1964年の魔法使い

鷲野ユキ

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1964.8.31 遠野邸 3

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 なんだか、このあいだのことがすべて夢だったかのような気さえしてきた。八月最後の日は東京砂漠には珍しくしとしとと雨が降っていて、まるで真理亜の心の中が空に映ったようだった。
「残念だわ、とても素敵な方だったのに……」
 ベッドに横たわり、真理亜はぼんやりと天井を見つめていた。天井にはガラス製のシャンデリア。いつもは光を反射してキラキラしているのだが、今日はなんだか沈んで見えた。
別に一度会っただけの人だ、いくら助けてもらったとはいえ、なぜこうも心残りなのだろう。しかも父親に、用途不明のお金の無心までしているような人にだ。
 真理亜にはとても彼がそんな人とは思えなかったが、こうして連絡がない以上、きっと本当のことなのだろう。私が好きになった人の、本当の顔はどちらなのかしら。
「……真理亜お嬢様?」
 嘆く真理亜の部屋に、控えめなノックが響いた。この声はメグだ。
「すみません、ケーキをお持ちしたのですが」
「……どうぞ」
 ケーキにつられたわけではなかったが、一人でこのまま塞いでいても気は晴れないだろう。それに、こう言った話は、女同士でするのがいいに決まっている。
 扉を開けて、メグが盆を手にしてやってきた。丸盆の上には、真理亜の好きなチョコレートケーキとティーポット。彼女が作ってくれたのだろう。メグは料理全般が上手だ。
「どういう経緯でそうなってしまったのかわかりませんが、これでも食べて元気を出してくださいな」
    そう言ってメグはケーキをサイドテーブルの上に置いくと、傍にある椅子に腰掛けた。
「落ち込んだときは甘いものと暖かいものが一番ですよ」
 紅茶をカップへ注ぐメグの姿は、まるで優しい姉のように真理亜には見えた。注いでくれた暖かい紅茶を飲むと、心がほぐれていくのを感じた。
 真理亜には兄はいるけれど、特に兄が成人してからは年に数回会う程度しかない。父の仕事の関係で海外に行っていることが多いからだ。この青い目のせいで、友達も作れなかった。小学校の頃家に遊びに行ったマコちゃんは、お母さんがもう遊んじゃダメって言うからと、あれ以来遊んだ記憶がない。何でもマコちゃんの母親は真理亜の目を見て驚いて、さらには遠野電機社長の愛娘だということを知って、とても家に呼べるような相手ではないと思ってしまったらしい。
 メグがこの家に来たのは二年ほど前のことだ。家事全般の手伝いとして、あくまでも使用人の一人として順次郎が雇ったのだった。けれど歳の近い、優しくて頭の回転の速い彼女に真理亜が思いのほか懐いたものだから、家事手伝い兼真理亜の話し相手として活躍してもらっている。
 ふんわりした黒髪は今流行りのボブスタイルで決まっていて、ぱっちりとした大きな瞳に長いまつげは見るものの目を惹いた。いつもはエプロン姿だから目立たないが、なによりスタイルもいい。そこらの女優やアイドルと比べても遜色ないほどで、真理亜とは大違いだ。彼女のことが真理亜は羨ましかった。
「メグさん……」
 一口ケーキを口に含むと、甘くて苦い思い出が蘇ってきてしまった。あの日から何度も頭の中で再生された菅野とのデートの思い出は、多少美化されているのかもしれない。けれどどのシーンを切り取っても彼は優しくて、なおさらなぜこんなことになってしまったのかがわからず、思わず涙が出てきてしまった。
「真理亜お嬢様、その方のことが本当にお好きだったんですね」
 涙が出てきたら鼻水まで出てきてしまって、顔がぐちゃぐちゃだ。そんな真理亜にチリ紙を渡しながら、メグが不思議と落ち着く声で話しかけてきた。
「真理亜お嬢様がそこまで思いあげた方なんですもの、きっとお優しい方だったんでしょうね」
「ええ、本当に。危ないところを、一度ならず二度も助けてくださったの」
「危ないところを?ああ、回転レストランの窓ガラスが割れた時ですか?」
 その時のことなら、順次郎が得意げに話していたからメグも知っているのだろう。
「けれど、二度もというのは?」
 そう聞き返されて、真理亜はあの時のことを言おうか言うまいか悩んだ。菅野には、言わないと約束した。もちろん、誰これ構わず吹聴するような真似は真理亜とてするつもりはなかった。第一そんなことを言ったところで、誰も信じてなどくれないだろう。
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