1964年の魔法使い

鷲野ユキ

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1964.8.17 北千住 2

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「で、どうだったんだ?言ってたとおりに金は用意してもらえそうなのか?」
「それが……」
 返す英紀の唇は重かった。「まだ、切り出せていなくって」
「は?だってお前、パーティーだかに呼んでもらえるって言ってたじゃないか」
 イライラした様子で、大月は胸ポケットから煙草の入ったケースを取り出した。
「社長にお願いしてみるって言ってただろ?」
「それが、その。会場の窓ガラスが急に割れる騒ぎがあって、それどころじゃなくなってしまって……」
「おいおい、どんな下手な言い訳なんだよ。窓ガラスが割れた程度で、そんな騒ぎになんてなるもんか」
「ニューオータニの回転レストランの窓ガラスのほとんどが割れたんだ。ニュースになっていなかったか?」
 そう問う菅野自身は、テレビも見なければ新聞すら読まないので、世の流れには疎い。
「ニューオータニだって?ああ、草加次郎が再び現れただとかなんとか騒いでいたアレか?」
「草加次郎だって?」
 英紀が珍しく大声を上げたものだから、大月は咥えた煙草を落としそうになった。
「知らなかったのか?なんでも、落成式に紛れ込んだ草加次郎が、レストランのガラスを爆破したんだと」
「そうだったのか」
「本当かどうかは知らないぜ。ただ、ニュースやなんかだと、草加次郎と書かれたメモが現場には落ちていたんだと。だから警察は必死にあの場所にいた人間を洗いだしているらしい。一般人が紛れられる場所じゃないからな」
「まあ、僕みたいのが普通に行ける場所じゃなかったよ」
 華やかな会場と、食べられなかった色とりどりの料理を思い出して英紀はため息をついてしまった。
「にしても、すごいじゃないか。お前んとこの社長は経済界や政界のお偉いさんなのか?」
 落としかけた煙草をくわえ直し、大月が悠々と煙を人の家にまき散らかす。
「お前、すごいのに気に入られたな」
「気には入ってもらえているようだけど。まったく、僕なんかのどこがいいのかわからないよ」
「行き過ぎた謙遜は却って嫌味になるぜ」
 ふう、と煙を大月が英紀に向かって吹きかけてきた。
「ああ、同じことを社長にも言われたよ」
 吹きかけられた煙を、器用に扇風機の風で散らしながら英紀は答える。
「その上、何を思ったのか自分の娘まで僕に紹介してきてね」
「娘?」
「ああ、大切な一人娘に悪い虫が付くくらいなら、僕みたいな無害そうな男が一緒にいたほうが安心だって言うんだ」
 英紀はさすがに社長に言われたことをそっくりそのまま伝える気も起きず、省略して大月に話した。「その娘も可哀想だよな、せっかくのパーティーで僕みたいなのに引きあわされて」
「なんだよそれ、うまくいけば逆玉の輿ってか?」
「なるわけないだろう、彼女と僕じゃ、生きる世界が違い過ぎる」
「違うもんか。お前こそ、本当は俺たちとこそ生きる世界が違うのかもな」
「なんだよ、さみしいこと言うなよ。お前たちがいたから、僕はこうして今もなんとかやっていけてるんだ」
 大月や矢野に出会うまで、英紀はずっと一人だった。周りにうまくなじめなくて、自分の居場所がなかった。そこに声を掛けてくれたのが大月だった。しかもあの晩、自分のことを怖がらずに親しげに接してくれた――。
「彼女のことなんて、せいぜい妹くらいにしか見えないよ」
「妹、か。そういや、確かにあの子も青い目で――」
 大月が、過去のことを思い出したのだろう。この男にしては珍しく、沈んだ表情で口を開いたのでそれを押しとどめる。
「もう、そのことはいいんだ」
「……そうだな。きっとお前に送られて、天国で母親と幸せに過ごしてるさ」
 深く煙を吸って、大月が呟いた。
「今もこんなに思ってもらえるなら、生まれてきて良かったな、あの子は」
「そうだな」
 英紀は静かにうなずいた。

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