1964年の魔法使い

鷲野ユキ

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1964.9.3 九段下 2

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 悔しかった。けれどそれを二人に言うのも虚しくて、無理にでも明るく振る舞った。そうでもしなければ、彼らにすら相手にしてもらえないんじゃないかという恐怖があった。
今だって、二人は身ぎれいにして東京に馴染んでいて、オリンピックに沸く日本の、浮ついた気持ちにうまく乗れている。
 けれど自分はどうだ?こうやって、オリンピック会場の建設にまで関わって、あの二人よりもこの祭典に近いはずなのに、誰よりもその恩恵を享受できていない。
もう一度地面に唾を吐いた。首に巻いた、汗に湿ったタオルで鼻と口を拭いた。どうやら前歯は二本も折れてしまったらしい。
 これじゃあ、ツネ婆を笑えないな。白百合の家の、歯の欠けたツネ婆の愛嬌のある笑みが頭の中に浮かんだ。
正志はなんだかおかしくなってきて、タオルで隠した口元に笑みを浮かべた。ああ、おかしい。なにもかもが馬鹿らしかった。ツネ婆さんの声が頭の中で反響した。
 本当にたまったもんじゃないぜ、ツネ婆。世の中がオリンピックで湧いてるっていうのに、あの家がひっそりと消えて行ってしまうだなんて。どこも一緒だ、正しいものほどあっけなく踏みつぶされてしまう。
 いや、そんなことがあって良いものか。
 どうやら鼻血も止まったようだった。真っ赤に染まったタオルを首からかけているのが嫌になって、正志は怒りとともに投げつけた。現場監督ら本部の人間がたむろしているテントの方にだ。折しもその時、強く風が吹いた。乾いた大地を巻き上げ、砂埃と共に投げたタオルを空高く舞い上がらせた。ひらひらと空を飛んだタオルは、正志の足もとに無残に落ちてきただけだった。
 正志は、今自分がしていることがひどく虚しいことに思えた。
 朝の八時から働いて、ようやく仕事終わりの時間が来た。遅れている工期を少しでも縮めるべく、まだ働けるものは残れと監督がわめいていたが、正志はその姿に一瞥をくれると、飯場へと帰るマイクロバスへと乗り込んだ。
白百合の家の為に少しでも金が欲しいのは確かだが、殴られた鼻と口がひどく傷む。このまま放っておくのも不安だった。せめて水で血をきれいに洗い流して、出来れば冷たい氷で冷やしたかった。それほどに殴られた場所は熱を帯びて腫れている。
 土方の人間が身を寄せる飯場に戻れば、早くも水の奪い合いが発生していた。東京は今稀に見る水不足で、給水制限が行われている。水が出るうちに飯炊きの女たちが確保してくれていたのだろう、薬缶やらバケツやらに汲まれた水が所狭しと置かれていた。それを巡って、疲れからだろう、イライラした様子の男たちが言い争いをしている。そのなかには、先ほど正志の前にいた、ブロックを落として割った男の姿もあった。
 なんだ、言い争う元気はあるんだな。
 その様子を見て、正志は疲れが増した気がした。さっきは何があってもうんともすんとも言わなかったくせに、アリだけの群れに戻ったら騒ぎ出しやがった。
 痛む傷口の手当てを諦めた正志は、外階段を上って二階の寝床へと上がった。もともとが粗末なプレハブ小屋のような建物だ。二十畳の広さの部屋はベニヤが打ち付けられただけで家具も何もない。部屋の隅に、薄べったい布団が積み重ねてあるだけだ。ただ寝るだけの場所。それ以外のなんでもなかった。
 正志には家がない。家があったのは、白百合の家に居られた間だけだ。十八で散り散りになってから、正志は二人のようにはうまく世の波を渡っていけず、こうして住み込みの働き口を転々としている。これじゃあ孤児だった頃とあまり変わらない。むしろ二人とはぐれてしまった分、余計悪いように思われた。
 薄い布団を床に敷き、疲れた身体を横たえた。身体は汗と土埃にまみれているし、特に血の付いた顔はどれだけ拭いてもベトベトしているような気がして気持ち悪い。それでも猛烈な眠気が襲ってくる。このまま眠ってしまって、いっそ目覚めなければ良いのに。
 そう思ったことは数えきれない。しかし悲しいかな、朝が来れば目が醒める。再び地獄のような一日が始まるだけだ。自分が、何のために生きているのかわからない一日が。
 ならばせめて夢の中だけでも。願いながら瞳を瞑った。人生で一番幸せだった、あの家の頃に戻れれば。正志がかりそめの夢の中に飛び込もうとしたところで、誰かが彼の身体を揺すった。
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