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一章(エレオノール視点)
本を携えて
しおりを挟む「ラリー、完治したって」
リリアンが知らせてくれた吉報に、エマは安堵して胸を撫で下ろした。
「ああ良かった。安心しました」
「あいつ、アンタのこと散々なじってたんだよ。全く人が良いんだから」
「誰だって恨み言は吐きたくなるものよ。病気なら尚更」
梅毒と診断されたラリーは入院させられた。特効薬は無く、対処療法しか治療法はないが、初期に発覚したから進行は防げた。あばたも軽く、鼻も欠けていない。軽症のまま退院した。
退院してからもラリーは娼婦としては復帰できず、金が稼げないからとクルチザンヌを辞めていた。
エマはこの機会に娼婦から足を洗うように説得した。働き口はこちらで用意するからと言った。ラリーは反発してエマの話に耳を傾けなかったが、リリアンに代理として行ってもらうと、あっさりと受け入れた。病を指摘された時にエマを怒鳴りつけた後ろめたさからなのか、変な意地を張っていたらしい。一度、病気を移されて懲りてはいたのだろう。
ラリーの働き口は、デザイナーのお針子だった。娼婦ほどは稼げないだろうが、有名貴族からのお下がりも貰える職場だ。上手くやればそれなりに金は入る。
そんなラリーから完治したとの知らせが来たのだ。エマは嬉しくて鏡を見たが、相変わらず顔は笑っていなかった。
「…本当に良かった」
「なぁ、聞きたかったんだけど」
「何をですか?」
「アンタが、ラリーに梅毒を移した男を殺したって噂が立ってるんだ」
信じちゃいないけどね、とリリアンは付け足した。
「私は殺してません」
「私はってなんだい。他の奴に殺させたとか?」
リリアンは揚げ足を取ってきた。信じちゃいないと言った通り、冗談半分の口調で。
「ええ、そうですね」
だからエマも冗談半分で返す。思わせぶりに扇子で口元を隠すと、完璧な冗談になって、リリアンは、くすりと笑ってくれた。
「悪い女だねぇ」
「ええ、悪い女なんです」
正解は答えない。嘘はついてはいないけれど、敢えて言う必要もない。第一、リリアンを巻き込むつもりなど、さらさら無かった。エレオノールの目的が果たされるまで、彼女とは良き友人というだけの関係であり続けたかった。
珍しい客が来たという。外の国の方だとか。それだけなら珍しくない。
「ラ・シーヌ語が話せる人?」
ラ・シーヌ語とは、かつてのこの大陸の公用語だ。今は廃れて、一部の経典でしか扱われない古語だ。
女神、ディアナ教の総本山は現在も使用されているというが、この国で話せる者はまずいない。
「そんな奴いないって言ったんだけどね。一回みんなに聞いてみろってうるさくてさ」
女主人ヒルダの手に小袋が握られている。金に物を言わせても物が話せるわけでもなし。聞く場所を間違えてただの無駄遣いだ。もしかしたら主人から見当違いな命令をされているのかもしれない。エマはやって来た者に同情した。
「エマ、あんたみたいな頭良い娘が事情説明したら引き下がってくれるかもしれない。行ってくれるかい?」
いくら金を積まれたとしても、営業妨害は明白。ただ金を積まれた手前、このまま用心棒を使って追い出したら、騙されたと思われるかもしれない。そこで実際に娼婦を使って穏便に引き下がってくれないかとエマにお鉢が回ってきたということだ。
ヒルダの命令なら断るわけにはいかない。早速、店先へ出ると、そこには一人の男が立っていた。
「もし、ラ・シーヌ語の方でしょうか?」
エマが問うと、男は頷いた。背が高く、兵士のように鍛えられた体躯だった。肌は褐色で黒髪。あまりに鋭い眼光に、子供だったら恐ろしくて泣き出してしまうかもしれない。
外の国の人は、質の良い召し物を着ていた。紺の服に胸に金の飾緒が飾ってある。軍服のようだが、エマが目にするのは初めてだった。
「残念ですが、ラ・シーヌ語を話せる者はおりません。ディアナ教総本山でなければ、まず耳に出来ないかと」
エマの話を聞いているのかいないのか、男は持っていた本を見せた。
「これを読んでみろ」
「ラ・シーヌ語を話せる者は」
「それはもう聞いた。読めるのか読めないのかを言え」
鋭い瞳と同じく、物言いも高圧的な人だった。エマは読めませんと答えた。
「お力になれず申し訳ないのですが」
「これ、なんだと思う?」
「?経典では?」
男は本を開いた。ラ・シーヌ語の文字が並んでいる。ずいぶんと古いのか、カビ臭いニオイがした。白い紙も経年劣化で黄ばんでいる。
ふと、紙の余白に目がいった。経典であれば文字ばかりが並ぶはずだが、この本は余白が多い。文字も段落が異様に多い。
こうしたものをエマは心当たりがあった。
「──もしかして、詩、でしょうか」
エマの答えは男を大いに刺激したらしい。男は、にや、と不敵に笑うと、エマを抱き上げた。
「──!!な、なんですか急に!」
男はステンドグラスの扉を片手で軽々と開けた。大きく重量があり、エマはもちろん男たちも開けるのに難儀しているというのに、こうも簡単に開けた者は初めてだった。
一階の酒場にエマを担いだ大男が現れて、客たちはギョッとしていた。何人かはエマに何するんだ!と声を上げたが、男は完全に無視していた。
「ヒルダ」
男が呼んだのは女主人だった。ヒルダも他の客と同じく驚いていたが、男に従って近づいた。
「なんだい?うちの娘を乱暴に扱わないでくれ」
「娘を買う」
男は小袋を二つ出して近くのテーブルに置いた。初めにヒルダに渡した小袋よりも大きく、手のひらに余る大きさだった。
思わぬ大金にヒルダは喜びよりも驚きが先行したのか、呆然としていた。エマも呆気にとられて、声が出なかった。
大金を積まれて見慣れてはいたが、さすがにこんな大金は見たことが無かった。恐ろしく大金持ちだ。
「部屋を用意しろ」
気が動転しているヒルダは、反応が遅れながらも、上に上がる階段を指さした。
「…エ、エマの部屋なら二階の一番奥だよ」
「いつまでいていい」
「そりゃあ、身心のままにって奴さ」
よりによってディアナ教の文句を引用するとは。ディアナの啓示を受けた聖職者が従う時に使う言葉だ。神の身心のままに。私は神に従います。私はこの男に従いますと言っているのだ。
エマ自身は全く了承していないのに。
でも、これが本来の形なのだ。自分は娼婦。いままで清いままでいたほうがおかしかったのだ。
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