悪い冗談

鷲野ユキ

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夜のドライブ

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 先生が、その最新機器を舐めるように見回す。「電源はどこだ?」

 あいにく彼も私もAndroid派のようで、いまいち操作方法がわからない。唯一あるボタンを押してもなんの反応もない。しげしげと先生が薄い板を見回した。リンゴの下には「佐伯総合病院 NO246」とナンバリングがされていた。

「すごいな、246台もあるんですか?これ」

 山梨県警とは大違いだ。パソコンですら、そんな台数はない。改めて佐伯総合病院の財力に驚いていると、今一番聞きたくない音が耳に入ってきた。大勢の人間が、こちらに向かってくる足音だ。

「とにかく逃げよう」
「逃げるって、どこへ」

 先生が霊安室の先の扉へと向って行く。重く冷たい扉の向こうからは、排気ガスの匂いがした。「駐車場だ。そこなら出口がある!」
 
 勢いよく飛び出して行く先生だったが、はたして駐車場出入り口を封鎖しない、だなんて愚かなことを彼らはするだろうか。

「すんなり出してもらえると思ってるんですか?」

 音ばかりが響く地階で、焦る私の声が空まわる。「それに仮に出られたとしても、向こうは車で追いかけてくるかもしれない」

 なんだってこんな逃亡犯の真似事などしなければならないのか。ふと、私の嘘の体調不良を心配してくれた主事に申し訳なく思った。いや、それだけではない。私は明日、無事出勤することが出来るのだろうか。
 雑用ばかりを押し付けられ、不満タラタラだったあの職場が急に恋しくなってきた。

「もういい加減走るのには飽きたところでな」

 先生が、出入り口とは少し外れた方向へと進んでいく。職員のものだろうか、パラパラと残る車両のうちの一台の前で止まった。白いレクサスだ。なぜか主人を迎え入れる犬のように、ピコピコと鳴いている。

「乗るぞ」
「は?」

 まさか車泥棒の罪まで被れと?困惑する私を置いて、先生は何事もなかったかのようにドアを開いた。

「これ、先生のですか?」

 こう言っては失礼だが、先生が車に乗るイメージがなかった。私の家に来たのもタクシーだ。しかも高級車。検査技師は、いや探偵と言うのはそんなに儲かるものなのだろうか。

「一応な。だが運転が苦手でな、かといって駐車場を借りるのも金がかかる。ここに置かせてもらっていたんだが、まあ役に立ったようでなによりだ」

 急かされるように車内に押し込められる。私の古い車と違ってずいぶんと快適だ。渡されたiPadを弄りたい衝動に駆られるが、我慢してシートベルトを付ける。
 先生は覚束ない様子でエンジンをかけ、いきなりアクセルを踏むので私は仰天してしまった。ギュルギュルとタイヤがコンクリートをこする音がする。そしてその音に気付いたのか、駆け寄る足音も。

「何やってるんですか!サイドブレーキ!」
「ああ、すまない」「あといきなりアクセル踏んだら壁に激突するだけですよ!」

 気分は教官だ。こんなにも彼らは不安を抱えて助手席に乗っているのか。運転が苦手と言うのは本当らしい。ならばなぜこんな車を買ったんだ。
 急発進でバックして、なぜだか出入り口とは反対に向って行く。「そっちじゃないですよ!」「仕方ないだろう、ハンドルを切る方向を間違えたんだ!じゃあ君、代わってくれるか」「もう無理ですよ!」

 今からモタモタと運転席を代わっていたら、追手に捕まってしまう。最初から私が運転席に座らなかったことを悔やむが、しかし高級車を下手に傷つけてでもしたら、という不安もあった。持ち主が廃車にする分には大丈夫だろうが、しかしその場合、私の命はどうなってしまうのか。

 駐車場を無駄に一回りして、ようやく地上への出入り口へと向かう。坂道の先には想像した通りポールや柵が置かれていて、警備員らがしきりに停まるよう叫んでいる。

「こんなもので私を止められると思うな!」

 叫ぶ先生のセリフはかっこいいが、私は気が気でない。
 もしあのポールが鉄製の車止めならば、こちらも無事に済まされない。規制八キロの道を六十キロのスピードでつっこんでいく。轢かれてなるものかと男どもが散って行き、ボーリングの球よろしくレクサスがポールに突っ込んだ。
 ガタン!大きく車体がバウンドする。ポールを轢いたらしい。そしてそのまま車は、夜の世界へと走り出した。真っ暗だ。まるで我々の行く先を示しているかのような。いや。

「先生、ライト付けてください、違うそれはワイパーです!」
 どこかで運転を代わろう。私はシートベルトを両手でつかみながら思った。



 うまく撒けたのかはわからないが、とにかくレクサスを尾ける怪しい車両も見当たらなかった。うっかり先生が間違えて首都高に乗ってしまい、さらに寿命が縮む思いをしたものの、おかげでだいぶ距離を稼ぐことができた。

 もちろん、途中のパーキングで運転を代わるのは忘れなかった。着慣れぬ白衣を脱ぎ――残念ながらもともと着ていたコートやジャケットは、着替えた公園に置いてきてしまったのでもはや回収する手立てもない――、ついでに行く暇さえなかったトイレに寄れて一安心する。

 無事苦手なことから解放された先生は、おもちゃで遊ぶ子供のように平たい機械をいじくっている。

「さて、これからどうしようか」

 呑気な声で先生が言った。「どこかゆっくり落ち着ける場所に行きたいのだが」
「仕方がないので、とりあえず私の家に向かいます」

 ミラーに映る私の顔は、とても嫌そうな顔をしていた。
 あまり足が付くようなものを私と関連付けたくはなかったが、先生の家に向かうのはリスクが高すぎる。向こうは先生の身元を知っているのだ。ならばまだ正体不明の偽薬剤師の家の方が、見つかる可能性は低い。
 
 それに時間も時間だ。ファミレスなどに下手に寄るのも悪目立ちしてしまう。幸か不幸か先生が乗ったのは高井戸方面だった。ならばこのまま早く我が家に帰って、今日のことなどなかったかのように寝てしまいたかった。

「そうだな、それがいい」何が楽しいのか、はしゃいだように先生が言う。「それにしても腹が減ったな。カップ麺くらいはあるだろう?」
「まあ」
「どうやら、こいつも腹ペコらしい」と先生が笑った。
「このiPadだが、どう考えても充電切れをしているようだ」

 通りでうんともすんとも言わないわけだ。しかしそれには困ったことがあった。

「私の家にはこれの充電器なんてありませんよ」
「電気屋で買うしかないか」

 けれどすでに車は中央道を走っており、家電量販店など近くにはない。そもそもあったとしても、営業しているかあやしい。

 お預けを食った犬のように先生がしょんぼりしている。

「一刻も早く、この中身を確認したかったのだが」

 ツイていない。どっと疲労が増した気がした。あくびが出たところで、後部座席に脱ぎ散らかした白衣の中で、何かが鳴っているのに気が付いた。私のスマホだ。マナーモードにするのを忘れていたのか。今更に冷や汗が出る。倉庫に隠れているときに鳴らなくて良かった!

「何か鳴っているぞ」

 先生が助手席から手を伸ばし、私のスマホを取り出した。

「ふむ、安藤君からの電話のようだな」

 安藤!この時ほど私は彼女に会いたかったことはないかもしれない。先生にスピーカーフォンにしてもらい、私はかかってきた電話に開口一番こう言った。

『お前、iPhoneだったよな?』
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