上 下
10 / 50
一章(エレオノール視点)

本を携えて

しおりを挟む

「ラリー、完治したって」

 リリアンが知らせてくれた吉報に、エマは安堵して胸を撫で下ろした。

「ああ良かった。安心しました」
「あいつ、アンタのこと散々なじってたんだよ。全く人が良いんだから」
「誰だって恨み言は吐きたくなるものよ。病気なら尚更」

 梅毒と診断されたラリーは入院させられた。特効薬は無く、対処療法しか治療法はないが、初期に発覚したから進行は防げた。あばたも軽く、鼻も欠けていない。軽症のまま退院した。

 退院してからもラリーは娼婦としては復帰できず、金が稼げないからとクルチザンヌを辞めていた。
 エマはこの機会に娼婦から足を洗うように説得した。働き口はこちらで用意するからと言った。ラリーは反発してエマの話に耳を傾けなかったが、リリアンに代理として行ってもらうと、あっさりと受け入れた。病を指摘された時にエマを怒鳴りつけた後ろめたさからなのか、変な意地を張っていたらしい。一度、病気を移されて懲りてはいたのだろう。

 ラリーの働き口は、デザイナーのお針子だった。娼婦ほどは稼げないだろうが、有名貴族からのお下がりも貰える職場だ。上手くやればそれなりに金は入る。

 そんなラリーから完治したとの知らせが来たのだ。エマは嬉しくて鏡を見たが、相変わらず顔は笑っていなかった。

「…本当に良かった」
「なぁ、聞きたかったんだけど」
「何をですか?」
「アンタが、ラリーに梅毒を移した男を殺したって噂が立ってるんだ」

 信じちゃいないけどね、とリリアンは付け足した。

「私は殺してません」
「私はってなんだい。他の奴に殺させたとか?」

 リリアンは揚げ足を取ってきた。信じちゃいないと言った通り、冗談半分の口調で。

「ええ、そうですね」

 だからエマも冗談半分で返す。思わせぶりに扇子で口元を隠すと、完璧な冗談になって、リリアンは、くすりと笑ってくれた。

「悪い女だねぇ」
「ええ、悪い女なんです」

 正解は答えない。嘘はついてはいないけれど、敢えて言う必要もない。第一、リリアンを巻き込むつもりなど、さらさら無かった。エレオノールの目的が果たされるまで、彼女とは良き友人というだけの関係であり続けたかった。




 珍しい客が来たという。外の国の方だとか。それだけなら珍しくない。

「ラ・シーヌ語が話せる人?」

 ラ・シーヌ語とは、かつてのこの大陸の公用語だ。今は廃れて、一部の経典でしか扱われない古語だ。
 女神、ディアナ教の総本山は現在も使用されているというが、この国で話せる者はまずいない。

「そんな奴いないって言ったんだけどね。一回みんなに聞いてみろってうるさくてさ」

 女主人ヒルダの手に小袋が握られている。金に物を言わせても物が話せるわけでもなし。聞く場所を間違えてただの無駄遣いだ。もしかしたら主人から見当違いな命令をされているのかもしれない。エマはやって来た者に同情した。

「エマ、あんたみたいな頭良い娘が事情説明したら引き下がってくれるかもしれない。行ってくれるかい?」

 いくら金を積まれたとしても、営業妨害は明白。ただ金を積まれた手前、このまま用心棒を使って追い出したら、騙されたと思われるかもしれない。そこで実際に娼婦を使って穏便に引き下がってくれないかとエマにお鉢が回ってきたということだ。

 ヒルダの命令なら断るわけにはいかない。早速、店先へ出ると、そこには一人の男が立っていた。

「もし、ラ・シーヌ語の方でしょうか?」

 エマが問うと、男は頷いた。背が高く、兵士のように鍛えられた体躯だった。肌は褐色で黒髪。あまりに鋭い眼光に、子供だったら恐ろしくて泣き出してしまうかもしれない。
 外の国の人は、質の良い召し物を着ていた。紺の服に胸に金の飾緒が飾ってある。軍服のようだが、エマが目にするのは初めてだった。

「残念ですが、ラ・シーヌ語を話せる者はおりません。ディアナ教総本山でなければ、まず耳に出来ないかと」

 エマの話を聞いているのかいないのか、男は持っていた本を見せた。

「これを読んでみろ」
「ラ・シーヌ語を話せる者は」
「それはもう聞いた。読めるのか読めないのかを言え」

 鋭い瞳と同じく、物言いも高圧的な人だった。エマは読めませんと答えた。

「お力になれず申し訳ないのですが」
「これ、なんだと思う?」
「?経典では?」

 男は本を開いた。ラ・シーヌ語の文字が並んでいる。ずいぶんと古いのか、カビ臭いニオイがした。白い紙も経年劣化で黄ばんでいる。
 ふと、紙の余白に目がいった。経典であれば文字ばかりが並ぶはずだが、この本は余白が多い。文字も段落が異様に多い。
 こうしたものをエマは心当たりがあった。

「──もしかして、詩、でしょうか」

 エマの答えは男を大いに刺激したらしい。男は、にや、と不敵に笑うと、エマを抱き上げた。

「──!!な、なんですか急に!」

 男はステンドグラスの扉を片手で軽々と開けた。大きく重量があり、エマはもちろん男たちも開けるのに難儀しているというのに、こうも簡単に開けた者は初めてだった。

 一階の酒場にエマを担いだ大男が現れて、客たちはギョッとしていた。何人かはエマに何するんだ!と声を上げたが、男は完全に無視していた。

「ヒルダ」

 男が呼んだのは女主人だった。ヒルダも他の客と同じく驚いていたが、男に従って近づいた。

「なんだい?うちの娘を乱暴に扱わないでくれ」
「娘を買う」

 男は小袋を二つ出して近くのテーブルに置いた。初めにヒルダに渡した小袋よりも大きく、手のひらに余る大きさだった。
 思わぬ大金にヒルダは喜びよりも驚きが先行したのか、呆然としていた。エマも呆気にとられて、声が出なかった。
 大金を積まれて見慣れてはいたが、さすがにこんな大金は見たことが無かった。恐ろしく大金持ちだ。

「部屋を用意しろ」

 気が動転しているヒルダは、反応が遅れながらも、上に上がる階段を指さした。

「…エ、エマの部屋なら二階の一番奥だよ」
「いつまでいていい」
「そりゃあ、身心のままにって奴さ」

 よりによってディアナ教の文句を引用するとは。ディアナの啓示を受けた聖職者が従う時に使う言葉だ。神の身心のままに。私は神に従います。私はこの男に従いますと言っているのだ。
 エマ自身は全く了承していないのに。
 でも、これが本来の形なのだ。自分は娼婦。いままで清いままでいたほうがおかしかったのだ。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

懐妊したポンコツ妻は夫から自立したい

キムラましゅろう
恋愛
ある日突然、ユニカは夫セドリックから別邸に移るように命じられる。 その理由は神託により選定された『聖なる乙女』を婚家であるロレイン公爵家で庇護する事に決まったからだという。 だがじつはユニカはそれら全ての事を事前に知っていた。何故ならユニカは17歳の時から突然予知夢を見るようになったから。 ディアナという娘が聖なる乙女になる事も、自分が他所へ移される事も、セドリックとディアナが恋仲になる事も、そして自分が夫に望まれない妊娠をする事も……。 なのでユニカは決意する。 予知夢で見た事は変えられないとしても、その中で自分なりに最善を尽くし、お腹の子と幸せになれるように頑張ろうと。 そしてセドリックから離婚を突きつけられる頃には立派に自立した自分になって、胸を張って新しい人生を歩いて行こうと。 これは不自然なくらいに周囲の人間に恵まれたユニカが夫から自立するために、アレコレと奮闘……してるようには見えないが、幸せな未来の為に頑張ってジタバタする物語である。 いつもながらの完全ご都合主義、ゆるゆる設定、ノンリアリティなお話です。 宇宙に負けない広いお心でお読み頂けると有難いです。 作中、グリム童話やアンデルセン童話の登場人物と同じ名のキャラで出てきますが、決してご本人ではありません。 また、この異世界でも似たような童話があるという設定の元での物語です。 どうぞツッコミは入れずに生暖かいお心でお読みくださいませ。 血圧上昇の引き金キャラが出てきます。 健康第一。用法、用量を守って正しくお読みください。 妊娠、出産にまつわるワードがいくつか出てきます。 苦手な方はご注意下さい。 小説家になろうさんでも投稿します。

【完】夫に売られて、売られた先の旦那様に溺愛されています。

112
恋愛
夫に売られた。他所に女を作り、売人から受け取った銀貨の入った小袋を懐に入れて、出ていった。呆気ない別れだった。  ローズ・クローは、元々公爵令嬢だった。夫、だった人物は男爵の三男。到底釣合うはずがなく、手に手を取って家を出た。いわゆる駆け落ち婚だった。  ローズは夫を信じ切っていた。金が尽き、宝石を差し出しても、夫は自分を愛していると信じて疑わなかった。 ※完結しました。ありがとうございました。

【完】ええ!?わたし当て馬じゃ無いんですか!?

112
恋愛
ショーデ侯爵家の令嬢ルイーズは、王太子殿下の婚約者候補として、王宮に上がった。 目的は王太子の婚約者となること──でなく、父からの命で、リンドゲール侯爵家のシャルロット嬢を婚約者となるように手助けする。 助けが功を奏してか、最終候補にシャルロットが選ばれるが、特に何もしていないルイーズも何故か選ばれる。

【完】愛人に王妃の座を奪い取られました。

112
恋愛
クインツ国の王妃アンは、王レイナルドの命を受け廃妃となった。 愛人であったリディア嬢が新しい王妃となり、アンはその日のうちに王宮を出ていく。 実家の伯爵家の屋敷へ帰るが、継母のダーナによって身を寄せることも敵わない。 アンは動じることなく、継母に一つの提案をする。 「私に娼館を紹介してください」 娼婦になると思った継母は喜んでアンを娼館へと送り出して──

【完】夫から冷遇される伯爵夫人でしたが、身分を隠して踊り子として夜働いていたら、その夫に見初められました。

112
恋愛
伯爵家同士の結婚、申し分ない筈だった。 エッジワーズ家の娘、エリシアは踊り子の娘だったが為に嫁ぎ先の夫に冷遇され、虐げられ、屋敷を追い出される。 庭の片隅、掘っ立て小屋で生活していたエリシアは、街で祝祭が開かれることを耳にする。どうせ誰からも顧みられないからと、こっそり抜け出して街へ向かう。すると街の中心部で民衆が音楽に合わせて踊っていた。その輪の中にエリシアも入り一緒になって踊っていると──

【完結】騎士団長の旦那様は小さくて年下な私がお好みではないようです

大森 樹
恋愛
貧乏令嬢のヴィヴィアンヌと公爵家の嫡男で騎士団長のランドルフは、お互いの親の思惑によって結婚が決まった。 「俺は子どもみたいな女は好きではない」 ヴィヴィアンヌは十八歳で、ランドルフは三十歳。 ヴィヴィアンヌは背が低く、ランドルフは背が高い。 ヴィヴィアンヌは貧乏で、ランドルフは金持ち。 何もかもが違う二人。彼の好みの女性とは真逆のヴィヴィアンヌだったが、お金の恩があるためなんとか彼の妻になろうと奮闘する。そんな中ランドルフはぶっきらぼうで冷たいが、とろこどころに優しさを見せてきて……!? 貧乏令嬢×不器用な騎士の年の差ラブストーリーです。必ずハッピーエンドにします。

いつか終わりがくるのなら

キムラましゅろう
恋愛
闘病の末に崩御した国王。 まだ幼い新国王を守るために組まれた婚姻で結ばれた、アンリエッタと幼き王エゼキエル。 それは誰もが知っている期間限定の婚姻で…… いずれ大国の姫か有力諸侯の娘と婚姻が組み直されると分かっていながら、エゼキエルとの日々を大切に過ごすアンリエッタ。 終わりが来る事が分かっているからこそ愛しくて優しい日々だった。 アンリエッタは思う、この優しく不器用な夫が幸せになれるように自分に出来る事、残せるものはなんだろうかを。 異世界が難病と指定する悪性誤字脱字病患者の執筆するお話です。 毎度の事ながら、誤字脱字にぶつかるとご自身で「こうかな?」と脳内変換して頂く可能性があります。 ご了承くださいませ。 完全ご都合主義、作者独自の異世界感、ノーリアリティノークオリティのお話です。菩薩の如く広いお心でお読みくださいませ。 小説家になろうさんでも投稿します。

【完結】堅物な婚約者には子どもがいました……人は見かけによらないらしいです。

大森 樹
恋愛
【短編】 公爵家の一人娘、アメリアはある日誘拐された。 「アメリア様、ご無事ですか!」 真面目で堅物な騎士フィンに助けられ、アメリアは彼に恋をした。 助けたお礼として『結婚』することになった二人。フィンにとっては公爵家の爵位目当ての愛のない結婚だったはずだが……真面目で誠実な彼は、アメリアと不器用ながらも徐々に距離を縮めていく。 穏やかで幸せな結婚ができると思っていたのに、フィンの前の彼女が現れて『あの人の子どもがいます』と言ってきた。嘘だと思いきや、その子は本当に彼そっくりで…… あの堅物婚約者に、まさか子どもがいるなんて。人は見かけによらないらしい。 ★アメリアとフィンは結婚するのか、しないのか……二人の恋の行方をお楽しみください。

処理中です...