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Sea of Trees
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「ふむ、わざわざすまないね」
甲府駅で拾った先生は、いつも通りの先生だった。変わらず似合いもしない気障な白スーツに、胸元の一輪のバラ。
「これから樹海に行くってのに、そんな恰好でいいんですか」
一方ハンドルを握る私と言えば、ラフなものだ。ラグランシャツの上にパーカーを羽織り、スェットにスニーカー。
「なに、これから死者の国に向かうのだから、それなりに正装しないとな」
それならばふさわしいのは白ではなく黒のスーツなのではないか。そうは思ったものの、万一遭難してもあの白スーツは目立つだろう。
「そういえば、これから向かう氷穴付近でも事件があったみたいで」
樹海の入口と言えば、鳴沢氷穴、富岳風穴などがポピュラーだろう。観光バスが連日駐車場には止められており、自殺の名所とは思えないほど観光客でにぎわっている。
事実、道さえ外れなければ、緑豊かな散策路だ。私も何度か歩いたことがある。だというのになぜここを最後の場に選ぶ人間が多いのだろう。我々日本人は、富士の不思議な力にでも惹かれるのだろうか。
「ああ、ちょっと前にニュースで見たよ」
流れる緑を眺めながら、先生がさして興味なさそうに返す。
「嫌だねぇ、炎にまかれて死ぬだなんて。自殺なのかい?」
ニュースでは、まだ自殺か他殺か捜査中、としか流れていない。しかしこれが樹海内の出来事だったなら自殺として片付けられていただろうに、と思うと、不思議な国境のようなものがここにはあるように思えた。
「それがまだ。ただ気になるのは、遺体にはオリーブオイルが掛けられていて、さらにはキノコが近くに落ちていたそうなんです」
これはまだニュースにはなっていない情報だ。
「なんだ、蜂蜜の次はキノコか?」
「ええ。もしかしなくても、関連があるのかもしれません」
「面白くなってきたじゃないか」
「それに、その被害者の名が、私に蜂蜜男の身元を調べるよう依頼した人物と同じなんです」
「それはずいぶんと奇怪だな」
先生が身を乗り出した。とはいえシートベルトに押さえつけられ、すぐにシートへと長身を埋められてしまったが。
「しかし、狭い車だな」
「仕方ないでしょう。私一人しか乗らないんだから」
詳しい型までは覚えていないが、私の愛車はトヨタのクラウン、ロイヤルサスーンだ。父親が買い換えてすぐに他界してしまい、それを譲り受ける形になった。
以来私の足となってくれているものの、いかんせん今の車に比べると妙にしゃちほこばっていて、圧迫感を受けるのは確かだ。
「彼女を乗せるには地味な車だな」
「別に、そんな人いませんし」
この言葉に、なぜだか先生が意外そうな顔をした。が、その後すぐに気まずそうな顔をして、「いやそれより、とりあえずは遺体発見現場だ」と仕切り直す。
「氷穴の駐車場で車を降りて、そこから現場に向かいます」
そこで、私は車を停めた。
遺体発見現場の緯度経度は、捜索隊から渡された資料に載っていた。樹海、などというにはさぞ森の奥深くでの出来事かと思いきや、意外にも氷穴入口からわずか五百メートルほどしか離れていない場所で、蜂蜜男の骨は発見されていた。
「こんなところで死のうと思っても、結局は見つけて欲しいんだろうな」
スマホのGPSを頼りに、散策路を外れ進みながら先生が呟いた。
「やはり、一人は寂しい」
「まあ、樹海なんて言いますけど、四キロ四方ぐらいしか広さはありませんから。深く入り込もうとして反対側の出口に出てしまって、慌てて引き返してきたのかも」
「君は何というか、夢のないことをズカズカ言うんだな」
呆れた様子で先生が空を仰いだ。
「死とは、人生で一番のロマンなのに」
「何言ってるんですか、死なんて汚くて臭くて、最悪ですよ」
まさか遺体の検査を行う人間が、その事実を知らないわけがあるまい。
「確かにその通りだが、だからこそ、人はロマンを死に求めるのだ」
そう声高に叫んで胸元のバラ――すでにしおれかかってる――を掴み、香りをかぐしぐさをする。この突如行われたパフォーマンスを、私は白けた気持ちで眺めていた。
「愛の恋だのは人生のうちに何度か経験する機会もあるが、死は一度限りだぞ」
だからこそ、私はなぜそのヒトが死んでしまったのかに、ひどく興味があるのだ。
興奮気味に、つばを飛ばして先生が言った。汚いな、と私は思った。
「先生の言うロマンは私には分かりませんが、蜂蜜男の真相は、明らかにしたいと思っています」
「わからないかなリンドウ君、このロマンが。君も持っているものばかりと思っていたのだがね。じゃなきゃ普通、警察が無視した遺体の死因を追及したいとは思わない」
意味深に先生がチラリと私の背負うリュックに目を向けた。この中には、先生から返してもらった蜂蜜男の遺骨が入っている。
「そこまで君を駆り立てるのは何だ?」
「それは……正義感ですよ」
「正義感、ねぇ。まあ、確かにそれはヒトには必要だろうが」
ぬかるみを踏んでしまったらしい。白の革靴という、これまたとんでもないものを土で汚し、生来の赤ら顔をさらに赤くして、先生が怒ったように言った。
「だが、行き過ぎた正義は狂気だぞ」
「行き過ぎたロマンへの憧れも、狂気でしかないと思いますが」
「うむ、その通りだな」
先ほどの熱もどこへやら、あっけなく私の意見を受け入れると、先生が目的の場所を見つけたらしい。もはや靴やパンツが汚れるのもお構いなしに、はしゃいだように目的地へと駆けていく。
「ここだ、ここじゃないか、リンドウ君」
「ええ、そうですね」
そこには、捜索隊が写真に収めたそのままの風景が広がっていた。もちろんそこには遺骨や蜂蜜の瓶はないし、風に揺れる不気味な首つりロープもない。早くも冬を迎え始めているのか、枯れた茶色の葉や、カサカサの樹木がひっそりと生い茂っているだけだ。
不思議なフィルターが我々の目にかかっているのだろうか。自慢じゃないが、私には霊感なんてものは欠片もない。だがそこには確かに生々しい、死の空気が漂っていた。
「ここで、遺体の血肉は土に還った。まあ、本来はそうあるべきなのだろう。我々人間は食物連鎖の輪から外れてしまった」
軽く黙祷を捧げてから、先生が地面にしゃがみ込む。
「そう思えば、遺体の彼は、実に生物らしい死を迎えられたと思わないか?それは、素晴らしいことだと思うのだが」
「私はごめんですね。死んで、自分の身体に蛆が湧いて蟻がたかって、しまいに動物にはらわたをかじられてこの世から消えて行くだなんて」
「だが、そうすることによって、他の生き物を生かすことが出来る。実に美しいじゃないか」
「それなら先生も、樹海で死んでみたらどうですか」
「ごめんだね」
肩をすくめるしぐさをして、先生は風に吹かれる枝を睨む。そこに見えないロープがあるかのように。
「自殺は、美しくない」
「じゃあ、誰かに殺されるのは」
「もっと嫌だね」
足もとの落ち葉を、いつの間にか取り出したピンセットでめくりながら先生が心底嫌そうに吐いた。
「私の運命を決めるのは私だが、だからと言ってその最期まで決めようというのは神に背く行為だよ。ましてや人の命を奪うなど、人が行って良いものではない」
「神、ですか」
まさかこの先生が神などというものを信じているとは意外だった。彼のことだ、自分こそが神だと言いかねなさそうだが。
「神は誰の中にもあるものだ。特定の宗教じゃなくてもいい、その人にとっての大切な何かや、この世の理だとか、自然だとか、宇宙とかそういうものだ。自分を超えた何かを持っていなければ、人は尊大になってしまってろくなことをしないし、また自分を見失ってしまう」
「先生から、そんな哲学的な話を聞けるとは思っても見ませんでした」
落ち葉とその下の土を持参したビニール袋に入れながら、先生が得意げに指を振る。
「すべての学問は哲学だ。なぜ、そうなるのか、なぜそうなったのか。それを考えるために学問はある」
「それで、先生の哲学はどんな真相を導けそうですか?」
「この土には、遺体の成分が染み込んでいる。ここからグラヤノトキシンが発見されれば、死因を特定できるかもしれない」
「刃物で刺されたのが死因じゃないんですか?」
先生は電話で教えてくれたではないか。ろっ骨に、刃物の跡があったと。
「だが、それが直接の死因かはわからない。死んだ後に付けられたかもしれない」
「でも、生活反応とか、そういうのでわからないんですか?」
「あいにく、骨だけとなってしまっては分からないよ。ただ、古いものではなかったから、死の前後でつけられたのは確かだろう」
今度は急に立ち上がると、先生は何かを探すように樹木の裏側にまわった。
「亡くなったのは八月ごろと考えられているんだろう?そんな前に付けられた、しかも獣に荒らされ風化しつつあった骨の跡だ、なんでもかんでもすぐにわかるはずがない」
「グラヤノなんとかって言うのは?」
「グラヤノトキシン。自然毒の一種だ」
「毒?」変な声が出た。「じゃあ蜂蜜男は、誰かに毒を盛られて死んだんですか?」
自分で出した大きな声に驚いて、私は口をつぐんだ。
「摂取してすぐに死ぬようなものではないが、めまいや嘔吐などの急性中毒を起こすことがある」
「でも毒なんて、どこから検出したんです」
骨だけじゃ、何もわからないと言ったばかりだ。
「わずかにこびりついていた肉片から見つけたんだ。ちょうどこう、マグロだとスキ身のあたりに」
想像して、私は顔をしかめた。
「冗談だ、冗談。しかし骨にこびりついた肉さえ食べる人間は、恐ろしいと思わないか」
「でも、美味しいですよね、スキ身」
「遺体をかじった動物たちも、うまいと思ったんだろうな」
どこかで物音がした気がして、私は振り返る。うすら寒い空気が漂う。人間の味を覚えた動物が現れでもしたら、などと不穏な想像を起こすものの、ただ風が木々を揺らしただけだった。
「肉片から発見されたのは、ツツジ科の植物、キレンゲツツジが持つ毒だ」
「被害者は、それを摂取した可能性がある?」
「ああ」
それか、犯人によって与えられたのか。私の頭に、ツツジの花をギュウギュウに口に押し込められる男の姿が頭に浮かんだ。なかなかに、シュールだな。
「あるいは、それがこのあたりに自生でもしているんじゃないのかと思ったんだが」
だから、先から何かを探していたのか。
「しかしそれらしいものもないな。一体どうやって摂取したんだ?」
「その毒は、ツツジの何に含まれているんです?」
「全部だな。葉や茎や花びら、蜜。全部にだ」
「蜜……」
ツツジの蜜に含まれる毒。私には思い当たるものがあった。
あの蜂蜜が、その花蜜から作られていたとしたら?
「遺体の側に、蜂蜜の瓶が落ちていたんです。それが頭に塗られたせいで、頭蓋骨が破損して、遺体の身元を特定できなかった」
「ふむ、蜂蜜か。充分にありうる」
先生は顔を上げると、意気込んで続けた。
「で、その蜂蜜はまだ残っているのかね?」
「それが……」
蜂蜜の入った瓶は写真に収められた後、課長が『アリに集られたらたまらん』と捨ててしまっていた。もちろん、その中身を精査などしていない。
「でも、直接の死因にはならないんでしょう?」
「だが、一部家畜などで死亡例が上がっている。例えばこれを、長期間にわたって摂取していたならば、充分にその死因になる」
「長期って。でも、食べたら気分が悪くなるんでしょう?そんなの、長期間食べるだなんて」
「わからんぞ、薬だと思って飲んでいたかもしれない。薬には副作用があるのが当然だ」
良薬口に苦し、という言葉があるだろう?先生が、長い指をくるくると回した。
「蜂蜜というのは往々にして身体にいい、と言うのが世の見解らしいからな」
「でも、いくらなんでも吐いたりするまで食べないでしょう」
普通、異変に気付いて食べるのをやめるはずだ。
「それは、そうだな。それに、物はすでに捨てられてしまったというなら、検証のしようもない」
ガッカリしたのか、先生は再び地面にしゃがみ込んでしまった。長い脚を器用に折りたたみ、何を考えているのか一点ばかりを見つめている。
その細い瞳が何かを捉えた。
「ん、なんだ?これは」
そこには、根元から折れ、地面にひれ伏す枯れた草。どことなく菊の葉に似た形の葉をしている。
「何か植物が枯れたものみたいですけど。でもここは樹海です、そんなのいくらでも」
「だが、この葉の形と似たものは他には近くに生えていないようだが」
先生が立ち上がり、文字通り目を皿のようにして辺りを見渡した。
「不自然だな」
「そうですか?」
植物は嫌いじゃないが、詳しいと言うほどでもない。母親が残して行った庭の、手入れを気が向いたときに行うぐらいだ。もはや母が植えた植物なのか、それとも家の付近に自生している植物なのかの区別もつかず、やみくもに水だけはやっている。
「とりあえず、持ち帰って調べてみよう」
「だめですよ、樹海の植物を持って帰っちゃ」
「そもそもこれは、ここの植物ではない可能性が高い。言うなれば外来種だ」
どこに根拠があるというのか、自信満々に先生が言う。
「ならばそれを取り除くのは、善い行いだと思うのだがね」
「むちゃくちゃな」
「どんな些細なことでも調べるべきだろう。残された手がかりは少ないんだ。この草を一つ抜いたところで樹海の生態系には影響はないが、これを持ち帰らなかったばかりに、事件の手がかりを失ってしまうかもしれないんだぞ」
「わかりましたよ」
渋々私がうなずくと、先生が犬のように周りの土を掘る。「しかし、やたらと頑丈に根を張っているな」
途中で力尽きたのか、細かい根は諦めて力任せに引っこ抜く。
「ずいぶんと生命力の強い草の様だ」
そう言う先生の顔は真っ赤だ。
「どこからか種子が移動して、ここに生えたのか?」
「どこかからって。あれじゃないですか、誰かが供えた花が芽吹いたのかも」
「あるいは、犯人が種を落としたのかもしれないぞ」
先生が微笑んだ。ひどく不気味な出来だった。
甲府駅で拾った先生は、いつも通りの先生だった。変わらず似合いもしない気障な白スーツに、胸元の一輪のバラ。
「これから樹海に行くってのに、そんな恰好でいいんですか」
一方ハンドルを握る私と言えば、ラフなものだ。ラグランシャツの上にパーカーを羽織り、スェットにスニーカー。
「なに、これから死者の国に向かうのだから、それなりに正装しないとな」
それならばふさわしいのは白ではなく黒のスーツなのではないか。そうは思ったものの、万一遭難してもあの白スーツは目立つだろう。
「そういえば、これから向かう氷穴付近でも事件があったみたいで」
樹海の入口と言えば、鳴沢氷穴、富岳風穴などがポピュラーだろう。観光バスが連日駐車場には止められており、自殺の名所とは思えないほど観光客でにぎわっている。
事実、道さえ外れなければ、緑豊かな散策路だ。私も何度か歩いたことがある。だというのになぜここを最後の場に選ぶ人間が多いのだろう。我々日本人は、富士の不思議な力にでも惹かれるのだろうか。
「ああ、ちょっと前にニュースで見たよ」
流れる緑を眺めながら、先生がさして興味なさそうに返す。
「嫌だねぇ、炎にまかれて死ぬだなんて。自殺なのかい?」
ニュースでは、まだ自殺か他殺か捜査中、としか流れていない。しかしこれが樹海内の出来事だったなら自殺として片付けられていただろうに、と思うと、不思議な国境のようなものがここにはあるように思えた。
「それがまだ。ただ気になるのは、遺体にはオリーブオイルが掛けられていて、さらにはキノコが近くに落ちていたそうなんです」
これはまだニュースにはなっていない情報だ。
「なんだ、蜂蜜の次はキノコか?」
「ええ。もしかしなくても、関連があるのかもしれません」
「面白くなってきたじゃないか」
「それに、その被害者の名が、私に蜂蜜男の身元を調べるよう依頼した人物と同じなんです」
「それはずいぶんと奇怪だな」
先生が身を乗り出した。とはいえシートベルトに押さえつけられ、すぐにシートへと長身を埋められてしまったが。
「しかし、狭い車だな」
「仕方ないでしょう。私一人しか乗らないんだから」
詳しい型までは覚えていないが、私の愛車はトヨタのクラウン、ロイヤルサスーンだ。父親が買い換えてすぐに他界してしまい、それを譲り受ける形になった。
以来私の足となってくれているものの、いかんせん今の車に比べると妙にしゃちほこばっていて、圧迫感を受けるのは確かだ。
「彼女を乗せるには地味な車だな」
「別に、そんな人いませんし」
この言葉に、なぜだか先生が意外そうな顔をした。が、その後すぐに気まずそうな顔をして、「いやそれより、とりあえずは遺体発見現場だ」と仕切り直す。
「氷穴の駐車場で車を降りて、そこから現場に向かいます」
そこで、私は車を停めた。
遺体発見現場の緯度経度は、捜索隊から渡された資料に載っていた。樹海、などというにはさぞ森の奥深くでの出来事かと思いきや、意外にも氷穴入口からわずか五百メートルほどしか離れていない場所で、蜂蜜男の骨は発見されていた。
「こんなところで死のうと思っても、結局は見つけて欲しいんだろうな」
スマホのGPSを頼りに、散策路を外れ進みながら先生が呟いた。
「やはり、一人は寂しい」
「まあ、樹海なんて言いますけど、四キロ四方ぐらいしか広さはありませんから。深く入り込もうとして反対側の出口に出てしまって、慌てて引き返してきたのかも」
「君は何というか、夢のないことをズカズカ言うんだな」
呆れた様子で先生が空を仰いだ。
「死とは、人生で一番のロマンなのに」
「何言ってるんですか、死なんて汚くて臭くて、最悪ですよ」
まさか遺体の検査を行う人間が、その事実を知らないわけがあるまい。
「確かにその通りだが、だからこそ、人はロマンを死に求めるのだ」
そう声高に叫んで胸元のバラ――すでにしおれかかってる――を掴み、香りをかぐしぐさをする。この突如行われたパフォーマンスを、私は白けた気持ちで眺めていた。
「愛の恋だのは人生のうちに何度か経験する機会もあるが、死は一度限りだぞ」
だからこそ、私はなぜそのヒトが死んでしまったのかに、ひどく興味があるのだ。
興奮気味に、つばを飛ばして先生が言った。汚いな、と私は思った。
「先生の言うロマンは私には分かりませんが、蜂蜜男の真相は、明らかにしたいと思っています」
「わからないかなリンドウ君、このロマンが。君も持っているものばかりと思っていたのだがね。じゃなきゃ普通、警察が無視した遺体の死因を追及したいとは思わない」
意味深に先生がチラリと私の背負うリュックに目を向けた。この中には、先生から返してもらった蜂蜜男の遺骨が入っている。
「そこまで君を駆り立てるのは何だ?」
「それは……正義感ですよ」
「正義感、ねぇ。まあ、確かにそれはヒトには必要だろうが」
ぬかるみを踏んでしまったらしい。白の革靴という、これまたとんでもないものを土で汚し、生来の赤ら顔をさらに赤くして、先生が怒ったように言った。
「だが、行き過ぎた正義は狂気だぞ」
「行き過ぎたロマンへの憧れも、狂気でしかないと思いますが」
「うむ、その通りだな」
先ほどの熱もどこへやら、あっけなく私の意見を受け入れると、先生が目的の場所を見つけたらしい。もはや靴やパンツが汚れるのもお構いなしに、はしゃいだように目的地へと駆けていく。
「ここだ、ここじゃないか、リンドウ君」
「ええ、そうですね」
そこには、捜索隊が写真に収めたそのままの風景が広がっていた。もちろんそこには遺骨や蜂蜜の瓶はないし、風に揺れる不気味な首つりロープもない。早くも冬を迎え始めているのか、枯れた茶色の葉や、カサカサの樹木がひっそりと生い茂っているだけだ。
不思議なフィルターが我々の目にかかっているのだろうか。自慢じゃないが、私には霊感なんてものは欠片もない。だがそこには確かに生々しい、死の空気が漂っていた。
「ここで、遺体の血肉は土に還った。まあ、本来はそうあるべきなのだろう。我々人間は食物連鎖の輪から外れてしまった」
軽く黙祷を捧げてから、先生が地面にしゃがみ込む。
「そう思えば、遺体の彼は、実に生物らしい死を迎えられたと思わないか?それは、素晴らしいことだと思うのだが」
「私はごめんですね。死んで、自分の身体に蛆が湧いて蟻がたかって、しまいに動物にはらわたをかじられてこの世から消えて行くだなんて」
「だが、そうすることによって、他の生き物を生かすことが出来る。実に美しいじゃないか」
「それなら先生も、樹海で死んでみたらどうですか」
「ごめんだね」
肩をすくめるしぐさをして、先生は風に吹かれる枝を睨む。そこに見えないロープがあるかのように。
「自殺は、美しくない」
「じゃあ、誰かに殺されるのは」
「もっと嫌だね」
足もとの落ち葉を、いつの間にか取り出したピンセットでめくりながら先生が心底嫌そうに吐いた。
「私の運命を決めるのは私だが、だからと言ってその最期まで決めようというのは神に背く行為だよ。ましてや人の命を奪うなど、人が行って良いものではない」
「神、ですか」
まさかこの先生が神などというものを信じているとは意外だった。彼のことだ、自分こそが神だと言いかねなさそうだが。
「神は誰の中にもあるものだ。特定の宗教じゃなくてもいい、その人にとっての大切な何かや、この世の理だとか、自然だとか、宇宙とかそういうものだ。自分を超えた何かを持っていなければ、人は尊大になってしまってろくなことをしないし、また自分を見失ってしまう」
「先生から、そんな哲学的な話を聞けるとは思っても見ませんでした」
落ち葉とその下の土を持参したビニール袋に入れながら、先生が得意げに指を振る。
「すべての学問は哲学だ。なぜ、そうなるのか、なぜそうなったのか。それを考えるために学問はある」
「それで、先生の哲学はどんな真相を導けそうですか?」
「この土には、遺体の成分が染み込んでいる。ここからグラヤノトキシンが発見されれば、死因を特定できるかもしれない」
「刃物で刺されたのが死因じゃないんですか?」
先生は電話で教えてくれたではないか。ろっ骨に、刃物の跡があったと。
「だが、それが直接の死因かはわからない。死んだ後に付けられたかもしれない」
「でも、生活反応とか、そういうのでわからないんですか?」
「あいにく、骨だけとなってしまっては分からないよ。ただ、古いものではなかったから、死の前後でつけられたのは確かだろう」
今度は急に立ち上がると、先生は何かを探すように樹木の裏側にまわった。
「亡くなったのは八月ごろと考えられているんだろう?そんな前に付けられた、しかも獣に荒らされ風化しつつあった骨の跡だ、なんでもかんでもすぐにわかるはずがない」
「グラヤノなんとかって言うのは?」
「グラヤノトキシン。自然毒の一種だ」
「毒?」変な声が出た。「じゃあ蜂蜜男は、誰かに毒を盛られて死んだんですか?」
自分で出した大きな声に驚いて、私は口をつぐんだ。
「摂取してすぐに死ぬようなものではないが、めまいや嘔吐などの急性中毒を起こすことがある」
「でも毒なんて、どこから検出したんです」
骨だけじゃ、何もわからないと言ったばかりだ。
「わずかにこびりついていた肉片から見つけたんだ。ちょうどこう、マグロだとスキ身のあたりに」
想像して、私は顔をしかめた。
「冗談だ、冗談。しかし骨にこびりついた肉さえ食べる人間は、恐ろしいと思わないか」
「でも、美味しいですよね、スキ身」
「遺体をかじった動物たちも、うまいと思ったんだろうな」
どこかで物音がした気がして、私は振り返る。うすら寒い空気が漂う。人間の味を覚えた動物が現れでもしたら、などと不穏な想像を起こすものの、ただ風が木々を揺らしただけだった。
「肉片から発見されたのは、ツツジ科の植物、キレンゲツツジが持つ毒だ」
「被害者は、それを摂取した可能性がある?」
「ああ」
それか、犯人によって与えられたのか。私の頭に、ツツジの花をギュウギュウに口に押し込められる男の姿が頭に浮かんだ。なかなかに、シュールだな。
「あるいは、それがこのあたりに自生でもしているんじゃないのかと思ったんだが」
だから、先から何かを探していたのか。
「しかしそれらしいものもないな。一体どうやって摂取したんだ?」
「その毒は、ツツジの何に含まれているんです?」
「全部だな。葉や茎や花びら、蜜。全部にだ」
「蜜……」
ツツジの蜜に含まれる毒。私には思い当たるものがあった。
あの蜂蜜が、その花蜜から作られていたとしたら?
「遺体の側に、蜂蜜の瓶が落ちていたんです。それが頭に塗られたせいで、頭蓋骨が破損して、遺体の身元を特定できなかった」
「ふむ、蜂蜜か。充分にありうる」
先生は顔を上げると、意気込んで続けた。
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「それが……」
蜂蜜の入った瓶は写真に収められた後、課長が『アリに集られたらたまらん』と捨ててしまっていた。もちろん、その中身を精査などしていない。
「でも、直接の死因にはならないんでしょう?」
「だが、一部家畜などで死亡例が上がっている。例えばこれを、長期間にわたって摂取していたならば、充分にその死因になる」
「長期って。でも、食べたら気分が悪くなるんでしょう?そんなの、長期間食べるだなんて」
「わからんぞ、薬だと思って飲んでいたかもしれない。薬には副作用があるのが当然だ」
良薬口に苦し、という言葉があるだろう?先生が、長い指をくるくると回した。
「蜂蜜というのは往々にして身体にいい、と言うのが世の見解らしいからな」
「でも、いくらなんでも吐いたりするまで食べないでしょう」
普通、異変に気付いて食べるのをやめるはずだ。
「それは、そうだな。それに、物はすでに捨てられてしまったというなら、検証のしようもない」
ガッカリしたのか、先生は再び地面にしゃがみ込んでしまった。長い脚を器用に折りたたみ、何を考えているのか一点ばかりを見つめている。
その細い瞳が何かを捉えた。
「ん、なんだ?これは」
そこには、根元から折れ、地面にひれ伏す枯れた草。どことなく菊の葉に似た形の葉をしている。
「何か植物が枯れたものみたいですけど。でもここは樹海です、そんなのいくらでも」
「だが、この葉の形と似たものは他には近くに生えていないようだが」
先生が立ち上がり、文字通り目を皿のようにして辺りを見渡した。
「不自然だな」
「そうですか?」
植物は嫌いじゃないが、詳しいと言うほどでもない。母親が残して行った庭の、手入れを気が向いたときに行うぐらいだ。もはや母が植えた植物なのか、それとも家の付近に自生している植物なのかの区別もつかず、やみくもに水だけはやっている。
「とりあえず、持ち帰って調べてみよう」
「だめですよ、樹海の植物を持って帰っちゃ」
「そもそもこれは、ここの植物ではない可能性が高い。言うなれば外来種だ」
どこに根拠があるというのか、自信満々に先生が言う。
「ならばそれを取り除くのは、善い行いだと思うのだがね」
「むちゃくちゃな」
「どんな些細なことでも調べるべきだろう。残された手がかりは少ないんだ。この草を一つ抜いたところで樹海の生態系には影響はないが、これを持ち帰らなかったばかりに、事件の手がかりを失ってしまうかもしれないんだぞ」
「わかりましたよ」
渋々私がうなずくと、先生が犬のように周りの土を掘る。「しかし、やたらと頑丈に根を張っているな」
途中で力尽きたのか、細かい根は諦めて力任せに引っこ抜く。
「ずいぶんと生命力の強い草の様だ」
そう言う先生の顔は真っ赤だ。
「どこからか種子が移動して、ここに生えたのか?」
「どこかからって。あれじゃないですか、誰かが供えた花が芽吹いたのかも」
「あるいは、犯人が種を落としたのかもしれないぞ」
先生が微笑んだ。ひどく不気味な出来だった。
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