1964年の魔法使い

鷲野ユキ

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1964.8.15 東京駅 1

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「東京駅?いえ、僕はこのまま銀座から地下鉄に乗ったほうが、帰るには便利なんですが」
 真理亜の思いつきに、菅野が困ったような顔で返した。ここでこのまま別れてしまったら、二度とこの人と会うことは無いかもしれない。その思いが真理亜を突き動かした。
「帰るんじゃなくて、新幹線を見に行きましょうよ」
「新幹線って、東海道新幹線ですか?でもまだあれは開通してないでしょう」
 この年、オリンピックの開催に合わせて、東京と新大阪を結ぶ新たな路線が作られた。たった四時間で大阪まで行けるのだ。世界がぐっと自分に近づいたような気がした。
「でも、今度国鉄の総裁を乗せて走らせるために、試運転をしてるんだって、隣りの人が言っていたの」
 ちらと真理亜が隣の席を見れば、なにやら彼らは慌ただしく店を出て行ってしまった。
    きっと見に行くんだわ、新幹線を。
「ねえ、どうですか?早く行かないと、新幹線が新大阪に着いちゃうわ」
「新幹線ですか。そうですね、まあ……見るだけなら」
なにやらゴニョゴニョと言っているが、菅野は行くことに決めたらしい。「本当に『ひかり』みたいに速いらしいですから、どんなものかは気になります」
「なら決まりですね、行きましょう」
    これでもう少し、この人と一緒にいられる。真理亜は安堵した。出会ったばかりのこの人に、そんなことを思う自分が新鮮だった。
 真理亜たちは銀座駅から丸の内線で東京駅へと向かった。普段車で送り迎えしてもらうことの多い真理亜にとって地下鉄は珍しく、まわりをきょろきょろとしていると菅野に笑われてしまった。
「そんなに珍しいですか?」
「ええ、こんな地下深くを電車が走ってるなんて、すごいのね」
「はは。僕は毎日北千住から八丁堀まで電車通勤ですから、すごいだなんて思わなくなってしまいました。けれど確かにすごいですよね、地下鉄が出来たのなんて三十年前です。たった三十年で、蜘蛛の巣のように東京の地下には電車が走ってる。そりゃあ、二十年もあれば立派なホテルだって建つようになるし、オリンピックだって招致できるようになる」
「二十年?」
「戦争から約二十年ですよ」
「ふうん。私、まだ生まれる前だからよくわからないわ。菅野さんは戦争を経験なされたんですか?」
「ええ、といっても子どもでしたがね。まあ、せっかくの『デート』なんですから、そんな辛気臭い話はやめましょう。降りますよ」
 菅野に案内され、真理亜は電車から降り立った。地上へと向えば、そこでは堂々としたレンガ造りの、東京丸の内駅舎が真理亜たちを迎え入れてくれた。
「あまり電車に乗らないから新鮮だわ。とても素敵な建物ね」
 青空の元、八角形の屋根を空に突き上げるその姿はとても勇ましく見えた。
「東京の顔ですからね。戦後にいの一番で修復されたそうですよ」
 なぜだか得意げに菅野が口を開いた。「といっても、本来はこんな直線的な屋根じゃなくて、丸いドーム型の屋根だったんですけれど。急いで作ったものだから、こんな形になってしまったらしいです」
「あら、これだってかっこよくていいと思うけれど」
 しげしげと勇姿を眺めながら真理亜は続けた。「私、東京に生まれて本当に良かったわ。ここには、素晴らしいものがたくさんあるもの」
「そうですね。ここからなら日本中どこだって、外国にだって行けるでしょう」
「ええ。世界中を旅してみたいわ」
「きっと真理亜さんなら見に行けるでしょう」
    そう微笑む菅野の顔は、少し寂しそうだった。いかに自由に海外に行ける時代が来たとは言え、外国に行くには金がかかる。民主主義が導入され、富が分配されるようになったらしいが、庶民には海外旅行など高根の花だ。
    けれどはしゃぐ気持ちでいっぱいの真理亜がそれに気づくはずもなく、入場切符にハサミを入れてもらって駅構内へと進んでいく。新幹線ホームの近くには人だかりができていて、どうやら試運転のウワサを聞きつけた人々が集まっているようだった。夏休みだからだろうか子供連れも多く、ぐずる子供たちの声が入り乱れてやかましい。
「すごい人ですね」
「ええ。そりゃあみんな、見てみたいわよ。そんな早い乗り物、他にはないんだから。でも、本当に見られるのかしら」不安になって真理亜が呟いた。
「まあ、絶対に十月一日の開業予定日までには安全に走行できる状態にしておきたいでしょうから、頻繁に動かしているって言うのは本当なんだと思います」
 これで案外乗り物好きなのだろうか、意外にも菅野は乗り気のようで、真理亜の手を引いて歩いていく。
「混んでいる新幹線のホームより、こっちの方がいいかもしれない」
    新幹線と並行して走る東海道本線は、東京と横浜や名古屋などの都市間を結ぶ路線だ。遠くへ行くのだろう、大きな荷物を抱えた人たちが、「つばめ」や「はと」などの優等列車に乗り込んで行った。
「ツバメやハトじゃあ、いくらなんでも「ひかり」には敵わないですね。きっと新幹線が開通したら、そのうち無くなってしまうんでしょう」
 少しさみしそうに菅野が呟いた。
「菅野さん、電車にお詳しいんですね。お好きなんですか?」
「ええ、まあ。いい年して恥ずかしいんですが、三つ子の魂百までとはよく言ったもので、どうにも昔憧れていたものは嫌いになれない」
「いいじゃありませんの。好きなものは多い方がいいに決まってますもの。それじゃあ菅野さんは、名古屋や大阪にはよく行かれるんですか」
「とんでもない。そんな頻繁に旅行できるほど僕は恵まれていませんから。真理亜さんはよく旅行に?」
「いいえ。時折お父様のお仕事の都合で大阪くらいは付いて行くけれど、それ以外は全然。お兄様なんて海外を飛び回っているのに。ずるいわ」
「意外だな。もっといろいろなところに遊びに行ってるもんだと思ってた」
「私一人じゃどこにも行けないもの」
「なぜ?」
「だって……」そんなこと、考えたこともなかった。けれど漠然と、女一人で旅行なんて行けるはずがないと思っていた。
「世界中を旅してみたいんでしょう?僕と違って、それが可能な世界に貴女は生まれたんだ。出来ることや、したいことはしておいた方がいい」
 思いのほか強い口調で菅野に言われて、真理亜は面喰ってしまった。「世界だなんて。でもそれは菅野さんも同じでしょう?私たちは、新しい日本にいるんだから」
 そう真理亜が口を開いたところで、フォォォン、と鋭い警笛があたりに響いた。
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