1964年の魔法使い

鷲野ユキ

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1964.9.20 浜松町 4

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「真理亜さん!」
「英紀さん!」
 どんどん空が遠ざかる。代わりに近づいてくるのは海面だ。真理亜は己の不運を呪った。原因は爆発だか地震だかわからないけれど、こんな高いところから落ちるだなんて! 
 けれど大丈夫、なにも落ちるのは固いコンクリートの大地ではない、海面だ。真理亜は腹をくくった。泳ぎには自信がある。ワンピースなのが難点だけれど、何も川岸まで泳ぐわけでもない。柱の近くにまで泳ぎ切れば、あとはそこで救助が来るのを待つだけだ。
 けれど、真理亜は忘れていた。その柱がボロボロと崩れていて、このまま海面に向かえば落ちてくるコンクリの塊に押しつぶされてしまうかもしれないことを。
 一方それに気が付いた菅野の方は、一瞬ためらったものの、すぐに真理亜の後を追った。
 飛び降りた菅野は、真理亜の周りに空気圧の膜のようなものをイメージした。コンクリの重量に敵うかはわからないがないよりはマシだ。彼女はなんとしてでも守らなければ。
 そして、崩れていく柱に意識を集中する。元ある形に戻るよう、崩壊していく原子構造を丁寧に直していく。
セメントを構成する珪酸三カルシウム[(CaO)3(SiO2)]、珪酸二カルシウム[(CaO)2(SiO2)]、アルミン酸三カルシウム[(CaO)3(Al2O3)]、鉄アルミン酸四カルシウム[(CaO)4(Al2O3)(Fe2O3)]、そして水[(H2O)]、砂を構成する二酸化ケイ素[SiO2]。これらを組み合わせ、元あった形に戻し、柱を復元する。
 量が量だ、あっという間に菅野は疲弊していくのがわかった。やはりバラすよりは、組み立てるほうがエネルギーを必要とする。摩耗しきった菅野は、真理亜がふわりと海面に浮いたところを見届けて、そのまま澱む海へと墜落して行った。
「菅野さん?」
 突然透明な風船のようなものに包まれて、真理亜は自分に何が起こったのか理解した。ああ、これは菅野さんが私を守る為に作ってくれたんだわ。
 ふわふわとその膜につつまれて、真理亜はコンクリートの落下の影響でひどく揺れる海面へと着地した。まさか海の上に立てるだなんて、本当に魔法使いみたいじゃない。
 安心したのもつかの間、自分を追って落ちてきただろう菅野が、柱に向かって『力』を使っているところを目の当たりにした。バラバラと砂埃を立て、海面に落ちていったコンクリの欠片たちがふわりと浮かび上がり、もとの形に戻っていく。なんだかテープの逆再生を見ているようだった。壊されたことが嘘だったかのように瞬時にして柱が元通りになったのと同時に、菅野がふと身体の力を抜いてそのまま海面に吸い込まれていくのを見てしまった。
「大変、あれじゃあ泳ぐ体力もないわ、助けに行かないと……」
 真理亜が自分を包む膜を破ろうと手を伸ばした時、それがシャボン玉のようにはじけた。
 きっと、菅野さんの力の影響が無くなったんだわ。真理亜は血が引いていくのを感じた。彼は意識を手放してしまった。まさか、死んでなんてないわよね?
 大きく息を吸い、真理亜はザブンと海中へと潜る。羽田沖の深さなんて真理亜は知らない。でも空港だって海の上にあるんだから、きっとそんなに深くはないはず。
 幸い、太陽の光が海中にも降り注いでいる。前に遊びに行った伊豆の海のようにはいかないけれど、ある程度は海中を見渡せた。真理亜は必死に頭を巡らせて、そうしてゆっくりと沈んでいく長身の男の姿を見つけた。
菅野さん!早く助けないと。急いで真理亜は手足をかいた。私もこのままじゃ溺れて死んでしまう!
 平泳ぎの要領で手と足を動かして、真理亜は菅野の元へと近づき、彼の身体を捕らえた。あとは海面に向かうだけだ。真理亜は菅野の身体を肩に担ぎ、明るい方を目指す。
 衣服が水を吸ってひどく身体が重い。さらに、自分より重い人間を担いで上昇するのはひどく困難だった。真理亜は早くも疲れてきてしまった。そして、なによりも苦しい。気を抜くと力を失いかける身体を叱責して、真理亜は懸命に手足を動かした。
 あと少し、あと少しよ。私の力が菅野さんの役に立つって言われたのは、ついさっきのことだ。浅草で会ったあの女の人。薄れていく意識の中、真理亜は小百合のことを思い出していた。あの花のような笑顔。今度こそ私が菅野さんを助けるって決めたのに、こんな。
 伸ばす手は海面には届かない。真理亜は、ゆっくりと瞳を閉じた。
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