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山姫さま お金を稼ぐ
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夜が明け、朝の眩しい光が差してきました。
多少寝なくても山姫さまは大丈夫ですが、オコジョと狐はそうはいきません。彼らは深夜に人里に着くと、休めるところを探すことにしました。
姫さまの行方も気がかりですが、ここで倒れてしまってはどうしようもありません。
二人はなるべく人気のない場所を探し、とにかく一度獣の姿にもどり、しばらく仮眠を取ったあと、朝日が出るのと同時に再び人に化けて茂みを出てきました。
朝の早い農家のおじさんに見られてしまい、なぜだかニヤニヤと笑われましたが、この姿なら撃たれたり、つかまったりすることもありません。不審な人間の様子など捨て置いて、二人は姫さまの捜査を開始します。
くんくんと鼻をひくつかせ、姫さまの香りを追っていきますと、なにやらそれとは別の、おいしそうな匂いがしてきました。
おそらく朝食の時間なのでしょう。いままで人けもまばらで、しずかな富士山麓の村でしたが、太陽の上昇とともに、どんどんと活気が取り戻されていっているようでした。
その光景に物珍しいオコジョはキョロキョロと、狐はそんなことより姫さまだと、香りの後をたどっていきますと、ちょうど美味しそうな匂いのしていた民家の陰に、黒い長髪の、麻の着物を身に着けた女性が、うずくまっているではありませんか!
「あ、姫さま!!ごぶじですか!?」
探し人を見つけられた安堵から、オコジョの白い髪の間からひょこ、と耳が出てきました。
これを馬鹿!といってその手で撫でるように隠しながら、狐がオコジョもろとも姫さまに近づいていきます。
「山姫さま、おけがはございませんか。さあ、はやくお山に戻りましょう。今ならお父上さまの怒りもさほどではございませんでしょうに」
うやうやしく話しかける狐でしたが、山姫さまは返事をしません。かわりに、ぐぅ、という音が聞こえてきました。そう、山姫さまのお腹のあたりから、です
。
「……姫さま、もしや、お腹を空かせていらっしゃるのですか?」
狐は困惑しながら聞きました。なぜなら、いままで姫さまが何かを食べているところなど、見たことがなかったからです。
お山におわしましたときは、姫さまは山からあふれ出る精気をとっていたのです。もちろんそんな芸当は、狐やオコジョにはできません。だけどお山を離れてしまった今、そうなるのは当然のことのように、狐には思えました。
それに、深夜の労働で、狐もオコジョもお腹が空いてしまっていました。エネルギーが切れれば、とくに変身に不慣れなオコジョあたりは、すぐこうやって耳やしっぽをだしてしまうかもしれません。
無事にお山に返すためにも、それは望ましいことだとは思えませんでした。ですから狐は持ってきた袋の中をチラリと見やると、
「領収書切ってもらえばなんとか……」
とか言いながら、二人を近くのレストランに連れて行ってあげたのでした。
想像以上の食べっぷりをみせ、狐の財布を脅かした山姫さまは、お腹がいっぱいになって落ち着いたのでしょう、ようやく口をひらいてくれました。
「よもや、ここまで早く追っ手につかまるとは思わなんだ。まして、このわらわが空腹を覚えるなどと」
この展開はさすがの賢い山姫さまでも、想定できなかったようでした。
すっかり姫さまは意気消沈しておりましたから、ここで畳み掛けて帰るよう促そう、とオコジョと狐が山姫さまの説得にかかります。
「姫さま、こんなところにいるのはやめましょう、はやくお山に帰りましょうよ」
「そうです姫さま、お父上さまも心配していらっしゃるでしょうし、お山を離れれば離れるほど、姫さまのお力は弱まってしまうのですから、よいことなどなにもありませんぞ」
そうです、すべて山姫さまの超人的な力の数々は、お山の神聖な精気あってのものでした。
でしたから、お山を離れてしまえばこうやってお腹も空きますし、一足で千里を駆けるような力もなくなってしまいます。
それにもし誰かが姫さまに悪さをしても、それを懲らしめてくれる強い父上もおりません。
その事実はひどく姫さまを不安にさせましたが、その一方、これは人魚姫が受けたハンデに近いのではないだろうか、とも考えました。
そうだ、ようやくわらわはこれで人間と同じ土俵に立つことが出来たのだ。
そう思うと、お腹がいっぱいになったこともあって、がぜん姫さまはやる気を出してしまいました。
そうだ、少なくともこのスマホとやらをまた使えるようにしなくては。
それにこの機械はあの晩小屋で会った男のものです。もしかしたら再び出会うための何か手がかりになるかもしれません。
ですから当面姫さまは、この機械を何とかしてから、海に出ようと思っていたのです。直接人魚姫に、どうやったらテーマパークまで作ってもらえるほど、愛されるのかを聞いた方が早いだろう、と考えて。
ですから、ここで連れ戻されるわけにはいかないのです。この二人をどうしよう、姫さまが思案していますと、なにやらコツコツ、という音が聞こえてきました。レストランの窓をたたく何者かがいるのです。
狐がそれを見に行きますと、お山のツグミでした。
ああもう、父上にも見つかってしまったのか。
窓の外のツグミに会いに行く狐を見て、山姫さまはがっくりと肩を落とします。
山の神であるお父さまに直接引き戻されてしまったら、力などない今の山姫さまにあらがう術はありません。
しかし落ち込む姫さまに対し、狐が持ってきたのは、
「そのままどこへでも行くがよい」
という、想像だにしなかった、お父さまからの、思っていた以上に冷たい一言でした。
その言葉をもたらした狐も、それを聞いたオコジョも、ひどく驚いたような、悲しい顔をしています。
だけど一番後悔しているのは、山姫さまです。
「わらわは、なんとうかつな行為に、走ってしまったのだろうか」
今まであんなに父に見つかることを恐れていたのに、いざ自由を引き渡されると、こんなにも不安になるものなのでしょうか。
はらはらとその両の眼から涙が流れていきます。かつては山姫が涙を流せばたちまち雨が降ったのですが、窓の外ではそのような気配などまったくありません。
姫さまは、その力とともに、父親をも失ってしまったのでした。
さて、困ったのは二人です。いくら山の神さまに、どこにでも行けと言われたからといって、山姫さまをこのまま放っておくわけにもいきません。
それに、もしかしたら姫さまが山を出てしまった責任を、負わされてしまうかもしれません。あの優しくて偉大な山の神さまが、そんなことをするかはわかりませんでしたが、あんなにかわいがっていた山姫さまを手放したのです。
少なくとも、すぐには帰れなさそうです。
「……姫さま、姫さまの希望通り、自由が手に入りましたぞ。して姫さまは、これからどうなさるおつもりか」
ちょっと嫌味になってしまったかもしれません。
そんな聞き方をしたのは狐でした。そんな狐をオコジョがキッ、と睨みつけましたが、狐は涼しい顔です。
そうです、自由を得るには何かを失うのです。
自由に限らず、すべてのものは、なにかを失って得られるように出来ている。
それを狐は知っていました。だから、ここで食べたご飯の代金として、狐がこっそりためていたお金が失われてしまう、ということも。
狐の問いに対して、しばらく裾を涙で濡らしていたお姫さまでしたが、やがてそのまなじりを開くと、
「わらわは、やはり海を目指し、人魚姫に会おうと思う」
と強い声で言いました。
「人魚姫?」
なぜお姫さまが山を飛び出ることとなったのかを知らない狐は、不思議そうに返します。
そこで、オコジョが説明をしました。山姫さまは、人魚姫のようになりたかったのだ、と。
狐にはちんぷんかんぷんです。
物知りで、人間社会とも少し関わりを持っている狐は、『人魚姫』というものが他の国のおとぎ話である、ということを知っていましたから。
ただ、それを言ってしまうのは、この状況ではひどくまずいことのように思われました。
せっかく希望の光を灯してくれた姫さまの瞳を、永遠の暗闇の中に投げ込んでしまうかもしれないからです。
それに、あのお話の人魚姫はいないだろうけれど、海に行けば人魚はいるかもしれません。
現にここに山の神の娘や、人に化けた狐やオコジョがいるのです。それに狐の知り合いの狸なぞは、人に姿を変えて、どこかの都会でうまいこと人間と暮らしているとも伝え聞いています。
ですから、狐は慎重に言葉を選び、前向きに申し上げました。
「それは良い考えです、山姫さま」
(ここで狐は少し声を落としました。レストランの店主に聞かれると面倒だと思ったのです)
「我々以外の、人間以外のものが、どうやって人間の世界で暮らしているのを実際に聞くのは為になりましょう。それに、山に帰れない以上、われわれはこれからずっと、人間としてふるまっていかなければならないのですから」
「ずっと人間のふりしてなきゃいけないの!?」
思わず大きな声を出してしまったのはオコジョです。狐はシッ、とオコジョの口を慌てて塞ぐと、店主の方を盗み見ました。
しかし店主はまだ昼前だというのに、さっそく昼寝をしているようで、耳には入っていないようでした。
狐はほっと胸を撫で下ろし、オコジョの頭をポコンとかるくはたきました。
思わず出かけていた耳を戻し、オコジョは恨めしげに狐を見ています。それをモノともせず、狐は再び姫さまを見やります。
「すまない、二人とも。二人はどうぞお山に帰ってくれ。これはすべて、わらわの責任なのだから」
姫さまを見やる狐の視線をしっかりと受け、山姫さまはそう、狐とオコジョに言いました。
今まで好き放題をしてきたお姫さまが、初めて責任という言葉を口にしました。まさにその身をもって学んだのです。自由と、それに対する責任というものに。
姫さまはそう言ってくれましたが、ここで帰れるとも二人は思っていません。
彼らとて、山姫さまには程遠く及びませんが、日本一のお山で、長い時を過ごしてきた、精霊の端くれです。
そして、彼らは本当に長い間、山姫さまに仕えてきたのです。ここまできて一蓮托生にならないわけがありません。
ですから、
「では姫さま、皆で一緒に海に行く計画を立てましょう。夏の時期ならば、人間たちはその海とやらに入って遊ぶのだそうです。たのしみですな。」
と狐は返したのです。
この言葉に姫さまは、思わず再びの涙を流したのでありました。
店主が居眠りをしているのをいいことに、人間ではない三人は、これからどうするかを話し合いました。それは姫さまとオコジョへの、人間社会での振る舞いについての話も含まれていました。そして決まったなによりも重大なことは、まずはお金を用意しなければならない、ということでした。
「せめて宝石でも、あのお山から持ってこられれば良かったのだが」
後悔するのは狐ですが、今更悔やんだところでどうしようもありません。
なにしろ慌てて出てきたものですから、狐が財布を持ってきてくれただけでも、でかしたものです。
「ところでそれは、どうやって手に入れたの?」
オコジョが不思議そうに狐に問いかけます。
先ほど受けたレクチャーによると、お金というものは何かをした対価として支払われる、とのことでした。
そのような概念は彼らにはなかったのですが、獲物を得るためにアクセク走り回らなければならないことに落とし込んで考えれば、なんとなくわかるような気もします。
そうなれば、以前に狐はどこかで働いたことがあるとでもいうのでしょうか。
「ああこれは、稲荷神社で参拝客からコツコツと頂いてきた賽銭だよ。いやあ、狐だってだけでお金を落としてくれるんだ。まったく人間というのは優しいのか、馬鹿なのかわからないね」
クックック、と笑いながら狐が言いました。ならば同じ方法でお金を集められないか、とオコジョが問いますと、
「いやあ、あれは効率が悪すぎる。これだけ集めるのに何年かかったと思ってるんだ」
と返されてしまいました。
「あとは、何かお金に変えてもらえそうなものを、用意するしかないな。そうだな、オコジョ。君をペットショップに売るというのは」
「ペットショップ?」
「動物たちが売られているお店だよ。人間は、かわいがるために動物を飼うんだ。それを売っている店だ」
「いやだよ、私は人間に売られたくなどないよ!」
「冗談だよ。大体こんな希少動物を持って行ったら、多分俺は人間につかまってしまう。あとはそうだな、昔なら髪の毛なんかも高く売れたんだが、今はどうだか。オコジョの毛も短いしな、せめて冬毛なら長くて良かったかもしれんが」
狐は思案気に、瞳を閉じて考えています。
そこへ、責任の重大さに押しつぶされそうになったのでしょうか、姫さまが沈痛な声でこう言いました。
「髪なら、わらわの髪はどうだろうか」と。
もちろん狐は、姫さまの髪を売り払おうだなどと露にも思っていませんでした。
ですから、この予想外の申し出に驚き、やめさせようと口を開いたのですが、あまりに姫さまが覚悟を決めた表情をしていらっしゃったので、おもわず口をつぐんでしまいました。
「……姫さま、まだ髪の毛が売れるともわかりませんし、いざとなれば私のしっぽでも切り取ってしまえば、多少の足しになりましょう。なに、人の形でいるにはしっぽはいりませんからね」
そう狐は言い直すと、そろそろ目覚めそうな店主に気付き、支払いを済ませると店の外に出たのでした。
とりあえず店の外に出てみたものの、とはいえまったく彼らには、よい算段など思い浮かびません。
そして、どちらに行けば目指す海とやらがあるのかもわかりません。そこで姫さまはおもわずつぶやきました。
「ああ、せめてこのスマホが動けばのぅ」
「すまほ?それはなんですか」
思わず聞き返すのは狐です。彼がいくらこのなかでは人間社会に詳しいとはいえ、それでも前にふもとに下りたのはだいぶ前です。
それに行く範囲も限られますから、彼が知っている人間のことなど、ほんの一部にしか過ぎないのです。
ですから、姫さまは狐に「すまほ」がいかに素晴らしいものなのかを伝えました。特に、知りたい情報を得るのにすぐれているかを、です。
「そんな素晴らしいものがあるのでしたら、早くそれを使えるようにしなければなりませんね。しかしこんな薄い板、なんの力で動いているのやら」
そうしげしげと、狐はその板を眺めます。そして彼は思い出しました。
いまや人間の多くが、電気というものを使っているのだ、ということを。
狐のおかげで、彼らは電気屋へと移動して(ずいぶんと探し回ってしまいました)、彼らは充電器を手に入れました。
そこの電気屋の店主はとても親切で、充電のやり方を丁寧に教えてくれました。
ただ全員着物で一人は白髪、一人は金茶、もう一人は黒の異様に長いロングでしたから、「あなたがたは和風パンクロックでもやっているのかい?」と、とても訝しがられてしまったのですが。
おかげで姫さまは、以前より人間に興味を持つようになりました。
いままでお山に迷い込んできた人間は彼女の玩具でしかなかったのですが、そこでようやく、いたずらに戯れた人間に、悪いことをしてしまったな、と思えたのです。
ああ、あの人間の行方はどうなってしまったのでしょう!
きっと、お父さまが、お山の奥の、深く深くじめじめとしたところに、追いやってしまったに違いありません。
親切な人間のおかげで、ようやく海に行く方法がわかった一行でしたが、ですがこれでもう、狐の財布の中はすっからかんです。
しかし海に行くには、「バス」や「電車」というものを使わなければならない、とのことでした。
それを使うと、駿河湾という海の方まで4,5時間で行ける、とのことでした。
だけどやっぱり、そこに行くにはお金がかかります。先ほど狐が払ってくれたお金の、何倍ものお金が。
さて、ここで彼らは振出しに戻ってしまいました。
日は高々と昇り、どうやらお昼のようです。ふだんなら気にも留めない時間の経過ですが、お山の精気が届かず、普通の人間と同じになってしまった姫さまたちは、もうすでにお腹が空いてしまって困ってしまうのでした。
人間というものが、こんなに面倒なものだとは。
姫さまは、大変だわ、と感心しました。そして、あのお山の、そこで神を務める父の偉大さを思い知ったのでした。
いまでも振り返ればすぐにお山が見えるのです。しかしわずかこれだけしか離れていないのに、あっというまに力を失ってしまった姫さまは、初めて自分の非力さや不甲斐なさを恨むのでした。
そうしてやっぱり、この二人のおつきを巻き込んでしまった責任を、果たさなければならない、と姫さまは強く思うのでした。
だって、少なくともお昼を食べなければ、ここにいる全員はすっかりお腹を空かせてしまって、動けなくなってしまいましたから。
そこで姫さまは、やはり髪の毛を売ることは本当に出来ないのかしら、と考えました。
今まで丁寧に手入れをしてきたこの長髪ですから、手放すのは惜しいのですが、しかし町ゆく人々、とくに姫さまと同じぐらいの女性たちは、ここまで長い髪を持っておりません。
昔に見た人間の女性は、大体その長い髪を誇りにしていたのですが、過ぎゆくときの流れの中で、それは今や誇りでも何でもないようでした。
それならば、おしゃれが好きで、そのために人間の集まる小屋に貢物を頂戴しに――いえこれは立派な窃盗ですね、物を買う、という概念を理解した姫さまは、あれが良くないことだったのだと今は後悔をしています――、そのくらいのことをしてきた姫さまは、まわりの女の子たちがしているおしゃれをしてみたい、と思ったのです。
それはオコジョも同じのようで、先ほどから珍しいものばかりで、きょろきょろしていますが、着物ではなくてあのふわっとした袴のようなものや、肩口までしか袖のない、涼しそうな着物を着てみたいと思っていたのでした。ただ、あのカサカサとした布だけはごめんでしたが。
そう思いながら当てもなく歩いていますと、なにやら不思議なにおいのする、全面ガラス張りのお店の前を通りました。
そのお店では、刃物を持った人間が、下に座っている人間の髪の毛を、バサリバサリと切っているではありませんか!
あの人は、自分の髪を売りに来たのだろう、美容室など来たことのない姫さまは、そう思いました。
そして先を歩く狐やオコジョに断ることなく、とつぜんその店の扉を開けて、中に入ってしまったのです。
だって正直に「髪を売るの」といえば、二人には止められることが目に見えていましたから。
驚いたのは先を行く二人でしたが、姫さまがいなくなったので慌てて戻ってみますと、なんと姫さまの髪が切られようとしているではありませんか!
二人は乱暴に扉を開けますと、中の人間たちは目を丸くしてこちらを見ています。だけど、ほんの数秒、遅かったのです。あれほど長かった髪は、なんと肩より上で、切られてしまったではないですか。
「姫さま!せっかくの御髪になんてことを!」
大きな声で叫ぶのはオコジョです。
しかし彼女は、その店の人間に、「あらあなた、きれいなシルバーへアね。どこで染めてるの?」と声を掛けられ、一方狐の方は「お兄さん、イケメンじゃない。うちでカットモデルやりません?」と声を掛けられタジタジです。
そして、意外にも、姫さまの髪にはさみを入れた人間――美容師というそうです、も、冷や汗を流してタジタジでした。
なにせ姫さまは、山の神さまが誇る、絶世の美女なのです。
その美女の髪形を下手にいじって、大変なことになったらどうしようと、生きた心地がしなかったのです。
店の人間も、さんざん姫さまを止めはしたのです。確かにこの髪なら、上質なウィッグがたくさん作れるけれど、せっかくここまできれいに伸ばした髪を売ってしまっていいのか?と。
しかしとにかく短く切って、この毛を買い取ってほしいと言って聞かないものですから、仕方なく美容師は、彼女の髪をショートボブに整えてあげました。
それは思いのほか、彼女に似合っていました。
最初はハラハラと見守っていた二人でしたが、完成した姫さまの髪形はとても似合っていて、二人は歓声を上げました。
そして、思っていた以上の価格で髪を買い取ってくれて、しかもカット代も取らないでくれたこの店にお礼を告げ、外に出ました。
「案外、人間というものは、良い奴らなのかもしれぬ」
姫さまはそう言いました。ただ、それは姫さまがいま、人間と同じ状態だから、人間たちは迎え入れてくれているのですが。
お金を手にした三人は、とりあえず腹ごしらえを済ませ、二人の希望と、やはりこの昔風の着物は目立って仕方がないようだという狐の判断で、次に着替えを購入しました。
姫さまは白のワンピース、オコジョは白のカットソーにピンクのスカート、狐はTシャツにジーンズというラフな格好です。
履物も、草履より足にフィットする、スニーカーやサンダルというものに変えましたので、これでだんぜん歩きやすくなりました。
さて、オコジョの希望も叶いましたし、いよいよ海に向けて出発です。
バスに乗り、電車に乗り。どちらも皆、初めての体験なので驚きの連続です。
電車の窓から遠く、遠く離れていくお山を眺めていると、あんなに良かった天気が崩れ、雨がポツリ、ポツリと振ってきました。
まるで、お山が泣いているようでした。
多少寝なくても山姫さまは大丈夫ですが、オコジョと狐はそうはいきません。彼らは深夜に人里に着くと、休めるところを探すことにしました。
姫さまの行方も気がかりですが、ここで倒れてしまってはどうしようもありません。
二人はなるべく人気のない場所を探し、とにかく一度獣の姿にもどり、しばらく仮眠を取ったあと、朝日が出るのと同時に再び人に化けて茂みを出てきました。
朝の早い農家のおじさんに見られてしまい、なぜだかニヤニヤと笑われましたが、この姿なら撃たれたり、つかまったりすることもありません。不審な人間の様子など捨て置いて、二人は姫さまの捜査を開始します。
くんくんと鼻をひくつかせ、姫さまの香りを追っていきますと、なにやらそれとは別の、おいしそうな匂いがしてきました。
おそらく朝食の時間なのでしょう。いままで人けもまばらで、しずかな富士山麓の村でしたが、太陽の上昇とともに、どんどんと活気が取り戻されていっているようでした。
その光景に物珍しいオコジョはキョロキョロと、狐はそんなことより姫さまだと、香りの後をたどっていきますと、ちょうど美味しそうな匂いのしていた民家の陰に、黒い長髪の、麻の着物を身に着けた女性が、うずくまっているではありませんか!
「あ、姫さま!!ごぶじですか!?」
探し人を見つけられた安堵から、オコジョの白い髪の間からひょこ、と耳が出てきました。
これを馬鹿!といってその手で撫でるように隠しながら、狐がオコジョもろとも姫さまに近づいていきます。
「山姫さま、おけがはございませんか。さあ、はやくお山に戻りましょう。今ならお父上さまの怒りもさほどではございませんでしょうに」
うやうやしく話しかける狐でしたが、山姫さまは返事をしません。かわりに、ぐぅ、という音が聞こえてきました。そう、山姫さまのお腹のあたりから、です
。
「……姫さま、もしや、お腹を空かせていらっしゃるのですか?」
狐は困惑しながら聞きました。なぜなら、いままで姫さまが何かを食べているところなど、見たことがなかったからです。
お山におわしましたときは、姫さまは山からあふれ出る精気をとっていたのです。もちろんそんな芸当は、狐やオコジョにはできません。だけどお山を離れてしまった今、そうなるのは当然のことのように、狐には思えました。
それに、深夜の労働で、狐もオコジョもお腹が空いてしまっていました。エネルギーが切れれば、とくに変身に不慣れなオコジョあたりは、すぐこうやって耳やしっぽをだしてしまうかもしれません。
無事にお山に返すためにも、それは望ましいことだとは思えませんでした。ですから狐は持ってきた袋の中をチラリと見やると、
「領収書切ってもらえばなんとか……」
とか言いながら、二人を近くのレストランに連れて行ってあげたのでした。
想像以上の食べっぷりをみせ、狐の財布を脅かした山姫さまは、お腹がいっぱいになって落ち着いたのでしょう、ようやく口をひらいてくれました。
「よもや、ここまで早く追っ手につかまるとは思わなんだ。まして、このわらわが空腹を覚えるなどと」
この展開はさすがの賢い山姫さまでも、想定できなかったようでした。
すっかり姫さまは意気消沈しておりましたから、ここで畳み掛けて帰るよう促そう、とオコジョと狐が山姫さまの説得にかかります。
「姫さま、こんなところにいるのはやめましょう、はやくお山に帰りましょうよ」
「そうです姫さま、お父上さまも心配していらっしゃるでしょうし、お山を離れれば離れるほど、姫さまのお力は弱まってしまうのですから、よいことなどなにもありませんぞ」
そうです、すべて山姫さまの超人的な力の数々は、お山の神聖な精気あってのものでした。
でしたから、お山を離れてしまえばこうやってお腹も空きますし、一足で千里を駆けるような力もなくなってしまいます。
それにもし誰かが姫さまに悪さをしても、それを懲らしめてくれる強い父上もおりません。
その事実はひどく姫さまを不安にさせましたが、その一方、これは人魚姫が受けたハンデに近いのではないだろうか、とも考えました。
そうだ、ようやくわらわはこれで人間と同じ土俵に立つことが出来たのだ。
そう思うと、お腹がいっぱいになったこともあって、がぜん姫さまはやる気を出してしまいました。
そうだ、少なくともこのスマホとやらをまた使えるようにしなくては。
それにこの機械はあの晩小屋で会った男のものです。もしかしたら再び出会うための何か手がかりになるかもしれません。
ですから当面姫さまは、この機械を何とかしてから、海に出ようと思っていたのです。直接人魚姫に、どうやったらテーマパークまで作ってもらえるほど、愛されるのかを聞いた方が早いだろう、と考えて。
ですから、ここで連れ戻されるわけにはいかないのです。この二人をどうしよう、姫さまが思案していますと、なにやらコツコツ、という音が聞こえてきました。レストランの窓をたたく何者かがいるのです。
狐がそれを見に行きますと、お山のツグミでした。
ああもう、父上にも見つかってしまったのか。
窓の外のツグミに会いに行く狐を見て、山姫さまはがっくりと肩を落とします。
山の神であるお父さまに直接引き戻されてしまったら、力などない今の山姫さまにあらがう術はありません。
しかし落ち込む姫さまに対し、狐が持ってきたのは、
「そのままどこへでも行くがよい」
という、想像だにしなかった、お父さまからの、思っていた以上に冷たい一言でした。
その言葉をもたらした狐も、それを聞いたオコジョも、ひどく驚いたような、悲しい顔をしています。
だけど一番後悔しているのは、山姫さまです。
「わらわは、なんとうかつな行為に、走ってしまったのだろうか」
今まであんなに父に見つかることを恐れていたのに、いざ自由を引き渡されると、こんなにも不安になるものなのでしょうか。
はらはらとその両の眼から涙が流れていきます。かつては山姫が涙を流せばたちまち雨が降ったのですが、窓の外ではそのような気配などまったくありません。
姫さまは、その力とともに、父親をも失ってしまったのでした。
さて、困ったのは二人です。いくら山の神さまに、どこにでも行けと言われたからといって、山姫さまをこのまま放っておくわけにもいきません。
それに、もしかしたら姫さまが山を出てしまった責任を、負わされてしまうかもしれません。あの優しくて偉大な山の神さまが、そんなことをするかはわかりませんでしたが、あんなにかわいがっていた山姫さまを手放したのです。
少なくとも、すぐには帰れなさそうです。
「……姫さま、姫さまの希望通り、自由が手に入りましたぞ。して姫さまは、これからどうなさるおつもりか」
ちょっと嫌味になってしまったかもしれません。
そんな聞き方をしたのは狐でした。そんな狐をオコジョがキッ、と睨みつけましたが、狐は涼しい顔です。
そうです、自由を得るには何かを失うのです。
自由に限らず、すべてのものは、なにかを失って得られるように出来ている。
それを狐は知っていました。だから、ここで食べたご飯の代金として、狐がこっそりためていたお金が失われてしまう、ということも。
狐の問いに対して、しばらく裾を涙で濡らしていたお姫さまでしたが、やがてそのまなじりを開くと、
「わらわは、やはり海を目指し、人魚姫に会おうと思う」
と強い声で言いました。
「人魚姫?」
なぜお姫さまが山を飛び出ることとなったのかを知らない狐は、不思議そうに返します。
そこで、オコジョが説明をしました。山姫さまは、人魚姫のようになりたかったのだ、と。
狐にはちんぷんかんぷんです。
物知りで、人間社会とも少し関わりを持っている狐は、『人魚姫』というものが他の国のおとぎ話である、ということを知っていましたから。
ただ、それを言ってしまうのは、この状況ではひどくまずいことのように思われました。
せっかく希望の光を灯してくれた姫さまの瞳を、永遠の暗闇の中に投げ込んでしまうかもしれないからです。
それに、あのお話の人魚姫はいないだろうけれど、海に行けば人魚はいるかもしれません。
現にここに山の神の娘や、人に化けた狐やオコジョがいるのです。それに狐の知り合いの狸なぞは、人に姿を変えて、どこかの都会でうまいこと人間と暮らしているとも伝え聞いています。
ですから、狐は慎重に言葉を選び、前向きに申し上げました。
「それは良い考えです、山姫さま」
(ここで狐は少し声を落としました。レストランの店主に聞かれると面倒だと思ったのです)
「我々以外の、人間以外のものが、どうやって人間の世界で暮らしているのを実際に聞くのは為になりましょう。それに、山に帰れない以上、われわれはこれからずっと、人間としてふるまっていかなければならないのですから」
「ずっと人間のふりしてなきゃいけないの!?」
思わず大きな声を出してしまったのはオコジョです。狐はシッ、とオコジョの口を慌てて塞ぐと、店主の方を盗み見ました。
しかし店主はまだ昼前だというのに、さっそく昼寝をしているようで、耳には入っていないようでした。
狐はほっと胸を撫で下ろし、オコジョの頭をポコンとかるくはたきました。
思わず出かけていた耳を戻し、オコジョは恨めしげに狐を見ています。それをモノともせず、狐は再び姫さまを見やります。
「すまない、二人とも。二人はどうぞお山に帰ってくれ。これはすべて、わらわの責任なのだから」
姫さまを見やる狐の視線をしっかりと受け、山姫さまはそう、狐とオコジョに言いました。
今まで好き放題をしてきたお姫さまが、初めて責任という言葉を口にしました。まさにその身をもって学んだのです。自由と、それに対する責任というものに。
姫さまはそう言ってくれましたが、ここで帰れるとも二人は思っていません。
彼らとて、山姫さまには程遠く及びませんが、日本一のお山で、長い時を過ごしてきた、精霊の端くれです。
そして、彼らは本当に長い間、山姫さまに仕えてきたのです。ここまできて一蓮托生にならないわけがありません。
ですから、
「では姫さま、皆で一緒に海に行く計画を立てましょう。夏の時期ならば、人間たちはその海とやらに入って遊ぶのだそうです。たのしみですな。」
と狐は返したのです。
この言葉に姫さまは、思わず再びの涙を流したのでありました。
店主が居眠りをしているのをいいことに、人間ではない三人は、これからどうするかを話し合いました。それは姫さまとオコジョへの、人間社会での振る舞いについての話も含まれていました。そして決まったなによりも重大なことは、まずはお金を用意しなければならない、ということでした。
「せめて宝石でも、あのお山から持ってこられれば良かったのだが」
後悔するのは狐ですが、今更悔やんだところでどうしようもありません。
なにしろ慌てて出てきたものですから、狐が財布を持ってきてくれただけでも、でかしたものです。
「ところでそれは、どうやって手に入れたの?」
オコジョが不思議そうに狐に問いかけます。
先ほど受けたレクチャーによると、お金というものは何かをした対価として支払われる、とのことでした。
そのような概念は彼らにはなかったのですが、獲物を得るためにアクセク走り回らなければならないことに落とし込んで考えれば、なんとなくわかるような気もします。
そうなれば、以前に狐はどこかで働いたことがあるとでもいうのでしょうか。
「ああこれは、稲荷神社で参拝客からコツコツと頂いてきた賽銭だよ。いやあ、狐だってだけでお金を落としてくれるんだ。まったく人間というのは優しいのか、馬鹿なのかわからないね」
クックック、と笑いながら狐が言いました。ならば同じ方法でお金を集められないか、とオコジョが問いますと、
「いやあ、あれは効率が悪すぎる。これだけ集めるのに何年かかったと思ってるんだ」
と返されてしまいました。
「あとは、何かお金に変えてもらえそうなものを、用意するしかないな。そうだな、オコジョ。君をペットショップに売るというのは」
「ペットショップ?」
「動物たちが売られているお店だよ。人間は、かわいがるために動物を飼うんだ。それを売っている店だ」
「いやだよ、私は人間に売られたくなどないよ!」
「冗談だよ。大体こんな希少動物を持って行ったら、多分俺は人間につかまってしまう。あとはそうだな、昔なら髪の毛なんかも高く売れたんだが、今はどうだか。オコジョの毛も短いしな、せめて冬毛なら長くて良かったかもしれんが」
狐は思案気に、瞳を閉じて考えています。
そこへ、責任の重大さに押しつぶされそうになったのでしょうか、姫さまが沈痛な声でこう言いました。
「髪なら、わらわの髪はどうだろうか」と。
もちろん狐は、姫さまの髪を売り払おうだなどと露にも思っていませんでした。
ですから、この予想外の申し出に驚き、やめさせようと口を開いたのですが、あまりに姫さまが覚悟を決めた表情をしていらっしゃったので、おもわず口をつぐんでしまいました。
「……姫さま、まだ髪の毛が売れるともわかりませんし、いざとなれば私のしっぽでも切り取ってしまえば、多少の足しになりましょう。なに、人の形でいるにはしっぽはいりませんからね」
そう狐は言い直すと、そろそろ目覚めそうな店主に気付き、支払いを済ませると店の外に出たのでした。
とりあえず店の外に出てみたものの、とはいえまったく彼らには、よい算段など思い浮かびません。
そして、どちらに行けば目指す海とやらがあるのかもわかりません。そこで姫さまはおもわずつぶやきました。
「ああ、せめてこのスマホが動けばのぅ」
「すまほ?それはなんですか」
思わず聞き返すのは狐です。彼がいくらこのなかでは人間社会に詳しいとはいえ、それでも前にふもとに下りたのはだいぶ前です。
それに行く範囲も限られますから、彼が知っている人間のことなど、ほんの一部にしか過ぎないのです。
ですから、姫さまは狐に「すまほ」がいかに素晴らしいものなのかを伝えました。特に、知りたい情報を得るのにすぐれているかを、です。
「そんな素晴らしいものがあるのでしたら、早くそれを使えるようにしなければなりませんね。しかしこんな薄い板、なんの力で動いているのやら」
そうしげしげと、狐はその板を眺めます。そして彼は思い出しました。
いまや人間の多くが、電気というものを使っているのだ、ということを。
狐のおかげで、彼らは電気屋へと移動して(ずいぶんと探し回ってしまいました)、彼らは充電器を手に入れました。
そこの電気屋の店主はとても親切で、充電のやり方を丁寧に教えてくれました。
ただ全員着物で一人は白髪、一人は金茶、もう一人は黒の異様に長いロングでしたから、「あなたがたは和風パンクロックでもやっているのかい?」と、とても訝しがられてしまったのですが。
おかげで姫さまは、以前より人間に興味を持つようになりました。
いままでお山に迷い込んできた人間は彼女の玩具でしかなかったのですが、そこでようやく、いたずらに戯れた人間に、悪いことをしてしまったな、と思えたのです。
ああ、あの人間の行方はどうなってしまったのでしょう!
きっと、お父さまが、お山の奥の、深く深くじめじめとしたところに、追いやってしまったに違いありません。
親切な人間のおかげで、ようやく海に行く方法がわかった一行でしたが、ですがこれでもう、狐の財布の中はすっからかんです。
しかし海に行くには、「バス」や「電車」というものを使わなければならない、とのことでした。
それを使うと、駿河湾という海の方まで4,5時間で行ける、とのことでした。
だけどやっぱり、そこに行くにはお金がかかります。先ほど狐が払ってくれたお金の、何倍ものお金が。
さて、ここで彼らは振出しに戻ってしまいました。
日は高々と昇り、どうやらお昼のようです。ふだんなら気にも留めない時間の経過ですが、お山の精気が届かず、普通の人間と同じになってしまった姫さまたちは、もうすでにお腹が空いてしまって困ってしまうのでした。
人間というものが、こんなに面倒なものだとは。
姫さまは、大変だわ、と感心しました。そして、あのお山の、そこで神を務める父の偉大さを思い知ったのでした。
いまでも振り返ればすぐにお山が見えるのです。しかしわずかこれだけしか離れていないのに、あっというまに力を失ってしまった姫さまは、初めて自分の非力さや不甲斐なさを恨むのでした。
そうしてやっぱり、この二人のおつきを巻き込んでしまった責任を、果たさなければならない、と姫さまは強く思うのでした。
だって、少なくともお昼を食べなければ、ここにいる全員はすっかりお腹を空かせてしまって、動けなくなってしまいましたから。
そこで姫さまは、やはり髪の毛を売ることは本当に出来ないのかしら、と考えました。
今まで丁寧に手入れをしてきたこの長髪ですから、手放すのは惜しいのですが、しかし町ゆく人々、とくに姫さまと同じぐらいの女性たちは、ここまで長い髪を持っておりません。
昔に見た人間の女性は、大体その長い髪を誇りにしていたのですが、過ぎゆくときの流れの中で、それは今や誇りでも何でもないようでした。
それならば、おしゃれが好きで、そのために人間の集まる小屋に貢物を頂戴しに――いえこれは立派な窃盗ですね、物を買う、という概念を理解した姫さまは、あれが良くないことだったのだと今は後悔をしています――、そのくらいのことをしてきた姫さまは、まわりの女の子たちがしているおしゃれをしてみたい、と思ったのです。
それはオコジョも同じのようで、先ほどから珍しいものばかりで、きょろきょろしていますが、着物ではなくてあのふわっとした袴のようなものや、肩口までしか袖のない、涼しそうな着物を着てみたいと思っていたのでした。ただ、あのカサカサとした布だけはごめんでしたが。
そう思いながら当てもなく歩いていますと、なにやら不思議なにおいのする、全面ガラス張りのお店の前を通りました。
そのお店では、刃物を持った人間が、下に座っている人間の髪の毛を、バサリバサリと切っているではありませんか!
あの人は、自分の髪を売りに来たのだろう、美容室など来たことのない姫さまは、そう思いました。
そして先を歩く狐やオコジョに断ることなく、とつぜんその店の扉を開けて、中に入ってしまったのです。
だって正直に「髪を売るの」といえば、二人には止められることが目に見えていましたから。
驚いたのは先を行く二人でしたが、姫さまがいなくなったので慌てて戻ってみますと、なんと姫さまの髪が切られようとしているではありませんか!
二人は乱暴に扉を開けますと、中の人間たちは目を丸くしてこちらを見ています。だけど、ほんの数秒、遅かったのです。あれほど長かった髪は、なんと肩より上で、切られてしまったではないですか。
「姫さま!せっかくの御髪になんてことを!」
大きな声で叫ぶのはオコジョです。
しかし彼女は、その店の人間に、「あらあなた、きれいなシルバーへアね。どこで染めてるの?」と声を掛けられ、一方狐の方は「お兄さん、イケメンじゃない。うちでカットモデルやりません?」と声を掛けられタジタジです。
そして、意外にも、姫さまの髪にはさみを入れた人間――美容師というそうです、も、冷や汗を流してタジタジでした。
なにせ姫さまは、山の神さまが誇る、絶世の美女なのです。
その美女の髪形を下手にいじって、大変なことになったらどうしようと、生きた心地がしなかったのです。
店の人間も、さんざん姫さまを止めはしたのです。確かにこの髪なら、上質なウィッグがたくさん作れるけれど、せっかくここまできれいに伸ばした髪を売ってしまっていいのか?と。
しかしとにかく短く切って、この毛を買い取ってほしいと言って聞かないものですから、仕方なく美容師は、彼女の髪をショートボブに整えてあげました。
それは思いのほか、彼女に似合っていました。
最初はハラハラと見守っていた二人でしたが、完成した姫さまの髪形はとても似合っていて、二人は歓声を上げました。
そして、思っていた以上の価格で髪を買い取ってくれて、しかもカット代も取らないでくれたこの店にお礼を告げ、外に出ました。
「案外、人間というものは、良い奴らなのかもしれぬ」
姫さまはそう言いました。ただ、それは姫さまがいま、人間と同じ状態だから、人間たちは迎え入れてくれているのですが。
お金を手にした三人は、とりあえず腹ごしらえを済ませ、二人の希望と、やはりこの昔風の着物は目立って仕方がないようだという狐の判断で、次に着替えを購入しました。
姫さまは白のワンピース、オコジョは白のカットソーにピンクのスカート、狐はTシャツにジーンズというラフな格好です。
履物も、草履より足にフィットする、スニーカーやサンダルというものに変えましたので、これでだんぜん歩きやすくなりました。
さて、オコジョの希望も叶いましたし、いよいよ海に向けて出発です。
バスに乗り、電車に乗り。どちらも皆、初めての体験なので驚きの連続です。
電車の窓から遠く、遠く離れていくお山を眺めていると、あんなに良かった天気が崩れ、雨がポツリ、ポツリと振ってきました。
まるで、お山が泣いているようでした。
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