1964年の魔法使い

鷲野ユキ

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1964.9.3 九段下 3

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「……おい、おめ、だいじょうぶか?おい」
 寝かけたところを起こされて機嫌がいいはずがない。自分でも、こんなに低い声が出るのかと言うくらいの唸り声が出た。一度引っ付いた上下のまぶたをこじ開けると、相手が土下座をしているのが視界に入った。どういうことだ?正志はあっけにとられてしまった。
「なんだよ、謝るくらいなら起こすんじゃねえ、人が寝てるところを……」
 そこで完全にまぶたが開いた。横たわる正志の脇でひたすらに謝っているのは、ブロックを割ったあの男だった。きちんと正座したその脇には、錆びたブリキのバケツが置かれていた。
「すまねかっだ、おらのせいでおめが殴られた。あんときは怖くてよう、何も出来んかったで。だがら怪我したどこきれいさ出来るよう、水をもってきたんべ」
東京育ちの正志には聞き取りづらい、妙なイントネーションで男がしきりに懇願している。
「その水、俺の為に持ってきてくれたのか?」
「そうだ。きっとおめが騒がなきゃ、おらが殴られてたんだ。さ、はやぐ顔さ洗っておくれ」
 それならばと正志は男の好意を受けることにした。汚れた顔をバケツの中に突っ込む。口をゆすごうと口を開けば、お世辞にも冷たいとはいえない生ぬるい水が口内に入ってきた。そこで急に身体の渇きを思い出し、正志は犬のようにバケツの中の水を飲んだ。
自分の汗と血が混じった液体が喉を通る。そんなものを飲むだなんて我ながら正気の沙汰とは思えなかったが、それでも正志は生き返ったような気がした。残りの水で髪についた土埃を落とし、バケツから顔を出す。底の方に残った水に汚れたタオルを浸し、それで身体を拭いた。
日に焼けて黒ずんだ皮膚がそれできれいになったかは見た目ではわからなかったが、気分がさっぱりとしたのは確かだった。
「助かった、ありがとう」
 正志は男に礼を述べた。その言葉に恐縮して縮こまるこの男は、正志より年上なのだろうか。ごま塩頭の下の顔には深い皺が刻まれている。
「おめ、どこさから来た?おらは青森から出稼ぎにきだんだ」
「青森?」
 おうむ返しに返す正志は、東京を出たことすらない。男の出身地は北の方なのか。だからこんなに訛っているのだ。それ以外の感想はなかった。
「俺は東京の人間だ」
「東京の?まさか。東京の人間は、みんなお偉いさんばかりだっぺ。だって建築会社の本部の人間は、みな東京もんだべ」
 正志の言葉を冗談だとでも捕らえたのか、男が笑いながら続けた。
「東京もんは、おれらみたいのが命削ってオリンピックさ建物作っでるのなんか知りやしないべ。急に魔法みたいにそごにそれが出来たと思っでる。おめみたいに汗水たらして働くやつなんていないっぺ」
 男がそう笑うのも無理はなかったかもしれない。土方の作業員の大半は、地方からの出稼ぎの人間だ。東京の人間でこんな仕事をしているのは、正志のような流れ者ぐらいしかいない。
「俺だって好きでこんなことしてるわけじゃない、他にありつける仕事が他になかったんだ」
「そうか、おらだってこの仕事さ好きではないけんども、でも青森で働くよりは稼げるべ」
「たったこれっぽっちしかもらえねぇってのにか?」
 正志は、自分が菅野ほど稼いでいないだろうことには気付いていた。大月が何をしているのかは知らないが、その彼よりも。今もらえる金額では、食うだけで精一杯だ。なにしろ東京と田舎じゃ物の価格だって違うのだ、いくら稼いだところで金は消えていく。
「けども、田舎で米さ作るよりは儲かるべ。それに、オリンピックさにおらでも役に立てるって思えば精も出る」
「あんた、本気でそんなこと思っているのか?」
 自分たちが作っていることになど、東京の人間は気が付かないと言ったのはその口だ。
「んだ。別に誰かが褒めてくれるわけでもねぇけど、いつか青森から母ちゃんと子供さ連れてきて、これはおらが作ったんだって自慢してやりてぇ」
「子供がいるのか、あんた」
「今年小学校さ入ってな、けんどもこうして出稼ぎに出てるもんで、入学式にもでられんがった」
 小学生の孫がいる、とでも言われた方が納得のいく風貌だ。ごま塩頭をかきながら、男が照れたように言った。もしかしたらこの男は見た目よりかは若いのかもしれない。故郷でも田畑で働き、東京でも日に晒されて肉体労働をしている。その過酷さが男から若さを奪ってしまったのかもしれない。そしてきっと、自分もこの男のようになってしまうのだろう。
「そうか、家族と来られるといいな」
「ああ、そんときはおめにおらの家族を紹介すっぺ」
 けれどそう屈託なく笑う男の姿は、ひどく正志には輝いて見えた。彼には帰る家がある。たとえ貧しくとも、身を粉にして仕送りをするだけの家族が。そして、地方から集められた、有象無象でも出来るような土木作業を誇らしくさえ思っている。
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