1964年の魔法使い

鷲野ユキ

文字の大きさ
上 下
39 / 101

1964.9.8 千代田図書館 1

しおりを挟む
 時間がなかった。矢野正志はこの日、人手が足りないと泣きつく飯場の管理会社の手を振り払い休みをもらった。今更せかせかと働いたところで間に合いようがない。あとひと月ちょっとでオリンピックが始まるのだ。白百合の家が国に回収されていないのは奇跡に近い。とにかく行動を起こさなければ。
 正志の目的はただ一つ。忌々しいオリンピックを脅してやるのだ。金を寄越さなければ中止にさせてやる、と。
 朝早くから飯場を出ると、正志は図書館へと向かった。九時の開館を待ち、我先にまずは席を確保する。同じようなことを考える人間はたくさんいるもので、本を読むわけでもなく、クーラーの効いた館内で過ごしたい暇を持て余した人間がたくさんいた。
 正志が確保した席の隣では、学生だろうか、いかにも今どきの、眼鏡を掛けた青年が姿勢悪く机に向かっていた。読み切れるのか訝しい量の本を山積みにして、科学雑誌のようなものをダラダラと眺めている。
 その乱雑な空間の中で、着ているポロシャツの青がいやに目立つ。あまり勉強をしに来た、という感じでもない。大方、課題の提出に追われて図書館に来たものの手が付かない……そんな感じだろうか。やたらとあくびをしていて、見ているこっちが眠くなってくる。
 だが正志の目的は、涼しさを満喫することでも怠惰を貪ることでもない。勉強は子供の頃から好きではなかったが、やみくもに行動しても良くないことは今までの経験から学んだ。悔しいが、自分には知恵が足りない。だからあの二人みたいにうまく立ち回れなかったのだ。今度こそうまくやって、みんなの鼻を明かしてやりたい。
 とりあえずは情報収集とばかりに、近々の新聞を持ってきた。東洋の魔女と謳われるバレボール女子の練習の様子や、昭和の三四郎こと岡野のコメントなど、スポーツ関連の記事がそこには踊っている。軒並みならぬ努力がそこでは語られていて、正志は鼻白んでしまった。
 何も自分は、こうやって努力している人たちの妨害をしたいわけではない。果たして俺のやろうとしていることは、彼らの努力を無に帰してしまうのだろうか。けれど、オリンピックのせいで自分の大切なものが失われてしまうのだ。
 ふと、正志は先日死んだ名も知らぬ同僚の言葉を思い出していた。オリンピックに、自分でも役に立てると思えば精が出る。あいつはそんなことを言っていた。俺がやろうとしていることは、そんな人々の努力を踏みにじることなのか?
 いや、違うんだ。正志はかぶりを振った。俺はそんなつもりじゃないんだ。けれど金は必要だ。ではどうしたらいい?どうすればあの家を国から守れる?
 国会でも爆破してやればいいのだろうか。けれどさすがにこの国の最高政治機関だ、そうやすやすとどうにかできる気もしなかった。では何を?正志は血走った目を新聞に走らせる。会場の建設状況、交通網の工事進捗、当日の警備体制、都知事の言葉――。そこで、正志の目はあるものを捉えた。
 そうだ、まずはこれを壊してやったら、どんなにスカッとするだろうか。
 正志は想像してにんまりと笑った。
 そうだ、いきなり「金を寄越さなければオリンピックを中止させる」と騒いだところで、誰も信じないに決まっている。こちらが本気なところを見せないと金は寄越さないだろうし、仮に寄越さなかったとしたら、オリンピックを中止させるための何か行動を起こさなければならない。
 そう言えば最近、爆弾騒ぎがどこかでなかっただろうか。正志が慌てて新聞紙をひっくり返せば、一面に「草加次郎現る」と大仰に文字が踊っていた。
「草加次郎……」
 思わず声が出た。それを聞き咎めたのか、隣りの青年がこちらを向いた。どうやら起きてはいたらしい。
「すんません」
 小声で謝り、正志は視線を新聞へと戻した。草加次郎は都内を中心に、デパートや地下鉄を爆発させた爆弾魔だ。おととしからその名を聞くようになり、世の中が不安に怯えていた。だが途端に姿を現さなくなったと思ったら、先月レストランのガラスを爆破する騒ぎを起こしたのだという。犯人はまだ捕まっていない。
 ここ最近、急に草加次郎が動き出したのは、やつもオリンピックを虎視眈々と狙っているからなのではないか?
 ならば。正志は妙案とばかりにひらめいた。こいつが大玉を狙う前に、俺がこいつの名を名乗ってしまえばいいのではないか。
 草加次郎の名を出して、どこか爆発させてやれば、ただ名を騙っただけの悪質な嫌がらせだとは思わないだろう。国中が、再び草加次郎の名に怯える時が来るのだ。後から本人が出てきたところでもう遅い。俺が草加次郎に成り代わってやるのだ。
 正志は草加次郎について調べることにした。カンペキに成りすまして、国中を俺の手のひらで転がしてやる。それと、爆弾の作り方だ。やつは一体どんな爆弾を作ったのだろう。けれどそれは、俺にでも作れるようなものなのだろうか。 
 手当たり次第に科学雑誌を取ってきた。しかしもともとが危険物だ、そう簡単に作り方など書いていないし、仮に見つけたとしても、黒色火炎の作り方だの、電子回路を使って時限装置を付けるだの、正志にはおよそ理解できそうにもないものばかりだった。
 そこで正志は行き詰ってしまった。壁に掛けられた時計は十二時を指していた。爆弾を作るには火薬がいる。それくらいは正志にもわかった。おそらくそれをうまい具合につないで、やつは爆弾を作ったのだ。だが、火薬なぞどこから手に入れればいい?
 すべてうまくいくと踏んだ正志の計画は、早くも暗礁に乗り上げてしまった。
 行き詰ると同時に腹が減った。正志は借りた新聞を返すと、暑い街中へとくりだした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

俺は彼女に養われたい

のあはむら
恋愛
働かずに楽して生きる――それが主人公・桐崎霧の昔からの夢。幼い頃から貧しい家庭で育った霧は、「将来はお金持ちの女性と結婚してヒモになる」という不純極まりない目標を胸に抱いていた。だが、その夢を実現するためには、まず金持ちの女性と出会わなければならない。 そこで霧が目をつけたのは、大金持ちしか通えない超名門校「桜華院学園」。家庭の経済状況では到底通えないはずだったが、死に物狂いで勉強を重ね、特待生として入学を勝ち取った。 ところが、いざ入学してみるとそこはセレブだらけの異世界。性格のクセが強く一筋縄ではいかない相手ばかりだ。おまけに霧を敵視する女子も出現し、霧の前途は波乱だらけ! 「ヒモになるのも楽じゃない……!」 果たして桐崎はお金持ち女子と付き合い、夢のヒモライフを手に入れられるのか? ※他のサイトでも掲載しています。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

命を狙われたお飾り妃の最後の願い

幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】 重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。 イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。 短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。 『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

喜劇・五輪離婚 ~オリンピック・ディボースショウ~

シネラマ
恋愛
五輪(オリンピック)の開催是非をめぐる議論を、ある男女のカップルに行わせたら? という設定の、ほぼ会話だけで構成した、コメディタッチのショートストーリーです。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

処理中です...