1964年の魔法使い

鷲野ユキ

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1964.10.10 開会式 選手入場 1

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 英紀は焦っていた。いったいどこから手に入れたのか、大月が寄越したチケットのおかげで会場に入ることは出来たものの、あまりの人の多さにまず驚いてしまった。
 このなかから彼女を探し出さなければならない。あいにくと英紀は視力には自信がない。
勉強ばかりしてるんじゃない、外で遊んできなさいとツネに子供の頃に怒られたことを思い出した。あのとき言いつけを守っていれば今苦労しないで済んだのかもしれないが、後の祭りだ。
 いつもなら、彼女の青い目がきらりと光って、すぐに見つけられたはずだった。けれど海外からの客も多数ひしめくこの会場において、黒以外の瞳はそう珍しくもない。会場内をグルグルとまわっているうちに、開会式が始まってしまった。
「席についてください!」
 むやみにうろつく英紀を、警備服姿の男が注意した。警察OBなのか、体格の良い男に睨まれて、英紀はすごすごと席に着く。
 世紀の一大イベントだ、警備が厳しいのは当たり前だろう。そのなかで変に目立つような真似をすれば、下手したら捕まりかねない。現に警備服姿の人間とは別に、変装でもしているつもりなのか、妙に目つきの鋭い男らが紛れている。おそらく警察の人間だろう。
 仕方なく言われたとおりに席に着いたところで、各国の色とりどりの旗が爽やかな秋風にはためいた。
 せっかくのオリンピックの、しかも華々しい開会式だ。本来なら今頃、自分はブラウン管越しにそれを見ていたはずだった。
 けれど何の因果かその様をこの目でじかに見られるチャンスだというのに、英紀はそれどころではなかった。
早く見つけなければ。真理亜を。そして止めなければならない。自分をさらったあの男を。
 どうやってかは知りたくもないが、大月が用意してくれた座席はE列の物だった。
 式典が行われているのはすり鉢の一番底で、そこから段々と座席が広がっていく。すり鉢の淵に近いその席からは、式の様子はよく見ることが出来なかったが、けれどそれを一心に眺める観客らの動向を伺うにはうってつけの位置であった。
 英紀は必死におさげの女の子を探したが、それらしい人物は見当たらない。音楽隊が君が代の演奏を行う。各国の選手団がにこやかに手を振って入場してきた。
 その華やかな景色に、必死に真理亜を探していた英紀は思わず見入ってしまった。アメリカ、カナダ、フランス。チェコスロバキアに、エチオピア、ニュージーランド。
 果たして自分が一生踏むことのないだろう地からやってきた人々だ。はるばる遠くから来てくれた彼らの為にも、アイツの思い通りにさせるわけにはいかなかった。
 様々な国の人々が続々と国立競技場に現れる中、すり鉢の中段あたりで作業着姿の男が歩いているのが目に入った。
 どこかで見覚えがある。あの作業着は、そうだ、遠野電機の開発部の作業着じゃないか。
 紺色で厚手の長袖ジャケットに、ところどころに白い模様のような絵柄が入っている。
さすがにここからでは遠くてわからないが、おそらく胸元には金色で遠野電機と刺しゅうがされているはずだ。研究部の自分が袖を通すことはなかったが、同じ敷地内だ、その作業着姿の人々が、なにやらせわしなく働いているのを英紀は見たことがある。
 けれどなぜ開発部の人間がここに?確かにカメラを設置したのは彼らだと聞いてはいるが、この映像を世界中に発信するのはプロのカメラマンのはずだ。それがなぜ、しかも手ぶらで客席をうろうろしているのか。
 作業着の男が顔をあげた。きらり、と日の光を何かが反射した。眼鏡のレンズだ。
 あっ、あいつは。
 英紀は息をのむと、そっと席を立った。アイツは一つ空いた空席に向かって歩いている。
 まさかそこに真理亜がいるのだろうか。だが、見慣れたおさげはそこにはいない。ボブヘアーの女性がいるだけだ。訝しがりながら、他の観客の迷惑にならぬよう長い背を折りながら進んでいくと、作業着姿の男と目が合ったのか、突然女性が席を立ちあがった。そして、大きく手を振りかぶり、男の頬をはたいた。
 バチン、という乾いた音が響いた。周りの人間が一瞬驚いたものの、突如と始まった痴話げんかに興味が向くはずもなく、皆一様に世紀の式典を見逃すまいと見つめている。
 目つきの鋭い男――恐らくあれは警察の人間だろう、だけが、何事かと二人の方を凝視している。動きかけた警備員らも判断に迷ったのか、彼らの動向を伺っているように見えた。
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