19 / 101
1964.8.17 北千住 3
しおりを挟む
「そう言えば、お嬢さんに連れまわされて東京駅に行ったんだ」
そうだ、彼らに言わなければならないことがある。英紀は思い出して口を開いた。
「東京駅?」
「ああ、新幹線を見に行きたいと彼女が言うものだから」
苦虫を噛み潰したかのような声で大月が呻いた。「そのお嬢様とやらにもずいぶん気に入られたようで何よりだよ。まるで子守じゃないか」
「子守か、まあそうかもしれないな。社長に言われたんだ。娘とデートするようにって、業務指示を出されたんだ。とはいえ初めて新幹線を見たものだから、楽しかったには楽しかったよ」
「新幹線ねぇ」
東京駅は栄二の職場の一つだ。阿呆みたいに電車を眺めている人々は格好のカモだった。
「なにかいい収穫でもあったのか」
そう言って、大月は親指と人差し指をくっつけて丸を作った。
「馬鹿言え。そんなこと今はしないさ。まさか、お前はまだやってるのか?」
英紀は大月を軽く睨む。孤児だった頃、こいつにやり方を教わって、大人から金目の物をくすめていた。でも、あれは仕方がなかったからだ。英紀は自分に言い聞かせる。
「まあな。おっと、そう睨むなよ。別に狙ってやってるわけじゃないんだ、手癖ってのは怖いもんでね、気付くと財布が手にあるんだよ」
「もうそんなことするのはやめろよ」
「俺だってやめたいんだがね、うっかりお宝を引き当てちまうんだな、これが」
にんまりと大月が笑う。「何を盗ったか知りたいか?実はな、かなり貴重なチケットを」
「そんなのはどうだっていい」
英紀は強い口調で遮った。「それより、そこでも大変なことがあったんだ」
調子よく話していたところを遮られ、不満そうに大月が返す。
「なんだ、お嬢さんが迷子にでもなったのか」
「いくらなんでもそこまで子供じゃないさ。ホームに停車した車両から突然火の手が上がってね。恐らく架線がショートして、そこから火が上がったんだとは思うんだが」
「そりゃあ大変だったな」
「ああ、その爆発にお嬢様が巻き込まれて、吹き飛んだんだ」
「吹き飛んだ?」
何をこいつは呑気に言っているのだろう。開けた口がふさがらず、大月は思わず聞き返した。「それで、お嬢さんは大丈夫だったのか?」
その爆発とやらがどのくらいの勢いだったのかはわからない。けれど吹き飛ばされるほどなのだ。例え命は助かったとしても、怪我や火傷をしてしまっているかもしれない。女の子の身でそれはかわいそうに、と大月は思った。だというのに目の前の男は、それを気にしている様子もない。そこでふと、大月はあることに思い至った。
「お前、まさか力を使ったのか?」
「仕方ないだろう、彼女だけじゃなくて、他の乗客らも危なかったんだ」
驚きのあまり、大月は咥えた煙草を落としそうになった。
「俺たち以外のやつの前で使うなって言っただろ」
「仕方がなかったんだ、あのままじゃ彼女は大けがだ」
「そりゃあ、そうだろうが……。お嬢様の口止めはしたのか?」
「ああ、指切りしてきたよ」
「指きりって、子供じゃあるまいし」
呆れた声で大月が言った。
「どうするんだ、そのお嬢様の気が変わったら。変に吹聴されて困るのはお前だぞ」
「命の恩人との約束を破るようなことはしないと彼女は言ってくれたんだ、それを信じるしかないだろう」
「なんだよ、やっぱりずいぶんお嬢様に入れ込んでるみたいじゃないか」
「そんなんじゃないさ。彼女は……僕みたいなのとは違う人間だ」
真理亜は悪い子ではないだろう。英紀は真理亜のまっすぐな青い瞳を思い出していた。嘘をつくような人間には思えなかった。もし妹が生きていたならば、彼女のように育っただろうか。
けれど彼女の周りはすべてが清らかな世界だ。虫の一匹も入る隙間もない。だから彼女には汚いものの存在が理解できない。銀座で浮浪者を見かけたときの真理亜のあの反応。見てはいけないものを見てしまったかのようだった。彼女の世界には、薄汚れた老人は存在してはいけないのだ。
ならば自分は?英紀は自問する。果たして自分が孤児で、一歩間違えれば自分だってあの浮浪者と似たような運命を辿っていたかもしれないと、彼女に告げたらどうなる?
惨めで哀れだわ。真理亜の声が頭に響いた。そんなこと、言える気がしなかった。あの綺麗な目で冷たく見られるのは嫌だった。
そうだ、彼らに言わなければならないことがある。英紀は思い出して口を開いた。
「東京駅?」
「ああ、新幹線を見に行きたいと彼女が言うものだから」
苦虫を噛み潰したかのような声で大月が呻いた。「そのお嬢様とやらにもずいぶん気に入られたようで何よりだよ。まるで子守じゃないか」
「子守か、まあそうかもしれないな。社長に言われたんだ。娘とデートするようにって、業務指示を出されたんだ。とはいえ初めて新幹線を見たものだから、楽しかったには楽しかったよ」
「新幹線ねぇ」
東京駅は栄二の職場の一つだ。阿呆みたいに電車を眺めている人々は格好のカモだった。
「なにかいい収穫でもあったのか」
そう言って、大月は親指と人差し指をくっつけて丸を作った。
「馬鹿言え。そんなこと今はしないさ。まさか、お前はまだやってるのか?」
英紀は大月を軽く睨む。孤児だった頃、こいつにやり方を教わって、大人から金目の物をくすめていた。でも、あれは仕方がなかったからだ。英紀は自分に言い聞かせる。
「まあな。おっと、そう睨むなよ。別に狙ってやってるわけじゃないんだ、手癖ってのは怖いもんでね、気付くと財布が手にあるんだよ」
「もうそんなことするのはやめろよ」
「俺だってやめたいんだがね、うっかりお宝を引き当てちまうんだな、これが」
にんまりと大月が笑う。「何を盗ったか知りたいか?実はな、かなり貴重なチケットを」
「そんなのはどうだっていい」
英紀は強い口調で遮った。「それより、そこでも大変なことがあったんだ」
調子よく話していたところを遮られ、不満そうに大月が返す。
「なんだ、お嬢さんが迷子にでもなったのか」
「いくらなんでもそこまで子供じゃないさ。ホームに停車した車両から突然火の手が上がってね。恐らく架線がショートして、そこから火が上がったんだとは思うんだが」
「そりゃあ大変だったな」
「ああ、その爆発にお嬢様が巻き込まれて、吹き飛んだんだ」
「吹き飛んだ?」
何をこいつは呑気に言っているのだろう。開けた口がふさがらず、大月は思わず聞き返した。「それで、お嬢さんは大丈夫だったのか?」
その爆発とやらがどのくらいの勢いだったのかはわからない。けれど吹き飛ばされるほどなのだ。例え命は助かったとしても、怪我や火傷をしてしまっているかもしれない。女の子の身でそれはかわいそうに、と大月は思った。だというのに目の前の男は、それを気にしている様子もない。そこでふと、大月はあることに思い至った。
「お前、まさか力を使ったのか?」
「仕方ないだろう、彼女だけじゃなくて、他の乗客らも危なかったんだ」
驚きのあまり、大月は咥えた煙草を落としそうになった。
「俺たち以外のやつの前で使うなって言っただろ」
「仕方がなかったんだ、あのままじゃ彼女は大けがだ」
「そりゃあ、そうだろうが……。お嬢様の口止めはしたのか?」
「ああ、指切りしてきたよ」
「指きりって、子供じゃあるまいし」
呆れた声で大月が言った。
「どうするんだ、そのお嬢様の気が変わったら。変に吹聴されて困るのはお前だぞ」
「命の恩人との約束を破るようなことはしないと彼女は言ってくれたんだ、それを信じるしかないだろう」
「なんだよ、やっぱりずいぶんお嬢様に入れ込んでるみたいじゃないか」
「そんなんじゃないさ。彼女は……僕みたいなのとは違う人間だ」
真理亜は悪い子ではないだろう。英紀は真理亜のまっすぐな青い瞳を思い出していた。嘘をつくような人間には思えなかった。もし妹が生きていたならば、彼女のように育っただろうか。
けれど彼女の周りはすべてが清らかな世界だ。虫の一匹も入る隙間もない。だから彼女には汚いものの存在が理解できない。銀座で浮浪者を見かけたときの真理亜のあの反応。見てはいけないものを見てしまったかのようだった。彼女の世界には、薄汚れた老人は存在してはいけないのだ。
ならば自分は?英紀は自問する。果たして自分が孤児で、一歩間違えれば自分だってあの浮浪者と似たような運命を辿っていたかもしれないと、彼女に告げたらどうなる?
惨めで哀れだわ。真理亜の声が頭に響いた。そんなこと、言える気がしなかった。あの綺麗な目で冷たく見られるのは嫌だった。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
俺は彼女に養われたい
のあはむら
恋愛
働かずに楽して生きる――それが主人公・桐崎霧の昔からの夢。幼い頃から貧しい家庭で育った霧は、「将来はお金持ちの女性と結婚してヒモになる」という不純極まりない目標を胸に抱いていた。だが、その夢を実現するためには、まず金持ちの女性と出会わなければならない。
そこで霧が目をつけたのは、大金持ちしか通えない超名門校「桜華院学園」。家庭の経済状況では到底通えないはずだったが、死に物狂いで勉強を重ね、特待生として入学を勝ち取った。
ところが、いざ入学してみるとそこはセレブだらけの異世界。性格のクセが強く一筋縄ではいかない相手ばかりだ。おまけに霧を敵視する女子も出現し、霧の前途は波乱だらけ!
「ヒモになるのも楽じゃない……!」
果たして桐崎はお金持ち女子と付き合い、夢のヒモライフを手に入れられるのか?
※他のサイトでも掲載しています。

ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
僕は君を思うと吐き気がする
月山 歩
恋愛
貧乏侯爵家だった私は、お金持ちの夫が亡くなると、次はその弟をあてがわれた。私は、母の生活の支援もしてもらいたいから、拒否できない。今度こそ、新しい夫に愛されてみたいけど、彼は、私を思うと吐き気がするそうです。再び白い結婚が始まった。
【完結】転生7年!ぼっち脱出して王宮ライフ満喫してたら王国の動乱に巻き込まれた少女戦記 〜愛でたいアイカは救国の姫になる
三矢さくら
ファンタジー
【完結しました】異世界からの召喚に応じて6歳児に転生したアイカは、護ってくれる結界に逆に閉じ込められた結果、山奥でサバイバル生活を始める。
こんなはずじゃなかった!
異世界の山奥で過ごすこと7年。ようやく結界が解けて、山を下りたアイカは王都ヴィアナで【天衣無縫の無頼姫】の異名をとる第3王女リティアと出会う。
珍しい物好きの王女に気に入られたアイカは、なんと侍女に取り立てられて王宮に!
やっと始まった異世界生活は、美男美女ぞろいの王宮生活!
右を見ても左を見ても「愛でたい」美人に美少女! 美男子に美少年ばかり!
アイカとリティア、まだまだ幼い侍女と王女が数奇な運命をたどる異世界王宮ファンタジー戦記。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる