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シャーニ
あなたに伝えたいものがたり
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セウラザはそこまで話すと、シャーニの後ろに回って膝を突いた。
無表情な少女の両肩に手を置き、ラトスを見る。
「少しの間、この子の守護の役目を解く」
静かに言ったセウラザの目は、いつもより鋭かった。
ラトスは唾を飲みこむ。
「解くと、どうなる?」
「左手の夢魔の成長を抑えこむ力が失われる。だから、ラトス。しばらくの間、理性を失ってはならない。シャーニの言葉を受け入れられると判断したからこそ、このことを話したのだ」
「……わかった」
ラトスはうなずく。
うなずいたが、頭の中は整理が追い付いていなかった。セウラザの話が本当だとすれば、シャーニは死の間際にラトスの夢の世界へわたってきたことになる。そして目の前にいる少女に記憶を受けわたし、消えたのだ。力を得た少女は、ラトスの意志から独立していることになる。まるで亡霊のように。
守護を解かれれば、シャーニの自我はもどるのだろう。
セウラザは理性を失うなと、言った。きっと自我を取りもどしたシャーニが恨み言を吐きだすに違いない。耐えて、耐えて、耳をふさがず、受け止めろということだ。ラトスは胸の奥を鷲づかみされて、潰されてしまうような心地がした。胃液が逆流する。強い吐き気がして、ぐらりと身体がゆれた。
ラトスの様子に気付いたメリーが、あわてて彼のそばに駆け寄った。肩を支え、左手をにぎる。ラトスは彼女の手がうっとうしいと感じたが、払いのける気力はなかった。
「メリー、そのままラトスの手をつかんでおけ」
「……はい」
メリーがうなずくと、セウラザはシャーニの肩に乗せている手に力をこめた。
どくんと、脈打つような衝撃が広がる。
床も壁も、空気もすべて、脈打った。瞬間、ラトスは膝を突き、悲鳴のような声をあげた。メリーが見ると、にぎっていた彼の左手に広がっている黒が、どくりと脈打っていた。じわりじわりと黒い部分が広がっているのも分かる。
「大丈夫ですか!?」
メリーはラトスに声をかけたが、彼は顔をゆがめたままうつむいていた。
痛みに苦しむというより、おびえているようにメリーには映った。
脈打つような衝撃が止まると、小さく足音が鳴った。
ラトスは少しだけ頭をあげる。少女がゆっくりと近付いてきていた。小さな足、ほそい身体、金色の髪。少女は、ラトスの前で立ち止まる。
見上げると、死んだはずの妹が立っていた。
薄暗い空気を背負って、じっとラトスの顔をのぞいている。
暖炉の火の爆ぜる音がした。赤が、金色の髪を照らし、染めあげる。
天井のカンテラが、ゆっくりとゆれている。
これはいつも見る夢の光景だ。
虚ろな表情をした妹が、恨むように話しかけてくる夢とそっくりだった。夢の中では少女の声を聞きとることができなかったが、今なら聞こえるだろう。さえぎるものは、なにもない。恐ろしくなって、ラトスは目を閉じようとした。
「……お兄ちゃん?」
子供の声が聞こえた。
声を発したのは、目の前にいる死んだはずの妹だ。少女の声に、ラトスの心臓が静かになった。鼓動が止まったのではと錯覚するほど、身体の内が固まった。しばらくすると、やはり心臓は動いていたらしく、脈動だけはかすかに感じ取れた。
「おーい、聞こえてる? お兄ちゃん。……ねえ?」
「……あ、ああ」
シャーニの声に、ラトスはたどたどしく応える。彼の声を聴くと、少女はにこりと笑って一歩近寄った。不思議と、今までの恐怖に似た戸惑いはなかった。思考がとどこおって、感情を動かす余裕がなくなったのかもしれない。
シャーニは今ひとつ反応が悪いラトスに気付き、顔を近付けた。
額が付くほどに接近すると、頬をふくらませる。
「また怖い顔してる」
にらむようにして、シャーニはラトスを叱りつけた。
彼の左手をにぎっていたメリーは、目を丸くさせて少女を見ていた。何事もなかったようにしゃべりだしたことにも驚いたが、ラトスを叱りつける少女の姿が意外だったのだ。
「す、すまない」
「怖い顔してると、あたしも怖い顔するから」
「もう十分だ。怖い顔しているよ」
まくしたてるシャーニに、ラトスは顔を引いていく。
あまりの滑稽な様子に、そばにいたメリーは笑いだしそうになった。だが、こらえる。フィノアに目を向けると、驚きの表情のまま固まっていた。
「……怖い顔、して、ごめんね」
ラトスから顔を引いて、シャーニは静かに言った。
突然しおれたので、ラトスはあわてる。少女の手を取ろうとしたが、直前で止まった。ふれていいのか、分からなくなったのだ。
シャーニはラトスから一歩はなれると、困ったような表情をして目をほそめた。
笑っているような、悲しんでいるような、不思議な表情だった。少女の表情を見て、やはり妹は死んだのだなと、改めて心を痛めた。
「あたしは、本物じゃないけど、本物の言葉を預かってます」
「……本物の言葉?」
「はい。ここからは全部、本物のシャーニです」
そう言うと、シャーニは胸に手を当てた。
少女の胸から、光があふれた。光は無数の石に変わって、少女の手のひらに乗った。セウラザが話していた、記憶の光なのだろう。それぞれは真珠のように美しかった。光は強かったが、不思議なことにまぶしさはなかった。
光る石の中には、なにかがゆれていた。
じっと見ていると、ひとつの石にシャーニの姿が映った。
『お帰りなさい、お兄ちゃん』
石の中にいるシャーニが、声を放った。
ラトスが返事できないでいると、石の中のシャーニが一方的にしゃべりだした。しばらくしてからラトスは、石の中にいる少女がただの記憶なのだと気付いた。きっと、死の間際ここに来てからの姿なのだ。
『これから、言いたいこと全部言うね』
「ああ」
『だから、全部覚えていてね』
「わかったよ」
ラトスは一方的にしゃべっているシャーニの姿に、小さく返事した。
石の中にいるシャーニは、延々としゃべりだした。
ラトス以外は飽きて眠ってしまうのではないかと思うほど、しゃべりつづけた。話の内容のほとんどがどうでもいいような小さな思い出ばかりだった。楽しかったこと、嫌だったこと、友達と遊んだことや、留守番がつまらなかったこと。ひとつひとつの思い出を、石の中のシャーニは楽しそうにしゃべった。少女がしゃべるたびに、ラトスは相槌を打った。何度か相槌を打っているうちに、彼の左手をにぎるメリーの手に、力がこもった。
『あたしは、幸せだったよ。本当は無かったかもしれない時間をあたしにくれて、ありがとう、お兄ちゃん』
「……そう、か」
石の中のシャーニの言葉に、ラトスの顔は引きつった。ふつふつと、黒い感情が湧きあがってくる。直後、彼の左手をにぎるメリーの手の力が、強くなった。見ると、左手の黒い部分が広がりはじめていた。手の甲までだった黒が、手首まで広がっている。理性を失うなというセウラザの言葉を思い出し、ラトスは歯を食いしばった。
『だから、お兄ちゃんも幸せになってね』
「……俺は、ならないよ」
ラトスは短く応えて、うつむいた。
妹を殺され、復讐を誓ったのだ。幸せになる余裕などない。許されるなら、今すぐにシャーニの後を追いたいぐらいなのだ。ラトスは傷のある頬を引きつらせ、目をほそめた。
『また怖い顔してる』
シャーニの声がひびいた。
顔を上げると、石の中のシャーニと、光る石を持つシャーニがラトスをにらんでいた。
『怖い顔すると、あたしも怖い顔するから』
頬をふくらませるシャーニを見て、ラトスは目を丸くした。
共に暮らしていて、何十何百も言われつづけた言葉だ。シャーニのその一言で、ラトスはいつも頭が上がらなくなっていた。
『あたしは、ここで生きているね』
「……ここで?」
『お兄ちゃんが幸せそうにしていたら、あたしも幸せになれるから。ここで、ずっと見ているから』
「だから、お兄ちゃん」
目の前にいるシャーニが口を開いた。
石の中に映っているシャーニと同じ表情をしている。
「『私の分まで、幸せでいてね』」
二人のシャーニが、同時に言った。
少女の頬には、涙が流れていた。悲しい涙ではない、なぜか、嬉しそうな涙だった。ラトスは、シャーニがどうして嬉しい表情を作れるのか分からなかった。
分かったのは、本当の意味で、妹であるシャーニが自身の中に生きているということだった。ラトスが死ねば、受け継がれた妹の意思は消える。少女の願いどおりに長く幸せに生きれば、共に長く生きつづけられるのと同義だ。
「……くだらない物語みたいだ」
ラトスはこぼすように言った。彼の左手をにぎる手が、また少し強くなった。見ると、頭の真下にあったラトスの左手とメリーの手が、濡れていた。なぜ濡れているのだろうと思った直後、ラトスは自分が涙を流しつづけていたことに気付いた。
もう一度、シャーニの姿を見る。
少女は薄暗い空気を背負って、じっとラトスの顔をのぞいていた。
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜる。赤が、金色の髪を照らした。少女の頭上で、天井から下がったカンテラが、ゆっくりとゆれている。妹が残したやわらかな息吹で、やさしくゆれている。
ラトスはシャーニに視線をもどすと、目が合った。少女は嬉しそうに笑った。
ああ、そうかと、ラトスは誰も聞き取れないほどの小さな声をこぼした。
「確かにここは、俺の夢の中だな」
長くつづいた夢に、ラトスは目をほそめるのだった。
突然、メリーが大きな声を上げた。
顔を向けると、彼女は目を丸くさせ、自らの手元を見ていた。
彼女の手は、まだラトスの手をにぎっていた。見ると、ラトスとメリーの手がかがやいていた。なんだと思い、手を動かす。メリーはあわててラトスの手をはなした。
「濡れたところが、光ってます」
メリーが驚いた顔で言う。彼女の言うとおり、かがやいているのは涙で濡れた部分だった。光っているのかと思ったが、どうも違う。みがいて、綺麗になっていくようなかがやきだった。
かがやきは徐々に広がっていく。ラトスとメリーをおおうようにかがやいてから、床面にじわりとにじむように広がりはじめた。家の中にいたフィノアとセウラザ、シャーニもかがやきにおおわれていく。あまりのまぶしさに、ラトスは目を閉じた。
「……ラトスさん!」
まぶたの裏までまぶしいと感じている時、メリーが騒ぎだした。なかなか目を開かないラトスの肩をゆすぶってくる。彼は眉根を寄せ、仕方なくゆっくりと目を開いた。まぶしさは、まだ変わらない。様々な色がおどり狂っているようだった。
「……色?」
ラトスはつぶやきながら、自身の感覚に疑問を持った。
色褪せて見えていたはずのメリーの姿が、はっきりとした色で見えたのだ。髪色も、服も、微妙な色の違いまで見て取れる。彼女の色あざやかな衣服に、ラトスは息を止めた。ずいぶん派手な色だと思っていたが、本当に貴族らしい華やかな服だった。
「派手だな」
「え? 何がです?」
「服が」
「そこですか? 今、そこの感想ですか?」
ラトスの言葉に、メリーはがっかりとした表情をすると、長く息を吐いた。彼女はラトスの後ろに回り込む。彼の肩に片手を置いて、家全体をなぞるように指差してみせた。
家中に、色が乗っていた。どこにも色褪せたものはない。すべて、あざやかに映っていた。指し示すメリーの手指も、きめこまかいなめらかな肌色だと認識できた。セウラザとフィノア、シャーニの姿も同様に色が見える。今までは、いずれの赤も赤らしい色として認識していた。今は、暖炉の火とランプの明かりの、赤の違いが分かる。
「まばゆいな」
こぼすように、ラトスは言った。彼の後ろで、メリーは黙ってうなずいた。
木窓の隙間から、外の光がこぼれている。先ほどまでは、夜のように暗かったはずだった。窓に近付き、押し開ける。ふわりとした光が、家の中全体に広がった。光の色は、黄や緑、青や赤にも見えた。混ざり合いながら拡散していく光は、生きているようなやさしさがあった。
「どうして見えるようになったんだ」
窓の外をながめるラトスは、不思議そうに首をかしげた。
「分からないのです?」
「分からない」
「私は、分かりますよ」
ラトスの後ろでメリーが言う。振り返ると、彼女は面白いものを見るような目でラトスを見つめ、笑っていた。
「フィノアも分かりますよね」
「……まあ、分かります。何となくですが」
フィノアは小さくうなずくと、ラトスの顔をちらりと見た。少女は片眉をあげて、困ったような表情をしていた。ラトスと目が合うと、フィノアは困った顔のまま小さく笑った。
ぱちりと、火の爆ぜる音がした。
力強い赤が、暖炉にゆれている。音が鳴ったほうへラトスが目を向けると、メリーとフィノアも釣られるように視線を移した。暖炉の前には、シャーニとセウラザが立っていた。セウラザの隣に立つ少女の瞳には、先ほどまでの強い光は無かった。わずかに笑顔を保っているが、一目で感情が薄くなっていると分かる。
「守護の役目に戻ったのか」
ラトスが言うと、セウラザは黙ってうなずいた。
かわいそうに思ったのか、シャーニの元にメリーが駆け寄っていく。彼女は少女を抱きかかえると、一瞬身体をびくりとさせた。どうしたのかと、ラトスが怪訝な表情を向ける。メリーはラトスの視線に気付いて首をかしげてみせた。
「……あれ?」
メリーは首をかしげたまま、シャーニの頬をそっとなでた。彼女の様子を見て、フィノアも少女の元に寄っていく。二人はシャーニを囲うようにしてしゃがみこむと、頬をなでたり、手をなでたりしはじめた。
「不思議だわ」
「でも、良かった……」
フィノアの言葉に、メリーが目をほそめてうなずく。
二人がふれる少女の身体は、温もりが宿っていた。以前の氷のような冷気は、どこにもない。不思議そうにシャーニをなで回す二人を見て、ラトスは首をかしげた。彼は妹の姿をした少女が冷たかったことを知らないのだ。それで良いと、メリーとフィノアは思った。二人は互いに顔を見合わせると、小さく笑った。
隠し事をするように笑う二人に、ラトスは苦笑いをする。しかし、嫌な気分になる隠し事のようではなかった。それなら良いと、ラトスは思った。二人の間にいるシャーニが、微笑むような笑顔をラトスに向けていた。再びしゃべることができなくなったようだが、表情は生きていたころのシャーニそのものだった。ラトスと目が合うと、少女は歯を見せて笑った。
復讐の想いは、断ち切れない。
妹の想いを知ってなお、黒い感情は胸の奥によどんでいる。この苦しみは消えないのだろうと、ラトスは息を吐いた。吐き捨てた息を追うように、視線を床に落とす。そこへ潜りこむように、シャーニが歩いてきた。ラトスの顔をのぞきこむ。
『また怖い顔してる』
そう言われた気がして、ラトスはハッとした。
自身の中に、妹の魂が息づいている。笑顔で生きていたいと願っているのだ。黒い感情に任せて進めば、妹の真の無念は晴らせないのだろう。復讐以外の、別の方法を考えなくてはならないと、ラトスは目をほそめた。今すぐ思いつくことはできそうにないが、妹の遺言を無碍にするほど落ちぶれるわけにはいかない。
無念を晴らしても、黒い感情はきっと消えないだろう。
それらはすべて、抱えて生きていく。朧気の中にある意志を強い形に変えて、自らの中で受け継いでいくのだ。
目をほそめてラトスの顔をのぞきこむシャーニに、ラトスは手を伸ばした。
金色の髪にふれる。やわらかい、羽毛のようだった。夢の世界に来て初めてふれる妹は、奇妙な感触だった。頬にふれると、温かさがあった。生きているのだなと、ラトスも目をほそめた。
「十分だ。もう、怖い顔はしないよ」
ラトスがこぼすように言うと、シャーニはにこりと笑うのだった。
無表情な少女の両肩に手を置き、ラトスを見る。
「少しの間、この子の守護の役目を解く」
静かに言ったセウラザの目は、いつもより鋭かった。
ラトスは唾を飲みこむ。
「解くと、どうなる?」
「左手の夢魔の成長を抑えこむ力が失われる。だから、ラトス。しばらくの間、理性を失ってはならない。シャーニの言葉を受け入れられると判断したからこそ、このことを話したのだ」
「……わかった」
ラトスはうなずく。
うなずいたが、頭の中は整理が追い付いていなかった。セウラザの話が本当だとすれば、シャーニは死の間際にラトスの夢の世界へわたってきたことになる。そして目の前にいる少女に記憶を受けわたし、消えたのだ。力を得た少女は、ラトスの意志から独立していることになる。まるで亡霊のように。
守護を解かれれば、シャーニの自我はもどるのだろう。
セウラザは理性を失うなと、言った。きっと自我を取りもどしたシャーニが恨み言を吐きだすに違いない。耐えて、耐えて、耳をふさがず、受け止めろということだ。ラトスは胸の奥を鷲づかみされて、潰されてしまうような心地がした。胃液が逆流する。強い吐き気がして、ぐらりと身体がゆれた。
ラトスの様子に気付いたメリーが、あわてて彼のそばに駆け寄った。肩を支え、左手をにぎる。ラトスは彼女の手がうっとうしいと感じたが、払いのける気力はなかった。
「メリー、そのままラトスの手をつかんでおけ」
「……はい」
メリーがうなずくと、セウラザはシャーニの肩に乗せている手に力をこめた。
どくんと、脈打つような衝撃が広がる。
床も壁も、空気もすべて、脈打った。瞬間、ラトスは膝を突き、悲鳴のような声をあげた。メリーが見ると、にぎっていた彼の左手に広がっている黒が、どくりと脈打っていた。じわりじわりと黒い部分が広がっているのも分かる。
「大丈夫ですか!?」
メリーはラトスに声をかけたが、彼は顔をゆがめたままうつむいていた。
痛みに苦しむというより、おびえているようにメリーには映った。
脈打つような衝撃が止まると、小さく足音が鳴った。
ラトスは少しだけ頭をあげる。少女がゆっくりと近付いてきていた。小さな足、ほそい身体、金色の髪。少女は、ラトスの前で立ち止まる。
見上げると、死んだはずの妹が立っていた。
薄暗い空気を背負って、じっとラトスの顔をのぞいている。
暖炉の火の爆ぜる音がした。赤が、金色の髪を照らし、染めあげる。
天井のカンテラが、ゆっくりとゆれている。
これはいつも見る夢の光景だ。
虚ろな表情をした妹が、恨むように話しかけてくる夢とそっくりだった。夢の中では少女の声を聞きとることができなかったが、今なら聞こえるだろう。さえぎるものは、なにもない。恐ろしくなって、ラトスは目を閉じようとした。
「……お兄ちゃん?」
子供の声が聞こえた。
声を発したのは、目の前にいる死んだはずの妹だ。少女の声に、ラトスの心臓が静かになった。鼓動が止まったのではと錯覚するほど、身体の内が固まった。しばらくすると、やはり心臓は動いていたらしく、脈動だけはかすかに感じ取れた。
「おーい、聞こえてる? お兄ちゃん。……ねえ?」
「……あ、ああ」
シャーニの声に、ラトスはたどたどしく応える。彼の声を聴くと、少女はにこりと笑って一歩近寄った。不思議と、今までの恐怖に似た戸惑いはなかった。思考がとどこおって、感情を動かす余裕がなくなったのかもしれない。
シャーニは今ひとつ反応が悪いラトスに気付き、顔を近付けた。
額が付くほどに接近すると、頬をふくらませる。
「また怖い顔してる」
にらむようにして、シャーニはラトスを叱りつけた。
彼の左手をにぎっていたメリーは、目を丸くさせて少女を見ていた。何事もなかったようにしゃべりだしたことにも驚いたが、ラトスを叱りつける少女の姿が意外だったのだ。
「す、すまない」
「怖い顔してると、あたしも怖い顔するから」
「もう十分だ。怖い顔しているよ」
まくしたてるシャーニに、ラトスは顔を引いていく。
あまりの滑稽な様子に、そばにいたメリーは笑いだしそうになった。だが、こらえる。フィノアに目を向けると、驚きの表情のまま固まっていた。
「……怖い顔、して、ごめんね」
ラトスから顔を引いて、シャーニは静かに言った。
突然しおれたので、ラトスはあわてる。少女の手を取ろうとしたが、直前で止まった。ふれていいのか、分からなくなったのだ。
シャーニはラトスから一歩はなれると、困ったような表情をして目をほそめた。
笑っているような、悲しんでいるような、不思議な表情だった。少女の表情を見て、やはり妹は死んだのだなと、改めて心を痛めた。
「あたしは、本物じゃないけど、本物の言葉を預かってます」
「……本物の言葉?」
「はい。ここからは全部、本物のシャーニです」
そう言うと、シャーニは胸に手を当てた。
少女の胸から、光があふれた。光は無数の石に変わって、少女の手のひらに乗った。セウラザが話していた、記憶の光なのだろう。それぞれは真珠のように美しかった。光は強かったが、不思議なことにまぶしさはなかった。
光る石の中には、なにかがゆれていた。
じっと見ていると、ひとつの石にシャーニの姿が映った。
『お帰りなさい、お兄ちゃん』
石の中にいるシャーニが、声を放った。
ラトスが返事できないでいると、石の中のシャーニが一方的にしゃべりだした。しばらくしてからラトスは、石の中にいる少女がただの記憶なのだと気付いた。きっと、死の間際ここに来てからの姿なのだ。
『これから、言いたいこと全部言うね』
「ああ」
『だから、全部覚えていてね』
「わかったよ」
ラトスは一方的にしゃべっているシャーニの姿に、小さく返事した。
石の中にいるシャーニは、延々としゃべりだした。
ラトス以外は飽きて眠ってしまうのではないかと思うほど、しゃべりつづけた。話の内容のほとんどがどうでもいいような小さな思い出ばかりだった。楽しかったこと、嫌だったこと、友達と遊んだことや、留守番がつまらなかったこと。ひとつひとつの思い出を、石の中のシャーニは楽しそうにしゃべった。少女がしゃべるたびに、ラトスは相槌を打った。何度か相槌を打っているうちに、彼の左手をにぎるメリーの手に、力がこもった。
『あたしは、幸せだったよ。本当は無かったかもしれない時間をあたしにくれて、ありがとう、お兄ちゃん』
「……そう、か」
石の中のシャーニの言葉に、ラトスの顔は引きつった。ふつふつと、黒い感情が湧きあがってくる。直後、彼の左手をにぎるメリーの手の力が、強くなった。見ると、左手の黒い部分が広がりはじめていた。手の甲までだった黒が、手首まで広がっている。理性を失うなというセウラザの言葉を思い出し、ラトスは歯を食いしばった。
『だから、お兄ちゃんも幸せになってね』
「……俺は、ならないよ」
ラトスは短く応えて、うつむいた。
妹を殺され、復讐を誓ったのだ。幸せになる余裕などない。許されるなら、今すぐにシャーニの後を追いたいぐらいなのだ。ラトスは傷のある頬を引きつらせ、目をほそめた。
『また怖い顔してる』
シャーニの声がひびいた。
顔を上げると、石の中のシャーニと、光る石を持つシャーニがラトスをにらんでいた。
『怖い顔すると、あたしも怖い顔するから』
頬をふくらませるシャーニを見て、ラトスは目を丸くした。
共に暮らしていて、何十何百も言われつづけた言葉だ。シャーニのその一言で、ラトスはいつも頭が上がらなくなっていた。
『あたしは、ここで生きているね』
「……ここで?」
『お兄ちゃんが幸せそうにしていたら、あたしも幸せになれるから。ここで、ずっと見ているから』
「だから、お兄ちゃん」
目の前にいるシャーニが口を開いた。
石の中に映っているシャーニと同じ表情をしている。
「『私の分まで、幸せでいてね』」
二人のシャーニが、同時に言った。
少女の頬には、涙が流れていた。悲しい涙ではない、なぜか、嬉しそうな涙だった。ラトスは、シャーニがどうして嬉しい表情を作れるのか分からなかった。
分かったのは、本当の意味で、妹であるシャーニが自身の中に生きているということだった。ラトスが死ねば、受け継がれた妹の意思は消える。少女の願いどおりに長く幸せに生きれば、共に長く生きつづけられるのと同義だ。
「……くだらない物語みたいだ」
ラトスはこぼすように言った。彼の左手をにぎる手が、また少し強くなった。見ると、頭の真下にあったラトスの左手とメリーの手が、濡れていた。なぜ濡れているのだろうと思った直後、ラトスは自分が涙を流しつづけていたことに気付いた。
もう一度、シャーニの姿を見る。
少女は薄暗い空気を背負って、じっとラトスの顔をのぞいていた。
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜる。赤が、金色の髪を照らした。少女の頭上で、天井から下がったカンテラが、ゆっくりとゆれている。妹が残したやわらかな息吹で、やさしくゆれている。
ラトスはシャーニに視線をもどすと、目が合った。少女は嬉しそうに笑った。
ああ、そうかと、ラトスは誰も聞き取れないほどの小さな声をこぼした。
「確かにここは、俺の夢の中だな」
長くつづいた夢に、ラトスは目をほそめるのだった。
突然、メリーが大きな声を上げた。
顔を向けると、彼女は目を丸くさせ、自らの手元を見ていた。
彼女の手は、まだラトスの手をにぎっていた。見ると、ラトスとメリーの手がかがやいていた。なんだと思い、手を動かす。メリーはあわててラトスの手をはなした。
「濡れたところが、光ってます」
メリーが驚いた顔で言う。彼女の言うとおり、かがやいているのは涙で濡れた部分だった。光っているのかと思ったが、どうも違う。みがいて、綺麗になっていくようなかがやきだった。
かがやきは徐々に広がっていく。ラトスとメリーをおおうようにかがやいてから、床面にじわりとにじむように広がりはじめた。家の中にいたフィノアとセウラザ、シャーニもかがやきにおおわれていく。あまりのまぶしさに、ラトスは目を閉じた。
「……ラトスさん!」
まぶたの裏までまぶしいと感じている時、メリーが騒ぎだした。なかなか目を開かないラトスの肩をゆすぶってくる。彼は眉根を寄せ、仕方なくゆっくりと目を開いた。まぶしさは、まだ変わらない。様々な色がおどり狂っているようだった。
「……色?」
ラトスはつぶやきながら、自身の感覚に疑問を持った。
色褪せて見えていたはずのメリーの姿が、はっきりとした色で見えたのだ。髪色も、服も、微妙な色の違いまで見て取れる。彼女の色あざやかな衣服に、ラトスは息を止めた。ずいぶん派手な色だと思っていたが、本当に貴族らしい華やかな服だった。
「派手だな」
「え? 何がです?」
「服が」
「そこですか? 今、そこの感想ですか?」
ラトスの言葉に、メリーはがっかりとした表情をすると、長く息を吐いた。彼女はラトスの後ろに回り込む。彼の肩に片手を置いて、家全体をなぞるように指差してみせた。
家中に、色が乗っていた。どこにも色褪せたものはない。すべて、あざやかに映っていた。指し示すメリーの手指も、きめこまかいなめらかな肌色だと認識できた。セウラザとフィノア、シャーニの姿も同様に色が見える。今までは、いずれの赤も赤らしい色として認識していた。今は、暖炉の火とランプの明かりの、赤の違いが分かる。
「まばゆいな」
こぼすように、ラトスは言った。彼の後ろで、メリーは黙ってうなずいた。
木窓の隙間から、外の光がこぼれている。先ほどまでは、夜のように暗かったはずだった。窓に近付き、押し開ける。ふわりとした光が、家の中全体に広がった。光の色は、黄や緑、青や赤にも見えた。混ざり合いながら拡散していく光は、生きているようなやさしさがあった。
「どうして見えるようになったんだ」
窓の外をながめるラトスは、不思議そうに首をかしげた。
「分からないのです?」
「分からない」
「私は、分かりますよ」
ラトスの後ろでメリーが言う。振り返ると、彼女は面白いものを見るような目でラトスを見つめ、笑っていた。
「フィノアも分かりますよね」
「……まあ、分かります。何となくですが」
フィノアは小さくうなずくと、ラトスの顔をちらりと見た。少女は片眉をあげて、困ったような表情をしていた。ラトスと目が合うと、フィノアは困った顔のまま小さく笑った。
ぱちりと、火の爆ぜる音がした。
力強い赤が、暖炉にゆれている。音が鳴ったほうへラトスが目を向けると、メリーとフィノアも釣られるように視線を移した。暖炉の前には、シャーニとセウラザが立っていた。セウラザの隣に立つ少女の瞳には、先ほどまでの強い光は無かった。わずかに笑顔を保っているが、一目で感情が薄くなっていると分かる。
「守護の役目に戻ったのか」
ラトスが言うと、セウラザは黙ってうなずいた。
かわいそうに思ったのか、シャーニの元にメリーが駆け寄っていく。彼女は少女を抱きかかえると、一瞬身体をびくりとさせた。どうしたのかと、ラトスが怪訝な表情を向ける。メリーはラトスの視線に気付いて首をかしげてみせた。
「……あれ?」
メリーは首をかしげたまま、シャーニの頬をそっとなでた。彼女の様子を見て、フィノアも少女の元に寄っていく。二人はシャーニを囲うようにしてしゃがみこむと、頬をなでたり、手をなでたりしはじめた。
「不思議だわ」
「でも、良かった……」
フィノアの言葉に、メリーが目をほそめてうなずく。
二人がふれる少女の身体は、温もりが宿っていた。以前の氷のような冷気は、どこにもない。不思議そうにシャーニをなで回す二人を見て、ラトスは首をかしげた。彼は妹の姿をした少女が冷たかったことを知らないのだ。それで良いと、メリーとフィノアは思った。二人は互いに顔を見合わせると、小さく笑った。
隠し事をするように笑う二人に、ラトスは苦笑いをする。しかし、嫌な気分になる隠し事のようではなかった。それなら良いと、ラトスは思った。二人の間にいるシャーニが、微笑むような笑顔をラトスに向けていた。再びしゃべることができなくなったようだが、表情は生きていたころのシャーニそのものだった。ラトスと目が合うと、少女は歯を見せて笑った。
復讐の想いは、断ち切れない。
妹の想いを知ってなお、黒い感情は胸の奥によどんでいる。この苦しみは消えないのだろうと、ラトスは息を吐いた。吐き捨てた息を追うように、視線を床に落とす。そこへ潜りこむように、シャーニが歩いてきた。ラトスの顔をのぞきこむ。
『また怖い顔してる』
そう言われた気がして、ラトスはハッとした。
自身の中に、妹の魂が息づいている。笑顔で生きていたいと願っているのだ。黒い感情に任せて進めば、妹の真の無念は晴らせないのだろう。復讐以外の、別の方法を考えなくてはならないと、ラトスは目をほそめた。今すぐ思いつくことはできそうにないが、妹の遺言を無碍にするほど落ちぶれるわけにはいかない。
無念を晴らしても、黒い感情はきっと消えないだろう。
それらはすべて、抱えて生きていく。朧気の中にある意志を強い形に変えて、自らの中で受け継いでいくのだ。
目をほそめてラトスの顔をのぞきこむシャーニに、ラトスは手を伸ばした。
金色の髪にふれる。やわらかい、羽毛のようだった。夢の世界に来て初めてふれる妹は、奇妙な感触だった。頬にふれると、温かさがあった。生きているのだなと、ラトスも目をほそめた。
「十分だ。もう、怖い顔はしないよ」
ラトスがこぼすように言うと、シャーニはにこりと笑うのだった。
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