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しおりを挟む収支計算中の紙にペンを走らせる手を止めたアーリア・ミスト・テンバーン公爵令嬢は、計算途中の紙を見つめたままに呟いた。
「やだわ。わたくしってば悪役令嬢じゃないの」
「……お嬢様、どうかなさいましたか?」
「え……あぁ、気にしないで。独り言よ」
アーリアは、紅茶の用意をしていた自身の専属執事のジルベルトに返した。集中して計算していた紙をクシャリと丸めて、机の端に寄せる。
偏頭痛を我慢しつつも朝から婚約者の管轄領地の収支決算書を仕上げていた。お陰で貴族の令息令嬢が義務的に通う学園にすら出席出来ていない状態だった。しかしアーリアの忙しさは教師や校長も解っているため、卒業するための必修科目と卒業試験は入学した翌日に全て満点を叩き出し、あとは卒業するだけの身なのだが。もちろん授業も免除してもらっているのだった。
今日はいつにも増して頭痛が酷かったが、やらなければならない書類はこれ一枚だけではなく、机の端にはまだ山のように積み重なっていた。計算するにつれて頭痛が酷くなり、限界を越えた脳に火花が散った瞬間に目眩がし、強く目を瞑ったところで、前世の記憶を思い出すという意味不明な状態に困惑するアーリアだった。
(今のわたくし、前世で言うところのオーバーワーク……完全にブラックだわ……)
目の前の紙を睨み付ける。前世で学んだ計算方式で計算をし直した方が早い事に気づき、早速実行に移す。頭の中で算盤を弾いた。
この世界での計算は小学生2年止まりじゃないかっていう程に計算学力が低い。足し算と引き算メインで、数が大きくなってもかけ算、割り算は通常科目では勉強しない。領地経営科や商品開発科という生徒にのみ教えているのだ。
通常科目で勉強するのも、足し算の仕方は式もなく、大きい数字に細かい数字を足していくという非効率的な手段のみだった。
アーリアは暗算で机にある書類を次々に片付けていき、今日の分の終わった書類を壁際で佇む侍女に頼んで、婚約者の執務室へと運んでもらう。
アーリアは侍女が出ていったのを確認してから、専属執事のジルベルトが用意してくれた紅茶に手を伸ばした。
(わたくしの前世は、女子高生というのね。トラックという馬車よりも大きい乗り物に跳ねられてしまった後の…記憶が曖昧だわ。……きっとそこで死んでしまったのね。性格は完全に今のわたくしと同調したのかしら?)
アーリアは紅茶を啜りながら前世の自分の記憶を思い出していた。
前世のアーリアは享年18歳で、トラックに跳ねられてしまった。前世の性格などは分からないが、休日は恋愛物の異世界転移物の小説を読破し、食事や睡眠以外の時間は全てスマホゲームの乙女ゲームを生き甲斐にしていたという事は解った。
さらに、ゲーム内の情報が今の自分のいる世界と完全に一致しているという事も。
今のアーリアは17歳。しかし、記憶にある乙女ゲームの記憶のアーリアは18歳で処刑される。乙女ゲーム定番の死亡フラグしかない悪役令嬢であり、攻略対象者は全員アーリアと面識や血の繋がった者達が大半であった。
アーリアの婚約者であるこの国の第一王子バルトラ・コルン・ピタリンドはメインヒーローと言う立ち位置だった。バルトラは学園卒業後に立太子し、王太子になる事が決まっていた。
(つまり、バルトラ王子殿下は攻略が一番簡単なのよね。話しかけるだけで勝手に好感度が上がっていくし、他のキャラの様に好感度ロックの解除をしなくてもいいのよね)
ちなみに好感度ロック解除とは、好感度49%からはある条件を満たさないと話しかけてもプレゼントをしても上がらない仕様の事を指す。攻略対象の心の闇やトラウマを晴らす事で解除されるもの。バルトラはこれが無いお陰で、一番攻略が簡単なキャラであった。
(他の攻略対象は……騎士子息のレナード・ポーカス伯爵令息と、魔術師団長子息マティウス・エレキエ侯爵子息……わたくしの幼馴染みのレナードと従兄弟のマティウスの2人ね。それと……)
アーリアはチラリと自身の専属執事に視線を向けた。執務机横のワゴンの前で静かに佇むイケメン執事。名前はジルベルト。
彼は魔族出身者で短剣を使った戦闘力をテンバーン公爵に見込まれて、アーリアの執事兼護衛として雇われていた。
ゲームでは魔族の国の古来からのシキタリで自分と同程度の魔力をもつ花嫁を探しにこの国に来ているという設定だった。ちなみに前世のアーリアの押しである。
(まさか、ジルが攻略対象なんて……)
アーリアは溜め息を吐き出した。前世の影響かは分からないが、アーリアは彼と出会った時から、ジルベルトに淡い恋心を抱いていた。その心を誤魔化し、好きでも無い王子と政略婚約をさせられて、さらには王子妃の教育やら王太子妃教育やらと、日々の忙しさでストレスが多く、偏頭痛にまで悩まされていた。心はすで疲弊しすぎてボロボロだった。
忙しさと偏頭痛で常に眉間にシワがあり、隈を隠すための厚化粧のせいで肌はボロボロ。寝不足のせいで瞳孔は常に開きっぱなしの白目は充血しまくり。つり目のせいで目付きが悪いのに拍車をかけていた。
未来の国母として王太子妃教育のせいで、顔色を読まれない様にと常に無表情を張り付けているため、周囲には冷徹女王や気難しい氷の女王などと呼ばれていた。常に完璧を周囲に求められ、アーリアの精神は常に限界に近い状態であった。
気が休まる公爵家や学園寮の自室では、周囲に当たりの強い言動が増えて、イライラやストレスを執事や侍女に当たり散らすのは止められなかった。
(昔はこんなではなかったのに……)
「……何かございましたか?」
ジルベルトが不安げな、瞳の奥に恐怖の色を灯して、アーリアに近づいた。ジルベルトは紅茶が不味いと、紅茶をかけられて怒られると萎縮し、覚悟をしていたが……。
「ジル、貴方ってばヒロインの攻略対象らしいわよ?」
「はぃ?」
何を言われたのか分からないジルベルトは困惑しつつも、アーリアの言葉を心の中で転がし、その言葉の真意を探ろうとした。
テンバーン公爵家では、執事はお仕えする主人の言葉や行動を読み、相手の望む答えや行動をいち早く察知し実行しなければいけないからだ。しかし、ジルベルトには、お仕えするアーリアの言っている言葉の意味が全くもって通じなかった。
(まぁ、普通の反応よね)
普段のアーリアだったら、怒鳴っていたであろうが……今日のアーリアは、ジルベルトにニッコリと微笑んだ。未来の王の伴侶にと選ばれただけあって、アーリアの不意打ちの微笑みにジルベルトは息をのみ、見とれて頬を染める。
そして次にアーリアが口を開いた時、ジルベルトは平静に戻るどころか驚愕した。
「わたくし、王子妃を辞めようと思うの」
「はぁ?!」
「このままでは、わたくしは心も身体も壊してしまうわ。聞いてジルベルト……わたくしはーー」
アーリアは今まで閉まっていた、王子の婚約者としての苦痛も、ジルベルトへの想いも、これからの考えも、全て吐き出した。
唐突に自身に降りかかる将来の不幸な出来事さえも。
アーリア自身も前世の記憶が急に戻って混乱していたし、未来の話なんて荒唐無稽な話は、普通だったら信じてくれる人は居ないと思うが、今のアーリアは正常な判断能力などが低下していたのだと、アーリアは気づかなかった。
「つまり、私が、お嬢様を裏切って、そのヒロイン……? の男爵家の女学生と共に、お嬢様を断罪すると……?」
「それであっているわ」
「で、私を攻略……篭絡? すると、隠しキャラである魔王陛下が、その男爵令嬢に会いに来ると……?」
「……ヒロインが隠しキャラである魔王陛下を攻略したいと思っているのなら、そうなるように貴方に魔王陛下を紹介するようにお願いするでしょうね」
「それだと、俺は、魔王陛下に会うための繋ぎでしかないのでは?」
「そ、それは……その……」
口を閉ざすアーリアに、ジルベルトは困惑していた。ジルベルトがもし仮に、その男爵令嬢に好意を抱いたところで、その男爵令嬢が魔王陛下か、他の誰かを選ぶ可能性があるのなら、ジルベルトは魔王陛下を呼び寄せるだけの、ただの餌ではないか。
「……ごめんなさい……急にこんな話……」
謝るアーリアに、ジルベルトは首を降って顎に手をやって考えこんだ。
ジルベルトは、アーリアの話を完全には信じては居なかった。だが、内容全てが荒唐無稽だとバカに出来ないのも事実だった。
「……なぜ、魔王陛下と俺が面識があると知っているのですか……?」
「それは、(ゲームで)……知ってるとしか……」
「未来を知っているとお嬢様は申されましたが、俺と魔王陛下が出会ったきっかけなども知っているのですよね? 俺が何故ここにいるのかも?」
「ええ。出会いはジルの故郷に竜が現れて、竜を追い払う人間の国の勇者と竜の戦いに巻き込まれてしまったのでしょう? 1人生き残ってしまったジルを魔王陛下に拾われたんだったわよね? ここにいる理由は、ジルは魔王陛下の暗部を纏める暗部長でしょう? 後進を育てあげた後、魔王陛下に行き遅れてるって言われて、長期休暇という花嫁探しをーー」「わーわーわー……」
顔を赤くして、ジルベルトはアーリアの口を塞ぎ、話を遮った。いつも恭しくも完璧な執事たるジルベルトは、慌てていてそんな自分の失態に顔を青ざめた。もうアーリアの話が嘘だとは思えなかった。自分と魔王陛下しか知らないはずの過去に、魔王城から出た時の会話の内容まで知られていたからだ。
「あ、す、すみません」
ジルベルトは慌ててアーリアから手を離した。
「んんっ……い、良いのよ」
頬を染めるアーリアに、ジルベルトは困惑した。普段だったら、「主人の口を塞ぐなんてどういうつもりなの?!」と怒鳴られていたからだった。
それに、そもそも執事として公爵家に来たときから、ジルベルトを好きだとアーリアは先程言ったのだ。それを思い出し、ジルベルトは頬を染めて嬉しそうに自分を見つめるアーリアにつられて、自分も顔が赤くなっているだろうに、停止したまま動けなくなってしまったのだった。
どれくらい見つめ合っていただろうか。(実際は数十秒だったが)
ジルベルトはアーリアの自分へ向けてくれる熱い視線を完全に受け入れて、いつの間にか握り会っていたアーリアの手の甲へと唇を寄せた。忠誠の証である騎士の礼だった。
「お嬢様、大丈夫です。貴女の話を信じましょう」
「……!! ……ありがとうジルベルト!!」
アーリアは天にも昇る心地でジルベルトへと惚ける笑顔を送った。これにはジルベルトも理性が飛んでしまいかねず、とりあえず手を離して、元の執事たる姿勢へと戻った。頬は赤く、ニヤける口元を手の甲で必死に隠した。
(参ったなー。お嬢様が可愛すぎる)
今までアーリアから受けてきた地味な嫌がらせや当たりの強い言動で受けたジルベルトの心のモヤモヤが一気に消え去ったのを感じた。
むしろ、今までのアーリアの思いの丈を聞いた以上、「そりゃイライラして当たり散らしたくもなるよ!」と同情してしまったくらいだ。
見つめ合っていた時も、お嬢様の本来の顔色は青白く、寝不足のためかルビー色の瞳の白い部分は充血し、全体的に真っ赤に見えた程だった。プラチナ色の美しく結われた髪質も痛みがうかがえる。
「わたくし、お父様にお願いして、王様と王妃様にわたくしが未来の王妃には相応しく無いことを言っていただかなくてはね」
「王太子の婚約者の座を断念されるのですね」
少し嬉しそうに答えてくれたジルベルトに、アーリアは嬉しそうに自分の願望を伝える。
「ええ。わたくしには弟がいるから、結局はわたくしは家を出なければ行けないでしょう? もし、お父様が許してくれるのなら、世界旅行なんて行ってみたいわ!」
「……その時は私もお供させて下さい」
「……! ええ、もちろんよ!」
ジルベルトと見つめ会い、良い雰囲気に呑まれそうになるアーリアとジルベルト。
コンコンとノックの音と共に侍女が戻って来たことにより、2人は慌てていつもの状態に戻らざるおえなかった。
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