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正体
しおりを挟む男は、自分が公証人の身分であると明かした。ローズは面識が無かったが、元夫との結婚証明書の作成に携わったという。
公証人は鞄から筒を取り出した。恭しく執務台に置かれると、座っていたアルバートが手に取って、筒から丸まった書類を引き抜いて広げた。後ろに控えていたローズを呼び寄せる。
「見ろ」
それは『結婚証明書』だった。仰々しい文句が並んで、一番下に元夫とローズの署名があった。
何故こんなものを。ローズは訝しげにアルバートを見た。
「見たか」
「…はい」
アルバートは片眉を上げた。証明書をローズに押し付けた。
「ちゃんと見ろ」
「見ました。婚姻の日にも、目を通しました」
「お前の出生日を見ろ」
言われるまま確認する。そこには──その日付けは間違っていた。
「出生日が異なる」
アルバートは机の上で指をトンと叩いた。
「書類の不備があるようでは公正証書と言えない。そうだな?」
言葉は公証人に向けられていた。公証人は元々少し腰を上げて下を向いていたが、やがて観念したように膝を付いて項垂れた。
「──仰るとおりでございます」
呻くような低い声だった。
公証人が自らの非を認める。それは、絶対的な信用を失うのと同じ。このことが発覚すれば、この公証人は職を失うどころか、厳罰に科せられ、最悪死刑に至ることも。こうも簡単なミスを、どうして公証人は犯してしまったのか。
ローズの疑問を他所に、アルバートは続けた。
「では、このモーリスとローズ嬢の婚姻は、無効となるな?」
ローズは、ハッとしてアルバートを見た。彼の視線は公証人に向けられている。ローズは次に公証人を見た。彼は顔を上げて、ローズとアルバートを見やると、ゆっくり頷いた。
「…モーリス様の、ご命令でした」
「モーリスが…?」
思わず口をついていた。
公証人はローズに向けて言った。
「た、正しくは、モーリス様が持ち込まれた、ローズ様に関する書類を書き写したのです。通常は教会に問い合わせをするのですが、お二人の事情が事情でしたのと、急いでいるとのことでしたので…モーリス様が持参した貴女様の経歴をそのまま写しました」
「では、モーリスが間違えてしまったのですね…」
「…ははっ」
笑ったのはアルバートだった。我慢できなくなって笑いだしたような笑い方だった。彼はローズから証明書を奪い取ると、巻いて筒に仕舞い込んだ。
「おめでたい頭だな。まだあの男を信じてるのか。あの男はな、初めからお前と結婚する気なんか無かったんだよ」
「……………」
「モーリス・スペンサーと言ったか。アイツが今どこで何してるか知りたいか?」
アルバートの言い方は明らかに悪意を含んでいた。ローズは知ったらまた、自分を保てないような気がした。頭から血の気が引いていくような感覚。必死に首を横に振った。
しかしアルバートは容赦無かった。
「アイツは──」
「やめて!」
しん、と静まり返る。ローズは胸を押さえた。悲鳴のような大声を出して、胸が痛かった。
「…聞きたくありません…」
それだけを言えた。動悸がする。胸が痛い。
「ローズ」
「聞きたくありません。お願いします」
アルバートが踏み出す分だけ、後ろに下がる。足がもつれて倒れそうになって、アルバートの手が、ローズの身体を支えた。
「何も悪い事は起こらない。全てはもう終わっている」
名を呼ばれる。すまない、とも言われた。
リラに伴われて部屋を出ていくローズを見送り、アルバートは跪いている男を見下ろした。
「顔色が随分良くなっただろう」
アルバートの問いかけに、男は肩を震わせるばかりで答えない。
「貴様も、」
歩み出て、頭を掴み上げる。男は苦しみの声をもらした。
「流石、騙すだけあって演技が上手いな。──なぁ、モーリス・スペンサー」
モーリス。ローズの元夫。男は公証人などではなく、モーリス・スペンサー本人だった。
モーリスの身体が震えている。怯えているのだ。
アルバートはもっと頭を持ち上げた。モーリスのうめき声。醜く歪んだ顔。無様な姿を晒して、アルバートは喉の奥で笑った。
「質問に答えろ。彼女に毒を盛ったな?」
モーリスの首が僅かにうつむく。肯定だ。アルバートは続けた。
「お前の顔を覚えていなかったのは、幻覚作用のある毒を飲ませていたからだ。毒で言いなりにして、そそのかして、駆け落ちなんぞさせた。コルセットを過剰に締めたのは毒の周りを調整するためか?」
「………」
「お前みたいなのはな、いつでも殺せるんだ。さっさと答えろ。恩情をかけてやろうという気にさせてくれよ」
「──た、頼む。命だけは」
アルバートは顔色一つ変えずに、片手で首を締めた。骨の軋む音がするが、構わずに締め続けた。
モーリスの顔が赤くなり、口から泡を拭き始めた。アルバートはそこで手を離した。モーリスは崩れ落ちるように倒れ込んだ。
男の身体がびくびくと痙攣し、酸素を取り込みたいが上手く呼吸出来ず、藻掻いた。
アルバートは容赦なく胸を蹴った。その衝撃で息が出来るようになり、咳き込んだ。
「私は答えろと言った。命乞いしろとは言っていない。最後の警告だ。答えなければ首を締めて殺す。彼女に施したコルセットのように、じわじわ締め付けて殺してやる。分かったらさっさと答えろ」
首をゆっくり踏みつける。無様な男は涙を流しながら、己の罪を告白した。
幻覚作用のあるハシリドコロを中心とした複数の毒を飲ませていた。中和剤にはドクダミ、更にコルセットで毒の効き具合いを調整し、言いなりにさせた。味覚障害はその副作用。ローズは自らの意思で駆け落ちしたのではなく、させられたのだ。
「貴様ごときが調合できる毒ではない。こんな手の混んだことまでして。黒幕を明かせ」
放心状態のモーリスは素直に答えた。その名にアルバートは激しい怒りが抑えられなくなり、モーリスを蹴りつけた。モーリスの身体が僅かに浮き上がり、ピクリとも動かなくなった。死んではいないはず。どちらでも構わなかった。
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