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1964.9.20 浜松町 2
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吊り革を後生大事につかむ菅野のことは置いておくことにして、真理亜は広く面積の取られた、二段式のガラス窓から流れていく外の景色を眺める。ここはどこだろうか、さっきまで海が見えたけれど、今は建物の間を縫うようにして走っている。これじゃあ電車と変わらない。
「ほら、これじゃあ高架を走る電車とあまり変わりないじゃない。それに川の次は海だなんて、また海面が爆発でもするって言うの?」
真理亜は窓の外の景色を指さして笑った。「大丈夫よ、こんな高いところにいるんですもの。海面で何かあったとしても、上を走っている私たちに害はないわよ」
「まあ、さすがに二度目はないとは思いますけど……」
太い眉を下げ、菅野はそう言いながら恐る恐る窓の景色に目をやった。十五分で羽田空港までというのは伊達ではなく、いつの間にか再び海面が姿を現している。あの遠くに見えるのは、飛行機だろうか。
「ほら見て、菅野さん!飛行機よ、飛行機」
小さく見えるそれを見て、真理亜ははしゃいだ声を出した。
「ああ、本当にこのまま羽田空港から、どこか遠い外国に行ければいいのに」
「まさか。僕はパスポートだって持ってないですよ」
苦笑する菅野だったが、彼もまた悠々と飛んでいく飛行機に目が釘付けだ。
「私だって持ってないわよ。でも絶対、いつか行ってみたいわ」
出来るならばそう、新婚旅行で。真理亜はちらりと菅野の方を見た。もしかしたら、その時隣に座っているのはこの人なのかしら。
けれどそんな真理亜の内心など露にも知らない菅野は、視界に広がる羽田沖をぼんやりと眺めている。さすがに慣れてきたらしい。頑なにつかんでいた吊り革から手を離し、外をよく見ようと窓ガラスに手をついた。
「でも僕は、あんな乗り物に乗れる気がしません。仕組みは理解できるんですが、どうしてもあんな大きいものが空を飛ぶだなんて信じられない」
「あら、菅野さんはいざとなったら空も飛べるんじゃなくて?」
真理亜は東京駅で感じた不思議な浮遊感を思い出す。あの時、重力に逆らって、確かに身体がふわりと浮いたのだ。
「飛ぶって言うよりは、瞬間的に浮くぐらいしかできません。飛行機ってのは翼に発生する揚力を使って飛んでいるんです。飛行機の翼はただまっ平らではなくて、こう上の方が少し膨らんでいるんですがね、その翼の上を速い速度で空気が流れると、負圧という空気の圧力の差が生まれるんです。その空気の圧力の差で、機体が空に持ち上がるんですが……」
「じゃあ、空気圧で上に引っ張られるってこと?」
菅野が一生懸命飛行機の仕組みを説明してくれたが、真理亜にはいまいちわからなかった。確かにあんな大きなものが浮くだなんて、真理亜にも信じられない。
「ええ、そんな感じです。けれど僕にはあんな大きな翼はありませんし、いくら気体の原子を動かして空気圧を生み出せたとしても、やっぱり瞬間的に浮くしかできない」
「じゃああの時は、そうやって私の身体を浮かせてくれたの?」
「いえ、あの時は空気中の窒素を集めて、それを真理亜さんの周りに纏わせたんです。空気の中で窒素が一番軽いですから。それと落下時の衝撃を和らげるために、コンクリートを分解して、セメントと砂と水に戻しました。新しく組み立てるよりは、原子をばらす方が僕には簡単なので」
「ふうん、菅野さんもすごいけれど、やっぱり飛行機ってすごいのね」
「ええ、科学技術と生物学の集合体ですよ。せっかくの技術は、こうやって平和的に使われる方がいい」
そう呟いた菅野の表情があまりに悲しそうだった。そう言えば、と真理亜は高校の歴史の授業で教わったことを思い出す。確か戦争の時に、飛行機は敵陣に体当たりする武器でもあったという。神風特攻隊というやつだ。
まるで暴走族みたいな名前なんか付けちゃって。ちっともかっこよくないし、やっていることは犬死だ。
けれどそう考えるのは、自分がそれを経験していないからだ、とも真理亜は思った。
それをうかつに自分は批判することはできまい。それが出来るのは、経験した人間だけ。
子供の頃に戦争を経験したという菅野と自分の間には、わかり得ぬ深い溝があるのだろう。
「そうね、せっかくの技術だもの。みんなの役に立てるように使わなきゃ」
だから真理亜には、これぐらいしか返す言葉は見つからなかった。うつむいて小さく返した言葉に、菅野がそっと微笑んだ。
「これからはそういう時代です。本当に、この国がここまで来られてよかった」
掛けられた言葉に、真理亜は顔を上げた。なんだか溝の間に橋を掛けてもらえた気がして、真理亜は嬉しくなって続けた。
「ええ。あとひと月でオリンピックまでやっちゃうんだから。ねえ、楽しみだわ。お父様に体操のチケットを取ってもらっているの。一緒に見に行きませんか?」
最初はメグさんと行こうと思っていたけれど、今となっては話が別だ。彼女には、彼女と彼氏さんとの二枚でチケットをあげればいい。そのほうが、きっとメグさんも喜ぶわ。
これから先、真理亜には楽しいことしか待っていない。爆弾魔なんて早くも忘れてしまっていたほどだった。そう思った矢先だった。
「ほら、これじゃあ高架を走る電車とあまり変わりないじゃない。それに川の次は海だなんて、また海面が爆発でもするって言うの?」
真理亜は窓の外の景色を指さして笑った。「大丈夫よ、こんな高いところにいるんですもの。海面で何かあったとしても、上を走っている私たちに害はないわよ」
「まあ、さすがに二度目はないとは思いますけど……」
太い眉を下げ、菅野はそう言いながら恐る恐る窓の景色に目をやった。十五分で羽田空港までというのは伊達ではなく、いつの間にか再び海面が姿を現している。あの遠くに見えるのは、飛行機だろうか。
「ほら見て、菅野さん!飛行機よ、飛行機」
小さく見えるそれを見て、真理亜ははしゃいだ声を出した。
「ああ、本当にこのまま羽田空港から、どこか遠い外国に行ければいいのに」
「まさか。僕はパスポートだって持ってないですよ」
苦笑する菅野だったが、彼もまた悠々と飛んでいく飛行機に目が釘付けだ。
「私だって持ってないわよ。でも絶対、いつか行ってみたいわ」
出来るならばそう、新婚旅行で。真理亜はちらりと菅野の方を見た。もしかしたら、その時隣に座っているのはこの人なのかしら。
けれどそんな真理亜の内心など露にも知らない菅野は、視界に広がる羽田沖をぼんやりと眺めている。さすがに慣れてきたらしい。頑なにつかんでいた吊り革から手を離し、外をよく見ようと窓ガラスに手をついた。
「でも僕は、あんな乗り物に乗れる気がしません。仕組みは理解できるんですが、どうしてもあんな大きいものが空を飛ぶだなんて信じられない」
「あら、菅野さんはいざとなったら空も飛べるんじゃなくて?」
真理亜は東京駅で感じた不思議な浮遊感を思い出す。あの時、重力に逆らって、確かに身体がふわりと浮いたのだ。
「飛ぶって言うよりは、瞬間的に浮くぐらいしかできません。飛行機ってのは翼に発生する揚力を使って飛んでいるんです。飛行機の翼はただまっ平らではなくて、こう上の方が少し膨らんでいるんですがね、その翼の上を速い速度で空気が流れると、負圧という空気の圧力の差が生まれるんです。その空気の圧力の差で、機体が空に持ち上がるんですが……」
「じゃあ、空気圧で上に引っ張られるってこと?」
菅野が一生懸命飛行機の仕組みを説明してくれたが、真理亜にはいまいちわからなかった。確かにあんな大きなものが浮くだなんて、真理亜にも信じられない。
「ええ、そんな感じです。けれど僕にはあんな大きな翼はありませんし、いくら気体の原子を動かして空気圧を生み出せたとしても、やっぱり瞬間的に浮くしかできない」
「じゃああの時は、そうやって私の身体を浮かせてくれたの?」
「いえ、あの時は空気中の窒素を集めて、それを真理亜さんの周りに纏わせたんです。空気の中で窒素が一番軽いですから。それと落下時の衝撃を和らげるために、コンクリートを分解して、セメントと砂と水に戻しました。新しく組み立てるよりは、原子をばらす方が僕には簡単なので」
「ふうん、菅野さんもすごいけれど、やっぱり飛行機ってすごいのね」
「ええ、科学技術と生物学の集合体ですよ。せっかくの技術は、こうやって平和的に使われる方がいい」
そう呟いた菅野の表情があまりに悲しそうだった。そう言えば、と真理亜は高校の歴史の授業で教わったことを思い出す。確か戦争の時に、飛行機は敵陣に体当たりする武器でもあったという。神風特攻隊というやつだ。
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けれどそう考えるのは、自分がそれを経験していないからだ、とも真理亜は思った。
それをうかつに自分は批判することはできまい。それが出来るのは、経験した人間だけ。
子供の頃に戦争を経験したという菅野と自分の間には、わかり得ぬ深い溝があるのだろう。
「そうね、せっかくの技術だもの。みんなの役に立てるように使わなきゃ」
だから真理亜には、これぐらいしか返す言葉は見つからなかった。うつむいて小さく返した言葉に、菅野がそっと微笑んだ。
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