を捨てろってことか?王冠を捨てて?」
エリザベスは頷く。
「王族でもない貴族でもない、ただの一人だけの人間として、生きてみたいわ」
「夢物語だな」
「夢の話をしてるもの。アーサーが来てくれたら、セシルを産んで、三人で暮らすの。良い話でしょ」
「今とそう変わらないかな」
今でも十分幸せだ。その自覚を、エリザベスもしてくれているものと思っている。
「その話だと、リズを探し出せるか心配だな。何か見つけやすいサインでも残しておいてくれ」
「あら?そんなことしませんよ私は」
「自力で探せってか」
「見つけてくれるでしょ?」
絶対的な信頼から来る言葉を投げかけられる。アーサーはその時になって、ようやく自覚した。
「エリザベス」
「はい」
「時を遡っても、また俺と一緒になってくれるか」
「あなた以外、考えられませんよ」
アーサー。名を呼ばれる。頬を寄せて唇を寄せて、春の陽気に身を任せた。
どこまでもこの人と共に。揺るぎない事実がそこにあった。
〈終〉
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※ギャグはありません
※全6話
家出したとある辺境夫人の話
あゆみノワ@書籍『完全別居の契約婚〜』
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