悪い冗談

鷲野ユキ

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探索

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 佐伯総合病院は三百床を誇り、多くの科を有する社会医療法人だ。つまり、とにかく広くて、廊下は患者で溢れている。

「こんなまともそうな病院が、そんな怪しいことをしてるだなんて信じられないんですが」

 思わず私の口からは文句が出る。院長だって、そんな怪しい人には見えなかった。

 最上階は八階。エレベーターは七階まで稼働している。先ほど向かった院長室は増築前の名残か六階にあり、そこに向かう際はエレベーターを使った。だというのに。

「仕方ない、だろう、怪しい、薬剤師が紛れていると、もう噂に、なっているかも、しれない」

 息も絶え絶えに返すのは先生だ。我々は今、恐らく職員が一、二階分の移動に使うだけだろう階段を永遠と昇っている。

 先生はさも私が悪いかのように言うが、この計画を立てたのは先生だ。しかし文句の続きを言う気力もなく、私もハアハアと荒い息を返すしかできなかった。

「おや、何階まで上がる気かい?」

 そんな折、我々に爽やかな声を掛けるものがいた。四階の踊り場で一息ついているところだった。
 白衣姿で、すらりとした長身の若い男だ。

「運動不足の解消にはちょうどいいよね。そうだな、全員に義務付けようかな、移動は階段でって。患者用のエレベーターが混んでるからね、職員の使用はなるべく控えさせたいし」

 馴れ馴れしい男だな。私はそう思って顔を上げた。どこかで見覚えのある穏やかそうな瞳は大きくて、鼻がすらっと通っている。いわゆるイケメンの部類に入るのだろうか。彼だったら、小野嬢を落とせるのだろうか、と思うほどには端正な顔立ちだった。

「ええ、まあそんなところです」

 額に浮かぶ汗を拭いながら加賀見先生が答えた。

「佐伯先生もそうですか?」

 佐伯!汗で曇った眼鏡越しに、私はその顔をまじまじと見つめてしまった。だが幸いに、そのおかげで不躾な視線に彼は気づかなかったらしい。

「いや、まあちょっと探し物をね」

 返す佐伯医師の表情は、先ほどの爽やかなものとは一転して翳っていた。

「探し物?」

 その言葉に、私の身体がビクンと震える。もしや、もうカードキーが無くなったことに気付かれたのか?

「お気に入りの本をどこかに置いてきてしまってね」
「本、ですか?」

 そんなもの無くすだろうか。しかも階段に落とすか?先生が怪訝そうに聞いた。

「ああ、世界で一番売れてる本なんだけど」
「なら話は早い。買い直せばいいでしょう」

 バッサリと先生が両断した。「探す時間がもったいない」
「それもそうだね」

 佐伯医師が肩をすくめた。とにかくまだキーが無くなったことはバレていないようだ。私は安心で肩を大きく下したが、日ごろの運動不足のせいだと佐伯医師は認識したらしい。

「けどそちらの彼はうちの職員じゃないだろう、別に構わないよ、エレベーターを使ってくれ」
「いえ、この薬剤師と私はちょっと顔見知りなもので、彼も身体を動かしたいと言うもんで、一緒に透析室まで上がってるところなんです」
「そうか、じゃああとワンフロアだ。頑張って。もし疲れちゃったら、僕のところに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」

 爽やかに手を振って、佐伯医師は軽やかに階段を降りて行ってしまった。

「……今のは?」
「佐伯院長の息子の、佐伯修二だ」

 ということは、彼も例の実験とやらを知っているのだろうか。馴れ馴れしいし、全職員にエレベーターを使わないようにさせるのはあんまりだとは思ったが、悪いやつにも見えなかった。
 だがそれは院長も同じか。
 悪い奴ほど、真面目で良いやつそうに見える。

「なんだか、芝居がかったセリフでしたね」
「たぶん、今のは聖書の一節だ」
「ああ、『あなたがたを休ませてあげよう』」
「病院と言うのは往々にて宗教と結びつきが強いんだ。ここはそうとは名乗っていないが、キリスト系の医科連盟に所属しているらしい。で、朝の朝礼なんかで一節を引用したりするようだ」
「朝礼でありがたいお言葉を垂れる、医院長の息子。ってことは、跡取りですかね」
「そうだと思うが」

 にしても名前が修二とは。違和感を覚えたが、「とりあえずは噂の場所に向かおう。急ぐぞ」と急かされて、それ以上彼に付いて考えることもままならなかった。

 あと四階。私も半そでの白衣を用意してもらえばよかった。片手でネクタイを緩める。汗を拭って、私は重い足を持ち上げる。

 想像以上の時間をかけて、ようやく我々は最上階に到着した。よくRPGなどではラスボスは塔の上にいるというのが定石だが、はたして私が勇者だったならば、こんな階段を上がるだけでHPはみるみる削られていき、とてもじゃないが最強の相手と戦える状態ではない。
 いや、ラスボスもそれを狙って最上階に居を構えているのかもしれないぞ。

 キーを使って、階段脇のロックを解除する。これさえあればエレベーターのロックを解除して降りることも出来る。
 そう思ったが、誰もいないはずの最上階からエレベーターで降りるのはリスクが大きい。来た道を戻ることを考えると、私の気は重くなった。

「で、いったいどこに何があるって言うんです」

 出入り口付近には、必ず見取り図と避難経路が示されている。それをスマホのライトで照らしながら不満げに私は言った。
 窓から外の光は入って来るものの、曇天では採光も限られる。電気を付けたかったが、いつバレるかという恐怖心がそれをさせなかった。

「iPS細胞の研究を行うには、無菌状態が望ましい。他の物質が混入してしまうと、細胞が変質してしまう恐れがある」
「それで、無菌室が怪しいと」
「ああ。だがあからさまに実験設備があるわけではない。かといって、実際にはあるのに、図面には載っていない秘密の研究室を作るだなんて言うのは夢物語だ。これだけの規模の施設だ、届け出と現実が合わなければ、開局できない。昔の建物だったら違ったかもしれないがな」

 それもそうだろう、と思った。実際に精査されているかどうかはさておいて、とにかくやたらと監査をしたがるのが役所と言うものだ。特にこんな大きな病院は、目を付けられやすいだろう。

「だと、この無菌病室っていうのを、研究室代わりにしていたと?」
「そうだ」
「そんなこと出来るんですかね」
「研究するだけなら可能だ。CiRAだって基本はオープンラボだ。無菌状態なのは、医療用のiPS細胞を作製する場所くらいだろう」
「でも、作ったんじゃないんですか?その、ダメになった箇所を新しく」
「だが一から作らなくてもいい。CiRAからiPS細胞を買い取って、患者の遺伝子を組み込み、それを実験動物に注入する」
「買う?そんなこと出来るんですか?」
「出来るはずだ。それに有栖医師はもとCiRAの職員だ」

 無菌病室は全部で三十床。壁沿いにぐるりと病室が取り囲んでいる。中央にエレベーター、そのすぐ脇にナースステーションがあり、その向かいに男女トイレ。
 そして今昇ってきた階段が北側に、もう一つ南側の階段がエレベーターの向かいにある。

「どの病室を研究室にしていたと思います?」

 一番確実なのは片っ端から部屋を覗いていくことだが、それではあまり非効率だ。

「そうだな……」

 先生が、モサモサの頭を撫でながら言った。

「患者を運ぶ利便性からすれば、エレベーターの一番近くだ。それに、上から話し声が聞こえた、と証言しているものもいる。そうなると、階段が近い可能性も高い。南側の階段の左右どちらかだ」

 極力足音を立てないように進み、反対側へと到着する。右側の部屋を開けると、普通の病室を広くしたような部屋。スマホのライトで室内を照らしてみるもののさして探す場所もなく、せいぜいテレビ台の引き出しを開ける程度だったがそこにも特に何もない。

「実験室に使ってたなら、実験台があってフラスコや試験官があって、って感じなんですかね」

 あるいは、実験という言葉から私は不吉な想像をしてしまう。例えば、逃げられないようベルトのついた手術台が置かれていて、まだそれは哀れな患者の血で濡れているのでは――。

「どちらかというと、パソコンがたくさん並んでいるイメージだな、私は」

 先生が呟いた。「無駄口を叩いている暇はない。隣も見るぞ」

 だが、開いた扉の先は、つい先ほど見たのと全く同じ光景だった。

「もしかして、全部見て回らないとダメかも……」

 早々に探索を諦めて、私は他の病室をまわろうとした。あれで先生は本当に探偵なのだろうか。読みが外れてるぞ。

 だが諦めの悪い先生は、自分の予測が当たらなかったことを不服に思ってか、何もないだろうにわざわざ引き出しを開けようとしている。あんな狭い場所に、実験に関する秘密を隠せるもんか。

「先生、遊んでる時間はありませんよ、ほら他の部屋も――」

 だが続く部屋は先生の声にかき消された。

「これはなんだ?」

 掲げたスマホのライトを、先生の方に向ける。眩しそうな顔が目に入った。

「私じゃなくて、引き出しの中を照らしてくれ」「すみません」

 光を引き出しに向ける。そこにあったのは、聖書だった。
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