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1964.9.3 九段下 1
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あとひと月で完成させろだなんて、無理難題ばかり押し付けやがって。
衰えることのない夏の日差しを浴びながら、矢野正志は一人、心の中で悪態をついた。いや、正志以外の作業員も心の中では盛大に文句を言っているだろうが、それを口にする元気すら残っていないのだ。
「おいそこ、手をとめるんじゃねぇ」
正志の前で、手押し車を押している男がよろけた。車の中には、重いブロックがこれでもかと積まれている。どうやら地面の段差で躓いたのだろう、よろけた拍子にブロックが車から落ちて、運悪くそれは二つに割れてしまっていた。
「ああ、すんません」
今のは不可抗力というやつだ。正志は思った。どう転んだって、抗えない。今の自分の人生と同じで、なるようにしかならない。段差に躓けばこんな、タイヤの空気が抜けた手押し車じゃ傾くのは当たり前だし、重いブロックだって地面に叩きつけられれば割れる。
どうしようのないことだ。
だというのに、嫌味な現場監督が謝る男相手にひたすら罵声を浴びせかけるものだから、正志は胸糞が悪くなってきた。怒っている暇があるのなら手伝ってくれりゃあいいだろ。
辺りをジロジロと見回して、監督は難癖をつけるだけしかしていない。だというのに、いかにも自分ばかりが忙しいのだと騒いでいるアイツのことは、どの作業員も嫌っていた。
なら、俺がみんなの代表としてアイツに言ってやる。正志はカラカラに渇いた唇を、意を決して開いた。
「おい、騒いでいる暇があったらお前も働けよ」
「お前、誰に向かって口を利いている?」
言葉にした瞬間、唸るような怒声と共に、顔面に衝撃が来たのを感じた。その勢いでよろけ、地面に膝をつく。次いで、口の中に広がる鉄の味。
ああ、なぐられたのだ。そう認識してから痛みが来た。鼻の中を生ぬるい液体が垂れてくるのを感じた。上あごがひどく痛い。そう思って舌先で前歯をなぞれば、どうやら歯が折れたらしい。折れた前歯は垂れた血と共に、乾いた地面に落ちていた。
誰も、怪我を負った正志の元には駆け寄ってはくれなかった。それどころか、助けたはずの前の男も、こちらを見ないように作業に戻っている。
「ふん。お前こそ、騒いでいる暇があったら手を動かせ」
一瞥をくれて、正志を殴った現場監督が興ざめしたとばかりに東のエリアへと移動した。この場を支配していた暴君は去ったというのに、従順な作業員らは文句を胸の内に秘めるだけで、それを表に出すことを知らない。黙々とブロックを運んでいる姿は、昨日飯場で潰したアリの姿を彷彿とさせた。
似たようなことは何度も経験している。正志は口にたまった血を唾と共に吐き出すと、のろのろと身体を起こして作業に戻った。
大丈夫、別にこれくらい。ただ今までは、正志が正義感に駆られて噛みついたとしても、助けてくれるやつらがいた。口先でうまく相手をあしらう大月、それに、不思議な力でいつも守ってくれていた菅野。彼らがいたから、正志は怖いもの知らずだった。けれどそれは自分の力ではない。久しぶりに二人に会って、正志はそれを思い知らされていた。
なぜこうも違うのだろう。あいつらだって、俺と同じで何も持たない孤児だったはずなのに。痛みと疲れで霞んだ思考が、正志の中の、今まで気づかぬふりをしようとしてきた感情の蓋を開けようとしていた。
俺は本当は、惨めに物乞いなんてして生きる人間ではなかったはずなのに。思い出すまいと思っていた、過去の自分が話しかけてくる。お前は誰からも尊敬される、名家の人間だっただろう?戦争でこの国が負けるまで、俺には華々しい未来しかなかったはずなのに。どうしてこうなった?
衰えることのない夏の日差しを浴びながら、矢野正志は一人、心の中で悪態をついた。いや、正志以外の作業員も心の中では盛大に文句を言っているだろうが、それを口にする元気すら残っていないのだ。
「おいそこ、手をとめるんじゃねぇ」
正志の前で、手押し車を押している男がよろけた。車の中には、重いブロックがこれでもかと積まれている。どうやら地面の段差で躓いたのだろう、よろけた拍子にブロックが車から落ちて、運悪くそれは二つに割れてしまっていた。
「ああ、すんません」
今のは不可抗力というやつだ。正志は思った。どう転んだって、抗えない。今の自分の人生と同じで、なるようにしかならない。段差に躓けばこんな、タイヤの空気が抜けた手押し車じゃ傾くのは当たり前だし、重いブロックだって地面に叩きつけられれば割れる。
どうしようのないことだ。
だというのに、嫌味な現場監督が謝る男相手にひたすら罵声を浴びせかけるものだから、正志は胸糞が悪くなってきた。怒っている暇があるのなら手伝ってくれりゃあいいだろ。
辺りをジロジロと見回して、監督は難癖をつけるだけしかしていない。だというのに、いかにも自分ばかりが忙しいのだと騒いでいるアイツのことは、どの作業員も嫌っていた。
なら、俺がみんなの代表としてアイツに言ってやる。正志はカラカラに渇いた唇を、意を決して開いた。
「おい、騒いでいる暇があったらお前も働けよ」
「お前、誰に向かって口を利いている?」
言葉にした瞬間、唸るような怒声と共に、顔面に衝撃が来たのを感じた。その勢いでよろけ、地面に膝をつく。次いで、口の中に広がる鉄の味。
ああ、なぐられたのだ。そう認識してから痛みが来た。鼻の中を生ぬるい液体が垂れてくるのを感じた。上あごがひどく痛い。そう思って舌先で前歯をなぞれば、どうやら歯が折れたらしい。折れた前歯は垂れた血と共に、乾いた地面に落ちていた。
誰も、怪我を負った正志の元には駆け寄ってはくれなかった。それどころか、助けたはずの前の男も、こちらを見ないように作業に戻っている。
「ふん。お前こそ、騒いでいる暇があったら手を動かせ」
一瞥をくれて、正志を殴った現場監督が興ざめしたとばかりに東のエリアへと移動した。この場を支配していた暴君は去ったというのに、従順な作業員らは文句を胸の内に秘めるだけで、それを表に出すことを知らない。黙々とブロックを運んでいる姿は、昨日飯場で潰したアリの姿を彷彿とさせた。
似たようなことは何度も経験している。正志は口にたまった血を唾と共に吐き出すと、のろのろと身体を起こして作業に戻った。
大丈夫、別にこれくらい。ただ今までは、正志が正義感に駆られて噛みついたとしても、助けてくれるやつらがいた。口先でうまく相手をあしらう大月、それに、不思議な力でいつも守ってくれていた菅野。彼らがいたから、正志は怖いもの知らずだった。けれどそれは自分の力ではない。久しぶりに二人に会って、正志はそれを思い知らされていた。
なぜこうも違うのだろう。あいつらだって、俺と同じで何も持たない孤児だったはずなのに。痛みと疲れで霞んだ思考が、正志の中の、今まで気づかぬふりをしようとしてきた感情の蓋を開けようとしていた。
俺は本当は、惨めに物乞いなんてして生きる人間ではなかったはずなのに。思い出すまいと思っていた、過去の自分が話しかけてくる。お前は誰からも尊敬される、名家の人間だっただろう?戦争でこの国が負けるまで、俺には華々しい未来しかなかったはずなのに。どうしてこうなった?
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